-建安十五年 巴丘-

文字数 11,485文字

 思い起こすのは昔のこと、親友と馬の轡を並べ、春の日の草原をともに進んだ日々のこと……
 草の香りの濃い風を受けながら、彼らは二人、馬を降りてぶらぶらと歩いていた。辺りは灌木や丈の低い叢、見晴るかすその彼方には青い空が広がっている……はずだった。

 周公瑾は夢を見ていた、熱に浮かされた浅い夢は妙に色褪せて……だが、切なくなるほど懐かしい。彼の横に並んだ親友は何か親しげに話しかけているのだが、彼の耳にははっきりと届いてはいなかった。まるで遠い記憶のように、途切れ途切れで断片的だ。言葉の態を為しているというのに、彼の心には意味を為さない、その声はまるで草葉の囁きか何かのようで、ただの音でしかなかった。
 親友は馬を引き、歩きながらさらに言葉を連ねる、その声はあたかも水の底から聞こえるかのようだったが、次第に朧気ながら形を作りつつあった。親友は彼の過去の行為に少し腹を立てているのだ…… しかしその声音には怒りは感じなかった。冗談めかして軽く意地悪をしたいだけなのだろう。
「今となっては昔のことだよな…… まあ、別に気にしちゃいないけどさ……」と親友の言葉がようやく彼の耳にも届いた。「あの頃はそう、俺もお前も色々と大変だったしなあ……」
「……うん?」
 彼が横を向くと、親友も彼を見やった。その顔立ちは二十歳前といったところで、その頃が一番何をしても楽しかったと思い起こす。と、同時に……

 彼はその親友を何と呼んでいただろうか、などと頭を悩ます。
 いや、記憶を失ってしまったわけではない、むしろその頃の記憶は痛々しいまでに鮮烈に彼に刻み込まれている。彼はその親友を友と呼び、義兄弟と呼び、そして……
「主公、またこのような人気のない所に……」と口をついて出てしまった。
 若者はにっこりと笑った。
「ああ、そうだな、お前も憶えているんだろうなあ…… だが、案ずるな、公瑾、ここは大丈夫だよ……」
 何を以って大丈夫、なのだろうか? 丈の低い草や灌木、射掛けられたら身を隠す事も出来ない。
 そこではた、と彼は思考を停止した。背筋に妙に冷たい汗が伝い落ちていく感触。
 射掛けられる……

「う…… うぅ……」
 公瑾は低く呻き、薄目を開いた。行軍中の馬車に載せられているのか、ひどくがたがたと揺れている。簡易な寝台、低い荷台の天井。情けない、自分で馬に乗ることもできず、こんなものに押し込められていようとは。
 垂らされた帳の隙間からは既に日が傾いているのだろう、薄暗い空。
 彼は自分が無意識に歯軋りしていることに気付いた。体中が妙に強張ったようになって、体を動かすのが辛かった。徐々に記憶を辿っていくと、いきなり負傷の痛みを思い出しだ。幾本もの矢が彼の体を射抜いていた、鎖骨、脇腹、馬を締めていた腿。

 射掛けられたのだ。

 唐突に思い出した、江陵に陣取った曹仁に対し、兵を率いて攻め込んだ。当初、早めに片を付けるつもりだった戦だが、実際には一年余りの長きに及んだ。その激しい戦いも終わりに近付いた頃、彼は矢を受けて負傷した。引けぬ戦いの中、彼はその負傷を物ともせずに戦い抜き、ついに曹仁を江陵から追い立てた、ようやくその地を奪い取ったのだ。少々体に無理を強いてしまったのだろう。
 しかしそれだけでは終わらなかった、曹操軍に再起の暇を与えずに更に攻め込む策を主君に献じた。
 主君、それは孫策……ではなく、その弟の孫権だ。混濁していた意識が俄に光を帯びたかのように蘇ってくる。
 そう、孫権だ……

 彼は朦朧とした頭を振り、霧がかったかのように断片的な記憶を手繰り寄せた。
 孫権に曹操を攻めに行く許可をもらった直後、矢傷の回復を待たずに、まずは益州を落としに行くつもりで陣を払ったのだ。傷は途中で癒えるだろうと高をくくっていたのだが。
 もしや毒矢だったのだろうか。彼の知っている、そして畏れている毒は戦場では意外と簡単に入手することが出来る。馬を始めとする畜獣の糞尿だ。その毒に不運にも中ってしまうと助かることは稀だ、戦場に長い彼は今まで多くの兵士をそれで喪った。
 親友であり、義兄弟であり、主君でもあった孫策も……

