第1話

文字数 30,601文字

戦友【軍神】
① 仲五郎(東郷平八郎)
馬に乗り、信長様の敵討ちに向かう豊臣秀吉がいた。

月夜に、仲五郎は目を覚ます。真っ黒な家の囲炉裏のそばで、家族で雑魚寝している。
でも、薩摩の9月の夜は、それほど寒くはなかった。
美しい月を見るため、窓のそばに行くと、母親が声をかけた。
「仲五郎、寝なさい。」
「うん。」
仲五郎の胸は苦しかった。真っ黒な床に敷いた布団に戻り、隣に歩いてきた虫をつぶし、口にいれた。
「僕は豊臣秀吉でした。」
仲五郎がつぶやくと、
「何言ってるだ。」
父親が言った。

「これは本当なんです。お父さんとお母さんには、分からないかもしれませんけど。」
「うん、それはいいから、もう寝なさい。」
母親が言った。
仲五郎は、美しい茶室と、寝室と、豪華な着物を思い出して、涙をこぼした。

お父さんは、金持ちの家来をしている。
みすぼらしい青い着物を着た仲五郎は、父親と手をつないで、田んぼ近くの道を歩いた。
「仲五郎は、農家になるのはどうだ?」
絶望的に感じた仲五郎は、口を閉ざした。
「何がやってみたい?」

「うーん、馬に乗ってみたい。」
「ああ、そうか。でも、家に馬はない。だから、今度、島津さんの家に行って、乗せてもらえ。」
「うん‥。」
「自分が豊臣秀吉だったという話は、他の人にしちゃダメだぞ。みんな、変だと思うからな。」
「分かりました。でも、お父さんは信じてくれますか?」
「まぁ~‥信じるとまではいかないけど、嘘ではないと思っている。」
父親は笑った。


② 無人(乃木希典)
1849年12月25日、乃木希典は現在の東京六本木に生まれた。
でも、その頃の東京は、今とは全く違う場所だった。
希典の幼名は無人である。上に兄が2人いたが、2人とも亡くなっていた。
無人には、兄達のように夭折することなく、壮健に成長してほしいという願いが込められている。
父親の希次は、江戸詰の藩士だったため、無人は10才までの間、長府藩屋敷において生活した。この屋敷は、赤穗浪士の武林隆重ら10名が切腹するまでの間、預けられた場所であったので、無人も赤穗浪士に親しみながら成長した。

無人はよく泣く子供だった。それは、大人になってからも治らず、スピーチの際には、必ず涙ぐんだ。

③ 仲五郎(東郷平八郎)
元服し、平八郎と名乗るようになった仲五郎は、1862年、初めて出陣した。
その後、戊辰戦争では、春日丸に乗り込み、新潟・箱館まで転戦して、阿波沖海戦や、箱館戦争、宮古湾海戦で戦った。

20才くらいの平八郎は黙っている時は、とても良い男で、芸者たちを虜にしたが、一度口を開くとおしゃべりが止まらなくなった。酒は好きだったが、酒を口にすると、どんどん毒が入るように、悪い話をしてしまった。
悪い言葉を言ってしまって芸者を泣かせた時に、今までの戦いで人を殺した時に、悪い呪いにかかったのかなとも思ったりした。
「どうしよう、やめようかな。」
平八郎は涙が出てしまって、料亭の廊下で赤い顔で自分を恥ずかしく思った。
「おそらく、悪い呪いにかかってしまったのだろう‥。」
平八郎は、壁に手をつき、つぶやいた。
見えない声が聞こえた。
『仕方ないさ。嫌でも、お前は軍人として、人生を生きるしかない。』
「もう嫌だ、やめたい。」
別の見えない声が聞こえる。今度は女みたいだ。
『確か‥こう言ってなかったかしら?僕は‥豊臣秀吉だって。』 
見た事もない可愛らしい女は、平八郎に笑い、消えた。

「へ?」
平八郎は少し元気になった。

④ 無人(乃木希典)
無人は元服し、名前は源三にした。1864年、少年時代から通っていた集道場の仲間たちと、盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。
1865年、第二次長州征討が開始されると、萩から長府へ呼び戻された。
源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉戦争に加わった。奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの成功を挙げた。
しかし、勉強が好きな源三は、軍にとどまることなく、明倫館文学寮に復学した。

