第1話

文字数 5,998文字

「まーくん、おはよう!」
 ベッドから起き上がると、自分の部屋に掛けておいたマスクが乾いているか確認する。私のモーニングルーティンの始まりだ。手に取った生地を頬に寄せると、ほんのりとお日さまの匂いが漂ってくる。今日も良い天気なんだとマスクが私に知らせてくれるのだ。

「アラームセットし忘れちゃった。今日も朝ごはん食べ切れないかも」
 私は洗濯機の使い方は分からないし、自分の服すらまともに干したことはない。だけど、この一枚のマスクは私にとって特別な存在だ。
 自分で洗ったマスクはシワひとつ見つからずふんわりと仕上がっている。毎日自分の手で丁寧にすすいであげることで、少しずつ私の肌に馴染んできている気がする。
 このマスクにつけた名前は、私の愛情の印だ。

 まーくんと朝の時間を過ごした後、お母さんが用意してくれた朝ごはんを少し残して身支度を済ませる。今月から通学路が遠くなって、朝が苦手な私は追い打ちをかけられていた。鏡の前に立って私とまーくんの姿をじっくりと眺めたら準備は完了だ。

「いってらっしゃい、気を付けてね夏希」
「いってきます、お母さんもいってらっしゃい」
 お母さんに見送られて私は自宅を出発した。

 今年進学した中学校はたとえ同級生でも知らない顔が多い。新しいクラスに慣れない私は、毎日自分の席の場所を確認してから恐る恐る教室に入る。
 自分の椅子に座ると思わず安堵のため息が漏れる。自分の発した空気のはずなのに、まーくんがここにいると私は優しく温かい気持ちになれるのだ。別にまーくんは私を特別な誰かにしてくれるわけじゃない。むしろ私のままに居させてくれる存在だ。時計仕掛けのように私の生活をうまく回してくれるペースメーカーとも言える。傍から見る私とまーくんはやっぱり友達なんだろうか。

 昼休みに明美と会話をした。明美は小学校からの数少ない友達で今は隣のクラスにいる。
「なっちゃんのクラスはどう? うちのクラスは騒がしくてさ」
「まずまずだよ」
「なんかなっちゃんのこと、クラスで話題になってるみたいだよ」
「えっどういう意味?」
「マスクを付けた隠れ美少女、的な?」
「それ、喜んでいい話なの?」
「うちのクラスにまで知れ渡ってるんだから、すごいことだよ! おめでとう!」
 私はこの話の一体何がすごいのかよく理解できない。だけど、明美が笑顔で喜ぶ様子に私もつい楽しい気持ちになって、良かったんだなあと飲み込むことにした。

 明美と私の性格はまるで違う。私が内側にいるとしたら明美はいつも外側にいる。もっと分かりやすい例えはないだろうか。
 明美はマスク姿の私をよく似合っているねと言ってくれる。恥ずかしい思いもあるけど、私とまーくんの関係を指して“似合っている”と言ってくれているみたいでやっぱり嬉しい。私たちは太陽と月なのかもしれない。太陽の明美は私を褒めてくれるけど、明美がいてはじめて私は月になれるのだ。


 下校すると暗闇の室内がいつものように私を迎えてくれた。お母さんが仕事を終えるのは六時頃。私はお母さんが帰宅するまでまーくんと二人だけの時間を楽しむ。
 お母さんが私との時間を優先しないわけではない。きっとこれがちょうどいい距離感なんだ。
 まだ幼稚園に通っていた頃、お母さんと公園に出かけると私は木々や花をよく眺めていた。お母さんはツツジの蜜を吸ってみせたり押し花を作ろうと意気込んでいたけど私は全く興味が持てなかった。草花を一、二時間かけてじっくり観察することが何より好きだった。観察することも考えることも、外側から見てみると何もしていない同然だ。きっとお母さんはどのようにしたら娘と何かを共有できるのか苦悩していただろう。

 私の脳内でシャッターを切り、これが私なんだとお母さんに見せたら分かってもらえるのだろうか。脳を写し取った写真はテレビで見たことがあるけれど、決して美しいものではない。脳の作りは人によって多少違いはあるらしいけれど、私も他の人の写真と比べてみたところで違いなんてたぶん見つけられない。やっぱり専門の医者に診てもらわないと違いは分からないだろう。それを考えるとお母さんとの距離をいつも以上に感じてしまい、淋しい気持ちになる。私は鼓動の高鳴りに気付いて、口元のまーくんを掴んだ。

 掛け時計を眺めるとすっかり六時を回っている。耳にかけられているゴムを片方ずつ外していく。布一枚の編み目は目でよく分かるほど大きい。単体としてはフィルターの機能は当然果たすことはできない。これが何層にも積み上げられることで、外の世界の空気を私のために浄化してくれる。
「まーくん、今日もありがとね。きちんと洗ってあげるから」
 まーくんが言葉を紡いでくれることはない。だけど、私とまーくんの間に留まっていた空気は今や部屋全体を満たしている。この空間に包まれてまーくんをお手入れしている時間が好きなんだ。

