第1話

文字数 4,410文字

 電車が揺れて手から滑ったスマホを抱きかかえる。買い換えたばかりだから是が非でも綺麗に使いたい。自分の性格から考えると画面がバキバキになるのは目に見えているが、それでも、せめて最初だけでも綺麗に。


 ノートだってそうだ。最初の1ページ目はまるで印刷物のような字を書いてみせるが、自分は続けられない。大学で友達にノートを借りたとき、すべてのページが自分にとっての1ページと同等かそれ以上のクオリティであるからギョッとする。塾の生徒もなかなかいい字を書くようになってきてしまったから講師として立つ瀬がないこともままある。


 別に綺麗な字を書けとは言わないから丁寧を心がけろとはよく言われたものだけれど、そんなことをいうヤツはたいてい半ば諦めた表情でこちらを見つめるのはなぜだろう。「俺が求めているのは最高の文字だが、君がもし一生懸命書けば認めてやらんこともない。」ということなのだろうか?


「読めりゃいいだろうが、ダボが。」

隣に立っていたおじさんが変人を見る目でにらみつけてくる。

「あっ、いやすみません。」

 最近就活やら課題やらに追われているせいか、自分の世界に潜りすぎてしまいあまり気づかないうちに口にしている。注意しなければ。きっと生徒もこの車両に乗っているだろう。塾で変な噂が立ったらどうするんだ。


 ガタンゴトンという音は止み、乗客がなだれ込んでくる。

「まずっ!」

 電車に入ってこようとする流れに逆らいフィジカル任せにドアを目指す。規格品で体のサイズにあっていないスーツが引っかかるのを鬱陶しく思いながらも、エスカレーターの列に並ぶ。


 ブランド物のバッグを下げた若い女性や金色のピンをつけたサラリーマンが必死の形相で前に割り込んでくる。さっきまで陶器のように静かで、我こそは社会の歯車でございという顔で電車に揺られていたのに、その変わりようはいつ見ても滑稽に感じる。おもしろいものを見せてもらった際は一定の敬意を表さなくてはいけない。だから前にいかせてやることにしている。


 黒い頭の流れに任せて改札をくぐる。塾は駅の目の前すぐの雑居ビルにある。最近エントランスを新しくしたついでに、本来絵を飾るべきスペースにむすっとした顔のサイネージを導入したみたいだ。「新サービス、エクスサーズで顧客情報を一括管理!AIがリードを分析しアポ獲得の可能性が高い順に自動で並び変えてくれます!」髪を後ろで結んだタレントが一息で原稿を読み上げる。ここのビルのオーナーはまるでセンスがない。こんな無機質で面白みのないしゃべる板を飾って毎月しょぼい手数料をがめている。

「そんなことに頭を使うならしみったれたエレベーターを何とかしてくれ。ボタンカバーのプラスチックは黄ばんでいるし、靴下みたいな匂いが箱の中に充満している。お前もそう思うだろ?」

「お客様満足度は99パーセント!」

「1パーは切り捨てるのか?」


 ポニテに毒を吐いて靴下箱に乗り込む。


 事務所のフロアは5階。さみしい雑居ビルの出入りはうちの職員か生徒ぐらいしかない。そのため5のボタンはへたって反応が良くない。


カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ

だからたいていの人は連打する。
連打をするから余計へたる。

 5階でエレベーターが開き、身だしなみを整えながら事務所に向かって靴を鳴らす。事務所のドアは常時開けっ放しでいつでも誰でも歓迎という風だが、じめじめした所に歓迎されても心が惹かれない。それどころか悪質な嫌がらせとさえ思えてしまう。


「ジン君」


後ろから声がかかり、ネクタイのコブをいじりながら振り返る。


「悪いね、いつもより早く来てもらって。」

「高橋部長、お疲れ様です。大丈夫ですよ家にいてもやることないですし。」

「君が持ってるクラスに新しい子が来たでしょう。」

「えっと、ナカムラコウキでしたっけ?」

「そう。その子の母親から電話があって、どうやら調子が良くないらしいんだよ。それでちょっと作戦会議したいから事務所入って右の部屋で待っててもらっていいかい?トイレによってから行くから」

「わかりました。」


 いわれた通り事務所のウェルカムドアを抜け、事務の女性に紙とペンをもらい部屋に入る。狭苦しい部屋で大人の男性が二人で詰めようものなら額が触れそうになる。あらかじめ用意されていた生徒のカルテにさっと目を通し、紙の角を潰しながらこれから始まる面倒な作戦会議に思いをめぐらせる。


「ジン君、読んでみたかい?ナカムラ君のカルテ。」

「私立小の4年生で兄弟は無し、父親は保険会社で働いていて母親は専業主婦。よくあるタイプですね。最初の授業では問題ない様子でしたが、骨でも折れましたか?」

「骨だったら良かったけど、今回はそうじゃない。心だよ、折れたのは。」


 精神的に向上心がない者は馬鹿だ。心無い言葉が浮かぶ。しかし、部分的に正しいと思ってしまう。怠けて努力をしない者、成長を諦めた者、精神を病んだ者。どんな事情があるのかは知らないが、皆向上心がないという事実は変わらないだろう。つまり、全員馬鹿の二文字でくくれるわけだ。

「彼は適応障害という精神病らしいんだ。面倒なのはわかるけど、今の時代そういった人間は社会的に強い。やれ講師の言動が気に食わない、やれ授業の進みが早くて子供が泣きながら帰ってくるとか小さいことで堤が崩れはじめることがあるんだよ。君がナカムラ君に対しては何もしてないことはわかってるけど一応ね。」


