私だけが知ってるうつくしい光

文字数 5,000文字

 私には兄がいる。兄は私以外の誰にも見えない。目が見えるようになってすぐ、もちろん私は赤ん坊だったが、なにかよくわからないものが家にいることに気づいていた。それは温かくも冷たくもなく、形も影もなく、家に出入りする大人たちに気づかれることはない。私がそれを見つめていると大人は皆ふしぎがった。いったいなにを見ているのだろうかと。

 私は言葉が遅い子どもだった。母親だけに理解できる赤ん坊特有の喃語と言われる唸り声はこぼしていたが、まともな単語を喋りだしたのは五歳を過ぎてからだ。それまで私は他人と意思疎通する必要がなかったのだ。
 母は私を外に出すことを極端に恐れた。どうしても外出しなければならない時は私を抱いて抱っこ紐できつく縛り付けた。動きたい盛りの私にとって抱っこ紐は、私を逃がさないようにする檻のようなものだった。だが母にとっては、私を生かしつづけるための大切なへその緒のようなものだったのかもしれない。

「コズエちゃん。あなたのお兄ちゃんたった十五歳で死んじゃったの。病気だったのに気づいてあげられなかったから。でも大丈夫よ。コズエちゃんは絶対に私が守るから」

 そうして私は監視されて育った。私の体重がいつも買う米袋の重さをはるかに超えても母は私を抱っこ紐で縛りつづけた。

 家にいるそれが男の子の形をしているのだと理解したのは小学校に上がってからだった。母の過保護のせいで幼稚園にも通っていなかった私は男の子というものを知らなかった。
 髪の毛を引っぱったり、背中を押してきたり、給食の配膳で他人のものまで横取りするような意地汚い生き物なんて見たことがなかった。
 こんな生き物がうごめく小学校になんか通えるわけがない。私は小学一年生で不登校になった。母は行きたくないならずっと家にいたらいいと言ったが父はまともな人間になるためには学校に通わなければならないと私の腕を引っぱった。私は二人の真ん中で困って立ちすんだ。
 父が言った。

「お前のことを話しているのに、なんでよそ見をするんだ。やはり社交性を身につけるために幼稚園に通わせるべきだったんだ」

 母が言った。

「そんなこと言うけど、外に出して伝染病にかかったりしたら、また大輔みたいに……」

 私が言った。

「大輔」

 それ、が動いた。
 今まで微動だにしなかった男の子の姿をしたものが立ち上がった。そうか、これの名前は大輔なのか私の兄なのだなと知った。
 それ以来、私は大輔に話しかけるようになった。母以外のだれかと話してみたいと思い始めたころだったから。だが母には私が壁に向かって話しているようにしか見えない。母が青ざめるので大輔を自分の部屋に連れこんだ。腕をつかむことは出来なかったけれど大輔は私の意図を察したらしく立ち上がり、大人しく部屋までついてきた。

 私の部屋は、私のものではない。
 いつからあるのか知らない家具、知らない本棚、本の山。どれも私が赤ん坊の時から家にあった。部屋にきてから大輔がずっと本棚を見つめつづけているので大輔の物だったと知れた。私は本に興味がなかったが大輔の視線を追って背表紙を眺めた。『植物図鑑』『四季の野草』『植生の研究』。
 まともに文字を読めない私には、なにやらさっぱりわからなかった。本棚の前に立ち大輔の視線を真っ向から受け止めて私はマシンガンのように話し出した。ハンバーグは肉でできているとか、雨は太陽のおしっこだとかどうでもいいことだが私にはとても大切なことだった。母とは会話せずとも意思の疎通ができたので私はほとんど口を開かなかったから。家から出て他人とともに過ごせるようになったのは大輔のおかげだったと思う。

 中学生になったころから母の様子がおかしくなった。私が部屋のドアを閉めるのを異様に怖がる。しかたなく開けておいても五分に一度は様子を見に来る。なにをそんなに心配しているのかと思っていたら、ある日、学校を休まされて病院に連れていかれた。『旭メンタルクリニック』というその病院の医師は私にさまざまな質問と、いくつかの知能テストを受けさせて言った。

