勇者

文字数 2,000文字

夜が明ける。世界が光に包まれる。闇のベールが剥がれるその様を勇者は魔王城近くの崖の上から眺めていた。
見事な景色である。眼下に見るは魔族の都市。城壁の向こうは深い森といくつかの集落がみえる。さらに奥には壮大な山脈が横たわっている。人間の王国は山脈をいくつも越えた先にあり、魔族の優れた伝達術式を用いてもいくつかの中継地点を経由せねば情報を伝えることができなかったという。この壮大な地域に住まう多種多様の魔族をかの魔王は見事に統べていた。
しかし魔王はもういない。数日にもわたる闘いの末魔王は勇者一行に討ち取られた。まさに死闘であった。針の穴に糸を通すような闘いであった。対峙した時点で一人でも欠けていれば、連携がコンマ数秒でも遅れていれば、作戦にほんの僅かな瑕疵があれば、どう足掻いても倒すことは叶わなかった相手だった。全員でようやく勝ち取った勝利であった。それなのに勇者のそばには誰もいない。勇者の体は傷だらけで剣を支えに立っていた。その剣は刃こぼれし鎧も左肩の金具が壊れていた。目の前の遥かな旅路をどう進むべきかすら見えてこない。だが、怪我に怒りいつも癒してくれた紅一点も、武具を直し皆を鼓舞してきた戦友も、悩みを打ち明け夢を語り合った相棒も、もうここにはいないのだ。

勇者は確かに魔王を討伐した。しかしこれが正しいことだったのか、勇者にはとうとうわからなかった。かつて魔族は人間にとって脅威でしかなかった。あちこちで魔族による襲撃が起こり人間の日々の生活は脅かされていた。王国は魔族から身を守るための人間の精一杯の自衛であり、長い間魔族と戦ってきた。状況が変わったのは今の魔王が現れてからだ。魔王は瞬く間に魔族らをまとめ上げた。そして王国と和平を結び互いの居住区を明確に区別した。それからの数十年は魔族の襲撃は一切報告されていない。国境付近では交易も盛んに行われ、互いの領地にしか存在しない物も多く取引された。互いに協力しあい未開の地を開拓したこともあった。魔王討伐を命じられたのはそんな平穏な日常の中であった。
「その憎しみとやらを晴らし我らに真の繁栄をもたらしてこい」
魔族から「救い出された」過去をもつ一行に王侯貴族はそう告げた。一行は当初は反対していた。魔王が討伐されれば魔族は荒れる。どう足掻いでも今の平穏は失われる。また脅威に晒され続ける生活に戻ってしまう。混乱期に魔族を掃討できれば話は変わるが、実行するには魔族の領地と数があまりにも多い。しかし貴族らの様子を見るにそんなことは百も承知のようだった。
結局一行は押し切られてしまった。貴族らの真意は定かではない。確かなのは、彼らは自分たちの利益にならないことは決して行わないということである。
もしかしたら貴族らには何か別のものが見えていたのかもしれない。この旅を通して何か得られるものがあるかもしれない。そんな微かな願いを抱き勇者は役目を全うした。しかし得られたのは空虚感と喪失感、そして平穏な魔族の社会を破壊したという残酷な事実のみであった。平穏をもたらすためと期待された勇者が平穏を破壊するとはなんという皮肉だろうか。魔王軍に属するもの以外に一切手出ししなかったのは一行の苦し紛れの贖罪でもあった。

もはや勇者には、これから何を為せば良いのか全くわからなかった。いつの間にか朝日は雲に覆われていた。

がさりと背後で音がする。驚いて後ろを振り返ると両手で花を抱えた子供がいた。魔族の子だ。こちらを見たままびくりとも動かない。魔族は子供であっても戦闘力が高く油断ができない。勇者は息も絶え絶えながら警戒を強める。魔族の子は逆光の勇者を見上げ、不安げな表情で語りかけた。
「お兄さん、どうして泣いてるの?どこか痛いの?」
それは勇者にとって全く予想できなかった反応であった。武力ならば受けられた。魔術ならば弾けた。せめて罵倒であったならばどうとでも切り返せただろう。だがその哀れみですらない、ただただ純粋な労りの言葉は文字通り勇者に刺さるものだった。
己が魔王らを倒してきた勇者であることは当に魔族らに知れ渡っている。この子供の家族も己が手にかけているだろう。その憎き仇が目の前で弱っている。それだというのに、その子は純粋な気持ちで勇者を労った。その傷を心配したのだ。
勇者はその場に崩れ落ちた。地に膝をつき手にした剣を落とし、脇目も降らず号泣した。その慟哭はどこまでも悲愴に満ちていた。魔族の子供は突然のことに困惑している。そしておずおずと近づき、戸惑いながら勇者の頭を撫で続けた。雲の切れ間から刺す光が二人をいつまでも照らしていた。

数日後の大雨の日、国王の元に魔王討伐の報が届いた。貴族らは大いに喜び各地で宴を催した。そこで暮らす人々も大いに遊び楽しんだ。衛兵・王国軍の兵たちは来る日に備え一層訓練に勤しんだ。

しかし、勇者を見たものは一人もいなかった。
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