一話完結 闘鶏

文字数 4,684文字

 
白刃が、きらめく。
月の光りを弾いて、残響が何度も飛び交った。夜の道に幾重もの足音が重なり、殺気めいた男たちの呻き声が時折混じる。
彼の眼前は、真っ暗闇だ。それでもなお、目に見えない何かを嗅ぎ取れるのは獣の本能に似ているのかもしれない。顔を避けた瞬間、刃が闇の中から立ち現れて彼の頬をかすめていった。 
その一歩手前、彼は砂利を踏みしめる足音を聞きとった。が、そんなかすかな音、常人の耳に届くはずもない。
引き抜かれゆく切っ先から、ごくわずかな赤い雫が宙を舞う。
――鉄臭い。これは、嗅ぎなれた血の臭い。
「やるな」
熱いぬめりは流れるままに。手で拭えば、とたんに刀の握りがあまくなる。それよりも、そんなことよりも、胸躍る見えない相手は闇の中――。
「来い」
握りなおした刀の柄、闇を背にすっくと彼は背筋を伸ばした。

「一体いつまで寝てんだい!」
脳天を貫く一撃をうけて、義衛は死を覚悟した。
「おれの天命もここまでか」
「バカ言ってんじゃないよ。爺のたわごとに付き合ってられるほど、こっちは暇じゃないんだよ」
勢いよく布団を剥ぎとられ、寝間着からのびる足をすりあわせると、義衛はぶるりと身を竦ませた。ゆっくりと瞼を開けた視界のむこう、穏やかな秋の射光が畳にそそぐ。
その上を、忙しなく箒で掃いていく老女の姿が寝ぼけ眼に見てとれた。着物の袖は襷がけに、頭には頬っ被りを巻いていかにも掃除姿のいで立ちである。それが終わるや、桶に汲んだ水で雑巾を固く絞り、部屋の隅々を丹念に拭いていく。義衛は「はて」とつぶやくと、改めてあたりを見わたした。
いつの間にか夜は明けていた。
身体が思うように動かないのは、傷を負ったせいかもしれない。切られたはずの頬をぬぐって、指先に血が触れないことを不思議に思う。それどころか、干物にでもなっちまったみたいにからからに乾いた肌だった。
「まさかな」
苦笑してから手の平を額にかざす。瞬間、しわくちゃの手が目に映って心臓がどきりと飛び跳ねた。咄嗟に浮かんだのは「なぜ」だった。
その手を握ったり開いたりを繰り返しながら、節くれだった指の形に見覚えがあることに気づく。親指の付け根の傷跡を目にして、確かに自分の手だと確信した。
「おれは、浦島太郎にでもなっちまったか」
呆れたように義衛の妻、きねはため息を吐いた。
「今は文久、元治……慶応か?」
「しっかりしとくれよ。明治だよ。め・い・じ! それも明治になってから、うん十年も経ってるよ」
「――そうか。明治か」
言われてやっとピンときた。きねは額に手をつき天を仰ぐ。
「あーあ。とうとう呆けちまいやがった」
意気消沈するきねの脇を、七歳になる孫の道男が駆けてきた。
「じいちゃーん、映画見に行こうよ!」
まだ幼いとはいえ、飛びかかられた勢いで道男の膝を腹に食らう。義衛の喉からたまらず、「ぐぇ」と蛙がつぶれたみたいな声が飛びだした。
「今の声なに、なに? もっかいやって!」
腹の上で暴れられ、何度も「ぐぇ、ぐぇ、ぐぇ、ぐぇ」ともがく羽目になる。道男は喜んで「きゃっきゃ、きゃっきゃ」とはしゃいだが、その様子を見ていたきねが「あぁ、頭が痛い。杉村家は一体どうなっちまうんだ」とぼやいて部屋を出ていった。

