死神と黒猫

文字数 19,894文字

一章:
私は、赤子を抱いて学校の屋上へ向かった。
空気が苦く、胸の奥がとても痛い。
幸福なのに分からない。
綺麗なものが許せなくなる。
歪な支配に犯されてゆく。
許せたものも許せなくなる。
嫌いなものが増えてゆく。
壊れた頭が怖くなる。
気づいた時には戻れなくなる。
努力の割には対価が少ない。
言い訳を探す旅に出たはいいが、
ワガママに足りないと嘆くだけ。
赤子がミルク欲しさに泣いている。
母乳を与え、独り善がりの歌を聞かせた。
私とこの子だけが知っている子守唄。
「ねんねしな、ねんねしな、
愛しい私の子供たち… 」
寝かしつけた我が子を、そっと地面に置く。
大人も知らない世界を憎むその顔で、
狂気に満ちたその顔で、遠くの夕陽を睨んだ。
「じゃ、先行くね」
鉄格子をよじ登り、両手を大きく広げる。
後悔はないのか?と言われれば嘘になる。
でも、こうするしかない。
私にできることは、もう残されていないんだ。
「ごめんね、…」
生まれて間もない我が子に別れを告げ、
下校中の生徒がいる校庭に向かって飛び降りた。

二章:
首吊り自殺の計画を立てた。
雪がよく降る十二月の夜だった。
ここは、私達家族が借りているアパートの一室。
椅子に登って天井に縄を括る。
準備が出来たら輪っかに首を通す。
ふと、色んな思いが頭をよぎる。
走馬灯を脳内再生しながら、
呼吸が荒くなり始める。
大人気なく涙を流し、過呼吸を起こす。
まだ吊る前で、悶える時間じゃないのに...。
そこに数人の警官が来る。
理由は分からないが、近所の人が通報したようだ。
子供達がいるからと説得されたが、
正直私にはどうでもよかった。
私はまた、失敗した。
……………………………………………
いじめとは、
肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、いやがらせなど、被害者が精神的な苦痛や不快感を感じるすべての行為、などによって一方的に苦しめることである。
弱いから。
キモいから。
許せないから。
いじめる側は、理由なんて適当でいい。
「ただいま」
僕は、“黒澤 咲月”。
小学三年生の少年だ。
ただいまと言っても返事は無い。
さっきクラスメイトに殴られた箇所を庇いながら、声のする方に向かう。
台所では、今日も義両親が喧嘩をしている。
借金や生活費の工面をどうするかについて、
言い争っている。
いつも通りの光景だ。
義父が、義母に向かって酒瓶を投げつける。
悲鳴をあげる義母。
これもまた、いつも通り。
僕はここの家族に嫌われている。
僕を産んだ母親は、僕が生まれた時に亡くなった。
皆が僕を嫌うのは、悪魔の子供だからなのかもしれない。
皆と同じように人として生まれていたら、
家族の接し方も違っていたのかな?
そんなくだらない事ばかりが頭をよぎる。
義母の白く痩せた肌は 痛々しく腫れ、
顔がいつも以上に疲れていた。
僕は ただ ドアの影から見ていることしかできなかった。
食事が終わり 、食器を洗っている義母に前から思っていた事をたずねてみた。
「ねえ 義母さん、どうして義父と結婚したの?」
義母は一瞬、動揺した素振りを見せたが、
俯きながら何も答えなかった。
…………………………………………
夜勤明けの帰り道。
いつも通り、家へと向かう。
今日も 朝に借金取りの対応や 家事 、昼間のパートや夜の仕事で休む暇もなく働き 疲れきった身を引きずり帰宅する。
台所へ行くと 酔っ払った夫が テーブルに肘をついてお酒を煽っていた。
「貴方、 帰ってたのね」
今食事の準備をするから
私は 買い物袋を床に置き、夕飯の支度をしようとした途端、
夫が突然立ち上がり 私の頬を殴った。
「痛い!」
「酒...」
「え?」
「酒持ってこい!」
「もう その辺にしといた方が…」
「うるせー!
誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」
「きゃ!」
私は夫に髪を引っ張られながら 必死に抵抗した。
「で、でも もう今月の生活費が…」
そう、借金をして なんとか生活繋いではいたけれど、
夫のタバコとお酒で 今月分の家賃の支払いもできず、
生活費も危ない状況なのである。
そのことを夫に話そうとするが、 聞く耳を持たない夫は、
こうして 暴れるばかりだ。
その後も私は 、何度も顔や腹部を殴られた。
食後、 食器を片付け 部屋に戻ろうとした時、
ふと、テーブルに置いてあった家計簿とレシートに目をやった。
借金返済の事や生活費のことがびっしり書いてある家計簿と、
夫のお酒やタバコの購入したレシートを交互に目を通す。
涙が溢れた。
そして 私は 、食後に咲月が言った事を思い出した。
私は なぜあの人と結婚したのだろう。
そもそも あの人は 今も昔も変わらず、
浮気癖はひどいし 、私を愛してくれなかったし 、
何一つしてくれなかった。
そのくせ機嫌が悪くなれば、
私に暴力をふるってくる。
だいたい、
この人とは 親同士の紹介で知り合った仲、
何も知らない垢の他人、
好きなんて感情は一切なかったけれど、
それでも 親がしつこくて 仕方なく結婚したけれど、もう、潮時なのかもしれない。
周りに頑張ってないと言われた。
怠惰な奴だと思われていた。
その場ではおどけてみせた。
ついこの間までは、それで何とかなったのに…
「違う!違う!違う!違う!!!」
誰もいない部屋で独り、
何度も、何度も、何度も、
自分で自分を傷つけながら泣き叫ぶ。
自分の汚い声が、虚しく木霊するだけだった。
目の前の鏡には、醜い化け物が写っていた。
私は思った。
痛みを知らない奴らほど、
声が大きいわよねって。
アフリカと比べないでよ。
失礼な奴らだ。
目の前の涙に気づかないなんて、
世間知らずはあんたらの方だ。
私は憎い。
私よりも幸せな癖に、世界を語る奴らの事が。
殺したいくらい憎いんだ。
何も知らない癖に、何も聞こえない癖にって。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
いったい何時から?
私の今までしてきた努力はいったいなんだったのだろうか?