 多くの者は孫策は矢を射かけられ、その傷が元で帰らぬ人となったと信じている。しかし彼はそれを信じてはいなかった。親友は一旦は回復の兆しを見せていたという。だが、急変した。親友の直接の死因は矢傷によるものではないのではあるまいか? そこには確とした証拠はないものの、ある種の陰謀を彼は感じ取っていたのだ。
 夢に出てきた親友は、果たして彼に何を告げていたのか、何を告げようとしていたのか、夢占いにでも諮ってみたい。いや、そんな気の弱いことでどうすると言うのだ。占いなど、気の迷いを大きくするだけだ。

 彼は自分で自分を奮い立たせようとした、が、体は言うことをまるで聞かない。腕にも脚にも何か硬いものが詰まっているかのように動こうとはしなかった。
「誰か…… 誰か、ある……」
 かすれた声で尋ねると、馬車の外から脇侍の兵士が飛んできた。兵士は彼の顔を見ると思わず身を引いた、公瑾はまた、無意識に歯を食いしばっていたのだ。兵士はその主の顔を見て、瞬間、身を竦ませてしまったのだ。しかし、すぐに気を取り直すと、
「は、はい、殿、これにおります、どのような御用でしょうか?」と尋ねた。
 公瑾はぎり、と歯を軋らせ、強張った口を開く。
「ここはどの辺りだ……?」
「はい、巴丘の外れにございます」
「そうか…… そろそろ行軍を休ませる、野営の準備をさせるように副官に伝えろ」
「承知いたしました」
 脇侍の兵士は恭しく退がると、ややあってから馬車は止まった。
 正直、がたがたと揺れる馬車に体の節々がすっかり痛んでいた。少し発熱しているのか、頭が痛い。しかし妙なもので、耳だけはよく聞こえた。いや、むしろ、普段よりもよく聞こえるくらいだ。
 兵士たちが喋りながら野営の準備をする物音が聞こえてくる。前の戦から間が空いてはいない、自然、兵士たちの声の中には愚痴も含まれていた。
「やれやれ、早くこの戦、終わらねえかなあ」
「へへへ、お前、かかぁのおっぱいが恋しいんだろう?」
「恋しいともさ!」
「赤ん坊とおっぱいの奪い合いか? ははは、どこに行っても戦じゃねえか!」
「違ぇねえなあ!」
 兵士たちの笑い声がひとしきり続く。
「……ああ、早く帰りてぇ。かかぁに会いてえよ」
「まあ、そう言うなって。次の合戦には何か掻っ払って土産にでもしな。お前のところは赤ん坊も生まれたばかりだろうからなあ」
 下級の兵士には略奪を禁じてはいるものの、どうしても抜け道はある。隊長たちは目溢しをするし、それをいちいち咎め立てすることも難しい。
「おい、お前ら、滅多なことを大声で話すなよ。将軍に聞かれちゃ、叱られちまうよ」と年長らしい兵士の声がする。
「将軍と言やぁ、さっき、ちらっと見たんだけどさぁ。……余程、劉備やら諸葛ナントカって奴を見逃すのが悔しいのか、すごい怖い顔してたぜ」
「ああ、俺も見た、歯噛みして悔しがっていたぞ! しかしありゃ、江陵の曹仁に対してだろう? この間はいいところまで行ってたのに、曹仁の奴を取り逃がしちまったからなあ」

 そんな話を耳にしながら、公瑾は自分の顔が随分と引き攣っている事に気付いた。無意識のうちに歯を軋らせてしまうほどに噛み締めてしまう。

「ほれ、お前ら口ばっかり動いてるぞ、ちっとは働けよ!」年長の兵士の声が若い兵士たちを一喝した。兵士たちは何か荷物を運んで行ったのか、やがて声は聞こえなくなってしまった。
 彼は馬車に仰向けに横たわったまま、その天井を眺めていた。古くくすんだ木目がゆらゆらと揺れているような錯覚を覚えた。
 いや、自分の視点が定まっていないのだと彼は気付いた。と、同時に妙に乾いた笑いがこみ上げてくる。
 かつての主君の弟を主と呼んでいる。
 しかし…… 本当に主と思ったことは一度もなかった。それがどこかふらふらとさまよう自分の目の焦点にも似ているような気がして、苦笑を漏らしてしまったのだ。

