第1話

文字数 5,146文字

勤め先の書店に、ときおり訪れる男性がいる。夏から秋にかけては黒のTシャツと黒のハーフパンツを身につけ、黒のリュックを背負っている。髪の毛は短く刈り上げており、全体的に痩せた体格だ。よほど視力が弱いのか、いつも手にした文庫に顔を近づけては黙々と本を読んでいた。

手にする文庫は出たばかりの新刊のこともあるが、岩波文庫を一心不乱に読みふける姿をよく目にした。その男性が来店すると、すぐにその存在に気づくことができた。男性はいつも同じ格好で、鼻をつくような臭気が漂っていた。

柳美里さんの『JR上野駅公園口』には、拾った新聞や雑誌や文庫を好んで読む、「シゲちゃん」というホームレスの男性が登場する。あの黒い衣服を身につけている男性のことを思うとき、このシゲちゃんの存在が浮かぶのだ。

2020年11月、『JR上野駅公園口』が全米図書賞を受賞した。マスコミに連日報道され、それを目にした人びとが作品を求めて来店した。私もまた、それをきっかけにこの1冊を手に取ったうちの1人だ。

主人公は、上野公園で生活するホームレスの男性だ。物語が進むごとに、彼の過去や、昭和から平成にかけての激動の時代が描かれていく。何故男性がホームレスとなったのか、また「ホームレスであること」が、どういう生活を強いられるのかがあぶり出されていく。

さまざまなエピソードや男性のなかにあるモノローグを頻繁に挟む構成は、決してわかりやすいとは言いがたい。だからこそ、読者それぞれの読み方ができる作品だともいえる。

通りいっぺんの解釈ではなく、さまざまな方向から光を当てることで、そこに伸びる影の形を味わうことができるのだ。自分自身に近づけて読むのか、はたまた自分からは遠い出来事だと思うのか。その読み方や解釈は、読者の数だけあるのだろう。

印象に残った場面は、いくつもある。まず、幾度となく挿入される、男性の周りを通りすぎていく人びとの声がさざめくシーンだ。

ある者は笑い、ある者は夢中になって語り合い、彼らや彼女たちの日常の風景がそこに描かれている。まるで、音がこちらに迫ってくるようだ。だが、通りすぎていく人びとの日常と男性は決して交わらない。

次に印象に残ったエピソードは、前述の「シゲちゃん」との日々があげられる。書を好み、出会った猫に「エミール」と名付けるような知的な風貌の男性が、何故ホームレスとなってしまったのか。彼の過去に何があったのかははっきり描かれないものの、周囲の人間の人生を変えてしまった出来事であることが、言葉の端々から推測される。

そして、この作品のなかでもとくに強く印象に残ったのが次の一行だ。

“死にたいというよりも、努力することに、疲れた。”(P56より抜粋)

どれだけの読者が、この言葉に滲む思いを知るのだろう。「死にたい」のではなく、人生を降りてしまいたいのだ。能動的に「死」に向かいたいのではなく、許されるなら、緩やかにこの場所を明け渡してしまいたいだけなのだ。

たやすく共感を口にしてしまいたくはないものの、主人公の心の声に、強くうなずく自分がいる。

さらに震えたのが、津波のシーンだ。物語の後半で、今も大勢の人びとの人生に影を落とす東日本大震災のエピソードが登場する。防災無線が鳴り響く場面で、ただ恐怖とともに足がすくんだ。

私もまた、決して同じ体験ではないものの、今も消えることのない水にまつわる光景を記憶のなかに刻んでいる。

水という生き物がどのように姿を変え、やがて泥とともにすべてを飲み込んでいくのか。水が去っていったときに、どのように日常が破壊されてしまうのか。このくだりを読み終えたとき、全身がただ震え、息をするのも苦しくなった。

この作品は帰る場所をなくした人びとや、居場所のない人びとに焦点を当てている。人間同士のつながりもそこにあり、ホームレスの悲哀だけを取り上げた作品ではないが、より強く読者の心に残るのは、その部分ではないのだろうか。

自ら好んで、人生を転げ降りていく人間はいない。生まれ育った環境や時代次第で、誰でも路上生活者となる可能性はあるのだ。少なくとも私はずっと、いつ自分が「こうなってもおかしくない」と思いながら生きてきた。