誰とも付き合わず休みの日も図書館で勉強をし 、
いい大学に行き、結婚して、やっとの思いで幸せになれると思っていたのに、
娘を産んで、 義理の息子を引き取ってから徐々に何もかもおかしくなって…。
この子達さえいなければ あの人さえいなければ、
こんなことにはならなかったのよ。
「そうよ いっその事殺してしまえば 、
なかったことにしちゃえばいいのよ」
私は、息子の首に手をかけた。
苦しみもがく息子を鬼の形相でにらみつける。
「あんたさえいなければ…」
ハッと目を覚ますと 、自分の部屋にいた。
「いつの間に…今のは夢?」
私は 一体 、どうしたいのだろうか…。
今日も、 憂鬱な朝と共に 辛い一日が始まる。
嗚呼、早くこの場から逃げ出したい。
私は、出かける準備をし 、
彼の元へと向かった。
……………………………………………
平凡で退屈な日々が始まる。
学校へ着き 教室のドアを開け、中に入る。
「あいつ今日も学校来てるよ」
「マジキモイ」
「最悪」
周りの痛い視線を浴びながら 氏ね、 キモイ 、臭い、汚い 、学校来んな、
と書かれた机にランドセルを置き 席に座る。
チャイムがなり 先生の号令 と共に 何事もなかったかのように みんなが席に着く。
「お前ら 最近 他校で いじめによる 自殺事件があったらしい
みんなも いじめは絶対しないように
うちはないが もしも いじめられたりしたら 先生に言うんだぞ」
「はーい」
一同が返事をし チャイムと同時に 先生が 僕を睨みつけ
まるで お前のことなんか知らないと言わんばかりの顔で教室を去っていった。
放課後の帰り道、家の近くを歩いていると、反対方向から義母が知らない二十代くらいの男の人と仲良く手を繋いで 歩いて来るのが見えた。
男の人といる義母の顔は いつもと違って 生き生きしていた。
「母さん…」
僕は 驚きのあまり その場で立ち止まった。
そりゃそうだ 無理も無い 、あんなところにいたら気も狂うし、
逃げ出したくもなる。
僕だって 本当は あの家に居たくない。
「ただいま」
帰宅後、玄関で靴を脱いでいると、 何やら台所の方で物音がした。
違和感を感じて恐る恐る台所の方へ近き、 扉から そっと覗くと、
義母とさっきの男の人が抱き合ってキスをしていた。
「え…?」
その光景は、子供の僕にとってあまりに衝撃的だった。
僕はしばらくの間、その場で立ち尽くし、二人の様子をずっと見ていた。
自分の部屋に向かう。
床に転がるカッターナイフを手に取り、右腕に当てる。
自分でも何をやっているのか分からない。
ただ、さっき見た事が今も忘れられずに頭を過ぎる。
呼吸が少しずつ荒くなる。
ふと、我に帰る。
僕は…。
…………………………………………
いつも通りに家に帰宅する。
台所の方でいつもとは違う物音がする。
ぐちゃぐちゃと音がする台所のドアをそっと開ける。
バケモノを見た、バケモノを見た、
僕は目の前でバケモノを見た。
僕が目にしたもの、それは義父が馬乗りになり義母を包丁で何度も何度も刺している姿だった。
周りは義母の血で赤く染まっていた。
怖くなった僕は、直ぐにその場から逃げ出した。
雨が降る住宅街をひたすら走り続けた。
“カアイソウ、カアイソウ”
心が痛く、内側から圧迫されて、
何度も何度も張り裂けそうになる。
“コンナジブン カアイソウ、ムクワレタクテ、
ムクワレナクテ、カアイソウ、カアイソウ”
心の中で繰り返し誰かが呟く。
もう何も考えられなかった、考えたくもなかった。
義母の葬式日、
会場には、義母の親戚や身内の人達が集まっていた。
みんな残念だのなんだのと、こそこそ心無い事を言う。
中には嘘泣きする人もいた。
やっぱりそうだ。
誰も義母の死に興味なんてない。
所詮は他人事なんだ。
葬式が一通り終わり、火葬場で埋葬している頃、
僕は、義姉に呼ばれた。
義姉は僕の胸ぐらを掴み投げ飛ばす。
「どう…して。」
「お前さえいなければ…お前さえいなければ…こんな事にはならなかったんだ!
ママが死ぬことも、パパが狂うこともなかった!」
馬乗りになった義姉は、繰り返し罵倒し、
僕の顔を殴り続ける。
殴られる度、青あざが顔中に広がる。
その痛みは感覚が麻痺するほどだった。
「どうせなら、弟じゃなくて妹がよかった。
死んじゃえよ、お前なんか…」
途端に暴力を止め、義姉はその場で泣き崩れた。
僕はどうする事もできなかった。
僕は、間違っていたのか…。
式場には、遺族や親戚が集まっていた。
やっぱりみんな、嘘泣きや、心無い事を言う。
中には、呪われているとひそひそ話をしている人もいた。
僕以外の親族は、式の間も泣いていた。
僕は、どうすることもできなかった。
また一つ、大切なものを失った。
僕のせいだ。
僕は母親を守れなかった。
僕は母親を殺した。
僕のせいで母親は…。
自分が代わりに死んでいれば…。
“ナラ、シネヨ。”
まただ、またあの声。
“シニタイ ン ダロ?、ツグナイタインダロ?”
“オマエガコロシタ、タイセツナモノハ、モウニドトモドッテコナイ ”
「うるさい…」
“マモレナカッタ、マタ ヒトツ、タイセツナモノヲウシナッタ”
「やめろ…」
自分さえいなければ…。
“カアイソウ、カアイソウ”
「もうやめろよ!」
僕は思わず叫んだ。
これ以上、この感情を抑えきれなかった。
僕の声は式場全体に響きわたり、みんなが一斉にこちらを見る。
僕は沈黙の空気に耐えられなくなり、その場から逃げ出した。
雨が降る中、
疲れと後悔を胸に傘もささずに住宅街を歩く。
この後はどうしようか。
そうだ、このまま死のう。
どうやって死ぬ?
そうこう色々考えていると、反対方向から見覚えのある姿がむかってくる。
泉優、前の学校で僕を虐めていた奴らのリーダー。
どうしてこんなところに…。
あの頃のいじめっ子達に周りを囲まれる。
「久しぶりだね、咲月君。
いや、ほんとに久しぶりだよ」
「…」
「虐めてもみんな直ぐに泣いちゃってさ、つまらなくて退屈してたんだよ。
ほら、君っていくら殴っても大人しいじゃん」
そう言って泉は、僕の胸ぐらを掴み頬を殴る。
殴り飛ばされた僕は、そのまま地面に倒れる。
その後ろでは、いじめた奴らがゲラゲラと笑っている。
ああそうか、これが償いなのか。
またこいつらにやられるのか。
まぁ、いっか。
「ねえ、なんで反撃して来ないの!?
