第1話

文字数 2,932文字

降りるバス停が近づいてきた。降車を運転手に知らせるにはブザーを押さなくてはならない。しかし、私は押さずにいた。
 仕事帰りで疲れているのだ。今日はいつもにも増して疲れている。集中力を欠いていたのか、仕事でミスをしてしまったのだ。営業企画書の相手企業名を間違えてしまったのだ。幸い、社内資料だったため、大事にはならなかったが、上司から気をつけるようにと叱責され、精神的にも肉体的にも疲れきり、バスに乗るなり座席に座り込んでぐったりとなってしまった。
 私でなくても誰かが押すはずだ。バスには数人の客が乗っていた。私が降りるバス停は団地に近いため、団地の住人の利用が多い。どんな時間帯に乗っても必ずこのバス停での乗り降りがあるのだ。
 私は団地から離れた住宅街にある一戸建てで妻と十歳になる娘と暮らしている。通勤時間はバス、電車を乗り継いでの二時間とかかるが、三十年ローンで買った念願のマイホームである。
 バス通勤も慣れてしまえば何ということはない。終点ひとつ手前のバス停だから朝は確実に座れるし、帰宅時も途中で席が空く。
 田舎町の通勤バスだから、毎日同じ時間のバスに大体は同じ客が乗っている。今夜は仕事のミスを取り返そうと残業したため、いつもより遅い時間のバスに乗っているが、団地の住人の誰かが押すだろう。
 ブザーを押して降車を知らせる行為は私だけがひそかに楽しんでいるゲームだった。他の人にブザーを押させたら私の勝ちである。ブザーを押さなければバス停で降りられず、次のバス停、つまり終点まで行ってしまうことになる。田舎だからバス停とバス停の距離は遠い。歩いて戻るのは一苦労だ。乗り過ごしたくはないバス停での降車を自分ではなく他人にブザーを押してもらう。
 ブザーの鳴る時を今か今かと待つハラハラドキドキ感がたまらなく、乗り過ごしたくないというプレッシャーに負けて押してしまえば私の負けである。
 ブザーを押すにはタイミングというものがある。早すぎては運転手が停車を失念しかねないし、ギリギリ過ぎると急ブレーキをかけての停車になってしまう。運転手がバス停を目視し始める距離がベストのタイミングだ。
 バスは今まさに運転手がバス停をとらえ始めた距離にまで迫っている。私のハラハラ感は最高潮に達した。
 私はこのところ勝ち続けていた。負け続けているのはリュックを背負った四十代ぐらいのサラリーマンだ。彼は、前のバス停を過ぎるとすぐにブザーを押す。早すぎるのだ。今日は私が遅い時間のバスに乗っているため、彼はいない。 
 となると、押しそうな人物は誰だろう。私は車内を見回した。私より後部に座っている客は六十代の男性が腕組みをした姿勢で船をこいでいる。前の方には、私と同年代の四十代のサラリーマン、三十代の女性、ニット帽をかぶった二十代の学生と思われる男性が離れて座っている。三十代の女性は携帯電話をいじり、ニット帽の学生は電話でずっと誰かと話し続けている。飲食店のバイトをしているらしく、話は店長の悪口ばかりだった。
 携帯電話をいじってばかりの三十代女性とニット帽の学生には期待薄だろう。彼らはバスがバス停に近づいていることすら気づいていないだろう。もしかしたら終点までいく乗客かもしれない。居眠りをしている六十代男性も期待できない。
 そうなると四十代サラリーマンだ。彼は前の席の背もたれに手をかけ、前方の窓を凝視している。いってみれば陸上のクラウチングスタートのようなもので、ブザーを押すタイミングをはかっている姿勢だ。彼が押すかもしれない。
 私は降りる支度を始めた。背広のズボンのポケットをさぐり、バスカードを手にする。鞄に手をかけ、座席から腰を浮かしかけて、私はすとんと座席に尻もちをついてしまった。
 バスが思いの外、スピードを出していた。そのためバランスを崩して席に座り込むはめになってしまった。降車ブザーが鳴らないので運転手がスピードを落とさなかったのだ。
 バスはそのまま、私が降りるはずのバス停を通り過ぎていってしまった。しまったと私は舌打ちした。てっきり四十代サラリーマンがブザーを押すものだとばかり思い込んでいた。その四十代のサラリーマンは相変わらず、背もたれを握りしめ、前方の窓を睨んでいる。
 仕方ない。終点まで行き、妻に車で迎えに来てもらうとするか。私は携帯電話を手に妻に連絡を入れた。
 携帯から顔をあげた時だった。突然、ブザーが鳴った。ニット帽の学生がブザーを押し、「すいません、今んとこ、俺の降りるバス停だったんです」と叫んだ。
「途中でいいんで下ろしてもらえませんか?」
「すいません、私もいいですか?」
 三十代女性が座席から立ち上がり、バスの運転手に聞こえるように声をはりあげた。
「なんだ、ブザーを押さなかったのか」
 背後から六十代男性がやってきた。
「誰かが押すと思ったから」
 ニット帽の学生は悪びれずにそう言った。
「いつも、誰かしらが押してくれるので」
 三十代女性はあっけらかんとしている。
「あんたも、誰かが押してくれると思っていた口かね?」
 六十代男性が私にむかって尋ねた。私は「はい」と頷いた。男性はため息をついた。
「困ったもんだねえ。寝ていたせいで乗り過ごしてしまった。ブザー音で目が覚めるかと思っていたんだが……」
 ブザー音を目覚まし代わりにしていた点で男性も誰かが押してくれると期待していたのだろう。
「すいません、乗り過ごしてしまった客が何人かいるんだ。途中で下ろしてもらえないかね?」
 男性が運転席にむかって声をかけた。ニット帽の学生が声をかけた時も運転手の反応はなかった。男性は首を傾げ、バランスを取りながら大股で運転席へとむかっていった。
 運転席をのぞき込んだかと思うと、男性は私たちの方へと向き直った。その顔が血の気を失って真っ青である。
「運転手が気を失っている!」
 私は運転席へと急いだ。男性の言う通り、運転手はうなだれた姿勢で運転席に座っている。意識がないことは一目瞭然だった。
 私が降りるバス停の二つ前から道は真っ直ぐの坂道だ。坂道といっても気づかないほどゆるやかな傾斜しかない。いつ意識を失ったかわからないが、その道を走っている間ならハンドル操作が出来なくなってもバスは走り続けていただろう。ゆるい坂道とはいえ、ブレーキ操作は出来なくなっていたとすればスピードがあがっていた理由も腑に落ちる。
 バスは依然として走り続けている。スピードは今は危険を感じるまでに増していた。このまま走り続けていけばどうなるかを悟ったらしく、女性もニット帽の学生も青ざめた顔で運転席を見据えている。終点のバス停に着くにはT字路を右に曲がらなければならない。誰かがハンドルを右に切らなければバスは正面衝突を起こす。
「あんた、運転手の席近くに座っていて何か異常に気付かなかったのかね?」
 男性が四十代サラリーマンに詰め寄った。
「気づきましたよ。急に首がカクンと前に倒れたのでね」と、四十代サラリーマンは言った。
「でも、他の誰かが気づいてどうにかしてくれるだろうと思っていました。スピードがどんどん上がっていったから、僕が叫ばなくても異常に気づくだろうって――」
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