 ならばどうして自分はこんな傷を受けながらも、曹操と戦うための軍を率いているのか? それは孫権のためではなかった。死んだ親友孫策のためだ。親友は曹操の息の掛かった者に暗殺されたという噂がまことしやかに流れている。確かにそうなのだろう、が、それだけではない気がしていた。遠方の曹操が采配出来る枠を超えている、つまり、手近に情報を流したり、手引した者がいたはずだ。
 その者が曹操と手を結び、孫策を暗殺させたのだ。
 彼はその真犯人に迫るため、揚州の政の中枢に近いところに居続けることを選んだ。いずれその真犯人が正体を表すのではないかと。
 そのためには反りの合わない孫権をも主と呼ぶ……
「う、うぅ、くっ……!」
 また無意識のうちに歯を食いしばっていた。頬の筋肉が痛むほど、口を結んでいたのだ。思い通りにならない自分の体を呪いながら、ふと、外の気配に心が奪われた……

 その足音には聞き覚えがあった。聴覚の特に優れた公瑾ならではの感覚だ。その足音に先んじて慌てた様相のもう一つの足音、それは先程顔を現した公瑾の脇侍のものだ。その足音の主は察知した通り、慌てた様子で彼の馬車の帳を開いた。
「と、殿、お客人が……」と脇侍が言いかけたのを、
「わかっている」と公瑾は留めた。
 使者もなく、孫軍の重鎮が来るのだから、それは忍びの道行きだ。その名を告げさせるわけにはいくまい。せめてもの礼儀だ。
 脇侍の兵士に続いて訪れたのは頭巾で半ば顔を隠した初老の男だ。男は無言で馬車に乗り込んでくると、脇侍の兵士に静かに言った。
「退がれ」
 兵士は探るような目付きで公瑾へと視線を走らせる。
「言う通りにしろ」と彼は静かに命じた。「この馬車の近くに誰も近付けるな」
「は、はい」兵士はそそくさと姿を消し、見計らったように男は頭巾を下ろした。中から現れたのは公瑾が思った通りの顔。
「横になったままで失礼します。それよりも、如何なされました、程公?」と公瑾は努めて平常な声で尋ねかけた。
 程普、字を徳謀、孫堅の頃から孫家に仕え続ける人物だ。公瑾はその人物が少々苦手だった。程普は低い馬車の天井を避けるようにして公瑾の間近に腰を下ろした。
 程普はじろじろと無遠慮に公瑾を眺め続ける。以前から彼は公瑾に対して侮ったような態度を取り続けていた。それは公瑾が都督の位を得た頃からだと思っていた。しかし…… 実際はそれ以前からかも知れなかった。
「失礼ながら、先日、主公にお目通りのときに、貴公の顔を見た」前置きなく、徳謀が口を切った。「……矢傷か?」
「……」
 公瑾自身よりも遥かに戦場での経験が長い徳謀が気付かぬ訳はなかった。曹仁を江陵から敗走させた戦の終盤、総力戦になったときに受けた矢傷のことだ。その矢傷から入った毒が公瑾の体に回っている、程普はそれに気付いていたのだ。
「その毒には薬はないぞ」と彼は低く凄むように言った。「死ぬ前に言っておく事があるのではないか?」
「……!」
 考えたくはなかった。自分は死に向かって落ちていく。無意識に歯を食いしばり、徐々に進む体の硬直に耐え。だが、死は彼を待ってはくれない。
「主公を…… いや、先の主公を裏切ったのだ、当然の報いだ」と静かに徳謀は言った。
「な、何を……?」
 徳謀は無遠慮にずい、と公瑾ににじり寄った。
「貴様は伯符殿を裏切った」
 唐突に信じられないことを耳にして、彼は目を瞬いた。
「程公、いくらなんでもそれは……!」それでも公瑾は年長者への礼を失すことはなかった。
「黙れ」ともう一度、程普が凄む。「証拠は上がっているぞ。あの日、伯符殿は貴様からの文を得て、狩りを口実に外出したのだ。遠征の前の忙しいさなか、狩りなど些事にかまける伯符殿ではなかったはずだ!」
「誤解です!」と公瑾は叫び、やっとの思いで上半身をもたげた。そのまま這うように身を支える。「……その文の存在は知っていました。しかし、誤解です、わたしは文など送ってはいません!」
「しかし、文には貴様と伯符殿との秘密の印を付けてあったと聞いたぞ! あの日、私はその点を疑い、主公に尋ねたのだ。その時確かに伯符殿はそう応えていた。だから…… 止めることも出来たが、貴様からの文を信じて私はあの日、主公に同行したのだ!」
「違います!」
「貴様は曹操と内通し、伯符殿を暗殺する片棒を担いだのだろう?」
 程普の決めつけに公瑾はまた歯軋りした。最早この頑固爺に長幼の礼など不要だと思えた。
「では、あなたはどうなのだ? 矢を射られた伯符を見殺しにしたのではないのか?」
「なにぃ?」
 徳謀は勢い、病床の公瑾の胸倉を掴み上げた。
「伯符が弓で射られたときの状況を知っているのは、あなたと配下の兵士たちだけだろう? 兵士にはあなたが口止めすれば、畏れて真相を話すまい?」
「まだ言うか!」
 言うなり徳謀は公瑾の顔を殴った。
「殴れ! 死に損ないの顔くらいしか殴れまい、この卑怯者め! あの勇壮な、真の英雄、真の覇者ともなる男を……!」公瑾はぐっと呻いて堪えていた涙を溢れさせた。「……あの孫伯符を…… あなたは目の前で見殺しにした……!」
「違う!」
 徳謀は掴み上げていた公瑾の胸倉を乱雑に離した。どすり、と硬直した公瑾の体が音を立てる。
「……伯符殿の馬は速かった。おそらくは気が急いていたのだろう、主公は突出して進んでいたのだ。薮から曲者が射掛けて来たとき、我々は少し後方に取り残されていた。駆けつけたときには、伯符殿は矢を受けていた……」
「どうして下手人を皆殺しにした? 発覚を恐れたのではないのか?」と負けじと公瑾も問いただす。
「馬鹿なことを! 主公は…… いや、伯符は…… 息子同然だぞ! 文台の忘れ形見、まさにあいつは後の覇王となる男だったのに……!」
 感情が激したのか、程普も肩を震わせた。
「……許に遠征して悲願を達成するつもりだったのに……!」

