第1話
文字数 1,999文字
酒は憂いを払う玉箒 と言うが、現実に酒を飲めない私でもこれには同意する。
一升瓶から小さな酒器になみなみと注がれる透明な液体。横に座る黒髪の女性がそれをすいすいと流し込んでいく様は小気味よく。私自身の気持ちも晴れていく気がする。
彼女と出会ったのは去年の今頃、桜の散るこの公園だった。今と同じように一升瓶を片手に真夜中の花見酒に興じていた彼女が、私に声をかけたのが最初だ。それ以来興味を持った私は、毎夜彼女の一人酒に付き合う事を続けている。
――彼女は不思議な人だ。
曰く『酒を飲んでいる時だけ霊感がある』と言うのだ。しかも、飲めば飲むほどはっきりとこの世のものでないモノが見え、近くにいる人にも影響すると。
たいていの人間はそれを聞いて笑い飛ばす。酔っぱらって見間違いでもしているのだろう、と。しかし彼女は怒るでもなく、凛とした態度で言うのだ。『私と酒を飲めばわかる、一緒に酒を飲もう』と。
大真面目に言い放つ彼女に気圧されて、ほとんどの人は退散していく。
実際に飲むところまで来た輩も、本当に『見て』しまうと逃げ出すのがお決まりの流れ。一緒に酒を飲むことのできない私は、横からそういう手合いを冷めた目で見送るのがいつものことだった。
公園の端。私たちはベンチに座って桜の木を見上げていた。満開を過ぎて、散る花弁が風に舞う。
はじめて会った時に、桜の木の下には死体が云々という話をしたことを思い出し、木の根辺りを指すと呆れた顔をされる。
「耳にタコができるまで聞いた話より、さっき逃げてった奴の顔の方が面白かった」
彼女は眉間にしわを寄せる。話を聞いてもらえなかった私も眉間にしわを寄せた。
先程までここにはもう一人、一緒に酒を飲んでみたいという男がいた。しかし本当に『見て』しまうと、見苦しく狼狽えて、彼女を化け物扱いした挙句に私まで罵倒しながら逃げて行った。
本当に失礼だ。確かに少し睨みはしたけど、私も容姿には自信がある方なのに。
とはいえ、それでも彼女と並ぶと見劣りがするのも確かだ。
隣で彼女が一升瓶から猪口に手酌する姿をちらりと盗み見る。
肩にかかる髪は烏の濡れ羽色。透き通るような白い肌は、酔いからか、見上げる桜の色を頬にひいたよう。見惚れるその美しさには、端から勝てると思ってはいない。
そんな私の羨望の眼差しもどこ吹く風。本人はくい、と一口煽ると妖艶 に濡れた唇から楽しそうに言葉を零す。
「ほら、見てみな。向かいの神社、鳥居の上に大きな
しっとりと落ち着いたその声は、柔らかく蠱惑的 なのに、不安を掻き立てるように脳を震わす。
反応に困って黙る私に、口の端を僅かに上げながら気を付けなよ、と続ける。傍からは酔っぱらいの奇妙な独り言に見えることだろう。
ふと、なぜお酒を飲むと見えるのだろうかと彼女に問う。すると少し考える素振りを見せてから、分からない、と答えて微笑む。
「僧侶は戒律を破って酒を飲むとき『般若湯 』と呼んだらしい、知恵の湧き出る飲み物だとね」
そこまで言うとこちらを見る。潤んだ黒曜石の瞳がまっすぐに私の顔を捉える。
「それに、御神酒 もあるしね。神事に酒は必要不可欠だ」
猪口になみなみと透き通った日本酒を注ぐ。
「酒は特殊な何かを授け、人ならざる者と関わるためのものなのかもしれない」
そう言ってとろりと細められた目の奥には、仄暗い愉悦と、少しの。
「君だって飲んでいる私の方がいいだろう?」
ほら、と先輩は猪口を差し出す。小さな水面には白い月と薄い桃色の花弁が、戯れるかのように揺れる。
恐る恐る伸ばした私の手は、触れる瞬間にすり抜けていく。
そのまま月と桜は彼女の口に消えていった。白い喉を鳴らして、彼女は言う。
「私も、飲んでいる時に見る君が好きだよ」
揶揄 うような語調とは裏腹に、その表情は優しい。私も、そうやって平気で恥ずかしい事を言うこの人が好きだ。
それが、酔っている時だけだとしても。
「帰って家で飲み直すか」
一升瓶を抱えて立ち上がる様子を傍で見守る。彼女はずっと同じ世界を見える人を探している。それは孤独からか、それとも単なる好奇心か。
でも、私は彼女以外は要らない。
私と彼女の間に横たわる大きな隔たり。酒はそれを曖昧にするだけで、決して取り払う事はできない。
彼女の酔いが醒めればこの逢瀬 は夢のように消えて、交わした言葉もぼんやりと薄れていってしまう。そして彼女は私のいない昼の世界へ戻っていく。
私を見てくれるのは彼女だけなのに。彼女にとっては数ある興味の対象でしかない。そう思うと、熱くどろどろとした想いが内側から喉を、臓腑 を焼くかのようだ。