⑤ 渋沢栄一
1840年2月13日、埼玉県に生まれた渋沢栄一の幼名は、栄二郎である。
1861年に江戸に出て、海保漁村の門下生となり、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門する。
23才の頃に尊王攘夷の思想に目覚め、幕府を倒すという計画を立てるが、尾高長七郎の説得を受け、中止する。
父親から勘当を受けた体裁を取って京都にでるが、八月十八日の政変直後だったため、勤皇派が没落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕える事となる。

慶喜が将軍となった事に伴い、栄一は幕臣となり、パリ万博を視察する。


⑥ 板垣退助
1837年5月21日、土佐藩上士、乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。坂本龍馬とは親戚である。
「うわあああーー!!!!」
少年時代の退助はわんぱくそのものだった。

1856年8月8日、高知城下の四ヶ村の禁足を命ぜられ、神田村に蟄居し、身分の上下を問わず庶民と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父、正成の死後、家禄を220石に減ぜられて、家督相続を許された。
1861年10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を命ぜられ、11月21日に江戸に向かう。
1862年6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い、勤皇に尽くすことを誓う。
10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊王攘夷を唱える。
1863年1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(利通)と会う。
1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により、下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(海舟)を招聘し、坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議し、4月12日に土佐に帰った。

退助は、土佐藩の上士としては珍しく、武力倒幕を一貫して主張していた。
1867年の5月には上洛し、中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日に、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次、船越洋之助らとともに、中岡と会見し、武力倒幕を議した。
さらに、5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、毛利恭助と西郷吉之助(隆盛)と、武力倒幕を議し、退助は、「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて、薩摩藩に合流する。」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。
6月2日に土佐に帰り、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。
8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受けるが、のちに中止した。
9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放する。
これに応じ、七軍勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。
10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。


⑦ 大隈重信
1838年3月11日、佐賀藩上士の家に生まれる。幼名は八太郎。
重信は7才で藩校弘道館に入学し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、1854年に同志とともに藩校の改革を訴え、1855年には退学となる。
このこと、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した勤皇派の「義祭同盟」に、副島種臣、江藤新平らと参加した。
1856年、枝吉の推挙で、佐賀藩蘭学寮に転じた。
1867年、尊王派と活動していた重信は、副島とともに、徳川慶喜に会った。
慶喜は重信に心を許し、本当の笑顔を向けた。
「それで‥。」
重信が切り出すと、慶喜は少し目を丸くした。
「はい?」
「慶喜様は、江戸幕府をどうお考えになっておられますか?これからも続けるべきかどうか。」
「ええと‥。それはやめさせないといけないと考えております。」
「そうですか。では、いつ頃までに‥。」
ザザ‥。ふすまの向こうで聞き耳を立てていた幕臣が立ちあがった。

「慶喜様。」
ふすまの向こうより、幕臣が声をかけ、慶喜は立ち上がった。
「もうしばらくです。」『10月』
慶喜は聞こえない声をくれ、重信はうなずいた。

その後、重信は捕縛のうえ佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けた。


⑧ 大政奉還
栄一がヨーロッパ周遊中の1867年10月14日、大政奉還が起こる。
10月19日にマルセイユから帰国の途につき、12月16日に横浜港に帰国した。
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会した。
栄一は、ヨーロッパ周遊中、ひしひしと思い出していた徳川家への恨みをかみしめていたが、一目慶喜を見ると、ヨーロッパでの土産話が止まらなくなってしまった。
まるで、慶喜は懐かしいお父さんのような感じだった。
慶喜は、栄一に静岡藩より出仕することを命じるつもりだった事を話すと、栄一は下を向き、それを素直に受け入れようと思った。
でも、慶喜は続きを言った。
「これからはお前の道を行きなさい。」

1868年1月27日から1869年6月27日まで、戊辰戦争が勃発する。
「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」旧幕府軍と新政府軍が交戦した。
新政府軍の指揮官に、西郷隆盛・板垣退助・大村益次郎がつき、新政府軍が勝利した。

