第3話

文字数 3,717文字

 女史さんは後日、書簡を送ってきた。コニカカラーの写真に舶来の栞、

―――前略

 夏が蔓延っていますね。ココナツジュウスが喉に清々しいです。
季節の移ろいに焦る気持ちばかりの好意に障子に悶えましたのは、春の来ないのを、自分のせいにする悪い自分が居ったものです。
 小さな舌打ちや、貴方の行く末の見えないのに、些かがっかりし、自分を鏡で見たような気持ち、今は大切な思い出の一つとも為っています。
しかし、しからば、一時とは言え、愛が在りござんした。
 これより後はカサブランカの白新の体裁を伴い、ゆっくり世界周りでもして来ようと想います。次号は付け焼刃の習い事から茶の立て方を教示差し上げます。
写真展、有り難う御座いました。

草々―――

 写真は、初め何の絵なのか判らず、引っ繰り返して見たりもしたが、水平線、ってやつが空と海と交わることなく延として伸びて行くだけの写真だった。真ん中に白く光る一線が入っているだけで、雲もないから何を言っているのかも釈然としなかった。分かつたのは、きっと残念な結末が終従続していく、小生と女史さんのケムリ遊びの肌寒さだった。

 幾日ばかりか経って幾通ばかりか便りが届いた。

 ラムネの瓶があっけらかんとして転がり、軒下の風鈴の鳴る頃には、縁側にハイビスカス、香りに気を取られ、胸苦しく、そして夜には去る、堪えられず晩夏、女史の文を思い返し、夜中にスーツケースに荷物を手当たり次第パンパンに詰め込んで、海の隔たりを感じながら、絵葉書の行く先を追うことに至った。近所の子ども達は小生の背広姿に驚いたようで、着こなしの悪さから、トンビ、と仇名を付けられ笑いを誘っていた。
「にいやん、葬式か、死ににいくんか」
「いかへん。散歩や」
「出世したんの?」
「しとらへん。じいさんの形見や」




 一ヶ月前に届いた絵葉書のフロリダの青空が今実際に眩しかった。だから目を閉じた。日付変更線を越えて、女史には悪いが、椰子の木の風音、ビキニのはしゃぐ声、大層居心地の良い、波打ち際、薄目を開けるとマルガリータ、突にPenが動くことを止めなかった。真似をして同じように遠くひこうき雲に、「かなんやん」と呟いた。そしてそれを明文公然の冗句とした。

 次の目的地を電話でかあ坊に確認して、原稿をクシャクシャに丸め、Penと共にスーツケースに詰め込んだ。砂浜の足跡はもう誰の物か分からない。流木の欠片で書いた落書きも三秒後には波に消ささらされた。明日はベニス、故国の編集長に叱られながら風景(シーン)を拾い集めていくのだ。世界中に散らばった「何か」、痛々しい記憶や、あどけなさの残るオフィス街、大空や波の前に卑屈になったり、隣人の優しさにハーモニカで応える。陽気な音楽、戦争の爪跡、アンアナログの近未来型通信機は彼女の行方を明確には教えない。ヤマを掛けて空港に電話する。

「ああ、そのような日本人女性なら昨日の飛行機で、、、業務上、密裏にお教えしますが、写真機を持っていたのはお連れの男性でした。つまりはお一人ではありませんでした。記憶がオボソカで申し訳ありません。許可下さい。」

 アレキサンダー・グラハム・ベルよ、発明の過程で耳遠さを暗算に入れなかったのか、エリシャ・グレイ、次の発明の次の発明は?、トマス・エジソン、人類への貢献を先立ったのは君の母親の方だ。

 物事には万事、謂れなきしもべが必要となる。起きたばかりの食欲や、呑み過ぎ注意の眠気、川向こうの景色の中ゆだる川下ホタル探し。自分が得てして付き従う、欲望の果てに従順な自分を宛て先の記入をごねる明日へ、従者を越える属民を懐の奥に従える。筆先ちょいと一舐めし、「明けましておめでとう御座います」、切手要らずの利便に不要な世間体を浪費していくのだ。ピピピと機械音で終わる発明は生態退化していく現代生活に於いて画期的な維新背景を叶えた。

 わが祖父は戦争に二度行った。
そして元々の身体の弱さもあったが、酒の呑み過ぎで死んだ。
 だからメチルはやめとけって云ったのに、目をぱちぱちさせて空中を走る自動車の話をしながら呼吸が浅くなってほどなく深くなった。眠るように宇宙ステーションの旋回、街頭テレビ、ヤマトや双葉山の無敗記録や昔のお小遣いは三銭、大仰に管巻きの身体を震わせてヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、アポロ計画、夢にまた夢を見た。