やってみろよ!悔しいんなら 逆らってみろよ!」
暴力はヒートアップし、繰り返し蹴られ、踏みつけられる。
みんなも真似して蹴ってくる。
僕を蹴るみんなの顔は、まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝いていた。
“ニクイ、ウザイ、クヤシイ、ユルセナイ“
ああ、まただ。
また頭の中で叫んでいる。
“コロセ、コロセ”
視界が真っ暗になる。
体が動かない。
もうダメなのか、僕はここで死ぬのか。
“コロサレルマエニ コロセ、コロセ、コロセ、コロセ…”

その先はよく覚えていない。
気がつけば、さっきまで暴力を振るっていた奴らが血を流し、倒れていた。
そして僕の左手には、彼らの血で染まったハサミが握ってあった。
僕のこのやり方は、
あまりに幼稚で、あまりに古典的で、
実にしょうもなく。
しかしそれは、今目の前の固形物を恐怖させ、無惨にこの虫けら以下の存在を潰すのには充分だった。
けどそれは、世間にとってはあまりに衝撃的で、非道で、残虐的行為なのであった。
全く、何が残酷だ 、これのどこが非道なんだ?
それでこいつらが可哀想だと?
ふざけるな。
こいつらは自業自得。
哀れんでやる必要も無い。
事実、これ以上に非人道的で非道徳的なものなどこの世にいくらでもある。
そしてこいつらは僕に対してそうした。
いや、もはや集団でしかものを言えない。
また、自分よりも弱い人間にしか手が出せない可哀想な奴か。
愚か者、弱者。
それは、今の君らにふさわしい名だ。
皮肉なものだな。
因果応報とはまさにこの事か。
もう、聞こえてはいないか。
「お願いします、何でもしますから!
見逃してください!お願い!
殺さないで!殺さないでよ!
違う、私じゃない!
私は何もしてないじゃない!!」
と、残った女子が足をすくって動けないのか、
血に濡れたコンクリートに、尻もちをつきながら必死でこうべを垂れて言い訳をする。
僕は、ブルブルと涙を流し、怯える彼女の方へ首を向け、不敵に笑みを浮かべながらこう呟く。
「ほらな、やっぱり弱いじゃん、いじめっ子って、一人じゃ何も出来ない…」
コイツらは、集団になって自分より弱い者を傷つける事でしか存在意義を見いだせない可哀想な奴らなんだ。
そしてこうやって都合が悪くなり、立場が逆転すると手のひらを返す。
ごめんなさいって、以前の僕が同じ事言ってもやめてくれなかったじゃんか。
因果応報、これはコイツらにとって当然の報いだ。
…………………………………………
僕は、誰もいない場所で叫び続けた。
真っ赤な手のひらを見下ろしながら、
まるで幼い子供が、駄々をこねる時のように、
長い間泣き叫んだ。
僕はまた、失敗した。
僕はまた、他人を傷つけた。
僕はまた、居場所を捨てた。
僕は…僕は…僕は……
「なんで、なんで、
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!
なんでみんな僕を否定するんだ!!
なんでみんな僕を笑うんだ!!
なんでみんな僕を虐めるんだ!!!
なんでみんな僕を除け者にするんだ!!!
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!!
全部僕が悪いのか!?
僕がみんなを傷つけてるのか!?
僕がみんなを困らせるのか!?
僕が居なければ、僕が存在しなければ、
みんな幸せだったのかよ!!!?
なんで…みんな……」
「失敗したのは誰のせい?」
違う...
「そろそろ認めようか?」
違う、違う、違う、違う、違う!
「君が今ココにいるのは?」
うるさい、うるさい、うるさい!
「君は弱い」
ふざけんな!偽善者のお前に何が解る!?
僕の事、何も知らないくせに!
「わかるよ、だって私は……」
僕はただ、当たり前が欲しかった。
僕はただ、愛されたかった。
満たされたかっただけなんだょ...。
否定されてばかりの人生は、もう要らない。
「理想は理想でしかない。
そう言ったのは、君自身じゃないか」
でも現実は……。
「君の願いは?」
消えたい。
何も知らない間に、消えてなくなりたい。
ある日突然、隕石が降ってきて、
みんなと一緒に終わるんだ。
そうすれば、誰の記憶にも残らず、
神様だって怒らないでしょ?
自殺行為は冒涜だから。
それはとても勇気のいる事だから。
僕はね、死ぬ為の免罪符が欲しいんだ。
事故でもいい。
もう、僕を演じるのは疲れたよ。
世界が嫌いだ。
周りが嫌いだ。
自分が嫌いだ。
だから僕は、死のうと思った。
周りは言う。
君は幸せであると。
世界には君より不幸な子供が五万といると。
人のせいにばかりして甘えているのは君自身であると。
それでも、僕にとって、
僕の生きる道程はあまりにも過酷すぎた。
顔を歪ませながら、幼い子供のように泣きじゃくる僕を慰める者はこの場にいない。
心を落ち着かせ、涙を拭いた。
気がつくと僕は、学校のビルの屋上の鉄格子に立っていた。
今度こそ死ねるだろうか?
終わらせることが出来るだろうか?
気がつけば、前にいた学校の屋上にいた。
雨は止み、空はベージュ色に染まっていた。
沈みゆく夕日がとても綺麗だった。
一歩前へ進めば、下校中の生徒達の頭上が見える。
僕にはもう、守るべきものも失うものもない。
「さよなら、世界」
「さよなら、自分」
そう言って僕は、夕日が見える屋上の鉄格子から飛び降りた。
“ねぇ、神様。アナタは一体誰ですか?”
……………………………………
…………………
目が覚めた。
俺は病室のベッドの上にいた。
俺はまた、死ねなかった。
どうして…。
目の前にある鏡には、確かな自分の存在があった。
俺は絶望のあまり言葉を失った。
俺は大切なものを傷つけた。
たくさんたくさん失った。
俺のせいで、俺と関わってしまったせいで、
みんな俺の前からいなくなったんだ。
そう思った。
理由はなんでもよかった。
自分が望んだ形で、
気持ちよく死ねればそれでよかったんだ。
だから自分を殺そうとした。
首吊り、刃物、入水、色々な方法を使って、
何度も何度も殺そうとした。
けれどダメだった。
だからあの日、あの場所から飛び降りた。
死ねたと思った。
これで終わったと思った。
結局、ダメだった。
死ねなかった。
死なせてはくれなかった。
コンコン。
一人で後悔に浸っていると、突然 病室の扉が開いた。
そこには、看護師らしき女の人が立っていた。
看護服の胸ポケットに付いている名札には、
佐藤と書かれている。
この人が俺の看護をしてくれたのか。
「はじめまして、私は“佐藤美由希(みゆき)”です。
今日からあなたのお世話をする担当看護師よ、よろしくね。」
「そうだ、今丁度あなたに会わせたい人が…」
ガラガラ。
「初めまして。今日からあなたの秘書になる、
“夏目 ゆかり”と申します」
秘書?俺の?
