一話完結

文字数 1,999文字

 入り口のドアが朽ちた物置小屋に置かれているビンに触れると、ホコリが指を覆った。
 薄暗くて汚れた小屋に新しい風が吹き抜けて、その涼しさがこのビンを守ってきたのかもしれない。
 ビンを持ち上げたら、小石のような小さな粒がぽろぽろと落ちた。外に持ち出したそのビンの中に入っているのは、茶色く変色した梅と黄色い透明な酒だった。置物小屋の隣に植えられた梅の木から取られて作られた、おばあちゃんの梅の酒。眩しい日差しが私を照らした。その眩しさが、子どもの夏を思い出してくれた。
 夏休みにいつも訪れた遠いおばあちゃんの家は冒険みたいで、わたしはいつもかくれんぼをするように家中をまわった。今にも折れてしまいそうな古びた木の柱や、風鈴の音、破れた障子に、ヒビが入った窓ガラス。そのどれもが私には輝いてみえた。その中でも物置小屋は特別だった。ホコリまみれの部屋の中に、足場もないほど大量の物が散乱していて、小さな窓ガラスから通る太陽の光がそれらを神秘深く照らしていた。置かれている物を手に取って、ぶんぶんと振りまわしたり、手に取って眺め続けたり、その物置小屋はわたしのすべてを新しく教えてくれた。水晶を割ったとき、お母さんとお父さんはカンカンに起こったけれど、おばあちゃんだけは微笑みながらわたしの手を取って、けがはないかいと優しく聞いて、穏やかな口調で話してくれた。
 今日はこんなことがあったよって話しかけるときも、気まぐれに抱きつくときも、おばあちゃんはいつも笑顔を絶やさないで、優しい瞳で私を見つめてくれた。そんなおばあちゃんが、一回だけ鋭い声をわたしに向けたことがあった。物置小屋のドアを入ってすぐ横に置いてあった、あのビンを開けたとき、それはダメって、ピリピリと空気が変わっていく気配を肌で感じるほどの大きな声だった。わたしはビクッて体を震わせて、ビンを隠すように移動させた。それからおばあちゃんの方を向いて、何事もなかったかのように振舞おうとした。おばあちゃんの見開いた目が視界に入った。すぐに汗が顔に垂れて、腕もプルプル震えていた。あんな顔、あの時の一回だけだった。それでも強烈にわたしの思い出に残っている。
 よろめくように急ぎ足でわたしの元まで駆け寄って、わたしが手にしていたビンの蓋を奪った。
「この中に入っているものを口にしてないよね」
 早口にまくし立てられ、わたしはフルフルと首を横に振った。数秒間、わたしをジッと見つめていたが、やがて息を漏らし、いつもの柔和な顔に戻った。
「よかったよ。これはね、まだみっちゃんは飲んじゃいけないものなの。ごめんね。怖かったよね」
 わたしは涙で瞳が潤んでいた。おばあちゃんは慌てるようにわたしの髪の毛を何度も撫でてくれた。
「いつか、大人になったら飲みにいらっしゃい。あたしも、いっしょに飲むのを楽しみに待ってるから」
「…ホント?」
「うん、本当だよ。約束」
 差し出されたおばあちゃんの薬指はわたしと違って皴まみれだった。おずおずとわたしも薬指を出した。
 ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指きった。
 一緒になって歌った。
 わたしは今年、成人した。
 おばあちゃんは去年、亡くなった。

 力を入れても蓋が開くことはなかった。ビンは固く閉ざされており、わたしの力ではピクリとも動かなかった。三度、四度、指が真っ赤になりながら、何度も開けようと力を入れると、ガリッと錆が取れていくような音とともに、するすると蓋が回った。
 梅の甘い香りが辺りを覆った。わたしはまた蓋を軽くのせて、ビンを持って、おばあちゃんの家に入った。
 おばあちゃんの玄関は不気味なくらいに静かだった。歩くたびに漂っているホコリが舞い、ぎぃぎぃと床が折れそうな音を立てる。居間に着くと、テーブルの上にコップが二つ置いてあった。いつもおばあちゃんが食事に使っている場所と、いつもわたしが使っていた場所。テーブルはホコリまみれで、薄い灰色の膜のようなもので覆われていた。時計はカチカチと音を立てていたが、差している時刻は狂っていた。おじいちゃんの遺影はパタリと倒れている。コップだけは光を透き通るほど綺麗だった。
 わたしはビンを持ったまま、その二つのコップを見つめた。
 テーブルからコロンと床に落ちて転がる音がした。金魚のような赤い形が浮かんでいるビー玉だった。わたしはテーブルに梅酒のビンを置いて、そのビー玉を手に取った。すぐに思いだした。わたしがあげるっておばあちゃんに渡したものだ。まだ持っていたのか。おばあちゃんは、まだそんなものを持ち続けていたのか。
 わたしはその時、やりきれない寂しさが込みあげてきた。少し汚れたビー玉を服で拭いて、カランとおばあちゃんのコップに入れた。それからビンの蓋を開けて、なみなみと二つのコップに梅酒を注いだ。
 乾杯
 コップをぶつけると、ビー玉が澄んだ音を立てた。
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