「まーくんも聞いてた? 明美の話。すごく楽しそうな顔してたよね」
 不純物が全て取り除かれて温もりだけが漂う世界。外側との扉が開かれたのはその時だった。

「いるなら返事してよ。夏希…?」
 開放された扉を方へ目を移すと、そこにいたのはお母さんだ。私が振り向いたことにお母さんはびくりと怯えた様子を浮かべた。八の字に歪んだ眉は私が思い浮かべた先生の表情と一致している。
「ずっと見ていたの?」
 外側の冷たい空気が廊下から部屋の中へと流れ込んできている。
「夏希ごめんね、声が聞こえたから」
「びっくりしたよね。これ、まーくんって名前なんだ」
 私は手元のまーくんを差し出してお母さんに紹介した。
「そうなんだ…いつも使っているもんね」
 お母さんの返答は私がシミュレーションした先生と似ている。冷ややかな目ではないけど、どことなく他人行儀でお正月に親戚の人達と会う時の私みたいだ。
 私は今しかないと思い、まーくんを通して脳内の写真をお母さんにシェアしようと試みた。

「まーくんのこと知っているのはお母さんで三人目だよ。一人目は私で、二人目が明美。このことは三人だけの秘密だよ」
「わかった。お母さんは口が堅いから誰にも言わないよ」
 理解してくれたのかは分からないけど、お母さんはそっと手元に写真を収めた。これ以上の言葉は必要ない。お母さんが受け取ってくれたという事実に私は笑みを浮かべた。

「ほんとに? 扉が開いて怖くなったけど、お母さんだったから良かった!」
「これから晩ご飯の準備するから待っててね。今日はトマト煮込みよ」
「やったあ」
 お母さんはまーくんをどう受け止めているかは分からない。友達やペットなのだろうか。彼氏だとしたら少々厄介だ。
 ともあれ、私たちはまーくんを迎えた新しい生活を送ることになるのだ。明美にも今すぐ知らせてあげたい。


 五月に入って花粉のピークが過ぎ去ると、いよいよクラスの中でマスク姿は私一人となった。明美から聞いた噂話は少しばかり私を動揺させたけど、運の良かったことにこれまで私が教室で注目を浴びる機会には恵まれなかった。しかし、三十人クラスで白一点のマスク姿に担任の先生が心配し出すのは時間の問題だろう。
  私がこのマスクに名前を付けていることを先生が知ったとしたら、一体どんな表情を浮かべるのだろう。眉を八の字にしながら「何でも良いから相談して」と言ってくるのかもしれない。それとも微笑を浮かべて受け入れようとでもしてくれるだろうか。私はその場面を脳内でシミュレーションするのが面白くて堪らない。
 まーくんにとって四人目になってくれる人はこのクラスに現れるだろうか。決して能動的に探しているわけじゃない。考え出すと止まらないのだ。

「まだマスク付けてるの? そろそろ外したらどう?」
 隣の席の男子が話しかけてきた。それに呼応するかのように周りの男子達も集まる。
「何夏希に話しかけてんの」
「おっ、ついにマスクを外すのか?」
「いやあいつの素顔を見れるのは彼氏だけなんだよ」
「ちょっ待て、彼氏いるの?」
 私の目の前で一つのコミュニティが自動的に形成されていく。私は何故だか分からないうちにその場の議題として炙り出されている。五人の男子達による憶測はもう一つの私を作り上げて、指名手配のポスターのように高々とクラスに貼り出された。

「一目でいいから見せて!」
「マスクぐらいいいでしょ」
 クラスには男子達を傍観している生徒が十人ぐらいいる。こちらを見ているようだけど、きっと頭の中はSNSのやり取りで一杯なのだろう。今ツイッターを開けてみたら私の名前がハッシュタグとなり軽い炎上が起きているかもしれない。私の名前がオンライン上で出回っていることを想像すると、目の前の事象にも興味が湧いてくる。私のまーくんが汚されたのはその時だ。

 集団の一人がまーくんに手を触れた。嫌がった私は顔を遠ざけると、まーくんのゴムが彼の指に引っ掛かった。
「触らないで!」
 私はまーくんを握り締め、彼の掌中から救出を図った。まーくんの生地は私の右手に、ゴムは男子の左手の中指。双方から力が加わると今までに見たことのない形を見せた。その時、プツンと一瞬の破裂音が響いた。
 “痛い!”と叫んだまーくんの声。勢いよく弾んだまーくんは私の手をひらりとすり抜けて床に叩き落された。教室の片隅で埃にまみれた私のまーくん。私は急いで拾い上げたけど、その体には致命傷を負っていて見るに堪えられない姿だ。

「ご、ごめん。そんなつもりはなくて…」
「お前…夏希に何すんだよ」
 小さな抗議も虚しく、男子達はお互いに顔を見合わせて目の前の事態に動揺を隠せない。私を炙り出した時の好奇の目は、今や光を失って酷く霞んでいる。