「私はなにもしていませんよ。いつも通りにプリントを回し、いつも通りに授業を進め、いつも通り質問に答えました。」


「ま、そうだよね。母親の機嫌もとらなければならんのよ。今日の授業が終わったらナカムラ君とも少し話をしておいてほしい。母親には30分くらいなら大丈夫といわれているから頼むね。あと、メモをよこしなさい。私が捨てておく。」


 正直ホッとした。精神病はうつる病気ではないが、なんだかそれに関連するものや情報を近くに置いておきたくはない。素直にメモを高橋部長に渡し、軽く頭を下げて部屋を出る。早いところデスクに退散したい。事務には悪いがペンはいただいてしまおう。


同期の向井がニタニタしながら寄ってくる。


「どうしたよ、部長となに話してたの?」


向井と私はデスクが隣あわせだ。コーヒーを汲み二人そろって腰をおろす。


「面倒ごとを押し付けられたんだよ。うちのクラスの生徒が適応障害なんだって。」

「あーガイジね。そういうのいるとうまく回んなくなるから今回は運がなかったね。」

「ガイジねぇ。普通じゃないっていうことなら彼はガイジか。」

「そうだろ、実際俺らの完璧な城に影響が出てる。クラスは俺が数社の担当で、お前が国理なわけだからクラスの運営だって楽勝だと思ってたんだけどね...」


@@@@@@


「だから、ここで絶対読み取らなきゃいけないのはこの部分。設問をよく読んでみてほしいんだけど『下線部4の律子は顔を赤らめてうつむいてしまった。この時の彼女の気持ちを50字以内で説明しなさい。』とあるだろう。だからまずは気持ちを考えなきゃ。顔を赤らめるってことは怒っているか恥ずかしいか泣きそうになっているかでしょ。今回の場合は先輩からのアドバイスを律子は取り違えて自分が責められたと思ってしまった。だからこの時の律子の気持ちは恥ずかしいがよさそうだよね。」


キーンコーン


「ピッタリ終わったね。さすが私。」

「先生なんですか?カッコつけですか?」

 女子生徒がからかい交じりで突っかかってきた。

「ピッタリだとさ、気持ちいいじゃん。だから狙って毎回やってるわけね。それじゃ終わりにしますかね。起立!」


さっきまでやる気のなかった男子生徒もやっと帰れることがわかると飛び跳ねるように起立をする。

「礼!はい、さよーなら。」

「サヨナラ!」

元気よくなだれ出る生徒たちにつられてナカムラ君も外に出ようとしていた。


「ああ、ナカムラ君はちょっと待ってね。お母さんから電話があって少し先生とお話しなきゃいけないんだ。」

「え、そうなんですか?わかりました!」

 彼なりに何かを察したのか、いやに聞き分けが良かった。おそらく大人と何度も似たような話をしてるんだろうか。

 一番先頭の長机をくるっと回し後ろの長机にくっつけ即席の対談ブースを拵え、ナカムラ君に奥側に座るように手で合図をし自分も向かい側に腰をおろした。


「さて、ナカムラ君授業はどう?なんかわかんないところはない?」

「今のところ大丈夫です。」

「ok、でもさっき見て回ったとき漢字のミスがあったから良く直しといてね。最悪試験のとき漢字が思い出せなくなったら、記述式の問題に限って、ひらがなで書いちゃっても大丈夫だから。」

「え、そうなんですか。へー初めて知りました。」

「あくまで思考力を見る問題だからね。漢字だろうがひらがなだろうがいいんだよ。」


 しにくい話をするときはこれが一番いい。敵ではないことを明確にしておくことが重要だ。

「いや、このまえお母さんから電話があって調子が悪いんだって?」

「.......そうですね。病院の先生からはテキオーショウガイって診断されました。たまに考えすぎてしまうことがあるみたいです。」

「どういうときにそうなっちゃうのか聞いてもいい?」

「はい、特に決まったタイミングはないみたいです。急にボーっとするっていうかそんな感じです。」

「なるほどね。授業の時とかはなんかしてほしいことはある?」

「うーん、先生の話は理解できてるし特にないですね。」

「そっか。」

「あ、先生いっこ聞いていいですか?先生にとって幸せって何ですか?」


 急に視覚外から球が飛んできたものだから、表には出さないものの身構えてしまった。これだから子供は怖い。彼の目が澄んだ色をしているからそれがさらに。


「そうだね。お風呂に入ってるときは幸せかな。」

「そうですか。」

 とっさに答えてはみたものの、少年の顔は不満そうだった。"幸せ"この言葉が心に刺さった。よく考えてみたら不思議な言葉だ。人によってとらえ方がかなり変わるうえ、自分が幸せであると言い切る度胸があれば例え客観的に見て貧乏であっても惨めであってもいいわけだ。

 気まずさに負けて彼の注意を分散させようと腕時計を見る。まだ15分そこらしか経っていない。時間もそうかもしれない。楽しい時間とそうでない時間とでは感じ方が違う。彼にとって今のこの時間はどのようなものなんだろうか。


「じゃあ逆にナカムラ君にとっての幸せはなに?」

「わかりません。僕はお風呂が嫌いなんで、少なくとも湯船に浸かっているときは幸せじゃないです。」

「あんまり考えすぎないほうがいい。正直、さっきの答えはてきとうだよ。つかみどころが無くてわからない......申し訳ない。」

うつむいて手のひらをじっとみる。最近幸せを感じたのはいつだろう。自分の手のひらが遠のいていく感覚がする。
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