第16話 美彌のママと対決

文字数 4,683文字

 四月になって、三回生に進級した常二は、前期の授業料をなんとか納めることができた。
アルバイトを詰め込んで、ライブハウスだけでなく、家庭教師と塾の講師も始めた。週末にはくたくたになる。学業もあるので、ゆとりのない生活が続いている。
ある日、学食で一緒にランチを食べたあと、美彌がママとけんかをしたと常二に言うので、話を聞こうと学生会館のカフェに行った。
「ママがあなたとのつきあいに口をはさむから、けんかになっちゃった」
「就活もあるから、あなたと会うのもほどほどにしなさいって言うの」
「内定が出るまで、会うのを控えたらって」
「あなたはゆくゆくは、家を継いでもらわないといけないんだからって言うから、私は自分のやりたいようにする、家に縛られたくないって答えたの」
「ママは私が今まで逆らったことがなかったから驚いていたわ」

阪上家は貿易業を営んでいる。将来は美彌が会社を継ぐのだろうか、そんな話は美彌から聞いたことはなかった。
「美彌は就活、どうするの?」
「私はしないつもりよ」常二は初めて聞いて驚いた。
「じゃあ、何をする?」
「もう決めてるの」

今日の美彌は強気である。母親とのけんかのことが、美彌を興奮させているのかもしれない。こんな時は美彌に逆らわないに越したことはない。
「あたし、カフェを作るの」美彌は初めてその考えを話し出した。

常二も美彌もコーヒーが好きで、よくいろいろな店に飲みに行く。
美彌の家の近所にも素敵なカフェが何軒かあり、美彌のお気に入りになっている。
そうした店は、焙煎機を据え付けてあったり、独自に輸入した豆を販売していたりで、スペシャルティコーヒーと呼ばれる特別なコーヒーを扱っている。

「苦楽園の近くか、夙川あたりに小さなお店を出すの」それが私の夢だと言った。
「いいねえ、美彌にぴったりだと思う」
「でしょう?おいしいコーヒーをたくさんの人に知ってもらいたいの」
コーヒーとカフェ経営の勉強を始めているという美彌。
「いやじゃなかったら」美彌が、常二の顔を上目で見た。
「いやじゃなかったら?」
「あなたを雇ってあげる」美彌はさらりと言った。
「高く付くよ」
「早く私の借金返しなさい」と返されてしまった。

「そうそう、さっきの続き。ママがね、子供できないようにちゃんと避妊しなさいって言ったの」
「そんなことまで言われたくないから、子供ができてもママには抱かせないからって、つい言っちゃったの」
「そしたら」
「そしたら?」
「ママが逆上して言い合いになって、出てきちゃった」
「で、今日は帰らないから」美彌はそう言って、「泊めてね」と平気な顔をして言った。
常二は内心、阪上家の女性の怖さにおののいた。

美彌が母親のことばに対して怒る気持ちはわかる。美彌も大人だから、母親からあれこれ言われたくないだろう。
一方で、美彌の母の立場なら、天涯孤独で何も持たない男に熱を上げている娘のことが心配になるのもわからないことはない。
常二は、次からはちゃんと避妊しようと思った。

「今までもずいぶんママは、ああしなさい、こうしなさいって口出ししてきたわ」
「私はこれまでママの言うとおりにしてきたけど、それが正しいことではないと思ったの」
「あなたとつきあいだして、ママに自分の考えを言えるようになったわ」
常二は自分がどう関わっているのか、わからなかった。しかし、美彌は自分とつきあうようになってから、確実に強くなっている。
「私は親離れしないといけないし、ママも子離れしないといけないのよ」

この親子げんかの主な原因は、自分にある、そう思うと常二は放っておけなくなった。
今すぐ美彌に母と仲直りを促すことは、やめておいて、美彌の機嫌が直ったら、母親との関係を修復するように説得してみよう、常二はそう決めた。