いつか、私たちが同じモノとなる日が来たとしたら。その時は同じ酒を酌 み交わせるのだろうか。
淡い期待を持ちながら毎日私は夜を待つ。美しい彼女の生を妬み、無為な死を過ごしながら。
その先に、この世のものでない美酒を味わえると信じて。
<了>
一升瓶から小さな酒器になみなみと注がれる透明な液体。横に座る黒髪の女性がそれをすいすいと流し込んでいく様は小気味よく。私自身の気持ちも晴れていく気がする。
彼女と出会ったのは去年の今頃、桜の散るこの公園だった。今と同じように一升瓶を片手に真夜中の花見酒に興じていた彼女が、私に声をかけたのが最初だ。それ以来興味を持った私は、毎夜彼女の一人酒に付き合う事を続けている。
――彼女は不思議な人だ。
曰く『酒を飲んでいる時だけ霊感がある』と言うのだ。しかも、飲めば飲むほどはっきりとこの世のものでないモノが見え、近くにいる人にも影響すると。
たいていの人間はそれを聞いて笑い飛ばす。酔っぱらって見間違いでもしているのだろう、と。しかし彼女は怒るでもなく、凛とした態度で言うのだ。『私と酒を飲めばわかる、一緒に酒を飲もう』と。
大真面目に言い放つ彼女に気圧されて、ほとんどの人は退散していく。
実際に飲むところまで来た輩も、本当に『見て』しまうと逃げ出すのがお決まりの流れ。一緒に酒を飲むことのできない私は、横からそういう手合いを冷めた目で見送るのがいつものことだった。
公園の端。私たちはベンチに座って桜の木を見上げていた。満開を過ぎて、散る花弁が風に舞う。
はじめて会った時に、桜の木の下には死体が云々という話をしたことを思い出し、木の根辺りを指すと呆れた顔をされる。
「耳にタコができるまで聞いた話より、さっき逃げてった奴の顔の方が面白かった」
彼女は眉間にしわを寄せる。話を聞いてもらえなかった私も眉間にしわを寄せた。
先程までここにはもう一人、一緒に酒を飲んでみたいという男がいた。しかし本当に『見て』しまうと、見苦しく狼狽えて、彼女を化け物扱いした挙句に私まで罵倒しながら逃げて行った。
本当に失礼だ。確かに少し睨みはしたけど、私も容姿には自信がある方なのに。
とはいえ、それでも彼女と並ぶと見劣りがするのも確かだ。
隣で彼女が一升瓶から猪口に手酌する姿をちらりと盗み見る。
肩にかかる髪は烏の濡れ羽色。透き通るような白い肌は、酔いからか、見上げる桜の色を頬にひいたよう。見惚れるその美しさには、端から勝てると思ってはいない。
そんな私の羨望の眼差しもどこ吹く風。本人はくい、と一口煽ると
「ほら、見てみな。向かいの神社、鳥居の上に大きな
おとろしい
顔が不信心者がいないかと探している」しっとりと落ち着いたその声は、柔らかく
反応に困って黙る私に、口の端を僅かに上げながら気を付けなよ、と続ける。傍からは酔っぱらいの奇妙な独り言に見えることだろう。
ふと、なぜお酒を飲むと見えるのだろうかと彼女に問う。すると少し考える素振りを見せてから、分からない、と答えて微笑む。
「僧侶は戒律を破って酒を飲むとき『
そこまで言うとこちらを見る。潤んだ黒曜石の瞳がまっすぐに私の顔を捉える。
「それに、
猪口になみなみと透き通った日本酒を注ぐ。
「酒は特殊な何かを授け、人ならざる者と関わるためのものなのかもしれない」
そう言ってとろりと細められた目の奥には、仄暗い愉悦と、少しの。
「君だって飲んでいる私の方がいいだろう?」
ほら、と先輩は猪口を差し出す。小さな水面には白い月と薄い桃色の花弁が、戯れるかのように揺れる。
恐る恐る伸ばした私の手は、触れる瞬間にすり抜けていく。
そのまま月と桜は彼女の口に消えていった。白い喉を鳴らして、彼女は言う。
「私も、飲んでいる時に見る君が好きだよ」
それが、酔っている時だけだとしても。
「帰って家で飲み直すか」
一升瓶を抱えて立ち上がる様子を傍で見守る。彼女はずっと同じ世界を見える人を探している。それは孤独からか、それとも単なる好奇心か。
でも、私は彼女以外は要らない。
私と彼女の間に横たわる大きな隔たり。酒はそれを曖昧にするだけで、決して取り払う事はできない。
彼女の酔いが醒めればこの
私を見てくれるのは彼女だけなのに。彼女にとっては数ある興味の対象でしかない。そう思うと、熱くどろどろとした想いが内側から喉を、
いつか、私たちが同じモノとなる日が来たとしたら。その時は同じ酒を
淡い期待を持ちながら毎日私は夜を待つ。美しい彼女の生を妬み、無為な死を過ごしながら。
その先に、この世のものでない美酒を味わえると信じて。
<了>