第1話

文字数 1,998文字

 この春高校に進学した大翔(ひろと)は、十六歳にして初めての恋をしていた。それまでもあった幼稚園の女性教諭や近所の少女への恋は絵空事で、この初めての恋には相手の存在が強く深く感じられた。
 すれ違いざまに漂う彼女のシャンプーの香り、弾ける笑い声、直接触ったことなどないが教室の空気を動かす気配から感じる温もり、音楽室のピアノで彼女がつま弾く間延びしたメロディ。憧れに過ぎないのかも知れないが、これは紛れもなく恋だと思う。
 いつも明るい彼女だが、大翔の想いにはついぞ応えてはくれない。理由はわからないが、きっと大翔は彼女の好みではないのだろう。ただただ、残念だった。

「ヒロちゃん、帰ったらちゃんと手を洗いなさいよ」
 学校から帰るなり、居間から顔を出した祖母にたしなめられる。言い返すとややこしくなるので、はぁいとだけ返事して洗面所へ向かう。
 祖母は六十五歳だが、今の大翔と同じ年齢の十六歳でこの家に嫁いできたいう。その長男である伯父を翌年に、長女である母をその二年後に産んでいる。母と祖母は十九しか違わない。今は法律上、女性も十八歳にならないと結婚は出来ないけれど、あと三年で二児の親になるなど高校生になったばかりの大翔には想像もできなかった。
 今は入院している八十五歳の曾祖母と祖母はあまり仲は良くなかったが、祖母が生まれる四年前の今から六十九年前の、アインシュタインやらジェームス・ディーンが亡くなったその年には、八十五歳の曾祖母にも十六歳の日々はあったはずなのだ。

 台所から肉まんを五つ大皿に載せた母が、笑顔で手招きした。
「おやつあるわよ。浩史伯父さんが、横浜から持って来てくれたの」
「やった! 伯父さんどこ?」
 母が視線を向けた和室の縁側で、伯父さんはすでに肉まんにかぶりついていた。
 大翔は母に礼を言って、肉まんを一つ受け取った。
 母は先月四十六歳になった。当然三十年前には十六歳だ。
 当時、母より四歳年上の大学生だった父が、家庭教師として母の実家に出入りしていたという。子どもの頃から見知ったご近所同士でいつしか交際が始まり、母が短大を出て就職、その三年後にサラリーマンとなっていた父と結婚した。
 大翔も詳しくは知らないが、典型的な腰かけ就職後の結婚を、母も当時は幸せと思っていた。しかしパートで働く現在、もっとキャリアを磨けば良かったとも秘かに思っている。独身バリバリの管理職で海外出張の多い友人や親の店を継ぎ子育ても仕事も順調な友人と引き比べて、何か不十分な気がしているのである。
 十六歳の頃はみんな同級生で毎日笑っていたのに。母は、祖母にも大翔にも隠れて小さなため息をつく。

 お茶を入れている母の向うで、祖母が電話をかけ始めた。電話の相手は父のようだ。
「ああ、誠さん、今浩史が来てるの。悪いけど、今里屋のローストビーフ買って来てくれる?」
 伯父は独身なので、祖母は外食の多い彼の食生活にも気を遣う。大翔が祖母の弁当を届けることもあった。

 電話の向うの父は五十歳だから、十六歳は三十四年前。大翔の母と交際を始める四年前である。
 当時彼は一年生の野球部員であり、実は二年生の女子マネージャーに片想いをしていた。三年生の卒業式の後、彼女が元エースの三年生にもらった第二ボタンを大切に握りしめる姿を見て、何も行動を起こさないうちに玉砕した。その後、学外で元エースと付き合ってどんどんきれいになってゆく彼女にしばらく失恋を引き摺った。
 彼女に少し面差しが似ている大翔の母の家庭教師にと紹介され、心惹かれた。そして、そのまま交際して結婚にいたった。以来マネージャーには会っていない。大翔の母を愛しているが、それも大切な思い出である。
 
 温かい肉まんを頬張りながら、大翔が伯父さんの隣に座りこんだ。伯父さんの肉まんはもうなくなりかけている。
「もう一個持ってこようか?」
「いや、これ以上喰うと晩飯が入らん」
「えー、そんな歳?」
「もう四十八だもんね」
 伯父さんは大翔を見て楽しそうに笑っていた。大翔は肉まんを平らげて指を舐めている。
 伯父さんの十六歳は、三十二年前だ。
 伯父さんも三十二年前、今の大翔と同じように恋をしていた。心を寄せていたその少女は声をかけても儚げに微笑むだけで、伯父さんに声も聞かせてくれなかった。後に彼女が早くに父親を亡くし、母親が働いて、彼女が病気の祖母の面倒をみていたと知った。今で言うヤングケアラーであった。同窓会でも会えず、今は同級生の誰もその所在を知らない。伯父さんの初恋であり、今のところたった一つの恋である。
「俺はお前の三倍生きてる」
 縦に三倍だ。横に三倍なら、十六歳の友だちが三人いてつるんでて楽しそうなんだがな。
 でも、いまだに埋められない、代わるものを見つけられない、そんな人生もある。伯父さんは独り言のようにつぶやいた。
「十六歳でなければ得られない果実もあるんだよ」

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