第1話

文字数 1,975文字

ギャァーー(声にならない声)
で…でたぁ…あそこにいるぅ…

露天風呂の通路に枯葉に頭だけ突っ込みアイツはそこにいる。黒光りした胴体はしっかり確認できる。
そう、太古の昔から人間のDNAに恐怖を埋め込み続けているアイツだ。
(ごくまれに見つけてもびくともしない人種もいる。素手で捕まえることも厭わないらしい。信じられない!)
あきこは真夏の炎天下の露天風呂から、
室内の大浴場に戻るに戻れないでいた。
それは室内に続く通路の真ん中で通せんぼしているアイツのせいでもあるが理由は他にあった。
さかのぼること数分前…


あきこにとって月に2回の楽しみである大衆浴場は、職場のややこしい人間関係、妬み嫉み嫌味マウント合戦を一瞬忘れさせてくれる場所だ。
ここでは毎日通うおばちゃんのコミュニティで形成されており、
さながら会社の上司と部下、学校の部活動に匹敵する縦社会が存在する。
トップの地位に君臨するトップオブおばちゃん(ボス)は、施設館長をもってしても太刀打ちできない権力を有する。
ボスにさえ目をつけられなければ快適な時間が約束される。
ボスにしてみれば脱衣所や浴場にベタベタ貼られた注意書きの張り紙なんぞただの紙切れ。
“髪染め禁止”
“歯磨き禁止”
“洗い場の場所とり禁止”
“サウナ内会話禁止”
“サウナマットでの場所とり禁止”
もちろんあきこは張り紙のルールもきっちり守る。
ちなみにあきこが個人的に気に入っている張り紙は、
“ここは家じゃありません”
“ドライヤーは髪の毛以外に使用しないでください”
後者は張り紙を読んだあと否応なしにおばちゃんがあらぬ場所にドライヤーをあてている姿を想像してしまう。あきこはちゃんとドライヤーは頭だけに使う。
とにかく、ルールは上司(おばちゃん)が決め部下(取り巻きのおばちゃん)が従う。おばちゃん絶対主義社会。
世の中変われど大衆浴場は変わらない。
おばちゃんのおばちゃんによる聖域
(サンクチュアリ)である。
毎日足しげく浴場に通い課金し続けることでのみ得られる地位。
浴場通いは一日にしてならず。
そして不定期にボスは入れ替わる。
昼夜問わず下克上が繰り広げられる戦いに負けたものは去るのみである。
そしてあきこは抗争に本人の意思に関係なく巻き込まれてしまった。


あきこはサウナにいた。
サウナで快適に過ごすコツをあきこは習得している。サウナに入る時はまず誰にともなく軽く一礼をする。そしてあとはひたすら己の存在を消す。ボス達の指定席に座らないよう細心の注意を払って空いている場所に留まる。途中移動したりしてはいけない。目立ってはいけないのだ。ボスはゆっくりテレビの見やすい中段の奥か、真ん中あたりを好む傾向があるのであきこは奥に座りたいのをグッと我慢して毎回入口すぐに座る。入口は人の出入りがある度、外気が入りせっかく温まった体が冷やされていくため敬遠される場所だ。あえて嫌われる場所に座ることで控えめな印象を与えることに成功した。多少の不便はあるが目をつけられることなく快適にサウナも使えている。
はずだった…

「毎日暑かね〜、温泉は暑かばってん朝から昼まで畑しよっけん汗ばかくけんね〜温泉ばし入らにゃんたいね〜」
サウナに入ってからチラチラ視線は感じていたが見ないようにしていたらチラ見おばちゃんに話しかけられた。

「若い人は暑さなんか関係なかよねー?元気だもん色々ねぇ?ひゃっはっはっ」
すかさず別のおばちゃんが話に加わる。
すると、奥に鎮座していたボスがおもむろに口を開いた。
「あんた、それなんか入れとると?」
あきこの胸を指差してボスは聞く。
「は…はい?」あきこは不意をつかれた。
ボスはあきこに豊胸してるのか?と聞いているらしい。
サウナ内のおばちゃんが全員あきこの胸を見た。

…やばい…目立っている…

「し、してないです何もしてないです…」

するとすかさずボス
「韓国にわざわざみんな整形しに行くとやろ?あんたも韓国でしたんね?」
ボスはあきこの返事などまったく聞いていなかった。
「あたしゃ好かんよ、整形とか好かん!
顔や体いじってからに。死んだあとにあの世で親におごられるばい」
ボスがひときわ大きい声で言った。すると、ひとりのおばちゃんが口を開く。
「あんた羨ましかとだろー?悔しかったらあたもやってみなはったらよかたい?ん?そう思うやろ?乳のふとかお姉ちゃんも!あんたからもなんか言ってやらんね古い考え押し付けられてからにね!なんでも自分のよかごつしてからに、ねぇ?」目のあたりが不自然に釣り上がっているおばちゃんだった。あきこはリフトアップ手術をした高齢女性特有の上がり方だなと思った。それを皮切りにひとりまたひとり同調者が増えていきヒートアップしている。急に抗争勃発である。

…誰もあたしの話聞いてねぇ
もうなんなの…

あきこはおもむろに立ち上がり露天風呂へと逃げ込んだのだった。







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