 徳謀の悲痛な声を聞きながら、その心が自身と変わらぬことを悟った公瑾は、ようやく疑念を払える気がしてきた。
 彼は伯符の間近にいた間者たちから手紙の話は聞き知っていた。間者たちは粛清を恐れて、公瑾のもとに保護を求めてきたのだ。その間者が語るには、伯符に疑いを抱かせずにおびき出すために、何者かが公瑾の名を騙って送りつけたものであろうと。
 曰く、許への遠征に際して防御の弱くなる恐れのある場所に気付いた、その善後策を話し合いたい、などと。
 伯符は信頼を寄せる公瑾からの手紙だと信じて外出した。怪しまれないように狩りを口実にして。公瑾は今の今まで、同行した程普こそが暗殺の片棒をかつぎ、伯符を見殺しにしたのだと疑っていた。しかし。
「……程公、失礼しました」と公瑾はややあってから口を開いた。
 声はすっかりかすれ、まるで別人のもののようだ。滑舌は悪く、時折歯を噛み合わせる不快な音が混じる。
 それでも話さなくてはならなかった。
「……ご推察の通りです。矢の毒が体に回ってしまったようです……」
「……」
 徳謀は公瑾に目をやった。その表情は疲れた老人でしかなかった。
「……貴公が暗殺の協力者ではないというのならば……一体、何者が……?」
「わたしに残された時間はもう幾許もありますまい…… だからこそ、真実が知りたいのです」
 徳謀はその言葉に小さく頷いた。
「私もだ。貴公が死の床で白状するのではないかと思った……」
「白状することと言えば、伯符の暗殺にあなたが一枚噛んでいると、長らく疑い続けていたことくらいです、程公」
 徳謀は僅かに苦笑を浮かべた。
「……どうやら我々は互いに疑い合っていたようだ」と低く言った。「貴公が真実を告げれば、せめて苦しませずに首を落としてやろうと思った。だが、告げねば……苦しみながら死ぬ様を嘲笑ってやるつもりだった」
「わたしが下手人の仲間の前提ですね……」と公瑾は困ったように苦笑した。
 徳謀は老人じみた声で小さく笑う。
「……仕方あるまい。でなければ、私は怒りを向ける先を見つけられなかったのだから……」
「その点については、わたしも同罪でしょう。長らくあなたを疑い続けていたのだし……」