どういう事だ?
突然の話に、頭の整理が追いつかない。
「貴方の事は、貴方の祖母である詩織様から全て聞いています。生まれて間もない頃に母親を亡くし、身寄りがない貴方を伯母が引き取った…」
一体この人は、どこまで知っているんだ?
会ったこともないし、それどころか、
自分以外知らない事実を淡々と話している。
もちろん、実の母親が俺を産んだのが十六歳の頃だった事も知っているようだ。
「さぞ辛い思いをしたのでしょう。
ですが、貴方にはこれからやらなければならない事があります」
「やらなきゃいけないこと?」
「会わせたい人がいます。
私に着いてきてください」
俺はゆかりさんに連れられて、祖母のいる邸宅へと向かった。
ゆかりさんが運転する黒塗りの高級車に揺られ、一時間ほどで目的地にたどり着いた。
祖母の邸宅は、想像以上に大きかった。
玄関で迎えてくれた執事の人に応接室まで案内され、コンサートホールにあるような重い扉を開けると、背中を丸めながら革製のソファーに座っている着物姿の老婆がいた。
「はじめまして、黒澤 詩織と申します。
貴方が黒澤 咲月さんですね?」
ここまで案内してくれた執事の人に促され、
俺は、老婆の反対側に座る。
この人が、俺の祖母なのか?
白髪はあるのに、肌ツヤは今どきの二十代と変わらないくらい綺麗だ。
「ここへ来る前に、貴方の出生に関する話は聞いていますね」
祖母の話によると、
俺が入院している黒澤総合病院は、
戦後に祖父が、黒澤 明が開業したそうだ。
今更そんな話をされたところで、
はいそうですか、なんて納得出来るわけがないし、今までの痛みが報われる訳じゃない。
「どうして、それを俺に話したんですか?
貴女は、黒澤 玲香が、娘達が嫌いなんですよね?」
「でも、貴方に罪はないでしょ?」
「それで、俺にどうしろと?」
「黒澤病院は、貴方に差し上げます。
貴方が大人になった時、
院長としてあの人(祖父)の役目を引き継ぐか、
病院を閉めて土地を売却するかは貴方の自由です」
「閉業なんかしたら、今の患者達は…」
「大丈夫ですよ。
転移の手続き等はコチラでしますから」
「そういう問題では…」
ここで否定しても、今の俺には他に行く宛がない。
大人になる頃には、考えも変わっているかもしれないが、今のところ将来の夢とか人生の目標とか、そんな大それたものは持ち合わせていない。
それに、そこまで長く生きようとも思わない。
「それに、貴方の中に眠っている不思議な力についても、
これから話しておかなければいけませんから」
「なんの話だ?」
「その話は、また今度にしましょう」
俺は溜息をつき、その場で答えを出さず、
空が暗くなる前に病院へ戻ることにした。

三章:
あれから六年が経過した。
俺は、相変わらず黒澤病院に身を寄せながら精神科医として働いている。
一応まだ学生である為、休日にしか診察しないが、電子カルテと睨めっこしたり、
診察しながら、患者の幸せを密かに願ったり、
数年前までは、想像できなかった風景が、
日々目の前で起きている。 
黒澤総合病院は、一般の医療施設とは少し違い、
身寄りがない高齢者や、受け入れ先のない患者を多く受け持っている。
例えば、強度行動障害もその一つだ。
強度行動障害(自閉症の二次障害) とは、
重度の自閉症のことだ。
ストレスが原因で自傷他害の言動をする事で
自己防衛をし、
大きな声を上げたり、頭を壁に打ち付けたり
といった症状が見られる。
その他にも、保険対象外の障害を持つ子供も多く受け入れているという。
発達障害は個性だと言われる現代だが、
治療を必要としている人達を野放しにするのは
間違っている。
「まぁ、関わりたくないと思うのも当然なのだろう」
「触らぬ神に祟りなしってか?
みんな、自分の事で精一杯なのか…」
「苦しみってのは、経験者にしか分からないのさ。
お偉いさんらが見て見ぬふりをするのも同じ理由」
「そういう人達を救いたくて、
俺はこの業界に足を踏み入れた」
「医師免許取ったのか!?
「今は、臨床心理士の資格を持っている」
「お前はまだ中学生だろ!?
「資格を受けるのに年齢は関係ない」
「違くて、国家試験を受けるためには厳しい条件が有ってだな!中学生のお前が、大学院すら行ってないお前が、国家試験を受けれるわけが無いだろ!」
「修士課程は小六の時に…」
「マジかよ」
「けど、一体どこで勉強したんだ?」
「院長にしごかれたんだ。
ずっと勉強漬けだったよ。
リモート授業だから、その分何とかなった」
「エッ」
非現実的な発言に教室にいる皆が唖然とした表情で一瞬俺を見る。
俺にとっては普通の事だから、
皆の反応に少し驚いた。
「それより、オカルト部の活動はどうなってんだ?最近、部室に行っても黒田くらいしかいないし」
「俺たちも来年は受験生だし、
勉強とかで忙しいんだよね〜」
「昨日、お前らがゲーセンにいる所を見たんだが?」
「げっ」
「とにかく、顔くらいは出してくれ」
「ったく、仕方ないな〜」
オカルト部の主な活動内容は、
廃棄に不法侵入して肝試しをするのではなく、
心霊にまつわる資料を片っ端から調べて、
それをブログにまとめたり、
自分が体験したことや、他人から聞いた話を記録することだ。
部員は、俺も含めて四人だけ。
“北村由乃”と“西川明菜”が部室に顔を出さなくなってから一週間以上経った。
二人揃って、ゲームセンターやカラオケで仲良く遊んでいるのは、同伴者からの情報で大体把握している。
とはいえ、
最近俺も部室へ毎日は行けなくなったし、
中学三年の受験シーズンに、
前みたいに活動を続けるのは難しいだろう。
「とりあえず今日は部室に来い」
「どうせウチらやる事ないのに…」
「西川、お前にやってもらいたい事がある」
「何よ?」
「それは、悪魔の正体についてだ」
悪魔の正体について纏めたレポートを、
顧問の伊藤先生に提出する。
期限は、たったの三ヶ月。
執筆は俺がやるとして、
それまでに、皆の考えを聞いてまとめておきたい。
「じゃ、まずは西川から。
その次は由乃で、最後に俺が言うって事で」
悪魔の正体について、各々の意見を述べる。
架空説や普段は人間界に干渉できない説など、
色んな仮説が出る中で、
俺が一番腑に落ちたのは、
人の中にしか存在しないという考えだ。
悪魔というのは、
恐怖や憎悪などの感情を表す為に、
人々の中で具現化させたものであり、
善悪を決める際の概念的存在として考えれば、
聖書に出てくる言葉にも納得がいく。
そして、人間の本性とも言える。
誰しも、自分以外には見せたくない部分がある。
それを、我々は悪魔として捉える訳だ。
聖書に出てくる悪魔は、基本的に黒い羽や獣のような牙を持っているが、
正直なところ、姿形は何でもいいし、
個人によって様々で、醜い姿でなくてもいい。
つまり、天使のような見た目の悪魔がいても、
何ら不思議では無いという事だ。
勿論、この内容は全て俺の中にいるヤツから聞いた。
「黒田からは何かあるか?
