独り語り

文字数 686文字

その女は、いつかベネチアに行ってみたいのだと言った。

この世界でベネチアに行ってみたいと思う人間がどれだけいるのだろう。
たとえばベネチアに住む人間以外の、まだベネチアに行ったことがない人間のうち三分の一くらいが死ぬまでにベネチアに行ってみたいと思っているとしよう。その膨大な数の人間の中に、彼女がひとり、まぎれている。大勢のうちの一人だとしても僕にはすぐにわかるだろう。なにが言いたいのかというとだ。この日、この今現在、僕が見ているこの彼女が、とても美しいと言いたい。ただそれだけだった。

彼女と言っても僕は彼女とお付き合いをしているわけではない。
気だるげに足を組み、窓のふちに腰かけている彼女の白い肌。長い髪。こちらを見ていない瞳。ただそれを見ているだけだ。一方的に僕が見ているだけの関係だ。
彼女を見ていると、遠くの国で森に迷ってそのまま夜になってしまって空を見上げるとたくさんの星が見えて木の洞にはふくろうがいてこちらを見ているのか見ていないのか首を傾げている、そんな様子を見ているようなそんな気分になる。不思議で少し不安になって知らない世界を覗いているというちょっぴりの怖さを感じる。ねえ誰なんだい、と声をかけてもきっと君は返事をくれないのだろうな。

僕は今日もその女を見る。わくわくするような、心臓をぎゅっとされるような、可笑しな心持で見る。屋根裏部屋の柱時計を少しずらしてから、そこの壁に開いている穴を見る。ね、おかしいでしょう。その壁の先なんて夜空しかないはずなんだ。

女は変わらずそこにいる。僕に変な気持ちを芽生えさせておきながら微笑んでいる。悪魔のような美しさで。
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