海へ

文字数 2,211文字

コンビニで花火を買った。ハーフパンツで外に出たのが間違いだった。蚊に刺されたのだろう。膝頭から足首まで露出した足の至る所が痒くて堪らない。
浜辺に着く。砂浜に植わった松の木陰には既にマリコの姿があった。近寄りつつ遅れてごめんと言うとマリコは遅いよと笑った。マリコは白いサンダルを履いていた。デニムのショートパンツから伸びる焼けた腿が艶めいている。白い半袖シャツの丸襟に結ばれた赤いリボンがはためいている。横に腰掛けると浜風のせいかマリコの身体が小刻みに震えているのが認められた。夏といえども宵は宵。白波の立つ薄暮の浜風に素肌を晒せば寒いだろう。羽織っていた黒いメッシュ地のパーカーを脱ぎマリコに着せる。マリコは静かにフードを被りそれから初めて俺を真正面から見据えて両腕を伸ばした。互いに互いの背中へと腕を回す。抱き寄せたマリコの胸は暖かかった。一等烈しい浜風が吹き荒ぶ。まだ被ったばかりのフードが勢いよくマリコの頭を離れた。露わになった黒髪からはシャンプーの匂いと潮の匂いがした。円環を成す人工的な匂いと自然の匂いはメビウスの輪のように愉悦と懊悩とを無際限に想起させた。
マリコとの抱擁を解き花火しようぜと声をかける。コンビニで買った花火セットの封を開けてマリコに向ける。マリコは細い指で線香花火を一本摘み出した。それに倣い俺も線香花火を手に取る。ポケットからライターを取り出す。松の木陰に垂らされた二本の線香花火に火を着ける。パチパチと音がして灰色の影にオレンジ色の光がぼんやりと滲む。
あのさ。そう呼びかけるマリコの瞳の中で火花が弾ける。何? と応えるとマリコは少し間を開けてからキスしてと言った。黙ったままマリコの髪を撫でキスをする。甘く柔らかく熱を帯びた唇。
線香花火の今際の雫が落ちる。呆気ないものだと俺は思った。ひたすらに弱い火花を散らせた挙句終いにはポトリと首を落とす。
打上花火の方が面白いかもね。袋から打上花火を取り出すとマリコは目を見開いて頷いた。立ち上がり木陰の外に出て筒を立てる。縄に着けた火が蜥蜴のように筒目がけて走っていく。次の瞬間ピィィと高い音を鳴らしながら花火が発射された。鈍色の水平線を切り裂き濃紺色の空にパッと黄色い花が咲く。
しかしそれも一瞬のことだった。
もう終わりか。ぼそり呟くとマリコはそうだねと相槌を打った。
ねぇそろそろ海に入らない?マリコが俺を促す。穏やかな口調。俺の身体が震え出す。そうだな。努めて朗らかに応えふたりして海に近づいていく。マリコがサンダルを脱いで波打ち際に向かって放り投げた。夜の砂浜ってこんなに冷たいんだね。次第に深まる闇にマリコの笑顔が柔らかく浮かぶ。
白波が押し寄せてスニーカーの中をぐしゃりと濡らす。重々しく横たわる果てしない海が眼前に広がっている。
綺麗だねとマリコは言った。その言葉の主語がどこにあるのか俺には判然としなかった。
歩を進めるとたちまち水位が胸まで達する。左手でマリコの手を握りしめ右手でポケットをまさぐる。マリコはぎゅっと俺の手を握り返して言った。ありがとう。こんなことに付き合ってくれて。
良いよ別に。俺がポケットからロープを取り出すとマリコの手がゆっくりと俺の手から離れる。やがて差し出されたマリコの手首を俺は素早くロープで固めていく。顔に目はやらなかった。それでもきっとマリコは微笑んでいるのだろうと俺は思った。
今度は俺の方がマリコに腕を差し出す。その腕はあからさまに震えていた。マリコは一度俺の肘から手首に向けて濡れた指を這わせた。それからマリコは自身の手首を縛って余りあるロープの両端を摘み上げ俺の手首に巻き付けていく。やがてぴったりとくっついたマリコの手首と俺の手首。最早掌を重ねる必要もなかった。仕上げにふたりでロープの両端を持ちふたつの手首をひとつに縛り上げていく。ロープが手首に食い込んで痛い。指先が鬱血して痺れる。我が身の震戦が依然静寂を保つマリコの身体に突き当たっては跳ね返ってくる。
どちらからともなく歩き出す。
あっあっ。いつの間にかマリコの息が上がっていた。波は押し寄せる度にマリコの鼻までをも海中に引き摺り込む。低く喘ぎながらそれでもなおマリコは進んでいく。けたたましい程明瞭な罪悪感と囁き声のように朧げな官能が頭の中を縦横無尽に駆け巡る。
ねぇキスしよ。既に多量の水を呑んだのだろう。咳き込みながら掠れた声でマリコは言った。マリコの髪が藻のように海面に広がっている。無論シャンプーの匂いはしない。と不意にマリコが俺の身体に抱きついてきた。既に殆ど立ち泳ぎに近い状態だった俺はマリコの重みに耐えきれず仰向けに倒れた。暗い夜の海に引き込まれる。口から溢れ出た空気が泡となって俺から遠ざかっていきマリコの背後に消える。その口をマリコの口が塞いだ。海の中で押し付けられた唇は甘くもなく柔らかくもなく冷たかった。堪らなく塩辛かった。苦しかった。震えが止まらなかった。最早それは震えというには凄烈過ぎた。それは魂の痙攣だった。
海底に背がついてようやく唇が離れた。目を開けるとぼやける視界の中心でマリコはやはり笑っていた。その穏やかな微笑みは紛れもなく悦楽を示していた。マリコの享受する悦楽は闇の中で輝いて見えた。俺は静かに目を閉じた。瞼の裏には満点の星空が浮かんでいた。綺麗だ。そう呟いて蚊に刺された足の力を抜き夏の夜の海に身を委ねた。
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