「病気ではありません」

 母はずいぶんとごねて、なんとか病名をつけてもらおうとしていたが、医師は頑としてうなずかなかった。

「そんな……。病気じゃないなら、いったいなんだっていうの」

 ぽつりとつぶやいた母の目には涙が浮かんでいた。きっと私が大輔に向かってしゃべっているのが怖くてしかたないのだろう。病気なら薬を飲めば治る、早く治療すれば治る、大輔のように死なせはしない。そう思っているのだろう。病気ではないのにおかしなことをする私は母に恐怖を抱かせる要因になっていた。

 母の行動はますますエスカレートした。私が家にいる間中、私のそばにぴたりとくっついて離れない。お風呂も一緒、寝るのも一緒、トイレにまで一緒に入ってくる。
あいにくと父が出張続きだったので誰も止めることができずエスカレートしていったのだ。
とうとう中学校まで送り迎えするようになった。私が授業を受けている間、母は校門の陰に立っていた。教師が気づき母から事情を聞こうとしたが母は何も話さず、とにかく私をしっかり見ていてくれと頼むばかりだった。クラスメイトどころか学校中の話題になって、私は廊下を歩けなくなった。

 そんなことが一週間つづき、私は疲れ果てた。なにもかも大輔のせいだ。大輔がいるから、大輔が死んだから、大輔が私と話したそうにするから。だから大輔がいなくなればいい。そうすれば母も元に戻る。図書館でオカルトの本を探し、除霊方法を調べてみた。塩を盛るとかお経を唱えるとか、自分でもできそうなこ方法がある。長いお経をノートに書き写して母に手を引かれて下校した。

 父が早く帰宅した日、母の目を盗んで部屋の戸を閉めて大輔に塩を投げつけてみた。塩はすうっと大輔を通り過ぎ壁に当たった。効かない。次はお経を唱えようとノートを取り出すと、ずっと本棚だけを見つめていた大輔が首を回して私の顔を見た。なんの感情も読み取れない目に射すくめられて、私は恐ろしさに息を飲んだ。きっと怒っているのだ、自分を消そうとする私が憎いのだ。

 大輔が一歩近づいた。私はノートをめくってお経を読もうとしたが震えて声が出ない。大輔がまた足を踏み出す。距離が縮まる。震える手でノートを大輔に投げつけた。大輔はぴたりと動きを止めた。姿がぼんやりとにじんでいく。消えていく。大輔は私から目をそらすと、本棚の方に顔を向けた。そしてふっと見えなくなった。

 足の力が抜けて床に座り込んだ。お経が効いた。
大輔は私を恨んでいたのだろうか。ずっとしゃべりかけていたのに反応しなかったのは私が嫌いだったからだろうか。一人だけ生きつづけている私が憎かったのだろうか。人と接することなく生きてきた私は誰かに憎まれるなどと言うことを経験したことはない。骨が冷えてきしんでいるような不快な恐怖心を初めて覚えた。大輔のなにもかもが怖くなった。
 私を見ようとしなかった大輔の横顔を思い出すことも恐くて、本棚から本を引っ張り出してゴミ箱に突っ込んだ。次々に積み重ねてゴミ箱はすぐにいっぱいになった。それでも上に上にと積んでいく。本の山ができ、すぐになだれ落ちた。何冊かの本のページが開いたがなにが書いてあるのか見るのも怖くてさっと閉じる。だが一冊の本に手を伸ばした時、動きが止まった。

 本に封筒がはさまっていた。真っ白な封筒には『妹へ』と書かれている。恐る恐る拾い上げて裏を見たが封筒に書かれている文字はそれだけだった。そっと中をのぞいてみると、便箋が一枚入っている。指でつついてみたが普通の紙だ、とくに変わったところはない。指先だけでつまんで引っ張り出した。


『きみは僕のことを知っているだろうか。
 もしかしたら母さんは僕のことをきみには話さないかもしれない。
 僕が病気だと知ってから母さんはひどく落ち込んでいるし、僕にかくれて泣いていることも知っている。僕が死んでしまったら僕のことをすべて忘れたくなっても仕方ないと思う。
 でも僕は、まだ生まれていないきみに伝えたいことがあるんだ。この手紙がきみに届くことを願うよ。