 二人はしばし口を閉ざした。馬車の外はすっかり夜陰が広がっている。少し離れたところで兵士たちの野営の物音が聞こえるが、命令通り、馬車の近くに人の気配はなかった。
 そこでまた公瑾は体の強張りを感じた。無意識のうちに歯を軋らせてしまう。それは病の所為とばかりも言えなかった。為し得なかったこと、心残り、国表に置いて来た妻子のことなども。
 悔しい、と思った。

「……貴公の話を聞いておきたい」と徳謀が言った。その言葉には死んでいく者の、という響きが含まれていた。
 そう、矢傷から毒が回り、体中が硬直するようになると、大抵の場合、長くても数日ほどで死ぬ。顔の筋肉が硬直し、口が動かなくなり、涎を垂れ流し、顔を引き攣らせながら死んでいくのだ。口が動かなくなる前に…… 徳謀はそう思って行軍に追い縋って来たのだろう。
 ならばせめてそれに報いるべきだと公瑾は思った。

「伯符の元にいた間者たちのことをご存知ですね?」と公瑾は徳謀に尋ねた。
「知っている」と彼は頷いた。「事後の粛清を恐れて姿を隠したと聞いたが。なるほど、貴公を頼ったのか」
「はい。彼らが調べ上げ、偽物のわたしからの文のことを知ったのです」と公瑾は言った。
「……なるほど」
「確かに当時、わたしたちはやり取りの際に秘密の印を付けていました。それを何者かに知られてしまったのでしょう」
「それを知り得るのは……?」
「印はぱっと見たところで、区別が付くようにはしていませんでした。ただの傷に見えたでしょう、意識しなければ」
「……」
「主君との取り決めです、無論、わたしは誰にも告げませんでした」
 その言葉に徳謀は小さく吐息を漏らした。
「竹簡の簡と簡の隙間に十字を付ける、その場所はやり取りの回数で変わる」
 徳謀の言葉に公瑾は目を上げた。
「……どうしてそれを……?」
「伯符が言った」と徳謀は返した。
 大らかな伯符のことだ、信頼を寄せる相手には口を滑らせてしまった可能性がある。それを知っている者か、或いは故意かどうかは別にして、たまたま聞いてしまった者ならば、その手紙の偽造が可能だ。
「……なるほど」と公瑾は漏らした。「誰に話したかご存知ですか?」
「さすがにそこまでは」
「……張公には……?」
「……何が言いたい?」

 徳謀の低い声に公瑾は口を噤んだ。張公、すなわち張子布は孫策の頃から付随っていた、よもや裏切りの疑いなどかけたくはなかったのだが。
「……確かに張公は伯符の遠征にいい顔をしなかった」と徳謀は声を潜めた。「先の曹操との戦いにも…… 主公に降伏するべきと献策したが……」
 伯符がまだ生きていた頃、張昭は時折北方の有力な人物と交流し、文のやり取りをしていたと聞く。伯符はそれを懸念していたが……
「張公は北方に旧友があると聞きました。伯符はそれを案じていたらしいのですが、その友人の名をご存知ありませんか?」
「いいや」と徳謀は首を振った。
 徳謀は孫堅とともに叩き上げの武人だ。そういった政治的側面のある人間関係には少々疎かった。だが。
 たとえその友人の名が曹操本人ではなくとも…… その近しい者、あるいは家臣であったとすれば…… 袁紹とその援軍による、許の包囲網の綻びを願うに違いない。
 それには大軍を以って攻め込む予定だった伯符が邪魔になる。伯符さえ亡き者にすれば、曹操はひとまずは安泰となる……
 そして張昭自身は痛い腹を探られることもなく、属する一派の敗北を免れ、また、若過ぎる孫権の補佐としての役割も約束されている。失う物は何もないのだ……

