第1話

文字数 1,048文字

「どうしてこんなことに……?」

 男は深くため息を吐いた。
 となりには男の服の裾を握りしめる少女。
 バスに乗った二人がいるのは山の奥深くの崖。アクセルをひと踏みすればあっという間に転落できる場所。確実に死ねる高さ。
 それなのに……。
 男は再びため息を吐いた。



 今から三時間ほど前。バスに乗りこんだ男はナイフを取り出した。
「今すぐ全員このバスから降りろ! 運転手もだ! 早くしろ!」
 鈍く光るナイフを振り回しながら男は叫ぶ。
 悲鳴が響き渡り、我先にと降りていく乗客たち。運転手も無理矢理降ろすと、男は素早く運転席に座りアクセルを踏んだ。
 やがてバスは山道へと入り、曲がりくねった道を上へ上へと進む。
 そして目指していた崖へたどり着くと、ギリギリのところでバスを止めた。
 ふっと息を吐く。ここまで計画通り。バスを奪い、乗客も全員降ろした。



……はずだった。



 不意に一番後ろの座席から現れた少女は眠そうな目をこすっている。
 男は一瞬呆然としたが、すぐにバスの扉を開け少女に言った。
「何してる! 早く降りろ!」
 だが少女はきょとんとして動かない。
 男は足早に少女の近くまで行きその腕を掴んだが、はっとして思わず手を離した。
 少女の薄汚れた服の下に見覚えのある傷を見てしまったからだ。
 男はぼさぼさの髪を掻きむしる。
(くそっ!)
 苛々を隠すことなく男は後部座席にドカッと座った。
 暫しの沈黙の後、男は立ち尽くす少女に向かってぶっきらぼうに言った。
「お前、名前は?」
 すると少女はポツリと言った。
「しらない」
「は?」
「よばれたことない」
 男は聞いた。
「俺がこわいか?」
 少女は首を横に振ると、ちょこんと男のとなりに座り服の裾を掴んだ。
 何故か男はその手を振りほどく気になれず、黙って窓の外を見た。

(どうしてこんなことに……?)

 俺は一人で死にたかっただけなのに。バスを選んだのはあの人への仕返しのつもりだった。
 きっかけは他人から見ればきっとほんの些細なこと。長年ひきこもっていた俺にあの人が発したある一言。

「××××」

 その言葉はナイフとなり、幼い頃につけられた消えない傷よりもさらに深いところへ突き刺さった。
 ふと視線を感じてとなりを見ると、少女が口を開いた。
「つれてって」
 男は何度目かわからないため息を吐くと、決心したように運転席へと向かう。



 数秒後。バスは音を立てて崖を落ちていき、爆音を立てて大破した。



 立ち昇る黒煙を眺めながら、男は言った。

「お前の名前、決めなきゃな」
 二人の逃避行が今はじまる。
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