 僕は親孝行な子どもじゃない。母さんのことも最近はババアなんて呼んだり、父さんのことを無視したり、きっと二人は相当困っていたと思う。元気な時はそんなこと知ったことではないと思っていた。両親なんてうっとうしいだけだった。でも、僕の病気が分かった時、二人ともものすごく悲しんだんだ。僕に向かって「ごめん」って何度も謝るんだ。病気になったのは両親のせいなんかじゃないし、親不孝な子どもなんか見捨ててもいいのに。でも父さんも母さんも僕を諦めなかった。絶対に治そうといろいろな病院を探してくれた。僕はますます親不孝になった。お金も時間もたくさん使わせてしまった。
 本当に申しわけないと思っているけど、それを父さんと母さんには伝えられない。だって使ったお金のぶん僕が元気になることを信じようとしているんだ。僕が謝ってしまったら、僕にはもう生きる気力がないんだって二人にばれてしまうから。

 僕だって死にたくない。だけど、わかるんだ。終わりが近づいてきていることを感じるんだ。病気は痛いし苦しい。でもそれがだんだんと気にならなくなってきている、病状はひどくなっているのに。死ぬことはつらいと思っていたけど、生きることも同じくらいつらいんだってわかったよ。
 まだ生まれていないきみも、いつかこの世のつらさを知ってしまうんだろうね。もしこんな親不孝しかできないような僕でも、生きていれば兄としてきみを助けることができたかもしれない。少しだけ得意な数学だったら教えてあげられたかもしれない。そんなこともできないまま、きみを置いていってごめん。なのにまだ、きみにお願いしたいことがあるんだ。

 どうか、父さんと母さんにきみが長生きするところを見せてあげてほしい。いい子にならなくても反抗しても、なんなら学校になんか行かなくてもいい。だけど、長生きしてほしい。きみが生きているだけで父さんも母さんも、生きていく力が湧くんだ。僕もそうだ。あと少しの命だけど、きみが生まれてきてくれるってわかって、本当に救われたんだよ。
 僕の親不孝の後しまつをきみに押しつけるようで、本当にごめん。でも最初で最後のお願いだ、どうか聞いてほしいんだ。

 この部屋は僕がいなくなったらきみが使うんだろうな。できることなら何もかも、きみにもらってほしい。机もステレオも、本も。僕の本なんか女の子は好きじゃないかな。でも草花のこととか好きになってくれたらうれしいんだけど。庭のハクモクレンは僕が植えて育ててるんだ。きみも水やりしてくれるかな。
 僕が生きた証がこの家にはたくさんある。それを見つけてくれたら、僕が生きた場所をきみの場所に書き換えていくときに僕のことを感じてくれたらうれしい。きみにすべて譲って僕は消える。
 ううん、違うな。僕は消えるんじゃない。きみに席をゆずって家族より一足先に出かけるだけ。
 だからいつか会えると思う。僕はきみに会いたいよ。
 その時まで、どうか元気で。

 まだ見ぬ妹へ
         兄より』

「……おにいちゃん」

 大輔がいた壁に目をやる。壁についた塩の粒、床に落ちたノートに書かれたお経。

「おにいちゃん」

 恐ろしいと思った視線が見つめていたその本は『366日の誕生花』。

「おにいちゃん」

 開いたページは予定日ぴったりに生まれた私の誕生日。

「おにいちゃん! おにいちゃん! おにいちゃん!」

 消えてしまった、私が消してしまった。会えないはずの兄が待っていてくれたのに。私がすべてを台無しにしてしまった。
 泣き叫ぶ私を、駆け付けた母が抱きしめる。父が心配そうに顔を覗きこむ。
 おにいちゃん。
 おにいちゃん。
 おにいちゃん。
 窓の外に高く枝を伸ばしたハクモクレンが見える。満開の私の誕生花。

「おにいちゃん!」

 ハクモクレンは陽光に光って、この世のどんなものよりも美しかった。
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登場人物紹介

366日の誕生花

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