「あんた達にまーくんの何が分かるの?」
 私は自分の素顔を見られることが嫌いな訳じゃない。一時の好奇心だけで私のまーくんを弄ばれることが嫌いなんだ。私のまーくんの何が分かるの? あんたには分からないでしょうね。私が睨んだ先には男子達。大きく聳え立つように見えていた集団は、私から発せられた熱によって弱々しく縮んでいた。眺めるだけで私も惨めな気持ちになりそうなくらい痛々しい様子だ。
 堅く握り締めた右手には片側のゴムを垂れ流したまーくん。まーくんはもう私を包み込んではくれない。


「ただいま…」
「おかえりなさい。あれ、どうしたの? まーくんは?」
 お母さんはマスクを外した状態で帰ってきた私を見て驚いた様子だ。
「なんでもないよ」
 右手に握ったまーくんがお母さんに見つからないよう、精一杯の握力をかけ続けた。

「なにかあったんでしょう?」
 登下校時はいつもまーくんと一緒だったのだから素顔の私を見て勘付かれたのは分かりきっている。だけど、今の私にはお母さんに返す言葉を探し出す気力さえも湧いてこない。
「…」

 私は黙ったまま自室へと逃げて行った。掌を開けて自分でしわくちゃにしたまーくんを机の上に置く。まだ部屋には暖かさが残っている。私がまーくんとの会話の中で生み出してきた空気たちだ。私はまーくんにも話しかける言葉を見つけられない。傷だらけのまーくんも自ら言葉を発することはない。馬鹿馬鹿しいくらい当たり前のことなのに、今この事実を突きつけられることが苦しくて堪らないのだ。

 その時急に部屋の扉が開かれた。姿を現したのは明美だ。
「なっちゃん! 部屋入るよ」
「明美、どうしたの突然?」
「風の便りで聞いたのよ、まーくんのこと。教室を覗いても先に帰ってるみたいだったから寄ったの」
「気にかけてくれてありがとう」
 明美は当然のように私のベッドに腰掛けた。私はまーくんの哀れな姿を見せないように机の前から離れずにいた。明美の姿を見たくても振り向くことができない。

「なにもできなくてごめんね」
「明美は何も悪くないよ」
 開けたままの扉からはひんやりとした空気が流れてきている。
「もう三年経つんだね、まーくんに出会ってから。なっちゃんが初めて私に話してくれた時私は嬉しかったよ」
 顔は見えていないけど、語り出した明美の口調は極めて素直で柔らかい。少し遠くを見つめているみたいだ。

「まーくんのことを話すなっちゃんは、まるで絵本の中から飛び出したキャラクターみたいだった。私は毎日その物語に触れたくてなっちゃんの席へ遊びに行ったのよ」
 明美の口から意外な言葉が出てきた。いつも楽しそうに話を聞いてくれていたけど、私に配慮していたものだと思っていたのだ。

「私が物語の登場人物みたいってこと?」
「そう。私が知らない世界になっちゃんはいつも連れていってくれたの。なっちゃんの話す物語は鮮やかな虹色というよりもパステルカラー。届きそうだけどなかなか掴められない淡い色なの」
 届きそうで掴めない。男子達も私の何かを掴もうとしていたのだろうか。
「やっぱり他の人には伝わらない物語なのかな」
「それは違うよ。隣で聞いていると確かに暖かさを感じられるの。だから私には伝わっているよ、なっちゃんの話が」
「まーくんのおかげだよ。まだこの部屋にも少しは暖かさが残っているみたい。もうまーくんには頼れないけど」
 伝わっているということ、ただその事実が私は嬉しかった。まーくんを紹介したのは明美が最初だ。三人目のお母さんとはやっぱり違う。みんなが知らなくたっていい、私には明美がいる。

「なっちゃん、私もこの物語の登場人物になってみたい」
「本当に? でも私はどうしたらいいのかな」
「いい考えがあるの」


 数日後、今日も明美を連れて自宅に帰ってきた。
「ただいまー」
「こんにちは! お邪魔しまーす!」
「あら明美ちゃんじゃない。あれ、そのマスクは…」
 艶やかな新品のマスクは明美とお揃いで購入したものだ。まーくんと同じ布地のもので私は水色、明美は少し大きめのサイズでピンク色をしている。
「なっちゃんと一緒に買ってきたんですよ! 似合ってますか?」
「とってもお似合いよ! あなた達はまるで姉妹を目指してるみたいね」
「本当ですか? なっちゃんやったね」
「お姉ちゃん役はやっぱり明美だよ!」
 私は明美と顔を合わせて喜びに浸った。お母さんの言うには物語の主人公二人は姉妹という設定らしい。これもひとつの意見としてありだと思う。

 私達は今すぐ物語の舞台を描き始めたくて明美と二階の自室へ駆け込んだ。部屋の勉強机には二人で撮った自撮りの写真を置いている。私達には流行りの加工なんて何一つ必要ない。マスクは顔の半分を包み隠してしまうけど、かえって溢れた笑みを強調させてしまうのだ。
 部屋にマスクと私達。ここでは誰が味方で敵かなんて区別はされていなくて皆同じ場所で過ごしている。構想が熟してきたらお母さんも読んでみようかな。
 新しいマスクにまだ名前は付けられていない。これから私の手の中で馴染ませながらゆっくり考えていくつもりだ。
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