海の声

文字数 1,648文字

 冬の寒い空の下
 君の声が私を呼ぶ

 初めて海に来たという彼は、目を輝かせて砂浜を駆けていた。
 そんな背中を見守りながら、おいていかれるのも構わずゆっくりと歩く私を振り返った彼が、こちらに大きく手を振っている。
 マフラーのかかった口元から、声に合わせてふわふわと白い息が空へとのぼった。
「今行くよ」
 泳げるわけでもないのに彼は楽しそうだ。
 ようやく隣へ追いついた私の顔を見てニコニコと笑う彼の白い頬は、寒さのせいで赤く色づいていた。
「寒いだろう。大丈夫? 」
「うん」
 私が問えば、彼はこくりと頷いて、そっちこそと返してきた。彼は私の寒がりを知っているからだ。
 実際冬の海辺は寒い。着膨れするほどに着込んでいてもだ。
 こんなところ、私一人ならばけして来ようと考えることはなかっただろう。
 海に行きたいと言い出したのは彼だった。
 あの日テレビに映っていた、太陽に照らされて輝く海がどこのものだったのかすら見る気もなく聞き流していた私にはわからないが、少なくともここではなかっただろう。
 天気のせいでもあるだろうが、澱んだ青色の海はお世辞にも綺麗とは言えない。彼が求めている景色はこんなものではなかったはずだ。
 だというのに、彼は嬉しそうに笑っている。
 この寒さの中で。つまらない景色の中で。
「ありがとう。来てくれて」
 こうして彼に微笑まれれば簡単に報われてしまう私は何と簡単な男だろうか。
 彼がここにいれば、厚い雲に覆われた灰色の空も、澱んだ海も、何もかも美しく見える。
 彼にならば、苦手な朝に起こされ、苦手な寒さの中を連れ出されたって楽しいと感じてしまう。
「私も、来れてよかったよ。誘ってくれてありがとう」
 君のその笑顔が見られたから。なんて、自分自身のクサイ思考を理解し尽くした口で言うのは照れくさい。そんな気持ちがきっと顔にも出ているのだろう。
「あはは! 顔、赤くなってるよ」
 彼は面白そうに私を茶化して笑った。
 それがますます恥ずかしくて、私も彼に言い返す。彼と私のものでは意味が全く違うことをわかっているのにだ。
「き、君だって真っ赤になってるじゃないか! 」
 寒さで赤らむ鼻先も耳もいじらしく、寒がりの私より平気だという彼の方が見ていて心配になってしまう。
「……そろそろ帰ろう」
 風邪を引かないように、少し緩んだマフラーを直してやった。
「え、 」
 彼は私の言葉を聞いて、それから名残惜しそうに波打ち際へ目を向ける。
 言葉にせずとも、まだここにいたいのだと伝わってきた。
 一体何が面白いのだろう。どうしてそんなにここにいたいのだろう。
 彼がいなければただの灰色の空だ。薄汚れた海だ。それが彼自身の眼にはどう映っているのだろうか。
 この場に、この世界に彼に勝るものなんてない。だというのに、彼は一体何に魅かれているのだろう。

 冬の寒い空の下
 海の声が君を呼ぶ

 だめだ。
 彼の腕を引っ張り、無理に帰路へと運ぶ。
「待って! 」
「駄目だよ。これ以上いたら風邪をひいてしまう」
 彼は少し抵抗したけれど、私は聞かずに手を引いた。
「また来ればいいだろう? 今度は夏に、泳げるときにもっと綺麗な海に行こうよ」
 彼が見たかった景色は、そこにこそあるはずだ。
 こんな景色で満足していいはずない。澱んだ海より、もっと美しい海。そこに君がいればきっともっと世界は輝く。
「また一緒に行ける? 」
 私と一緒に。それが彼にとってそんなに大事なことなのだろうか。自惚れでなければいいなと思う。
 私が彼の居る世界を美しく思うように、彼も私がいるからこそ名残惜しく思ってくれているのなら、何もかもが満たされたような気持になる。
 彼が不安げに問うのが可愛そうでいじらしくて、私は力強くうなずいた。
「もちろん。だから、今日はこれで勘弁して」
 そう言って手渡すのは白い貝殻。彼が砂浜を駆けているときに偶然見つけたものだ。
「今日の思い出。だから今日は帰ろう」
「わかった」
 そう言えば、彼は大人しく頷いた。

 冬の寒い空の下
 私の声が君を呼ぶ
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