第1話
文字数 1,706文字
「泡沫姫」
永見妙
今は昔、泡沫姫 というものありけり。このもの、姿のいみじう珍 かなりて、体は人のやうで怪しうはあらず、一目には人と違 ひなく、その玉顔 いと愛しく、並ぶものなし。されども足は人と異なり、魚のごとき鰭と鱗を持ちて、瞳は淡き青色にて麗 しきこと、あおをによし奈良都に並ぶほどなり。この姫、いと不思議なる能 を持ち、水の中に住めばにや、水を己が手足のごとく自在に使ふに能 ふ。日頃、海 の底 にて、藻や海草、小さき貝などを食ひて過ごし、人に出会はねば地上にはな近づくそと会はずの戒めありければ、ひとめもりていたり。
ある夜、青暗き海 の底 より見上げて朧げなる月を見たるに、
「あはれ、今宵も月のいと白くもの清げなり。いかでこれを直 に見まほし」
と例の思い入りて、いよいよ堪へられず、水上へ泳ぎて向かひける。かろうして辿り着き、水面より顔を出しけるに、あな悲しきかな、月のいと遠 かりければ、
「この手で拾いたしとて思いたるに、かかれば、届かざることも尤 もなるなめり」
とて涙を流しつ。
久方 の月はくまなく空泳ぐ術なくここに漂ひにけり
と一人詠みたれば、母がこのこと知れば怒りたまふべしとて、いかで留まらん、下へ向きて帰りけるに、遠きに小さき橙色の光の玉を見ゆ。こはなんぞとものゆかしく思ひて、また堪へられず寄れば、ささやかなる一隻の船こちらに来たり。船は三人が乗るほどの大きさなりて、海人が一人座し居 けり。姫、海人と目が合いて目合 ひしけり。海人も同じく、初めは戸惑ひけれども見目 げに愛 しと思ひければ既に恋ひてせむかたなし。
「君の名を教えさせよ」
と海人尋ねたるに、姫逃げむとて靡 かせる尾鰭 を止めて
「我は水 の底より来たるものなり。汝は何人 か。」
顔を水面より出したままにおづおづ言ひけるに、
「あな異 し。姿人とは違ひ給へど、言 は人の使ふるものなり。今は夕つ方にはあらねど吾妹 に会ひにけるめり。されば聞きたしに、君は常は何を食ひ、何を着、何を暮らしの糧にして過ごし給ふか。君のことを知らせ給へ」
と請ふ。姫は答へて暫し語りけるが、よくまもりてあへて名は言ひ出ださず。心はよくまもりていたれどもいと逸 り話しければ、こころづきける頃には日が昇り始めつ。
「今宵はいと楽しかりければ、また会はまほし。同じ時、同じ所にて、又の日に今日のごとく密かに会わむ」
さ言へば姫薄き尾鰭を翻して潜 き帰りぬ。海人吾 かにもあらず、船漕がず波に任せて家路に着きけり。
海 の底 に着きて室 に入りたるに、泡沫姫 の母、これを止めて
「こはいかなることか。汝の上りてけだしや、人に会ひつるか。会わずの戒めを忘りて破るとは何事ぞ」
となむ問ひ詰む。姫の否と答ふる前に母重ねて言ひける。
「我らと人が会はば恐ろしきこと起こるなり。それを避くための会わずの戒なるに出で会ひぬればあへなし。ひしひしと心より返さへ」
とて姫を室 奥深きに立て込め、鎖 を掛けけり。
又の日、約束の時になれど姫出でられねば術なしとて諦めんとするに、海月海月 といふが緩緩と漂ひながら出でて、
「母の命 に姫が立て込めらるを音に聞きて参れり。御身ただ一人の友にして、いかでかは助けざるべき」
と言へば、海月海月 、腕をたくみに捩 りて扉の鎖 を開けり。しかれば、姫懇 に謝 して、悪しと心得 れども我逢うべき人あれば急いて出た立たむと上を指す。
海人、疾 うより来て久しく待てど、姫が来るけはひあらねば、昨夜 我の見 えけるは幻になむありけむ、口惜しくも帰らん。
あからひく肌に心をうたるればここに知らせやせめて名もがな
と言い置きて立ち去らむとするに、いずこともなく待てと聞え、
遠 つ人待つ宵なれば寂しさよただ松一つ立ちすくむめり
となむ返し歌あり、水の中よりざっと姫現 じけり。
「我にはなはだ非常 なる災ひあれども、命 ある縁 は絶たぬものにやあらむ、凌ぎ越えけり」
さるに、水面より顔を出だす姫、船より身を乗り出したる海人の口先らをやをら重ぬれば、にはかに姫は泡となりて消えぬ。海人は袖を濡らしつつ漕ぎて帰りけり。その後、海人は後の歌を残して往にければ、いづれもこれを見ずとかや。
海 の底 沖の彼方は藍 凪 ぐや我も越え行きまたとぞ思ふ
永見妙
今は昔、
ある夜、青暗き
「あはれ、今宵も月のいと白くもの清げなり。いかでこれを
と例の思い入りて、いよいよ堪へられず、水上へ泳ぎて向かひける。かろうして辿り着き、水面より顔を出しけるに、あな悲しきかな、月のいと
「この手で拾いたしとて思いたるに、かかれば、届かざることも
とて涙を流しつ。
と一人詠みたれば、母がこのこと知れば怒りたまふべしとて、いかで留まらん、下へ向きて帰りけるに、遠きに小さき橙色の光の玉を見ゆ。こはなんぞとものゆかしく思ひて、また堪へられず寄れば、ささやかなる一隻の船こちらに来たり。船は三人が乗るほどの大きさなりて、海人が一人座し
「君の名を教えさせよ」
と海人尋ねたるに、姫逃げむとて
「我は
顔を水面より出したままにおづおづ言ひけるに、
「あな
と請ふ。姫は答へて暫し語りけるが、よくまもりてあへて名は言ひ出ださず。心はよくまもりていたれどもいと
「今宵はいと楽しかりければ、また会はまほし。同じ時、同じ所にて、又の日に今日のごとく密かに会わむ」
さ言へば姫薄き尾鰭を翻して
「こはいかなることか。汝の上りてけだしや、人に会ひつるか。会わずの戒めを忘りて破るとは何事ぞ」
となむ問ひ詰む。姫の否と答ふる前に母重ねて言ひける。
「我らと人が会はば恐ろしきこと起こるなり。それを避くための会わずの戒なるに出で会ひぬればあへなし。ひしひしと心より返さへ」
とて姫を
又の日、約束の時になれど姫出でられねば術なしとて諦めんとするに、
「母の
と言へば、
海人、
あからひく肌に心をうたるればここに知らせやせめて名もがな
と言い置きて立ち去らむとするに、いずこともなく待てと聞え、
となむ返し歌あり、水の中よりざっと姫
「我にはなはだ
さるに、水面より顔を出だす姫、船より身を乗り出したる海人の口先らをやをら重ぬれば、にはかに姫は泡となりて消えぬ。海人は袖を濡らしつつ漕ぎて帰りけり。その後、海人は後の歌を残して往にければ、いづれもこれを見ずとかや。