ウェットティッシュ

文字数 6,900文字

『今日の夕方7時半頃。M駅ビル8階のトイレで見せ合いできる年下の人待ってます。176*63*26 会社員』

 下校途中、帰宅ラッシュ時ちかくの混雑しはじめた電車に乗り込み、立ったまま携帯電話の液晶画面をのぞきこむ。
 周囲を気にしつつ何度目かの内容確認をすると、純也はごくりと唾を飲んだ。
 ゲイ向けSNSの欄に貼られた投稿者のうしろ姿のプロフィール画像を食い入るように見つめ、その数字を口の中で反芻する。
 176センチ、63キロ、26歳…
 徐々にドキドキと鼓動が速まってくるのを感じた。

 ほんとうにここに行けば、「そういう人」が待ち受けているのだろうか。
 自分よりはるかに大人であろうすらりとしたスーツ姿の相手が、こちらに向かってやさしげに微笑みかけるようすを画面ごしに思い浮かべる。
 もやもやとしたあやしい気持ちがわきあがりゆっくりと身体中を浸していく。
 たちまち下腹のあたりが熱く疼きだす予感に純也はうろたえた。
 自分はそこに行って何をしようとしているつもりなのだろう。
 欲望以外なにがあるわけでもなかった。それ以上のものなど期待していない。
 そう、ほんのちょっとだけ互いに「見せ合う」――それだけのことだ。
 触れたり触られたりはしないのだから、大丈夫。たいしたことじゃない、たぶん。
 割り切るんだ。
 そう自分に言い聞かせながらもてのひらがじっとりと汗ばんでくるのがわかる。
 かすかなうしろめたさがちくりと胸を刺すのを感じながら携帯電話をポケットにしまいこむ。
 顔を上げ、車窓に映った自分の顔から目をそらし夕闇に浮かび上がる外の景色をぼんやりと眺めた。
 同じ角度で建ち並ぶ高層マンションの窓から洩れる灯りが、個々に規則正しいオレンジ色の光を放っている。
 あの窓のひとつひとつに。
 それぞれの生活が繰りかえし営まれる家庭というものがあって、その風景がたしかに今夜も映しだされているのだろう。同じ間取りの部屋に住み、同じような食卓を囲み、同じような会話をし、同じようなテレビ番組を見ながら――おそらく。
 なんとなくほっとするような、それでいてどこか疎ましいようなやりきれなさが胸に押し寄せるのを純也は感じる。
 夕方になるといつもこうだ。
 スイッチが入ったみたいにじわじわと滅入っていく。そんな自分が苛立たしい。
 平凡そうに見えるあの窓の部屋の向こう側には、だが一様に「同じ」なごやかさが満ちているわけではないのだ。

 ガシャガシャと間延びした金属質のメロディーが、どことなく腋臭じみたにおいのただよう車内にくり返し鳴り響いた。
 乗車口のドアに寄りかかりながらコミック雑誌をよんでいた若い茶髪の男が、面倒くさそうに胸ポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「もしもし。――ああ、そう。え? 聞えないよ。なに?」
 わはははは。知るかよ。バカじゃねえの―――
 男の噛んでいたガムがおおきく膨らんでぱちんとつぶれる音がした。
 軋んだ笑い声が乗客の一日の疲れによどみはじめた車内の空気を虚ろにかきまわす。
 純也の前の座席でスケジュール帳を開げていた30代のOLが、がなりつづける鼻ピアスの男の横顔をちらりと見上げる。
 ふたたび目を戻すそのこめかみに青い血管がうっすらと浮いているのが見えた。
 ガタン、と大きな音がして電車が揺れる。
 傍らで酒臭い息を吐きながら吊革にぶらさっていた初老のサラリーマンの上半身が、バランスを失って前後にねじれた。
 脂っぽい地肌の透ける頭が大きく傾いて、並んで立っている純也の肩先をかすめる。
「おっとぉ、ごめんねぇ」
 ムッとくるような頭皮についた整髪料と熟柿の入り混じった匂いが鼻をさす。
(……!)
 一瞬にして全身の毛穴がぎゅっと縮むのがわかった。
 心臓がどきん、と跳ね上がる。
 純也は強張りながら顔を背け、反射的に身をかわそうとおおきく退いた。
「痛っ」
 なにかをぐにゃりと踏みしめる感触があり、同時に前の席のOLが小動物めいた悲鳴をあげる。
 足を踏んでしまったのだ、と気づいた直後、スケジュール帳がその膝から滑り落ちて床に転がった。
 すみません、あわててあやまりながら拾い上げ手渡そうとして純也は固まる。
 黒っぽいビニールレザーのノートの表紙にべっとりと付着した無数の指紋に気づいたからだ。
 ざわざわざわ、と背中じゅうを虫が這いまわるような気がして純也は思わず身震いをした。
 とっさに放り出してしまったスケジュール帳がめくれたまま足元にばさりと落ちる。
 OLが恨めしげに何かつぶやいた。
 非難めいた視線を頬に受けとめながら、だが純也にはふたたびそれを拾い上げることができない。
 息苦しい――
 滓のように溜まっていくピリピリとした圧迫感が、急激に車内の酸素を薄めていく気がした。
 脇の下にじっとりと汗がにじみはじめる。
(はやく、駅に着いてくれ)
 ほとんど祈るような気持ちで純也は背を丸めてうつむいた。
 これ以上乗客が混み合う前に。
 車内が饐えたような人いきれで充満する前に。
 汗まみれのシャツの背中と体を密着させたり、垢じみてべとつく吊革にしがみついたりしなくてもいいうちに。
 消毒したい……しなくちゃ。
 やにわに鞄の中からウェットティッシュを取り出して純也は手を拭きはじめた。
 こすってもぬぐっても汚れが取れないような気がして仕方ない。
 憑かれたようにごしごしと指を拭ううちあっという間に3パック使い切ってしまう。
 ――ああ、またやってしまった。降りるまで我慢しようと思っていたのに――
 手の皮がすりむけるような勢いで拭きつづける純也に気づいた目の前のOLが、気味の悪いものを見たように目をそらした。