幼い頃から貧しく荒れた家庭に育ち、同級生たちが「どこそこに連れていってもらった」とはしゃぐのを横目に、ただ一人で黙々と本を読んでいた。私は生まれてこの方、ディズニーランドにもスキーにも行ったことがない。ごくたまに近所の家に呼ばれることがあっても、遊び方のルールを知らない私は周囲の人間を戸惑わせた。

学校の図書室の蔵書だけではとうてい物足りず、市立図書館にも頻繁に足を運んでいた。現実では知ることのなかった友情のぬくもりも、ページのなかで知った。誰かと言葉を交わすよりはるかに長い時間を、私は本を片手に過ごしてきた。

やがて就職活動をする年齢になったとき、私たちの年代は就職氷河期世代と呼ばれた。大半の人間が正社員になることが叶わず、派遣やアルバイト生活で糊口をしのいだ。

祖父母が亡くなり、父と母が代わる代わる入退院を繰り返すようになると、もともと貧しかった家計はさらに逼迫した。

近所や親戚に「頭を下げてくる」と金の無心をしようとする家族を言いとどめ、アルバイトで稼いだわずかな金を家に入れると、ただでさえ少ない収入はほとんど手元に残らなかった。その当時からの負債が、今も私を苦しめている。

今でも、よく覚えていることがある。家族が用意してくれたお弁当を職場の休憩室で開くと、そこにあったのは庭の畑で取れた青物だけだった。誰にも見られないように蓋で隠しながら、そのお弁当を急いでかっ込んだ。

父が亡くなり母と私だけの生活となると、車は維持できず手放すこととなったが、築40年以上の古い家に母と2人で暮らす生活が始まった。

非正規雇用のままで貯金もなく収入はわずかだったため、服や身の回りの物はほとんど買えなかったが、本だけは細々と買い揃えていた。古本を中心に集め、図書館にも入り浸っていた。たとえ他に何もなくとも、本さえあればそれでよかった。

だがそんな生活も、2019年にある奇禍に見舞われたことで奪われた。

幼い頃からコツコツ集めた本や漫画は失われ、手元に残ったのはごくわずかの本と、身につけていた一部の生活用品のみだった。当初は着る服すらろくになかったものの、さまざまな人に助けられ、仮住まいとはいえ住める部屋も見つかり、今もこうして生きている。だが決して、安穏とすることは許されない。

かろうじて今はアパートの一室に公費で暮らしているが、いずれはこの部屋を出て行かなければならない。その期限は、あと1年ほどまで迫っている。だが、帰ることのできる家はもうない。それでも土地の固定資産税の請求書だけは届き続け、いずれ住む場所を見つけられたとしても、当然そこでは家賃が発生する。

同居している母は高齢で障害者手帳を持っており、ある病を抱えている。さらに私自身が、うつ病で心療内科に通っている身だ。家賃のために仕事を掛け持ちすることも考えたが、今ですらだましだまし仕事をしている身でありながら、はたしてそれができるのだろうか。

日常のふとした瞬間に、つねに「この先、生きていけるのだろうか」という不安がこみ上げてくる。現実がいよいよ目の前に迫ってきたとき、私はどうすればよいのだろう。考えてはいけないことが、つねにちらつく。それを、たった1人で飲み込むのが困難でないといえば嘘になる。

このコロナ禍で、倒産したり閉店しているところはいくらでもある。非正規雇用という不安定な身の上で、私自身もいつ仕事を失ってもおかしくない。いつ、この物語の主人公たちのような末路を迎えても不思議ではないのだ。


ホームレスと呼ばれる人びとのなかに、好き好んでその場所にたどり着いた人が、どれだけいるのだろう。貧困のなかにある人びとで、自ら望んでその場所へと転げ落ちていった人がどれだけいるのだろう。

仕事を奪われ住むところもなく、ギリギリの瀬戸際で生きている人は、この日本だけでどれだけいるのだろう。寒さの堪えるこの季節、どこで過ごせというのだろう。

ホームレスの人びとについて考えるとき、真っ先に思い浮かぶのが、今年の11月に東京都渋谷区で起きた事件だ。64歳の路上生活者であった女性が、無惨にも命を奪われるという痛ましい事件のニュースが駆けめぐった。「この女性は、私だったかもしれない」、そのような意見もインターネット上で目にした。

