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時計の秒針が空(くう)を打つ音だけが響いている静かな部屋だった。赤や黄色、様々に色付いた紙の類を避ける気持ちも少々に歩みを進める。奥の一間は他人の侵入を許さない風だった。しかしながらこれが私の仕事である。

「H、今しかないぞ。」

朝日に迫られ鼓動が早まる。私がこんなだと言うのに、Hの動きは大変鈍鈍(のろのろ)している。動きに伴って若干の異臭を放つHを必死に引く。到着したら風呂に入れてやろう。

夜の空気に飲み込まれそうになっている車が見える。二階建のアパートの二階、共用の階段に最も近いところに位置する彼の部屋からであれば、すぐに車に乗ることができた。

後部座席には、黄ばんだ櫬衣(しんい)に、元来何であったのか分からない程の薄手の下穿き姿。あの優秀な文学少年の姿は、見兼ねる程に醜かった。

彼の寝息を聞きながら、気付くと真東の地平線は直視出来ないほどに赤くなっていた。今は急ぐ時では無い、と車を停めた。目を閉じ頬が痩け、殆ど死人の様な彼の顔の右半分にも日の目が当たっているのを確認して、気胸の彼を気遣い車を降りた。少しばかり休息した。

何を見るでもなく、ちょうど薄雪積もった地蔵のような色の車の方を、ぼんやりと見ながら煙草を染み込ませた。朧気な車内で死人は少し体を捩(よじ)った。

その刹那の幼い尊さは、まだ彼の中で生きようとしていた。貧困少女を被写体にするような罪悪感に襲われて煙草を捨てた。

また車を走らせる時、鈍い金属の塊の音に掻き消される程微かな音で、
「すまない」
と聞こえた。

私は返事をしなかった。

しかしまだ輝く事を諦めていない、彼の世界をうちに見て確信した。彼の部屋を見たあとだと、これまで物足りなかった己の部屋は自分らに大きな安堵をくれた。

「しっかりしてくれ」

もう外には人が出ていた。

「すまない」

着衣のまま彼をお湯に漬けた。彼に貸す服など用意して戻る。そこには茹でた野菜のように僅かに鮮やかさを取り戻し、しかし全身の骨が張った鬼がそこにいた。

「全て使っていい、自由にしてくれ」

今醜さに象徴される彼は、文学部に成績優秀で入学した様な人間で、文芸評論などをしていた。文芸の世界での異端児には障害が多い世界であったように思う。確かに彼の文芸における視点は明らかに独創的であったが、その世界観は不可逆的なものであった。

彼だけが観る彼の世界は、暫くして虚構になった。よく文豪等が早死であることを持ち出して、精神が弱いなどと言う人がいるが、そうでは無い。人並み以上に精神が弱いのではなく、人並みでは己を維持するのが難しいほど孤独なのである。彼もまた生きずらさを薬に頼った。苦学生であったからどうにも上手くいかなくなったそうである。

艶やかな黒髪の生え揃った彼はもうそこにはなく、湯気を纏(まと)った鬼がまた居間に現れた。

私も特段裕福ではないので、梅の粥を作ってやった。乾燥で切れた唇も慣れたもので、気にせず頬張った。まさに鬼であった。新たな同居人のせいで、無罪な私が地獄の底にいるような感覚を得て少し誇らしかった。

空がいつもより高かった夏の日。初めて彼を自宅に置いて大学へ来た。というのも彼は飯も作れないほど未完成な人間だったからだ。

一通りのことはできるようになったと、彼が仰るので少し手放してみた。彼の世話を買って出たからには、ある種の母性のようなものを備えて接していた。

昼に大学から帰ると、彼はあの日のような体勢で布団を身に巻いて書を読んでいた。その姿は太陽の白さを纏い、地獄の番人は日々人間らしさを取り戻していくようであった。

あの時滑稽な程に醜さに象徴され、独りではまともに動こうとしなかった彼は、私の帰宅を見るなりその処から出るに、空になった皿を小走りで流し台に置いた。ちょうど頼まれごとをすっかり忘れ、帰ってきた親の顔を見て思い出す餓鬼のように。

海の底程に暗く全てを飲み込みそうな曇天(どんてん)の日の夜、彼は共用のごみ捨て場の前で倒れ、服の上から痩せた体が浮きでて分かるほど、雨に打たれ濡れていた。今は既に止んでいるので、恐らく長い間この姿であっただろう。

節や頬骨が擦れていて、遂に借金取りに見つかったのかと心配したが、吐息とその酒の匂いがその心配を解消させた。薬が酒に変わっただけだか彼には逃げることしか選べないと悟り、考えるのをやめた。何も言わずに土嚢のような彼を引き揚げ寝かせた。

私も気付くと眠っていた。時計の秒針が空を打つ音だけが響いていた。以前には彼を取り囲んでいた白が、今度は私を包んでいて暖かかった。少しの間深い呼吸を自覚し、頭に滞っていた血液が全身を巡るのを感じた。次第に覚醒して、離れた寝床を見ると、鬼が形が型取られていた。書も見当たらなかった。

私は鬼の抜け殻を暫く眺めていた。
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