無理に話さなくてもいいけど、
俺は、君の意見も聞きたい」
「えっ、えっと…」
黒田は少し間をとってから話始めた。
悪魔というのは、想像上の存在であり、
ネットなどで見聞きする目撃談の殆どは作り話に過ぎない。
或いは、科学的根拠を提示するならば、
心理的要因によって見る幻覚という可能性もある。
というのが、黒田の意見らしい。
一方、由乃と西川の考えは俺達とは違い、
科学だけでは説明のつかないスピリチュアルな要素が存在し、幻覚や妄想と片付けるには無理があるとの事だ。
「みんなの意見を聞かせてもらった。
後で俺がまとめて提出しておく。
今日はとりあえず帰ろうか」
西川の近くにある掛け時計を確認すると、
短針が六を指していた。
日も暮れかけており、これ以上長居はできないようだ。
「そうだな、俺も腹減った」
俺達は、机に置いたノートや筆記用具を片付けて静かに部室を出た。
下駄箱で靴に履き替え、校舎を離れる。
俺は一度空を見上げたが、月は見えなかった。
…………
俺たちは今、黒澤病院の裏庭、
祖父(黒澤 明)が遺した石碑の前にいる。
帰りに由乃が一度見てみたいと言ったので、
こうして、石碑の意味を説明しながら他愛もない話をしている。
“罪ヲ美化スルナ
サモナクハ
マタ次ノ犠牲ガ出ルダケダ
戦友ヨ我ガ友ヨ
死ヲ忘ル事ナカレ”
祖父はかつて軍人だった。
祖父の過去を、祖母から聞いた。
石碑は、当時十六歳だった祖父が、
特攻作戦の前に書いた遺書を元に彫られたものだ。
一式戦闘機“隼”に搭乗したが、
作戦は失敗し、祖父は生き残った。
祖母の詩織と結婚し、子宝にも恵まれたものの、
本人は仲間と共に死にたかったそうだ。
「死神、だっけか?
俺にはよく分からないけど、
お前も、お前の周りも凄い奴ばかりだな」
「由乃だって、その一人だよ」
「で、お前はその力で戦争でもするのか?」
「しないさ。この力は、人を救う為だけに使う」
「ならいいんだけど。
例えば、どんな事に使うんだ?」
「医療とかに使うさ。
死神には、それぞれ固有能力があって、
俺には、人の心を見通す“読心”という力がある。
医療業界では、
そういった能力を十分に発揮出来る」
「なんか、非現実的だな」
「そうでも無いさ」
「口だけで終わらないといいな」
「行動で示す」
勿論、この台詞に嘘はない。
俺が持っている死神の固有能力は“読心”で、
文字通り、相手の思いを読む事が出来る。
精神科医の俺にピッタリな力だ。
人の為に使わないなんて勿体ない。
「なんかお前って、昔とだいぶ変わったよな」
「どういう意味だ?」
「昔はあんなにナヨナヨしていたのに、
今じゃ、男らしくなったというか」
「褒め言葉は感謝するが、
男らしくとか、女らしくとか、
そんな戯言はもう聞きたくない」
「すまん。俺も言い過ぎた」
「いや、大丈夫だ」
「なぁ、そこの公園でバスケしないか?」
「そうだな、久しぶりに勝負するか」
俺は、由乃の提案に乗り、
場所を変え、公園の中にあるバスケコートへと向かった。
お互い制服のままだが問題ない。
由乃とこうして一緒にバスケをする時間が、
実は好きだったりする。
最初に誘って来たのは由乃の方だが、
たまに俺から勝負を申し込むこともある。
けど、あんなにバスケが好きなのに、
バスケ部の勧誘を断ったのは未だに謎だ。
由乃くらいの実力なら、
間違いなくエースとしてレギュラー入りできるはずなのだが。
「どうした?」
「いや、お前は何でバスケ部に入らないのかな徒思って」
「バスケは趣味でやってる。
練習とか大会とかには興味ない」
「本気で選手を目指す訳じゃなくても、
一人でばかりやるのは物足りなくないか?」
「だから、こうしてお前とやるんだろ?」
「そうか」
……………
由乃と交差点付近で別れた後、
黒澤病院に戻って、レポートの作成に取り掛かった。
レポートの作成中、この病院の院長が自室に入って来るなり、窓際にあったテレビを付けた。
「課題に集中できないんだけど」
「悪いけど、ちょっと観てほしいものがあるの」
テレビの画面には、小柄な美人アナウンサーが写っている。
その下にあるテロップには、
“医療研究者の男が殺害されて死亡”と記載されている。
「これがどうしたんだ?」
「昨日、ガン細胞の研究をしていた男が何者かに殺されたらしいわよ」
「これで何度目だ?」
「いつもの事でしょ?
