第1話

文字数 1,727文字

直樹にはどうしても、ビデオショップで借りたいDVDがあった。
今どきビデオショップなんて時代遅れだ、ネット配信でどんな映画でも観られるというけれど、彼の観たい秘密の映画のヒロインはネットではなかなかお目にかかれないのだ。昭和時代のあの伝説のポルノ女優は、令和のグラビア美女たちがたとえ何人立ち並んだとしても、男の煩悩をここまでにかきたてることはない。
独り身で過ごしてきてすでに三十代も半ばを過ぎた。二年付き合った彼女とは三か月前に別れた。大寒の冷たい風が、まだ夕食も食べずに急ぎ足で歩く中年男の体には堪える。
 自動ドアが開いて、直樹はいたって平静を装ってあのコーナーに向かう。そう、あの目立たない扉を開けて入る、成人男性専用の映画コーナーだ。
 十年以上前なら、教え子に出会ったら困るからと宅配サービスを利用したものだが、近所にあるこの店にあることがわかったので、学校の仕事を終えてスーパーで買い物をしたあとで何気ない顔をして入ればいいと、彼は考えたのだ。
 いつ、教師になった以上は二十四時間、家から一歩外に出たらセンセイなんだから、だれに見られているかわからないという意識を捨ててはならないんだよと、男は最初の赴任校での着任、離任式のあとで開かれた夕食会で先輩教員たちに言われたものだった。
仕事帰りのパチンコ、カラオケスナックだけじゃない、休暇中の海水浴だってその辺まで買い物だとか、どこで教え子、元教え子に会うかわからないよ。駐車違反をやっても自転車の二人乗りをやっても、「あいつ教師失格だな」って言われるんだよ。女房以外の女性と二人で歩いていても、元教え子の可愛い女子大生と歩いていても「エロ親父」扱いだからね。
 そんなことはわかっていますよ、直樹は即答した。
 僕が高校生のころ、担任の四十すぎの男の教師は同僚の三十ぐらいの女の先生と不倫していて、市内のラブホテルから二人で出てきたのも学年中で噂になったものだ。ブラスバンドの顧問の先生は、部員で成績が学年トップの美少女に手を出して懲戒処分になった。ふしだらな教員はあちらにもこちらにもいたから、彼らを反面教師にしているんです。真顔で直樹は先輩教師たちにそう語ったものだ。
 それから十数年が過ぎて、今でも直樹は独身だ。毎日朝早くから夜まで働き詰めで、家と学校の往復だけで人生の何割かを教員生活に捧げてきた。恋人には二度去られ、両親も年金生活者となった。そろそろ実家に戻って両親と同居した方がいいのかもしれないと思い始めていた。
 だから、と直樹は自分に言いきかせた。別にいいじゃないか、成人映画を数本借りるくらい恥ずかしくもなんともないだろう。
 「濡れた花弁と溜息の夜更け」「エロイーズの禁じられた秘技」「僕たちのカーマ・スートラ」エトセトラ、エトセトラ・・・こんな大人映画を観るのだって数か月ぶりなんだ。
 セルフレジを使う人たちも多かったが、直樹は機械音痴なので店員のいるレジに行かざるをえない。何気ない顔をして彼は、自分のDVDを受け取るのはどの店員だろうとレジの店員二人をちらちらと見た。一人は三十代から四十代の主婦風、もう一人は若い男性だった。
 「次の方、どうぞ」男性店員の声がしたので、彼はすぐにかごを差し出した。眼鏡もかけているし、帽子もかぶっているから周囲には気づかれない。会員証をさっと取り出し、レジにかざすと、店員はじっと彼の顔を見つめていた。
 「え、まさか・・・」直樹は店員の顔を見て、次に名札を見た。「鈴木」というありきたりな苗字だった。だが突然体中が熱くなってくらっとした。彼は、勤務している高校で昨年の三月まで担任だったクラスの生徒。たしか、都内の有名私立大学の商学部に進学したはずだった。
 一瞬ことばを失っている男に、「鈴木」君は軽く笑って話しかけてきた。
 「高野先生、お久しぶりです。」
 「どうも。元気か。」
 「元気っすよ。先生、色々とお世話になりました。ドンマイ。」
 「ドンマイ」をほとんど聞こえないような声で口だけ大きく動かして、元教え子は話を続けた。
 「僕も彼女に振られたばっかりなんですよ。」
  会計を済ませて直樹は店を出た。寒い夜なのに、彼の体はまだ火照っていた。
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