 その考えに至ったとき、公瑾は思わず身震いしたことを思い起こした。そして今、同じ戦慄に徳謀がおののいているのだ。
 初老の武人はしばし考えを巡らせた。
「確かに張公は遠征に反対していたし、今の主公を操れるのは張公くらいなものだろう」
 公瑾はその言葉に頷いた。
「あの遠征は勝利すれば大きな益だが、敗北すればすべてを失う恐れがあった、軍閥の有力者も少なからず反対の立場を取る家もあった」と徳謀が声を潜めた。「正直、遠征が行われず、胸を撫で下ろした者も多いだろう。主公は家を継いだ直後、伯符の側近たちを徐々に中央から外していった……」
「程公は先代からの功臣、そしてわたしに関しては兵士狙いと言ったところでしょうね」と公瑾が言葉を継いだ。

 公瑾の周一族は江南ではそれなりの勢力を持った軍閥だ。それはかつて一族が三公を歴任したことによる。かつての袁家ほどではないものの、官位にあった頃に推挙した豪族などはその恩に対して相応の義理を感じる。結果、周一族が一声上げれば、兵士を集めることも可能なのだ。公瑾の直属の配下の兵士はそうして集められた者も多い。孫権としてはその軍閥周家を手放したくはなかったのだろう……
 はっとしたような表情で徳謀が口を開いた。
「……となると、従兄の国儀殿は……?」

 国儀とは孫策と孫権の従兄に当たる人物で名は孫輔、かつては伯符の片腕とも讃えられたほどの重臣である。幾多の戦場を共に駆けたほとんど兄弟のような間柄だった。その孫輔が伯符の死後、掌を返すように仇とも言える曹操と手を組み、文のやり取りをしていたとの疑いをかけられた。
 確かに孫権は当時年若く、まだその力は弱かったとしても、よもや伯符暗殺を裏で糸引くと思しき曹操とだけは、手を組むことなどあり得ないと思えたのだ。
「……わたしもそれを疑っていたのです」と公瑾は答えた。「もしも張公が関わっていたのだとしたら合点がいきます、国儀殿を断罪しに行ったときには、張公も同行していたはずですから。彼ならば言い逃れの出来ないような文を偽造することもできるに違いありません」
「……」
 徳謀は思わず絶句してしまった。

 公瑾は疲れを感じてきていた。意識が時折遠くなる、体は徐々に硬直して話を続けるにも努力が必要だ。口の動きが重く、果たして話している言葉はどれほど徳謀に伝わっているのだろうかと訝しむ。
 しかし徳謀は死に臨む公瑾から話を聞き出すためにわざわざ来たのだ、礼に失した真似は出来ない。

 ややあって、また徳謀が口を開く。
「……いつからそれを……?」
「張公が何らかの形で関わっているのではないかと思ったのは、国儀殿の一件の後でした。伯符と親しかった者たちが徐々に中央から外されていくのを見て、疑問を感じていたのです。そして国儀殿の一件で確信に…… つまり、わたしは張公とあなたが陰で手を組んだと思っていたのです」
「……」

 徳謀は物思わしげに口髭に手を触れた。
 結局孫輔は幽閉されたが、その後の知らせは届かない。直後に病死したという噂もあったが、その真偽も知れぬまま、彼の名を口にする者はいなくなった。誰も失脚した男の名を出して、新しい主君の不興を買いたくはない。

 口を閉ざしてしまった徳謀に目を走らせ、
「信じてくださらなくても結構です、これは死に瀕した病人の戯言です」と公瑾。
「いや、信じる」と静かに徳謀が告げた。「死に瀕した者だからこそ、生の中にある者に見えぬこと、気付けぬことがわかるのかも知れぬ。貴公は、その…… もしや、主公も……?」
 孫仲謀のことも疑っているのか、と。そう徳謀は尋ねたいのだ。話の流れを読んでいれば、当然、彼もそれに気付いたことだろう。
「はい」と公瑾は頷いた。「……しかし、確証はありません。もしかしたら、ただ、張公に言い含められて従っているだけなのかもしれません。……だとしても、許せることではありません」
「……」
 公瑾は伯符暗殺に関して、弟仲謀も疑っていた。同じ両親から生まれたはずの兄弟だったが、その性格に関しては真逆に近かった。伯符の死によって一番得をしたのが仲謀だ。伯符の息子は当時赤子だったし、もしも張昭と手を結んでいたのだとしたら。家督は安々と仲謀の物となる。
 仲謀は張昭を頼り、張昭は重用される。張昭が目指したのは商業で江の南を富ませることであり、それは仲謀の狙いとも合致した。彼を支持する軍閥や豪族たちもそれを喜んだことだろう。
 しかし伯符が遠征したら。無論豪族たちは遠征費用の援助をしなくてはならないし、成功すれば確かに大きな成果となるだろうが、戦は勝つか負けるか、終わってみなければわからない。そんな博打を好まぬ者も少なくない。
 目先が明るく見える仲謀の政策の方が、周辺の豪族たちの支持は得やすかったと言える。
 伯符はその好戦的な政策のために命を奪われたのかも知れなかった。