1868年3月に五箇条の御誓文が出され、4月には江戸城無血開城が行われた。
勝海舟は、慶喜に自決を諭すつもりでいた。しかしいざ、慶喜を目の前にすると、開いた口がふさがらなかった。徳川慶喜は強そうな良い男だった。西郷隆盛はずっと前から慶喜を知っていたので、『わしが身代わりになるわい。』とも言った。しかし実際には、お金を渡して似ている男を用意するつもりだった。2人は冷や汗をかき思った。
『一橋慶喜殿を殺すわけにはいかない。』
戊辰戦争で新政府軍の指揮官に西郷隆盛、旧幕府軍の指導者に徳川慶喜がついていた。戊辰戦争でのトップ同士が、江戸城で向き合い、無血開城が行われたのである。
西郷隆盛の最終階級は陸軍大将である。それは元帥を意味している。


⑨ 東郷平八郎の留学
美男子の平八郎は、イギリスへの官費留学の話を耳にする。
「留学をさせてください。」
平八郎は、大久保利通に頼み込んだが、良い返事をもらえなかった。
大久保利通は目をそらし、「わしにはまだ分からん。」と言った。
利通には、平八郎はただの男にすぎなかった。
戦争にうずもれ、死にゆく男だ。そんなただの人を、イギリスに行かせるわけにはいかなかった。

「なぜ、平八郎はダメなんですか?」
平八郎を見込んでいる役人が、利通にたずねると、利通は眉間にしわをよせ、言葉を考えた。
「うーん‥。平八郎はおしゃべりだからダメだ。」

それを伝え聞いた平八郎は寡黙に努めた。
平八郎は、泣く泣く西郷隆盛に、イギリス留学を頼み込んだ。
そして、西郷隆盛から大久保利通に手紙を書いてもらい、平八郎はイギリス留学することとなる。1871年からの11年の留学中に、平八郎は、国際法について学んだ。

⑩ 御堀耕助と源三の昇格
源三の従兄に、御堀耕助という男がいた。
源三よりも立ち回りの良い男で、慶喜に対するあこがれを抱きながらも、倒幕派にいた。
1867年8月、西郷隆盛や大久保利通らと、倒幕の実施計画について会談をした。
倒幕についての考えを問われた耕助は、作り笑顔で言った。
「いや、幕府なんてダメですよぉ‥。慶喜なんて男には、日本を任せられません。」
源三は作り笑いで目じりを下げた。本当は、慶喜に対する憧れがあった。
もしもお仕えできれば、幸いだった。

隆盛と利通は、偽笑いの耕助を熱心に見つめた。
『我らは必ず歴史に名を残す。我らの中で、一番偉いのは‥。』
隆盛と利通は、顔を見合わせた。
『この男は、何番手なのだろう‥。』

『でも、悪い男ではない。普通とまではいかないが、平凡な男である。』
1869年、耕助は藩命により、山縣有朋や西郷従道と共に欧州視察に向かうが、香港まで行って、病気のためにいったん帰国した。同年11月、モンブラン伯爵らと横浜を発ち、パリで山縣有朋たちと合流した。
帰国後、薩摩で病気の治療を受けていたが、病状が悪化して、三田尻に帰った。

源三が耕助の見舞いに来た。
「お兄さん、具合いかがですか?」
「うーん。今は悪くない。ところで、お前の方はどうだ?」
「報国隊の漢学助教になったんです。」
「そうか。軍人の道をやめ、学者になるということか?」
「軍の仕事も好きですけれど、知識のない軍人は、ただ鬼畜と同じでしょう。」
源三が言うと、耕助は笑った。
「そうだな。でも、軍人の道に進むのなら、源三に、黒田さんを紹介できるぞ。」

源三は、黒田清隆と対面した。
そして、12月には藩命により、伏見御親兵兵営に入営して、フランス式訓練法を学んだ。
1870年2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍連兵教官として、馬廻格100石を給された。

それでも、落ち着かない日々が続いた。役職や格上げの話合いが、上の人たちの間で行われていたのだ。
しかし、「源三が少佐になる。」と前の週には知らされた。
「よし!」「よし!」
源三は、ガッツポーズをして、何度も喜びをかみしめ、鏡の前で敬礼をしてみたりした。

1872年1月3日、黒田清隆の推挙を受けて、大日本帝国陸軍の少佐に、源三は任命された。
22才の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢だった。
源三はまだ見ぬ未来の栄光の舞台で、インタビューを受けた。
フラッシュがまