第1話

文字数 2,000文字

 目覚まし時計が鳴った。いつもと何も変わらない朝だ。この音で、昨日と今日の私は瞬時に握手する。私は眠くて起きられないという経験がなかった。小さい頃から毎朝、目覚まし時計の音によって今日の世界がすぐ開幕した。
 足下を見ると、いつもの通りヒルムが寝ている。彼は私が生まれた時から一緒にいる。でも、おかしなことに彼は私と入れ替わるように目覚まし時計が鳴ると寝るらしい。私にはわからないけど、両親からそう聞いた。ずっとそうだから私は朝から夕方まで、ヒルムが寝ているところしか見たことがない。夕方になると起きてくるので少しだけ一緒に過ごせる。もう十五年もそれを繰り返しているから不思議な猫だ。でもちょっと寂しい。
「ヒルム、行ってくるよ」
 私は朝食を済ませ、爆睡中のヒルムの頭を撫でて、それから、明日のバレンタインに渡す予定のチョコを忘れないように机の上に置いて家を出た。ヒルムという名は、きっと昼に夢をみているだろうからという理由で両親が名付けたものだ。
 ところが、私は生まれてから夢を見た記憶というか、感覚が無い。夢というものを経験したことがないのだ。いや、経験していたのかもしれないが、少なくとも一つも覚えていない。だから夢がどんなものなのか、テレビのように画面を見ている感じなのかとか、どんな経験をするのかとか、想像しても友達と話してもちっともわからなかった。
 その日も何ということもなく、学校が終わり家路についた。
「ただいま」
「あ、沙羅・・・」
 出迎えた母は、目を真っ赤にしていた。尋常ではないことを私は察した。
「ヒルムがね・・・死んじゃったの」母は優しく笑顔を作ろうとしながらも目から大粒の涙が溢れていた。
 私が走って居間に入ると、そこにはふわふわの小さいベッドに寝かされた動かないヒルムがいた。夢を見ているようではなかった。私は蹲り、大声で泣いた。母の手が背中をさすっていたことに気付いたのはだいぶ後のことだった。
 気が付くと私は白い光に包まれていた。
「あれ、ヒルムだ。起きているじゃない。何で朝なのに。朝だよね」
「ああ、沙羅。やっと話せるな」
「あ、そうか、あれ?何で猫なのに喋れるの?」
「それが夢のいいところ」
「え、これが夢なの?わあ、初めてだ。でもヒルム、死んじゃったのかと思った」
「うん、死んだ。ちょっと急ぐ必要があったからな」
「何それ?」
「教えてやろう。君はなぜか、生まれた時から鼠の悪夢に支配されそうだったんだ。だから僕の役割は夜、夢に入り込んでそれを阻止すること。毎日悪夢を消していたんだ。だから夢を見なかったんだよ」
「えええ?そうだったの?でも何でいい夢も見なかったの?」
「そう都合よくはできないんだよ。大変なんだから」
「そんな大変だったんだ。戦っていたのね?」
「いや、別に戦うほどではないんだけど、悪い夢を意識に上がらないようにするっていうか、説明は難しい」
「そう、でもなんだか、ありがと。でも何で死んじゃったの?」
「ちょっと悪夢が優勢になってきて、僕は年で少し弱ってきていた。鼠は厄介だ。噂では耳をかじったりするらしいしな。経験はしていないが。生きて意識が弱ったままでは少々対処が難しくてね、それには自分が強い状態で死んで夢に入り込む必要があったってとこかな。そう、そのためにチョコを拝借したよ」
「えええええ?チョコ食べたの?猫はチョコ食べたらだめなんだよ。それにあれはあげる予定の人がいたのに・・・」
「知っているよ。死ぬために食べたの。それにあいつは大したやつではない」
「何でそんなことわかるのよ。自殺する猫なんて聞いたことないし・・・それになんで猫がそんなことまでするの?」
「ま、仕事だ。猫の決まりってもんがあるんだ。猫戒っていうんだが。カイネコではないぞ。詳しくは知らないが鼠の悪夢には猫が対処するってことなんだ。いいだろう、悪夢は消えたし、話もできたし。もう大丈夫だ。僕がいなくても」
「なにその義務でやった的な、事務的な感じ。それにまたいなくなるなんて。やだよ。まだ話したいよ・・」
「泣くな。まあ、また話はできるよ。もう夢も見ることができるだろうしね。じゃあな。あ、でもチョコってうまいな。一生に一回しか食べられないけど」
 目覚まし時計が鳴った。私は目を覚ました。朝なのに眠く感じた。ヒルムはやっぱりいなかった。でもそれからの私は毎晩夢を見た。楽しい夢だった。時々ヒルムも出てきた。ヒルムは生意気で喧嘩することも多かったけど、楽しかった。不思議なのは、あのチョコが箱ごと消えていたことだ。箱は食べられるサイズではないから本当にヒルムがチョコを食べたのかはわからない。母も知らないと言っていた。
 十年後、私がチョコを渡す予定だった同級生が逮捕されたというニュースが流れて、同級生の間では、少しざわつくこととなった。ヒルムは未来を知っていたのか?今度夢で逢ったら聞いてみよう。
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