嘆くことなかれ。子どもがバカをするのは元気な証拠。
立派な顎髭を蓄えている割に、杉村義衛の頭はすっかり禿茶瓶になっていた。
ぺちりと叩けば、経年の音がする。
短いようで、振り返ってみればやはり長かった。明治四年、三十二のときに松前藩医であった杉村家の養子となった。その二年後に家督を継ぎ、杉村治備と改める。のちに義衛と改名し幾年月。一度は東亰の牛越にて剣術道場を開くも、明治三十二年、妻子が待つ小樽に移り住む。その後も竹刀の音を聞かない日には飯が喉を通らず、日々剣の鍛錬と指導に明け暮れた。
自分には、剣術の他に能はない。晩年をここ小樽にて過ごすも、壮年暮らした江戸や京都の暮らしをふと思い出すときがある。
義衛は杖をつきながら、もう片方の手で孫の手をしっかりと握りしめた。
「映画、おもしろかったね」
映画館から出るや、背中に翼が生えたみたいに道男は何度も飛び跳ねた。今にも飛んでいきそうな喜びように、連れてきたかいがあったもんだと嬉しくなる。その様子を慈しむように、義衛はそっと目に焼きつけた。
命永らえた不思議は、こういった何気ないとこに存在す。
「近藤、土方は映画なんか知らずに逝っちまったなぁ」
「じいちゃん。それ、だれ?」
「こらっ。そんな言い方すると、あの世で怒られるぞ。土方なんか『鬼』なんて呼ばれたこわーい男なんだからな」
「鬼なんかこわくないもん!」
道男の意地に、義衛は豪快に笑った。
「嘘つけ! 毎夜便所に行くだけで泣くやつが、鬼なんか見た日にはちびっちまうぞ」
「ちびんないもん!」
ちびとはいえ男は男。道男は義衛の手を振り払って駆けだした。そのときだ。脇道から出てきた男とふいにぶつかったのは。小さな体が跳ね返って、土埃を舞い上げ地面を滑る。
「道男!」
義衛は杖をついて駆けよった。
道男は泣かなかった。それどころか、闘争心むき出しの子犬みたいに男をキッと睨みつける。が、その勢いもどこへやら。男の顔を見とめたとたん、すぐに豪気は引っ込んだ。
幼い双眸が、助けを求めて義衛に向く。
男は大きかった。彫が深く、目つきは鋭い。上から見下げるように顎をつきだして、襟の合わせ目から彫り物がかすかに覗く。
一目見て、やくざ者だとすぐに分かった。
鬼のような形相に、道男は漏らした。道端にまだら模様が広がっていき、生暖かい蒸気が立ちのぼる。
(あぁ、やっちまった)
咄嗟に、義衛は今朝のきねを思い出していた。額を叩いて天を仰ぐならまさに今がぴったりだ。しかし、そんなことできるはずもない。
「おい爺さん」
男の目が、義衛に向く。
「下駄が濡れちまったじゃねぇか」
「これは孫がとんだ失礼を。申し訳ない」
義衛は頭を下げたが、それで引き下がるような男でないことは重々承知している。
男が出てきた脇道をちらりと見やると、奥に人影がもう三つあった。
「ちょっと面貸しな」
男が顎で奥を示す。鳥がしきりに鳴きかわし、この裏手に養鶏場があったことを思い出した。ということは、このどこかに闘鶏場もあるのだろう。そこでは軍鶏と軍鶏を戦わせ、人々はどちらが勝つか金を賭ける。いわゆる賭博だ。
徳川の御世にも賭博はあった。幾度もお触れがだされたものの守る者は少なく、町奉行の目くらましに寺社や武家屋敷に賭場所が設けられたほどだ。
幕末には監視があまくなり、国定忠治などの博徒が幅をきかせるようになる。公然と賭け事が行われるようになったのだ。
明治に入り、賭博は何度か禁止された。博徒は旧来から武装している者があまたあり、自由民権運動が盛んになった際もつながりを強くする。明治十七年には「賭博犯処分規則」が施行され「大刈込」とよばれるほど多くの博徒が検挙された。それも、明治二十二年までのこと。「賭博犯処分規則」は廃止され、再び息吹を吹き返しいまに至る。
「ちょうど負けちまってな。爺さん、かわりに払ってくれねえか」
「おいおい。おいぼれから金をせびるもんじゃねえぞ? 若いの」
かっとなった男が、義衛の襟首をひっ掴む。
「呆けてんのか? おとなしくついてくこいって言ってんだよ」
「じいちゃん!」
「道男、いいか。そこで待っていろ」
男が狭い路地裏に義衛を引きずっていく。