その女性は、2月まではスーパーで働いていたという。コロナの影響で仕事を失ったのか、それはわからない。けれど大事なのは、先ほどの意見のように、「いつ自分や周りの人が、そうなってもおかしくない」と、想像力を持つことではないかと思うのだ。

ホームレスの人びとはいきなり路上生活者となったわけではなく、誰もが誰かの家族であり、人間関係があったはずなのだ。ホームレスという名前の人間はいない。誰もにれっきとした名前があり、一人一人の人生を背負っている。

わずかでも救いであったのは、この女性に声をかける人びとの存在があったという話を知ったことだ。あまりに苦しい事件ではあるものの、どうか一人でも多くの人に支援への道が伸びていくことをただ願う。

このホームレスの女性の行く末について思うとき、私もいつその場所に転げ落ちていくかわからないのだと強く感じて、心臓を冷たい手で掴まれたような気持ちに襲われる。

『JR上野駅公園口』という物語が、この時代に全米文学賞を受賞したということが、まるで何かの警鐘にも思えてならない。そして同時に、この物語が一人でも多くの読者に読まれることで、居場所のない人びとへの救いの道が、確固たるものになることを願ってやまない。

柳美里さんの後書きに、次のような言葉がある。2014年の、単行本刊行時に書かれたものだ。

“多くの人々が、希望のレンズを通して六年後の東京オリンピックを見ているからこそ、わたしはそのレンズではピントが合わないものを見てしまいます。「感動」や「熱狂」の後先を──。”

そのピントが合わない世界の狭間を、私たちは生きている。コンクリートの隙間に、あるいは街並みのどこかに、色濃く影を落としながら。たとえ世間が熱狂の渦に包まれ、弱者やマイノリティと呼ばれる人びとがそこに「いないもの」とされたとしても、彼らは確かにそこにいるのだ。

この物語について思いをはせるとき、初めは戸惑いと哀しみが訪れ、やがてさまざまなものが渦巻いていく。まるで咆哮のような、地鳴りのようなものが身体中を駆けめぐる。

私は、怒っているのか。それならいったい、何に怒りを覚えているのだろうか。やがて死ぬことへの恐怖は消え、いつしか噴出する怒気を身にまとって立っていた。この震えるような怒りが、私たちを守る盾となるのだ。

帰る場所のない人間だからこそ、足下の大地を強く踏みしめて生きていくのだ。寄る辺ない身だからこそ、外に向かって発信しつづけるのだ。もし私が何もかもをあきらめてしまったなら、救いの手を伸ばしてくれた人たちに申し訳がたたない。

自ら閉じてしまったなら、外から救い上げるのは困難だろう。だから決して閉じてしまわずに、がむしゃらにふてぶてしく生きてやりたいと強く願った。

この読み方が、正しくてもそうでなくとも構わない。1冊の本が読み手の数だけ違う物語を奏でることを、私はよく知っている。

『JR上野駅公園口』という物語に悲哀や苦しみだけではなく、人との関わりや繋がりが書かれていることに、何らかの恩寵や希望がひそんでいるのだと思いたい。道はまだ、どこかにあるのだと信じたい。

暗い場所で苦しむすべての人を救い上げることは困難であったとしても、それでも一人でも多くの人を取りこぼさずに、「間に合ってほしい」と叫ばずにいられないのだ。この叫びは、いつかどこかへ届くのだろうか。

この作品を読み終えた数日後、ふと気づくと、売り場に例の男性が立っていた。それまでの装いとは異なり、黒の長袖と黒のズボンを身につけていた。季節は、11月下旬。風が冷たくなってきたこともあり、薄手ではあるものの、半袖でなかったことに微かに安堵する。

見ると、男性は片手に透明のビニール傘を持っていた。そしていつものように、手にした文庫を黙々と読みはじめる。近くにいた女性客が臭いに気づいたのか慌てたように立ち去ったが、私は口をつぐんでいた。

ふと窓の向こうへ目をやると、空は曇天に覆われていた。雨は降るのだろうか、それとも持ちこたえるのだろうか。

少しでも、あのビニール傘が冷たい雨から男性を守ることを、ただ静かに祈った。












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