 半ボケの祖母は午後のテレビのクイズ番組耳に、戦時中に就学したシェイクスピアの「リア王」の四姉妹の名を全部並べた。だから、そんな記憶力の良い祖母だから、私は聞いた。祖父の好きだった酒の銘柄や小生が子供の頃よく自転車の荷台に乗せられて電車を見に駅に連れて行かれたこと、縁側の将棋の指南や早朝の枕元のお茶、憧れて真似して薄っ葉の出涸らしを啜り、いい子、いい子だから、日曜日の二度寝の朝は時間が引っ張られて長い朝食を退屈に想い、付けっ放しのテレビは一時間に三回は同じ事を言った。
「貴方の祖父さんはな、貴方が産まれる前もう死んでいたんよ」

 そしてそれは誰に聞いても同じだった。小学校の先生にも聞いてみた。
「罪の次に罰が来る。もし罰の後に罪が来た場合、しんだひとたちは耳の遠いフリをするのでしょうか、それともコミュニケーションの電算が伝言ゲームのように、まさか、自分のした事を文散の道標をあっちこっちひっぱり出して、疑り深い子どもってやつの空っぽの想像力や早くから始まるモラトリアムへの非難を、先生のお名前、この時間だけでもお借りできませんでせうか。」
その少年は少年らしくあることで負の遺産を誰かのノスタルジーの奥底に酩酊させた。他でもない、メチルだ。

 女史さんが以前おっしゃられていた
「罪には罰なのですのよ。卵と鶏なのですのよ」
君は何処にいる。何処かにいるとすればどこにいた。そして何処へ。モノクロームには温もりとしたたかさがある。風景写真に依れば君の居場所なんて、ほら、隣の文鳥を見てごらん。そう申し上げたのも今や自分の言葉かどうかも知れやしない。

 フロリダを発とう。とろぴかるジュースは汗でシャツをビチョビチョにするだけだ。女史さんの足跡はベネチアへ飛んだ。遠い遠い水の都、気温は程好い、アバンチュールのローマで女史さんの連れがどんな奴か気になった。パスポートが急かすので、十年も科かりゃしないがいつか一枚の写真を撮ろう。みんなの入った写真。女史さんの好きだった写真は景観写真。人にしろ建物にしろ自然物にしろ、一つとして彼女のポケットに入らない物は無かった。そのポケットの中に自分が入れなかったことを今はすごく後悔している。

『かさぶらんかの沈黙』
写真仲間には不評だったが、文壇にはウケた。
女史さんは懲りたらしく、なるべく色の持つ作壇を築こうとして、あれほど嫌がったボーイングに拠り所を求めた。

 小生は後を追い原稿料を前借りしながらいつかは地球を一周する。一枚のフレームは窮屈だったのか、四畳半の想像力が仇となったのか、水平線がぐるりと問答を後頭部に帰らせた。裏路地の砂利道が懐かしかったが、明日にはその逆の方へ、タバコ屋のおばちゃんの通夜には行けそうもない。祖父の遺言に正しく順ずれば、初盆にはマカデミアチョコレートを山ほど供えようと想う。
 その日その時、何処かで女史さんの憂鬱を拾い受け止めながら、もう見なくなった夢を、もう忘れて消えちまった夢を、そそらかに涙に写そうとするのだ。空港でかあ坊によく似た子どものペテンに掛かった。追い駆けたがサンダルが言うことを聞かなかった。追いつく事無く、脱げてこけてしまった。小銭が散らばったが、それにはもう興味がなかった。電子マネーがある。

 あの文鳥は今やもう篭の中にはいやしまい。自由に、縦横に、その翼を無尽に大空にはためかせるのに、いつも雲はそよぎ、雨翠の上を行って、この物乞いの足取りを軽やかに優越に見下すのだ。


一本の鉛筆と一枚のザラ紙が在れば、『貴女方の自由』と書こう。


 その晩、旅客機の窓から月の見え方の違いに、遠く、女史の心境の変化、英断を快く想った。儚くも美しい、その場限りの恋だった。もし小生に潔さが在ったなら、自分もこのまま空の平淡に還りたかった。時差惚けの重なりを瞼に留め、今生の契りだけを深々と遥か地上の茂みに帰らせた。黄色い丸がくすくす笑って、女史さんがくすぐっているのだな、と、脳天の片隅で、それもいずれ昏々と息絶えた。白い柔らかな野原には黒い墨汁の雨が已むことを迎えなかった。それも夢の一つかも知れなかった。東ひんかしへ、流浪人の袖は潤いも乾きもその場には留めなかった。風する想いに、呼吸をゆっくり楽にした。尋ねられても何処に居る訳でもなく、目的地なんて何処でも良かった。


思ふこと いはでぞただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ


 かの歌人のゆう、無、は、今にし心ぞ在りなむ。


【完】
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