「……糞!」と小さく徳謀が毒づいた。「私は…… 伯符を裏切った者を見誤っていたのか……!」
 しかし公瑾は穏やかに言った。
「程公、どうかこのことはご内密に。すべては単なる憶測に過ぎません。本来伯符が得るはずだった栄光ある称号は奪われましたが、わたしたちは伯符の為したこと、為そうとしたことを知っているのです。伯符こそが我々の覇王です」
 徳謀は深く息を吸い、そして吐き出した。その呼気は僅かに震えていた。
「確かに憶測に過ぎない…… 我々は闇夜で烏を捕らえようとしているようなものだな。今、孫家の威光は勢いを帯びて、白さえ黒になる。黒の中で烏を捕らえようとしても……」
 公瑾は小さく溜息を漏らした。
「それでも烏はそこに…… 真実はそこにあるのです、程公。我々が捕らえる事が出来なくても、いつの日にか、誰かが…… そう思わねばやっていけません。わたしはこの地を去りますが、程公、どうか……」
「言うな、言わないでくれ」と徳謀は公瑾の言葉を遮った。「……どうして伯符を殺した者を許し、導けなどと言うのだ……?」
 公瑾はその言葉に静かに目を閉ざした。
「いいえ、それは申し上げません、程公。わたしがあなたに望むのはただ一つ。どうか、どうか伯符の名を讃えてやってください、彼の為そうとした偉業を語ってください……」
 それだけ言い終えると公瑾はもう一度、深い溜息を漏らした。既に口を動かすにもかなりの努力が必要だった。口元には飲み込むことが出来なくなった唾液が糸を引き、体は既に動かず、その背は徐々に弓形に反ろうとしている。
「……程公……」
「どうした……?」
「胸の内をすべてお話しいたしました。どうか、最初の思惑通りになさってはくださいませんか?」
 徳謀は思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「何を……」
「最早自分の剣を手にすることも出来ません。体中の筋が強張る前に……」
 美周郎と歌にも詠まれた男が、弓形に醜く歪んだ自分の骸を晒したくはないと言う。それは徳謀にも十分に理解出来た。



 徳謀は足音を潜ませて馬車を降りた。既に夜半、兵士たちは疲れているのだろう寝静まっている様子だ。しかし。
 馬車から少し下がったところに、公瑾の脇侍の兵士が静かに膝を折っていた。その様はひどく悲しげに、苦しげに見えた。それでも脇侍の兵士はそっと目を上げ、徳謀を見つめる。
 その徳謀の腕には返り血がこびり着いていた……
「……殿は、あの……」
 兵士は気付いていたのだ。公瑾の体が矢傷から入った毒に侵されていたことを。間近に控え、その顔色を読みながら仕えていたのだ、当然のことと言える。
 叩き上げの兵士であれば公瑾の初期症状がどれほど危険なものか、そして最終的にはどれほど苦痛を伴う死をもたらすか、全て知っているはずだ。
 徳謀は瞬間、彼が為したことに後ろめたさを感じ、ちらりと馬車を振り返った。馬車の床下には染み出した血が滴り落ちていた。
「……血を……」と徳謀は思わず口篭った。「血を吐かれ、亡くなった。皆にはそう伝えろ」
「承知いたしました」と兵士は応じ、深々と頭を下げた。「……ありがとうございました……」

 それ以上の言葉はいらなかった。誰もが認める美周郎が、病の末期に押し寄せる苦悶に顔を歪ませながら死ぬことなど、誰も望んではいなかったのだ。
 周瑜は死んだ、紅い花弁のような血を吐いて。そう語り、歌に詠めば美周郎の名が廃ることはない、決して矢傷の毒に汚染されたり、苦悶の表情などで穢されたりしなかったのだと語り継ぐことが出来る。
 清い思い出だけを残せるだろうと……

 徳謀は頭巾を被り直すと、静かにその場を歩み去った。

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