第1話
文字数 1,970文字
【三題噺 念力 ペンギン 残業】
福祉課は市民生活の福祉に関する業務を行う部署である。
人事や財政のような花形部署とは違って、高齢者や障害のある人、生活が困窮している人に対しての支援や、支援策の提供を行う「縁の下の力持ち」的な部署である。
大学で地域共生について学んだ黒木ひろしにとっては、地域住民と蜜に接する福祉課は天職とも言える職場だった。
黒木は寝食を忘れて業務に励んだ。
木枯らし一号の発表のあった翌日だった。
住民から、公園にホームレスが居住しているとの通報があった。
黒木が様子を見に行くと、池の周り、ブランコや滑り台周辺に母子連れがいるだけで、ホームレスらしき人物はいなかった。
「昼間はお出かけ。夜でないと会えないと思います」
棲家のようなものができていないかと、公園を見回る黒木に声をかける者がいた。
見ると、犬を連れた初老の婦人と目が合った。
「お電話くれた方ですか」
黒木の問いに婦人は、ハイと言うように、首を縦に振った。
「不快に思って通報したのではありません。これから寒くなりますので、保護されてはと思いまして」
婦人の凛とした物言いに、しかるべき地位にいた人かもしれないと黒木は推察した。
極寒の季節が近づいている。黒木も同感だった。
課に戻った黒木は、労働組合に36協定(時間外・休日労働に関する協定)を結んでいることを確認してから、上司に残業を願い出た。
東の空にオリオン座を見る時間帯、公園に入った黒木は、遠目に、池のほとりの人影を捉えた。
「こんばんわ」
黒木は人影に近づく前に、友好的な響きで声をかけた。
「こんな夜更けに公園に来るのには、何か事情がありそうですね」
人影も黒木を認めていたのか、親しみやす声遣いで話しかけてきた。
「人違いかな」
対面して黒木は思った。ファッションモデルと言っても疑わない容姿のいい青年で、ホームレスのイメージからは程遠かったからだった。
「家に帰れないわけでも? いや、それは僕か」
青年は頭を掻きながら、黒木に握手を求めてきた。
「僕、ジョニー・チップと申します。よろしく」
まさか、本名じゃあるまい。黒木は青年の握手に応じながら、面白い奴だなと思った。
「わたし、市役所の者です。ホームレスが住んでいるとの通報があったものですから確認に来たのですが、空振りだったようです」
青年は黒木の説明を聞き流すと、夜空を見上げて言った。
「ここは、星が少ないですね」
黒木にとっては通常の夜空で、星が少ないという実感は湧かなかった。
「家に帰れないのは、僕かって言ってましたけど」
黒木のプロ意識は、ちょっとした語尾も見逃していなかった。
「そう。家庭からもコミュニティからも、追い出されちゃった」
悲劇を口にしながら楽しそうにしている青年を見て、黒木は不思議に思った。
青年の告白が事実なら、人別帳から消されたような悲惨な状態である。
やはり、ホームレスはこの青年だったのか。
それなのにこの青年は、星が少ないなどと呑気なことを言っている。
自分だったら、赤提灯でやけ酒でもあおっているのに違いない。
公園には仕事で来ているのだから、ここは深く立ち入るべきだと黒木は考えた。
「詳しい事情、聞かせていただけますか。何かお力になれるかもしれません」
言葉は職業意識から出たのではなく、黒木の親身である。
青年が荒唐無稽と思われても仕方のない事実を吐露したのは、黒木を信じてのことだった。
「僕、ペンギンだったのです。ご存じかどうか知りませんが、ペンギンの世界は一夫一婦制で一生添い遂げるのがあたりまえで、離婚はめったにないのです。ですが、僕、浮気しちゃって、放り出されてしまいました。ペンギン界の長に言われたのです。なあお前、ペンギンいうものは絆の強いものなんですえ。極寒で子育てもするんですえ、甘いところやおまへんのや。ほなら、出てゆけえって」
黒木は帰路、青年の話を、信じるか信じないかそれが問題だ、と思いを巡らしていた。
ペンギン界を追い出さて途方に暮れた青年は、男女関係の乱れに鷹揚な人間界に行くことを考えたという。
どうせならジョニー・デップのような雰囲気がいいなと願ったら叶ったともいう。念力である。
上司にどう報告したものか。
黒木は市役所福祉課の人間である。人間界が緩いという青年の誤解だけは解かねばと思っていた。
青年は今後の相談に窓口に顔を出すと言っていたから、その時、正してやろうと黒木は言葉を探りながら夜空を仰いだ。
満天の星空を目にした黒木は、南十字星が見られないのが残念だ、と言っていた青年の言葉が脳裏に浮かび、あいつ、ほんとうは、ペンギンに戻りたいのではとふと思った。