医者がみんな善良な心を持っているとは限らない」
利権が絡むと人が死ぬ。
医学界隈ではよく聞く話だ。
「どんな名医でも救えない命もある。
なんでも完璧になんて、不可能なのよ。
悔しいけど、私たちは目を瞑るしかないわ。
私たちは、私に出来ることをしましょ」
「そうだな」
「けど貴方、精神科医でしょ?」
「心だって同じだよ。
一歩間違えたら死に繋がる。
言葉一つで生かしもするし、殺すこともある」
「カッコつけちゃって、誇りなのね」
「当然だ」
生きるのは難しいが、死ぬのは簡単だ。
生かすのは難しいが、殺すのは簡単だ。
そう、前に祖母が言っていたのを思い出した。
祖母もまた、ひとりの医師だった。
今まで何人もの命と向き合ってきたからこそ言える台詞だ。
俺は祖母の事を好きでは無いが、
こういう立派な姿勢には素直に尊敬する。
自分も、医療従事者として見習わないといけない。
そんなことを考えながら、
また目の前のレポートに集中した。
…………………………………
近頃は、頭が重くなる話ばかり耳にする。
苦い涙はもう見たくないというのに。
例えば、いじめ問題とか。
俺の学校にも、いじめがある。
例えば、あの渡り廊下にいじめられっ子が一人。
同じオカルト部の仲間でもあり、
同じクラスの“黒田礼子”だ。
俺はよく、彼女の相談に乗っている。
なんの説得力もない回答でも、
黒田は真剣な顔で聞いている。
普段は自分の事をあまり喋らない黒田が、
時折、俺に腹を割って話してくれて嬉しく思う。
「大丈夫か?」
「う、うん」
「やめろって、ちゃんと言わないと」
「それでも、虐めはなくならない…」
「まぁ確かに、それもそうか。
虐めた側が教師になる事もあるし、
あいつらは大人になっても繰り返す。
ターゲットが変わるだけ…
けど、許さなくていいよ。
許したところで罪は消えないから」
「どういう事?」
「差別というのは何処にでもあるし、
これからも無くならない。
時代が違っても、形を変えて存在し続ける。
いじめだって、あることないこと理由付けして、
相手を落とそうとする。
古来より引き継がれてきた人間の本能なんだ。
対処の仕様がない」
流石にこれは失言だったか。
今の発言は彼女が欲しい回答ではなかったらしく、黒田は目を逸らして俯いてしまった。
「やっぱり諦めるべき?」
「だから、味方を増やすんだ」
「黒澤くんは、私の味方になってくれるの?」
「当然だ」
「あ、ありがとう」
「でも、復讐したいとは思わないのか?」
「でも、そんなことしたら…」
「復讐からは何も生まないっていうのは、
加害者が作り出した加害者側にとって都合のいい言葉だ。
俺は、この言葉が嫌いだ。
だから、君がやり返したいなら賛同する。
ただし、直接攻撃したり、
復讐にばかりとらわれないように気をつけろ。
そのせいで罪を背負った奴を俺は知っている。
あくまで、見返してやるって気持ちでな」
「うん、分かった」
黒田は、俺に向き直ってまた微笑んだ。
もはや、マトモな答えになってなくて、
自分でも分からなくなってきた。
けど、何があろうと決して一人では無いという事を黒田に伝えたい。
クラスメイトとして、友達として、
自分にできることをするだけだ。
「そうだ、明後日に由乃と西川の家へ遊びに行く予定なんだけど、黒田も来るか?」
「いいの?」
「大丈夫、二人には俺から伝えておく」
「うん!」
………………………………
土曜日の昼頃。
俺達三人は、待ち合わせ場所から西川の家に向かった。
校庭くらいの広さがある敷地の前に着き、
外側に設置されているインターホンを鳴らす。
五分後、西洋式の大きな扉が開かれ、
中から西川に出迎えられた。
入って早々、至る所に赤や金の装飾があり、
玄関前には、巨大な女性の肖像画が飾られてる。
なぜ西川が、こんな豪邸に住んでいるのかというと、西川の両親は、二人揃って大企業の社長で、
西川は社長令嬢という訳だ。
「みんな固いな〜、もっと肩の力を抜いていいんだよ〜」
「だってよ、豪邸に上がるの初めてだし…」
「そういえば、黒っちも豪邸に住んでるんだっけ?」
「あれは祖父母の家。俺は病院で寝起きしてるし、あんまり関係ないよ」
「咲月、お前も十分羨ましいぞ!」
「だから、俺はあの家に住んでないんだって」
「さぁ、みんな入って」
ロビーを抜け、客間を通り、
二階の長い廊下を進む。
前を歩いていた西川が三番目の扉を開く。
西川専用の部屋だそうで、
中へ入ると、年頃の女の子らしい装飾のベッドや机、ぬいぐるみ等が所狭しと配置されていた。
「すげぇ、ピンクだらけだ」
「なるほど、西川はこういう色が好みなのか」
「どう?いい部屋でしょ?」
まだ緊張が解れていない俺達は、
ベッドの隣にあった水色のソファーに腰掛ける。
「ねぇ、今から何して遊ぶ?」
デスクトップPCや最新のゲーム機など、
西川の部屋には何でも揃っている。
この場合、みんなで出来る遊びを考えるべきだが、これだけ物があると中々決められない。
「じゃ、ババ抜きやろうぜ!」
「いいねぇ、やろやろ!
私、引き出しからトランプ取ってくる!」
………………
西川の家から帰ってきた翌日。
お昼休憩の前に、
三十代の女性が俺の元にやって来た。
今回は初診ということで、
現在の心理状況や過去のトラウマについてなど、
事細かに聞き、電子カルテを作成していく。
「あの私、もう死のうかなって思ってるんです。
生まれた時から碌な人生を歩んでこなかったし、
このまま生きていたって意味がないから…」
「心中お察しします。
貴女は今まで十分頑張った。
貴女の体もそう言っているように思えます。
仕事が大事なのは分かりますが、
今すぐにでも休んだ方がいい」
元自殺者の俺が、こんな薄っぺらい同情をするのは酷な事ではあるが、
この女性は、同情せざるを得ないほど酷い過去を持っている。
父親の借金と両親の離婚、
親権者の母親はホストに狂い、
高校の時に初めて出来た彼氏から暴力を受け、
自分もホストにのめり込んで、
借金も返せないのに、
好きなホストに何百万と貢いで、
体も心も壊して、落ちるところまで落ちたんだ。
今まで周りの人間から、
大事な人達から裏切られてきた。
死ぬなと諭す方が非常識だ。
「休むって、これから私はどうすればいいんですか!?
「では、どうしますか?」
「それを聞きに来たんでしょ!?
あんた、医者じゃないの!?
いっ、医者だったら、私を助けなさいよ!!
私はもう……」
取り乱す女性の肩を軽く叩き、
どうにか修羅場を回避する。
「とにかく、ホストはやめにしましょう。
トラウマについても、これからゆっくり癒していけばいい。
過去の傷を癒すのは時間だけではない。
良い人付き合いや、自分」
一応薬は出したが、飲みたくなかったら飲まなくてもいいと伝えた。
支援窓口を紹介するだけでなく、
きちんと最後まで協力すると約束した。
女性が退室の際に、
「貴方だけは信じてみます。
私を裏切ったら、一緒に死んでもらうから」
と言った。
鳥肌立つ台詞だろうが、
俺も初めから責任を持って救うつもりなので、
特段、驚きもしなかった。
何故なら、これが俺の仕事だから。
……………………………
よく晴れた金曜日の放課後。
部活終わりに黒田から呼び出されて、
人気のない廊下を進み、音楽準備室へと向かった。
音楽準備室の扉を優しく引き開けると、
窓を背にして立っている黒田がいた。
「大事な用事ってなんだ?
