僕らの「愛してる」

文字数 1,868文字


 あれは確か、学園祭の打ち上げをした帰り道だった。人気の少ない夜道、月だけが空に浮かんでいる静かな夜にふたりきり。
 僕の少し前を、鼻歌でも歌い出しそうな軽やかな足取りで歩く君は、短いスカートと、丁寧に染められたオレンジ混じりの茶色の髪をひらりと揺らしている。
「あのさ」
「んー?」
 間延びした、とろんと甘い声。こちらを振り返って酔いで赤く染まっている頬を、やわらかく持ち上げる彼女に、胸が締め付けられる。わかってる。夏の日差しの下がよく似合うような彼女と、部屋の電気の下で本と向き合ってるのが似合うような僕が釣り合わないことくらい。
「月が、綺麗ですねって、知ってる?」
 歩きながら、雑談のつもりで言うはずだったが、思っていたより声が震えた。
「どうしたの、突然。知ってるよ、夏目漱石のやつでしょ? 嘘か本当かはわからないけど」
 へら、と笑うその唇から八重歯が覗く。数歩先を歩いていた彼女が、僕の前まで、大股で飛ぶように帰ってくる。
「あとね、それに返す相応しい言葉も知ってるよ。たしか『私、死んでもいいわ』だったかな?」
 一瞬、胸が締め付けられ、騒がしくなる。それを知ってか知らずか、酔いが混じる声が言う。
「おしゃれなフリ方だよね」
「はっ⁉︎」
 騒がしかった心臓がその高鳴りを失った。
「え、なに? だって『あなたとこの綺麗な月をいつまでも見ていたい』って言ってるのに『死んでもいい』なんて、夏目漱石もびっくりじゃない? 月が綺麗に見えなくなっちゃうじゃん」
 本気で言っているのが伝わってくる。言いたいことはたくさんあった。夏目漱石が誰かに想いを告げるときに伝えた言葉ではないし、『月が綺麗ですね』に、そんな意味が含まれていたという話は聞かない。死んでもいいという言葉も正確には返事というわけではない。
 しかし、言えなかった。堪えきれず、吹き出してしまう。静かな夜に、僕の引きつったような、下手くそな笑い声が響く。
「た、たしかに。いいね、おしゃれなフリ方だ」
「え、違うの?」
「いや、いいよ。じゃあさ、あなたとこの月をいつまでも見ていたい、っていう意味だとして、君がOKの返事をするならなんて答えるの」
「んー、私ならね……──」


 あの日、答えた彼女の言葉は思い出せないけれど、少し傲慢な返答だった。だけど、彼女にはよく似合っていて、また笑ったのを覚えている。そして、彼女は言ったのだ。「私たち、付き合わない?」。今度は心臓が止まるかと思った。
「おじいちゃん、ママがスイカ切ったよってー」
「ああ、ありがとう」
「何見てるの? わぁ、今日、満月なんだ」
 今年、高校何年生だかの孫娘が笑う。最近は彼氏もできたとかで、世話が焼けると娘が話していたのを聞いた。そのもう何年も前には、娘は破天荒で世話が焼けると妻が言っていた。月日が経つのがこんなにあっという間だとは思わなかった。
「おじいちゃん、『月が綺麗ですね』って知ってる?」
 今も、そんな話が伝わっているのかと驚いた。たとえ逸話だとしても、ここまで続いているのなら、それはもう何か別の真実だなぁ。思いながら、頷いた。
「じゃあね、フるときは『死んでもいいわ』って答えるのは?」
 思わず、孫を凝視する。
「あ、ああ、聞いたことがある。じゃあ、いい返事をするときは?」
 孫は、校則の緩い高校に進学したらしく、茶色に染められた髪を揺らして、満面の笑みを浮かべる。
「『どうか、私より早く死なないでください』」
 妻の顔が、月明かりに混じって孫の顔に乗せられたような気がした。
 交際も、結婚でさえ、彼女から切り出してくれていた。僕からはろくな愛の言葉を言ったことがないけれど、彼女はいつも幸せだと笑ってくれていた。『死んでもいい』という言葉を悪い返事だと言ったのに、自分より先に死ぬなというのは、彼女らしい無邪気なわがままだ。
 呼んだはずなのに一向に部屋に入ってこない僕らのところへ、娘がスイカを持ってやって来る。
「あら、なんの話してるの」
「おばあちゃんが教えてくれた『月』の話」
 それだけで娘と孫は何のことかわかるらしい。あのとけるような笑顔で妻が話して聴かせる姿が目に浮かんだ。
 君は知っていただろうか。男性の寿命は、女性の寿命より8年も早いと言われていることを。
「あれ? おじいちゃん?」
 なぁ、月子。
 今君は、僕の隣にはいないけど、それでも君と何度も見上げた月は綺麗だよ。
 静かな空に、君のささやく声が聞こえた気がした。
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