おわり
「
福祉課は市民生活の福祉に関する業務を行う部署である。
人事や財政のような花形部署とは違って、高齢者や障害のある人、生活が困窮している人に対しての支援や、支援策の提供を行う「縁の下の力持ち」的な部署である。
大学で地域共生について学んだ黒木ひろしにとっては、地域住民と蜜に接する福祉課は天職とも言える職場だった。
黒木は寝食を忘れて業務に励んだ。
木枯らし一号の発表のあった翌日だった。
住民から、公園にホームレスが居住しているとの通報があった。
黒木が様子を見に行くと、池の周り、ブランコや滑り台周辺に母子連れがいるだけで、ホームレスらしき人物はいなかった。
「昼間はお出かけ。夜でないと会えないと思います」
棲家のようなものができていないかと、公園を見回る黒木に声をかける者がいた。
見ると、犬を連れた初老の婦人と目が合った。
「お電話くれた方ですか」
黒木の問いに婦人は、ハイと言うように、首を縦に振った。
「不快に思って通報したのではありません。これから寒くなりますので、保護されてはと思いまして」
婦人の凛とした物言いに、しかるべき地位にいた人かもしれないと黒木は推察した。
極寒の季節が近づいている。黒木も同感だった。
課に戻った黒木は、労働組合に36協定(時間外・休日労働に関する協定)を結んでいることを確認してから、上司に残業を願い出た。
東の空にオリオン座を見る時間帯、公園に入った黒木は、遠目に、池のほとりの人影を捉えた。
「こんばんわ」
黒木は人影に近づく前に、友好的な響きで声をかけた。
「こんな夜更けに公園に来るのには、何か事情がありそうですね」
人影も黒木を認めていたのか、親しみやす声遣いで話しかけてきた。
「人違いかな」
対面して黒木は思った。ファッションモデルと言っても疑わない容姿のいい青年で、ホームレスのイメージからは程遠かったからだった。
「家に帰れないわけでも? いや、それは僕か」
青年は頭を掻きながら、黒木に握手を求めてきた。
「僕、ジョニー・チップと申します。よろしく」
まさか、本名じゃあるまい。黒木は青年の握手に応じながら、面白い奴だなと思った。
「わたし、市役所の者です。ホームレスが住んでいるとの通報があったものですから確認に来たのですが、空振りだったようです」
青年は黒木の説明を聞き流すと、夜空を見上げて言った。
「ここは、星が少ないですね」
黒木にとっては通常の夜空で、星が少ないという実感は湧かなかった。
「家に帰れないのは、僕かって言ってましたけど」
黒木のプロ意識は、ちょっとした語尾も見逃していなかった。
「そう。家庭からもコミュニティからも、追い出されちゃった」
悲劇を口にしながら楽しそうにしている青年を見て、黒木は不思議に思った。
青年の告白が事実なら、人別帳から消されたような悲惨な状態である。
やはり、ホームレスはこの青年だったのか。
それなのにこの青年は、星が少ないなどと呑気なことを言っている。
自分だったら、赤提灯でやけ酒でもあおっているのに違いない。
公園には仕事で来ているのだから、ここは深く立ち入るべきだと黒木は考えた。
「詳しい事情、聞かせていただけますか。何かお力になれるかもしれません」
言葉は職業意識から出たのではなく、黒木の親身である。
青年が荒唐無稽と思われても仕方のない事実を吐露したのは、黒木を信じてのことだった。
「僕、ペンギンだったのです。ご存じかどうか知りませんが、ペンギンの世界は一夫一婦制で一生添い遂げるのがあたりまえで、離婚はめったにないのです。ですが、僕、浮気しちゃって、放り出されてしまいました。ペンギン界の長に言われたのです。なあお前、ペンギンいうものは絆の強いものなんですえ。極寒で子育てもするんですえ、甘いところやおまへんのや。ほなら、出てゆけえって」
黒木は帰路、青年の話を、信じるか信じないかそれが問題だ、と思いを巡らしていた。
ペンギン界を追い出さて途方に暮れた青年は、男女関係の乱れに鷹揚な人間界に行くことを考えたという。
どうせならジョニー・デップのような雰囲気がいいなと願ったら叶ったともいう。念力である。
上司にどう報告したものか。
黒木は市役所福祉課の人間である。人間界が緩いという青年の誤解だけは解かねばと思っていた。
青年は今後の相談に窓口に顔を出すと言っていたから、その時、正してやろうと黒木は言葉を探りながら夜空を仰いだ。
満天の星空を目にした黒木は、南十字星が見られないのが残念だ、と言っていた青年の言葉が脳裏に浮かび、あいつ、ほんとうは、ペンギンに戻りたいのではとふと思った。
おわり
「