俺にできることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「私ね、咲月君の事が前からずっと好きだった。
貴方は、唯一私を見捨てないでくれたんだもん。
こんな私でも、優しくしてくれた貴方の事が好き…なの」
唐突な告白に戸惑っていると、
黒田に勢いよく抱きしめられた。
息を荒げながら、俺の胸元に顔を埋める黒田。
黒田の体温が、制服の上からでも感じられる。
次の瞬間、俺は両手首を掴まれ地面に押し倒された。
「おい黒田、一体どうしたんだ!?
「フフッ、もしかして怯えてるの?
私の事嫌いになった?」
「また、あいつらに嫌がらせを受けたのか?」
「違う、今はそんな事どうでもいいの。
どんなに私を否定しても、私は逃がさないから」
「おっ、おい…」
「ねえ、私を愛して…」
黒田の瞳が真っ赤に光る。
おそらく、今の言葉は彼女自身のものではない。
既に、悪魔から魂を乗っ取られている状態だ。
こうなると、何を言っても、自分や他人が傷ついても、本能のままに行動するようになり、手が付けられない。
とりあえず今は、彼女の意を受けるしかないようだ。
「わかったよ、おいで」
「嬉しい…待ってて、今から貴方を私以外じゃ満足できない体にしてあげる」
俺は無抵抗なまま、何度も激しいキスをされる。
互いの手のひらを重ね、指を絡ませる。
一般的な男よりも強い握力で押さえつけられているせいで、力を入れて解こうとしても解けない。
「“Look on”」
俺は、頭の中のアイツの能力を使って、
黒田の中に潜む悪魔の姿を見た。
ヤツの視界を借りて見えたのは、
普通の幼い少女の姿だった。
顔面も人間の子供と相違なく、
足先まで垂らした長髪が、
生き物のようにユラユラと動いていた。
その数秒後、悪魔と目が合った。
少女からは殺意を感じず、物悲しそうな表情で、
こちらに助けを求めているようだった。
あれが黒田の中に眠る本音なのだろうか?
「待ってろ、必ず助けるから」
再び視界を現実に戻すと、
黒田が俺の胸の上で眠っていた。
呼吸も落ち着いたようで、
その表情は、いつもの黒田だった。
いつの間にか日も暮れて、
空もネイビーブルーに染まっていた。
俺は、背負いながら薄暗い校舎を出た。
…………………
それから三日後。
部活終わりに由乃と西川を空き教室に呼び出し、
最近の黒田について聞いてみた。
二人とも、何も知らないと首を横に振った。
それどころか、
言動もいつもと変わらないと言う。
「俺は部活以外で黒田と話した事がないし、
黒田に関して言えば、お前の方が彼女の事をよくわかってるんじゃないのか?」
「私も普段はあまり話さないわ。
こちらから話しかけても、中々口を開こうとしないから、
私の方が嫌われてるんじゃないか?って思ってる」
「流石にそれはないと思うが?」
「とにかく、本人から直接聞き出さないと駄目だな」
「やはりか…」
「お前こそ、何か気づいたのか?」
「あぁ、実は」
三日前の事は一切話さなかった。
二人には、普段より少し元気がないように見えたと伝えた。
やらない善よりやる偽善。
このままほっとく訳にもいかない。
自分たちに出来ることを虱潰しに実行する事で、
何か一つでもヒントを得られるかもしれない。
という期待を胸に、俺達は黒田を元気づける会を結成した。
「よっしゃ!決まればさっそく行動だ!」
「私、もう一度メールで誘ってみる!」
西川の提案で、遊ぶ場所はカラオケに決まった。
幸い、黒田も来てくれるそうで、
俺たち三人は学校を出て合流場所へ向かった。
カラオケ店に到着すると、思った以上に空いていた。
それぞれ好きなソフトドリンクをグラスに入れ、
ソファーに腰掛ける。
「何から歌う?私はね〜」
「黒田と咲月はどうする?
俺が入れてやるから遠慮なく言ってくれ」
「黒田、時間はたっぷりあるから、
焦らずゆっくり選んでいいからな」
「う、うん、わかった」
こういう時でもアニソンばかり歌う由乃と西川。
いつも以上に元気が良すぎて、
全然ノリについていけない。
「イエーイ!みんなノってる??
れいちゃんも一緒に歌おうよ!
ほら、立って!」
「え、ちょ…」
「おいおい、黒田を虐めんなって」
「やれやれ…」
「もう止めてよ!そういうのいいから!」
「え?」
「ん?」
一瞬、この場が凍りつく。
狭い空間に冷たい空気が流れる。
俺ら三人は、鳩が豆鉄砲を食らった時のような表情で黒田を見る。
「みんな私の事何も知らないくせに…」
俺達は、黒田の思いがけない台詞に戸惑いながらも、黒田の言葉に聞き耳を立てる。
「ずっと言えなかったけど、
ほんとは私、ここに来たくなかった」
「すまん、無理に誘ってしまって」
「私、もう分かんないよ。
私が全部悪いのは分かってるけど、
自分がどうしたいのかも分からない…」
「なんか、ウチら余計な事しちゃった…かな?」
「違う!」
「あっ、ちょ、れいちゃん待ってよ!」
場の空気に耐えられなくなった黒田は、
個室を勢いよく飛び出した。
それを追って、西川も退室する。
個室には、みすぼらしい男二人だけが残された。
「なぁ、本当はお前も何か隠してるだろ?」
「なんの事だ?」
「悪魔が関係する何かに、お前と黒田が巻き込まれたって話か?」
「全部クロ(頭の中のアイツ)から聞いたのか?」
「あぁ、お前の事はアイツに聞けば全てわかる」
「アイツは相変わらず口が軽いな」
「兎にも角にも、黒田を救えるのはお前だけだ。
助けが必要なら俺らが手を貸すぜ」
「悪いな、もう少しだけ俺の我儘に付き合ってくれ」
「任せろ、親友」
俺は一旦、頭の中でクロに話しかける。
一応クロも、出ようと思えば出てこれるが、
あの事は、由乃にはまだ話さない方がいい。
「なぁ、クロ」
「なんだ?」
「黒田の本性が“愛憎”だとしたら、
俺の本性は“偽善”か?」
「いや、お前の場合は“自己嫌悪”だな」
「なぜそう思う?」
「お前はまだ、過去の自分を許していない」
クロから出た意外な言葉に驚愕する。
事実、俺の本性であるクロとの決着は、
六年前に着いているはずだ。
なのに、過去の自分を許していないなんて、
直接クロの口から出るとは思わなかった。
「あの娘に憑いてる悪魔は、ちょっと厄介な奴なんだ。
お前に取り憑いている俺よりもな」
クロが言う悪魔の名は、“バフォメット”。
キリスト教徒が想像する異教の神であり、
悪魔辞典によれば、
十一世紀から十二世紀頃が起源とされ、
この世の全ての女性を服従させる能力を持っているそうだ。
だが、あの時俺が見たのは少女だった。
世間が想像するような能力を持っているとは思えない。
「それで、どうやってその悪魔を黒田から引き剥がすんだ?」
「それは、黒田の“愛憎”を利用する。
俺ら悪魔は、お前ら本体の感情から生まれたってところまでは、由乃にも説明したと思うが、
その感情が肥大化すればするほど強くなる」
「つまり、悪魔も表に出やすいってことか」
「正体を現した隙を狙って仕留める訳だ。
六年前、お前が俺にしたように」
……
ついに、この日がやって来た。
黒田の中にいた悪魔が姿を現し、
周りにいる生徒達を次々と襲い始めた。
あの時と同じ真っ赤な瞳で周囲を睨み、
背中から生えた十本近くある触手を器用に操っている。
「れいちゃん、こっちよ!」
西川の呼びかけに反応するバフォメット。
二人には囮になってもらい、
暴走状態の黒田を屋上までおびき寄せる。
二人は彼女と一定の距離を保ちながら、人並外れた速さで階段を駆け上がる。
「任せたぞ、咲月!」
最上階の扉が勢いよく開かれる。
俺は三人の前に、制服ではなく白衣姿で登場する。
「咲月…君?」
「そうだ」
「どうして、ここにいるの?」
「お前を止める為だ」
「まさか、今までの言葉は全部嘘だったって事!?