 触れたくない。
 触れられたくない。
 もうずっと前からだ。
 他人が自分とはまったく異なる存在で――そんなのは誰にとっても当たり前のことだ、というのはわかってはいる。
 だが、「ありのまま」を受けとめることが純也には難しすぎた。
 異物だ。みんな異物なのだ。
 どうしてそんな危険なものがほんのすこしでも受け容れられるだろう?
 自分がこうなのだから、他人だって同じように思っているだろう。
 誰もがこんな僕を見て不快になるにちがいない。
 あの茶髪ピアスの青年も、酔っ払ったサラリーマンも、狸寝入りをしている顔色の悪いOLも。
 みんな自分とちがうものが許せないのだ。
 ひりついてくる気持ちをもてあましながら純也は乗車ドアの上部に電光掲示された文字を見上げる。
 赤く腫れ上がった手のひらはティッシュに含まれるアルコール成分のせいで妙にひんやりとして熱を感じない。
 ……次はM戸、特急電車の通過待ち合わせ5分ほど停車します……
 間もなくぎいい、と鈍く軋んだ音をててて電車が止まり、ドアが開いた。
 7時半――いそがなくちゃ。
 腕時計に目をはしらせながら純也は乗車口から跳び降りる。
 売店でウェットティッシュの予備を10個ほど買うと、プラットフォームの階段を二段抜かしで駆け下りて行った。
 

(僕はどうかしてる)
 はぁはぁと肩で息をしながら駅ビル内のエレベーター前に立つ。
 まもなく純也の鼻先で、すーっと滑るように扉が開いた。
 無人のドア内部に入り、乗り込んできそうな人が他にいないのを確認すると思い切って8階のボタンを押す。
 これだって他人の指紋まみれのはずだ。指先がかすかに震える。
 息を整えようとして、とりあえず深呼吸をくりかえす。
 ノンストップでゆっくりと浮上する感覚に身を委ねながら、寒くもないのに純也は自分の歯がかちかちと鳴る音を聞く。
 どうせこの場かぎりだ。とって食われるわけじゃない。
 ここまで来たんだから――
 割り切らなきゃ。
 ふたたび自分に言い聞かせて奥歯をかみしめた。
 不安と期待とうしろめたさとで胸がつぶされそうになりながら最上階でエレベーターを降りる。