今夜は家庭教師の仕事があったので、仕事が終わるまで、美彌に下宿で待ってもらうことにした。
二時間の仕事を終えて下宿に戻ったのは九時を回っていたが、美彌は、夕食を作って待っていた。
二人で一緒に食べていると、まるで新婚生活のように思えた。
そう言うと、美彌は「うふっ」と笑った。
美彌と一緒にベッドに入った。美彌は強く抱きついてきて、「ちゃんとつけてね」と耳元でささやいた。

朝のベッドの中で、美彌の白いなめらかな背中の肌を指でたどりながら、常二は物思いに耽った。

母の死から四ヶ月経った。
美彌や店長、柴崎や美和たちに助けられながら、生き続けている。
そして、美彌と中央芝生で出会ってから一年になる。
その間、いろいろなことがあった。
つきあいだした頃は、よく泣いていた美彌。
何より驚くのは、美彌があの母親とけんかするまでの強い人になったことである。

さて、二人の中をどう取り持つか、考えてみたが、妙案を思いつかない…

目覚めた美彌に、常二は「今日ママに会いに行きたい」と告げた。
「どうするの?」心配そうな顔で聞く美彌。
「とにかく二人のことを理解してもらおう」
「ママに少しでも僕たちのことを安心してもらえたら、けんかにならないんじゃないのかな」
「いいわ、話をして、だめなら駆け落ちよ」
「また過激なことを言う」
「覚悟しといてね」と美彌は言った。

常二はひげを剃り、白い綿シャツにチノパンツをはいた。少しでもきちんと見える格好をしておきたい。
美彌に「これなら大丈夫かな?」と見てもらうと、
「イケメンだから大丈夫よ」と答えになっていない返事をされた。

苦楽園からタクシーで美彌宅に向かう。
美彌の手をずっと握っている。
「うまく話せるかな」
「あなたなら大丈夫」と美彌は短く答えた。

広いリビングで美彌の母を待った。
美彌はいったん自分の部屋に行って来るといって、常二を残してリビングから出て行った。
しばらくして、美彌の母が入ってきた。
「いらっしゃい」と言って、白い歯を見せた。美彌とよく似ている。驚くほど若く見える。
「阪上さん、昨夜は美彌さんはうちに泊まってもらいました。ご心配をかけて申し訳ありません」
常二は立ち上がって、まず頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ、ご迷惑をかけて」
美彌の母は笑顔を見せる。そして急に、
「お母様がお亡くなりになったそうで、お気の毒です」
「もう、落ち着かれましたか?」顔を曇らせて尋ねた。
「はい、ありがとうございます。美彌さん初め、いろいろな人に助けられて」
「なんとか学業も続けられています」
「たいへんでしたね。お一人になられて」と慰めるように言った。

「今日は、美彌さんのお母さんに聞いていただきたいことがあって伺いました」
「承りましょう」
常二は緊張した。
「私と美彌さんの交際を心配なさらないでいただきたいのです」
「もちろん、お母さんにご心配をかけないように二人で努力していきます」
「ただ、私たちはまだ学生ですし、仕事も財産もありません。今、お母さんに安心してもらう材料は何も持ち合わせていないのです」
「あるのは美彌さんと一緒にずっと仲良くしていきたいという気持ちと、二人で助け合っていきたいという気持ちだけです」
「二人で周囲の方に理解していただけるように、誠実に接していくつもりです」
そこまで一気に言うと常二は、美彌の母に自分の話がどこまで届いたのか、確信が持てなかった。
言い終えたとき、美彌が入ってきた。ドアの傍で常二の話を聞いていたらしい。
「私は常二となら、楽しく生きていけるの。他の人ではできないわ」美彌が硬い表情で言った。
美彌の母は、しばらく考えているようだった。
美彌は常二の横に腰を下ろし、常二の手を強く握った。

「あなたたちがそう言うのなら、私たち親を安心させてもらいたいの」
美彌の母はそう切り出した。
「賀集さん、責任を取れますか、美彌とずっと仲良くしていくという」
「責任ですか?覚悟はできています」
「では私たちを安心させるために、籍を入れてください」