奥に目をやると三人のうちの一人が、戸口を開けてにやついた笑みをはりつかせ待っていた。その内側には、籠に入った二羽の軍鶏が狂ったように突きあっている。
軍鶏とはよく言ったものだ。闘争心に満ち溢れ、目の前の相手がだれであろうと戦いをやめられない。
義衛もかつては軍鶏だった。
果たしていまは、どうだろうか。
「若いの、一つだけ言っておく。喧嘩はな、対等だからおもしれえんだ」
男が訝し気に振り返った瞬間、持っていた杖の先を男の鼻づらに打ち込んだ。
「ぐぅ」と呻いて男が三歩後ずさる。堪らず鼻を抑えた指の隙間、赤い鮮血が滴り落ちた。
「ほうら、鼻血ですんでいる間に家に帰んな」
「なめやがって」
瞬時に男の頭に血がのぼった。懐から短刀を取りだして、義衛に刃を振りかざす――刹那、老爺の瞳にするどい光りが閃いた。
男がまばたきする一瞬のすきに、義衛は一歩を踏みこんだ。杖をくりだし、男の手首をしたたかに打つ。男が短刀を取りこぼした瞬間、頬をかすめ杖の先を突きだした。摩擦で、男の肌が燃え盛るように熱くなる。一陣の風が過ぎた後、男の頬には血がにじんだ。
「爺さん。あんた、何者だ」
いつの間にか、男の全身から冷汗が噴きだして、傷口に沁みた。
傍らで、鳥が一声嘶いた。思わず男が目を向けた先、本能むき出しの闘鶏が垣間見える。
籠の中で戦いあう二羽は、足に忍ばせた短刀で切りつけあい、互いの顔を傷つけあって血を流す。もう一声あがって勝負は決した。負けた一羽を軍鶏師が土俵から取り上げる。
それでもなお襲い掛かろうとする軍鶏を、男は初めて恐ろしいと感じた。
「残念ながら、私は闘鶏よりも脳がある」
はっとして、男は義衛に向き直った。鋭い眼光に焔を見る。まるで、闘鶏のようだ。
男の喉が、ごくりと鳴った。
瞬間、義衛は男の額を杖の先で軽く小突く。呆気にとられた男はぴくりとも動かない。
無言のままに杖を下ろして、義衛は道男の元へ戻っていった。その半ば、男は唇を湿して口を開く。
「そういえば、聞いたことがある」
男の声に義衛は足を止めた。
「この小樽に、人斬りの生き残りがいると」
老爺の、小さな背丈が男を振り仰ぐ。
「生半可な気持ちで人に刃を向けるもんじゃない。やるときは、やられる覚悟があるときだけだ。それができないと言うのなら、とっととやくざなんか辞めちまえ」
再び歩みはじめた足取りに、迷いはない。
「じいちゃん」
「ほぅら、泣くんじゃない。こわくない、こわくない」
孫をその背に担いで、義衛は泣きじゃくる道男をあやして帰路につく。歩くにつれ、背中や袂はあっという間に道男のしょんべんで濡れていったが、そんなことちっとも気にならなかった。
しゃくりあげる合間から、道男が申し訳なさそうに訊いてきた。
「じいちゃん、つめたくない?」
義衛は喉の奥でクックッと笑った。
「つめたいに決まっているじゃあないか」
「――ごめんね」
孫を背負いなおして、なによりも高いお天道様を見上げる。
すっかり老いぼれた。何度人に刃を向け、死にかけたか分からない。しかし、今日の秋晴れの空のように、老爺の胸の内には一片の曇りも存在してはいなかった。
「その気持ちだけで十分だよ」
顔に深く刻まれた年輪に、心地よい陽だまりが降りそそぐ。今日の小樽は、よく晴れた日だった。
「あぁ、平和だなぁ」
老爺の小さなつぶやきは誰にも聞きとられないまま舞い上がり、空の彼方へ消えていった。
 
彼の名は杉村義衛。杉村家の養子となり、はや数十年。
江戸、明治、大正と怒涛のように様変わりする世の中を、七十七まで生きぬいた。その間、東亰・板橋に同胞弔いの石碑建立のため松本良順とともに尽力す。松本良順――蘭学の腕を買われ、将軍の御典医を務めあげた傑物は、明治六年、大日本帝国陸軍初代軍医総監に任命される。その後、貴族院の勅選議員に選出され、明治三十八年には男爵の爵位を賜った。そんな彼と義衛は、京都からのよしみである。
時とともに名を変え形を変え、京の都に驍名をはせた新選組――当年を新選組二番隊組長として過ごす間、旧姓を永倉、名を新八と名乗る。
泣く子も黙る新選組のうち一人、永倉新八とは彼のことだ。
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