 美容室、ネイルサロン、カルチャースクール――妙に小奇麗な店構えの並ぶ空間を純也は横目で見ながら通り過ぎていく。
 装飾過多気味な書体で書かれた22:00 CLOSE の文字が躍るディスプレイ・ボードを掲げるリラクゼーションルームの奥をふと想像した。
 どんな人が客として利用するのだろう。
 やはり心身ともに「癒し」を求めてやって来る女の人が主流なんだろうか。
 とりあえずほんとうに疲れていてお金と時間に余裕のないせっぱ詰まった人は来ない場所のような気がする。
 さらに奥ではどのような儀式がおこなわれているのか。
 昼夜働きづめの父親と二人暮しの長い、ほこりっぽいブレザーの制服を着た高校生の純也にはいまいち見当がつかなかった。
 週半ばのせいかあまり人気のないフロアを、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせながら突っ切って行く。喉が渇いてひりひりする。
 自分の目的地はただひとつ、一番奥の突き当たりにある男子用トイレなのだ――
 そう思うとまたしても緊張で頭がかっと熱くなった。
 トイレにつづくせまい廊下で、どこかの店のスタッフらしい見事なプロポーションの若い女とすれ違う。
 完璧にメイクのほどこされた顔を真っすぐ前に向けたままの女が通り過ぎると、つよい香水のにおいが鼻腔にとびこんできた。
 むせそうになり、純也は思わず息を止める。
 かすかに鼻歌まじりでこつこつとヒールを響かせて遠ざかっていくその足音を聞きながら、自分とはまったく異なる、何ひとつとして同じものをもたない別の成分でできたもののようだと頭の隅でぼんやり思う。
 波打つような豊かな髪も丸みを帯びたやわらかそうな身体つきも高めの澄んだ声の洩れるぷるんとした唇も。
 普通の男ならここで振り返って見るだろうか。
 そのどれもが純也の「雄」としての心をすこしも捕らえようとはしない。
 自分は「普通の男」ではないらしい。
 そう認めるのが純也はこわかった。
 じゃあ、自分と同じ成分でできたものって何だろう。
 同性であればいいのだろうか。
 すぐさまにでもむしゃぶりつきたくなるものなのか。
 たしかにネット上で覗いたゲイ向け無料動画や素人の体験談などには血が沸き立つような興奮を覚えてしまう。
 だが、実際の他人に接触することはできるだろうか。この僕に。
 答えが出せずに純也はうつむいてしまう。
 手に提げた鞄のポケット部分が、予備のウェットティッシュでぱんぱんに膨らんでいるのが目に入る。
 自分は「普通のゲイ」ですらないのかもしれない。
 そう思うとどうにもやりきれない気がした。
 男子用トイレの入り口で純也は足を止める。
 瞬間、引き返してしまおうか、という強烈な思いに駆られた。
 今だったらまだ戻れるのだ、と頭のどこかで声がする。
 なかったことにしてしまえ。
 潔癖症のホモなんて意味なさすぎだよ。
 逡巡しながら立ち尽くす純也の耳に、中の洗面台で水が流される音が聞えてきた。
 ジャージャーと水しぶきが跳ね散る勢いに満ちたその音に、思わずはっとする。
 わけのわからない自分のままでよどんでいるよりも、いっそ流れてしまえばいいではないか。
 そうしたい一心でてここに来たのではなかったのか―――
 割り切れ。
 今日何度目かの言葉を噛みしめながら、純也は背を押されるようにトイレの中へと足を踏み入れた。
 

(この人がそうなんだろうか)
 洗面台の前に立ち丁寧にハンドソープの泡を洗い流していたスーツ姿の若い男が、鏡面ごしにほんの一瞬純也を見た。
 ほかには誰の姿もない。
 そのまま何事もなかったように手を洗い流しつづけるその広い背中に向かって、かけるべき言葉も知らず純也は黙ったまま立ちすくんだ。
「トイレ入らないの?」
 いきなり鏡の中から話しかけられ純也は口ごもる。
「……あの……」
 あれ見て来たんだろ。高校生?
 尋ねられた声の穏やかさにほんのすこし安心する。
 純也は、はい、と小さな声で答えた。
 振り返って備え付けのエアータオルで手を乾かす男の横顔を純也はドギマギしながら盗み見る。
 こういうのはははじめて? かわいいね。
 かわいい、などと面と向かって男から言われたことはなかった。
 かわいくなどあるはずがない。
 だが、優しげな目もとで微笑まれて純也は肩の力がすとんと抜けるのを感じる。
 この人だったら、大丈夫かもしれない――
 淡い期待が純也の胸に兆しはじめたとき、言われた言葉に耳を疑った。
「残念だけど、やめとこうな。高校生とすると犯罪になっちゃうから」
「……見せ合うだけなのにダメですか? 合意でも?」 
 いたずらっぽく笑いかける男に向かって食い下がる自分に驚く。
「せっかく来てくれたのに、ごめんね。飯でもおごるよ」
 かるく受け流されて、純也は落胆を隠せない。
「他には誰も来なかったんですよね」
「うん」
「じゃあ、今日はもう収穫なしのまま帰るんだ」
「次があるさ」
 僕には次なんかないかもしれない、と言いかけて純也は口をつぐんだ。
 自分の目からあふれる涙がこぼれ落ちて頬をつたうのに気づく。
 慌てて隠そうとして横を向いたが、無駄だった。
「泣くな」
 少し怒ったような口調で男が言った。
「かわいすぎ」
「僕はかわいくなんかないよ」
 間髪入れずに純也はこたえた。
 そんなこと言ってくれる人はひとりもいなかったもの。
 親にだって、物心ついてから言われた記憶がないもの。
 しばらくの間、腕を組みながらじっと考えていた男が口を開いた。
「じゃ、おいで。あとで文句言いっこなし。OK?」
 純也はこくりとうなずいた。
 