「籍を入れる、ということは結婚すること?」常二は思わずつぶやいた。
「それなら安心して美彌のことを見られますから」
「夫は、私が承知すれば、反対しません。美彌のことなら、なおさらです」
「わかりました。美彌さんと」
「二人で話をさせてください」と美彌の方を見た。
「私の部屋へ行きましょう」美彌はそう言った。

部屋に入り、ドアを閉めた美彌は神妙な顔つきで
「ほんとうにいいの?」と尋ねた。
常二は突然の展開に半ば茫然としていた。ここで頭を冷まして、入籍するという意味を考えよう。
美彌とはこれからもずっと一緒にいたい、美彌の親には反対されたくない、二人で誰にもはばからずに過ごしたい、その条件、求められた答えが、入籍すること。
想定していなかった考えを提示されて、常二は慎重になっている。
黙り込んで考える常二に美彌は、
「いつでも私とずっと一緒にいたいでしょ?」
「それなら入籍して」と少しふるえる声で言った。
常二は美彌の目を見た。美彌の目は、あなたのためにもいいことでしょう、と訴えかけるように見えた。
「わかった、美彌が望むならそうしよう」
「うふっ、うれしいわ」
美彌が常二に抱きついて、口づけをした。
長い間そうしていた。

唇を離し、美彌の顔に流れる涙を見た。
「泣いてるやん」
「大事にしてね、ずっと」
「大事にするよ」
「泣かせたら大阪湾よ」
「冗談と思えないのが阪上家の怖さだな」
「今さら怖じ気づいて逃げないわよね?」美彌が笑いながらにらんだ。

二人でリビングに降りて、美彌の母と向き合った。
常二から返事を聞くと、母はぱっと明るい笑顔を見せて、「美彌、よかったね、おめでとう」
と言った。
「早いほうがいいから、来週の日曜日に婚姻届を出しましょう。その時は主人にも会ってもらいたいから、かまわない?」
「わかりました。日曜に伺います」
夕食を一緒にと誘われて、それまでの時間を美彌の部屋で過ごした。
「お化粧を直す間、待ってて」
常二をソファに座らせ、幼いときのアルバムを見ていてと渡した。

常二は田舎から戸籍謄本を取り寄せて、日曜日に入籍を済ませて、美彌の父にも会った。
美彌の父は終始上機嫌で、美彌を大事にしてくれるなら何でも応援すると言った。。
食事を終えると、美彌と部屋で話をした。

「美和の婚約が大きいと思うの」
美和の母と美彌の母は知り合いで、仲がよい。美和の婚約を聞いた美彌の母が、うらやましく思っていたようだ。自分の娘も結婚させたいと思ったのは間違いないだろう。
これまで従順だった娘が、常二とつきあうようになって、ずいぶん変化して、親の言うことに逆らうようになった。これ以上、母子関係をこじらせるよりは、入籍させて心配をなくした方がいい。
結婚相手が大学教授と学生とでは張り合えないが、一人娘の阪上家にとっては、身内のいない常二がいっそ婿養子にするのに都合よいとでもと考えたのかもしれない。
これが美彌の語ったことだ。
常二はなるほど、そういうこともあるかもしれないと思った。
どうであろうと、これで二人の運命が決まったという思いで常二は胸が一杯になった。
店長が言った、偶然を受け入れて前へ進むということばを思い返した。
常二の母は、お前は人がいいから自分の意見を言えない気の弱いところがあるとよく言っていた。
母の死も、美彌との入籍の遠因になったのかもしれない。
母は、喜んでくれているだろうか。

美彌は、「考えごと?」と常二の顔をのぞき込んでいった。
「ああ」
「どんなこと、考えてたの?」
「美彌があと何年かしたら、ママのように怖い奥さんになるのかと」
「沈めてやる」と言って、両手で常二の首を絞めた。
「やめろ、息ができん」美彌の手を売りほどいた。
「あなたはもう阪上家の一員になったのだから、覚悟しておきなさい」
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