第1話

文字数 1,994文字

 胃からアルコールが駆け上って鼻に抜ける。口を開けて逃した息は、白く色づいて消えていった。
「あー、今年も終わるね」
「そうですね。先輩、本当に二次会に行かなくてよかったんですか?」
「いや、舞ちゃんを夜道にひとりで歩かせるわけにはいかないっしょ」
 肩を組もうと伸ばしてくる腕をさりげなくかわす。どう見たって先輩の方が酔っ払っている。
「もう、ふらふらじゃないですか。タクシー呼びますか?私の家、すぐ近くなんで本当に大丈夫ですよ」
「大丈夫。俺、酔っ払ってないから」
 酔っ払っている人は酔っ払っていないと言う噂は本当だったんだと感心する。
「舞ちゃんって実家暮らしだっけ?」
「そうですよ。本当は家を出たかったんですけど、第一志望落ちちゃったんで」
「実家いいじゃん。勝手にメシ出てくるし」
「いやですよ。私、父親無理ですし」
 ブーツを脱いで、蒸れる裏足を冷たい風にさらしたかった。ちょうど3年前の年末もこんなことを思っていた。人やら戦士やら獣よりの人がたくさんいる真ん中で、私は知ってしまったのだ。
 友達から指示されて買った薄い本を落としてしまったその先、目の前のお偉い軍人さんが駆け寄ってきてくれた。ハイカラな軍服で赤いマントをたなびかせ、片方に革のアイパッチ、もう片方に赤いコンタクトをしているその人は、紛れもなく、私の。
「…お父さん…?」
 自分の父親がコスプレイヤーだったという衝撃に、その後どうやって帰ったか記憶にない。ただ、そのときから父親との距離が一気に開いた。いつも家の隅か書斎にいて、気弱で寡黙な父が、アニメのような格好には関心があり、コスプレして承認欲求を満たしているという事実は、受け入れるには非常に重く、耐えがたかった。どうにか楽になりたくて母に思い切って告発した。
「え、知ってるわよ?」
「え」
「というか、パパとママはそれで出会ったのよ?ママはカメラマンで、パパはイケメンコスプレイヤーで」
「うそ…」
「ほんと、ほんと。写真見る?まだネットに残ってるんじゃないかしら」
「いや、いい…」
「パパ、裁縫上手でね、全部ミシンで自作するのよ。大正時代のコスチュームがよく似合ってて、あ、ほらこれなんか」
「いらないってば!!!」
「舞ちゃん?」
 先輩の顔が真横にあってギョッとする。いつの間にか肩に腕が回っていた。アルコールの匂いが鼻につく。
「大丈夫?舞ちゃん、たくさん飲んでたから酔っちゃった?」
「いえ、大丈夫です。私、お酒強いほうなので」
「またまたぁー」
 がっしりと掴まれた肩に違和感を覚える。軽く肩を揺らしたけど振りほどけそうにない。あれ?先輩、もしかして、本当に酔っていないのだろうか。
「ねぇ」
 歩くスピードも方向も、先輩が舵を取る。
「俺もう歩けなくてさ…。…どこかで休憩しない?」
「…は?」
 先輩が立ち止まった背中に、点滅しているピンクのネオンが目に入って、飛び退いた。
「いや、私はいいです。先輩、おひとりでどうぞ」
「えーつれないじゃん。ちょっと休むだけだって」
「いや、私帰らなくちゃいけないので…」
 さっさと逃げ出したいのに、強く腕を掴まれ動けない。周りは静まりかえっていて、どこにも人の姿がない。
「なんで?実家いやだって言ってたじゃん」
「それとこれとは話が別ですし」
「ねえ。往生際悪いって」
 腕を引っ張られ抱き寄せられる。気持ち悪い。肩ごと押し進まれ、私の意思とは関係なく歩かされる。
「い、いやっ、やだ、離して」
 自分の力では振りほどくことができない。せめての抵抗として出した声は、小さくて聞き流されてしまう。息が上がる。どうしたらいい。どうすれば。誰か。
「おい!そこなにやってるんだ!!!」
 懐中電灯の光に照らされ、顔を背ける。掴まれた肩がぱっと離れた。それから、小さく「やっべ」と言ったのを聞き逃さなかった。
「いや、ただじゃれてただけっすよ。じゃあ舞ちゃん、俺帰るね!」
 先輩は、酔っているとは思えないスピードで来た道を引き返していった。怖かった。指先が小さく震えていて、どっとと実感が沸いた。もし、警察が通っていなかったら、今頃私は。
「大丈夫ですか?」
「…大丈夫です。すみません、助かりました」
「いえ、もう夜も遅いですから、気をつけて帰って下さい。ご家族も心配していますよ」
「はい、すみません」
 警察のおじさんに軽く会釈し、足早にその場を離れる。母から何度も「気をつけなさい」と言われていたのに、いざ直面するとすくんでしまった自分が情けなかった。親の小言が身に染みるなんて、まるで子供のようだ。今回は、たまたま警察の人が通ったからよかったものの。
 足を止める。暗くてよくわからなかったけど、懐中電灯に照らされた立派な口ひげが気になった。今時、あんなくるんと上を向いた口ひげしている人いる?それに、スーツじゃなくて、詰め襟のような格好だったようなー。
 私は振り返って地面を蹴った。
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