 トイレの個室に二人で入り鍵を閉める。
 鞄を荷物棚に置き便座をはさんで互いに向き合うと思いのほか狭いことに気づかされた。
 こんなところで、ごめんね。でもまあ、ここのトイレはきれいなほうだし、この時間帯はほとんど誰も来ないから。安心して。いや、人が来た方がスリル感じるクチだったりして?
 話しかけながらリラックスさせようとする男のやわらかな声がだんだんと純也の緊張を解いていく。
 俺中学生のころ、一週間オナニー禁止令とか自分に課してさ結局がまんできずに学校のトイレで出しちゃったことあるよ。そりゃあ、記録的にとんだ。今となったらいい思い出だね、思春期の1ページってやつだよ。
 くだらなさに純也は声をたてて笑った。
 なんてばかな話を何てまぬけな場所でしているのだろう。
 他人と向き合っていてこれほど構える必要がなく、楽と感じるのははじめてのことかもしれない―――
 純也は向かいで自分を見下ろしている男の視線を感じて顔を上げた。
「やっぱりかわいいよ。そろそろ平気?俺はいつでも準備OK……ほら、ね」
 ベルトを外しズボンのファスナーを下げて取り出して見せたものはすでに怒張していた。
 ゆるやかにしごきたてながら熱っぽい目で見つめられるうちに、純也の内部でも欲求がちろちろとくすぶりつつ頭をもたげはじめる。
 誘われるように制服のズボンを少し下げて純也は下着の上から自分のものをなでさすった。
 瞬く間に下着にひろいシミができてひろがってしまう。
「汚れちゃうよ……ずりおろしちゃえ」
 言われるままに、ボクサーブリーフを下げてやさしく擦り上げるとさらに堅くなった。
 上を向いた先端が剥けてピンク色の亀頭の割れ目から透明の液があふれはじめる。
「……んっ……あっ……はぁ……っ」
「かわいい、よ……」
 かわいいって言うな。
 かわいいなんて言っちゃ、だめ。
 互いの喘ぎと吐息が混じり合った狭い個室空間がとろりと濃密な空気で満たされていく。
「なんで? こんなにかわいいのに」
「……そんなふうに言われたら……僕」
「俺、きみの触りたい――触っていい?」
 ……だめっ、僕は人に触られたらどうなるかわかんない……病気、なのっ。
 伸ばそうとしてきた男の手を振り払いながら純也は押し殺した声で叫んだ。
「だいじょうぶだよ。いっしょに見せ合いできてるんだから」
 男の目が柔らかくちからづよい光を帯びて純也の顔をのぞきこむ。
「俺に触ってみ」
「触りたいよ……けど、僕にもどうしたらいいかわからないんだよっ、どうすれば――」
 強引に腰を引き寄せられた次の瞬間、純也は男の腕の中にきつく抱きしめられていた。
 同時にすっかり萎えた股間あたりが、じわじわと湿っていく。
 下着と制服のズボンがびしょ濡れになり、足元にぬるい水溜りをつくるのがわかった。
「こうすればいいんだよ、な?」
 しばらく抱き合ったまま二人は動かずにいた。
 背中を撫でられながら、純也は自分の鼓動がしだいに穏やかになっていくのを感じる。
 どうかこのまま。
 もうすこし―――このままで、いたい。
 かすかにそう願ってさえいる自分が信じられなかった。

 傍らで黙々と後始末をしはじめる男の広い背中を見ながら、純也は不思議な気持ちに満たされて胸がいっぱいになる。
 何か言いたかったが、何を言ったらいいのかわからなかった。
 鞄から取り出し、封を開けたウェットティッシュのたてるアルコールの匂いが、純也の鼻腔いっぱいにひろがった。
 それは今この瞬間までけっして知り得なかった、新鮮な。ちからづよい。


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