咲月君まで私を否定するの!?
「だから違っ」
「じゃ、なんで銃なんか持ってるの!?
なんでそれを私に向けるの!?
彼女の言う通り、俺の両手には二丁拳銃がある。
だが、人を殺すためのものではないと、
いくら説明しても解って貰えない。
「ねえ、私を否定しないでよ!
私、貴方にまで嫌われたくない!」
「バフォメット、いい加減黒田から離れろ!」
黒田の腹に数発当てたのを合図に、
触手を刃のように突き立てたバフォメットが、
俺に向かって飛びかかる。
こうしている間にも、黒田の暴走は止まらない。
ダメージを与えれば与えるほど、彼女の力は増していく。
「お願い、私とひとつになってよ!
私、咲月の為なら何でもするから!!
どんな酷い事でも受け入れるから!!
だから…私を見捨てないで!」
「見捨てない!見捨てないから!
だから目を覚ませ、礼子!」
俺は、黒田の名前を必死に叫び続ける。
なるべく黒田の体に傷をつけたくないが為に、
相手の攻撃を防いでばかりいる。
弱点を付ければいいが、相手は中々隙を見せない。
「嫌だ!嫌だ!嫌だー!」
何度倒れても、彼女の攻撃は止まない。
このままでは俺の負けだ。
「なあクロ、俺はどうすればいい…」
「お前の中には、もう一人の力がある」
俺は、自分の中にいるもう一人の存在に問いかける。
力が欲しいと強く願う。
暗闇の中で答えが返ってくる。
「やれやれ、お前は世話の焼ける坊主だな。
仕方がないから、私がお前の手足となろう」
俺は、目の前の光に手を翳す。
我は汝の、汝は我の滅びなりけり。
光を手にした時に浮かんだ言葉だ。
そして次の瞬間、俺は少女の姿になっていた。
純白のワンピースに身を包み、
金色の長髪を靡かせ、再び悪魔の前に立つ。
二丁拳銃を後ろに投げ捨てる。
ここからの戦いに武器は要らない。
全ての攻撃を拳で止めてみせる。
「みんな死んじゃえー!!!」
「くっ!」
「あはははははっ!」
黒田の意識は、完全に悪魔に呑まれている。
もう、手加減する余裕はない。
例え傷つけてでも黒田を救い出す。
強い想いを胸に、相手へ何度も拳をぶつける。
「今だ!高火力でごり押せ!」
相手が怯んだのを察した由乃が俺に叫ぶ。
それを合図に、俺は必殺技の構えを取る。
全ての力を光に変換させ、左手に集める。
そして、相手を持ち上げながら空高く飛び、
落下と同時に相手の腹を殴りながら、
地面に叩きつけた。
「礼子、大丈夫か!?
「咲月…君?」
正気を取り戻したのを確認し、
すぐさま黒田の体を抱き寄せる。
目立った怪我もなく、黒田は無事みたいだ。
「ごめんな、礼子。
けどもう二度、昔の俺みたいにはなるなよ」
俺は、情けない顔で涙を零しながら黒田を強く抱きしめた。
黒田も優しく抱き返してくれた。
「それに、お前の味方は俺だけじゃない」
「どういう…こと?」
「たまには私達にも頼りなさいよ!」
「そうだぞ〜」
俺と黒田の元に駆け寄る由乃と西川。
ようやく黒田も笑顔になった。
二人に心を開いてくれたようで安心した。
チャイムが鳴り終わる前に、俺達は屋上を後にした。
…………………
後日、俺の方から黒田をデートに誘った。
SNSなどで拡散された記録は全て抹消した。
目撃者の記憶処理は既にしてあるので、
普段通りの生活に戻っても問題はない。
デートの最中だというのに、
黒田から改まった態度で謝罪を受けた。
けど、悪い気はしなかった。
「あの、咲月君」
「どうした?」
「あんな酷い事言ってゴメンなさい。
二人にも散々迷惑かけちゃったし、
ちゃんと謝らなくちゃ」
「気にするな。恨みっこナシだ」
俺はそう言いながら、
上着の内ポケットから綺麗な装飾が施された髪飾りを取り出し、
それを黒田に渡す。
「これ、受け取ってくれるか?」
「これは?」
「契約の証。俺のパートナーになってくれないか?」
俺の持つこの力は、純粋な心を持った少女を求めている。
俺は、礼子が相応しいと考えている。
受け取るか否か、黒田に判断を委ねる。
「どう…して?」
「君なら、俺の命を半分預けられると思ったんだ。
礼子、引き受けてくれるか?」
「うん、もちろん!」
「ありがとう」
俺は黒田の手を取る。
黒田も俺の肩に寄りかかり、
大胆なスキンシップをしてくる。
今日の黒田の笑顔は、
いつも以上に輝いて見えた。


END
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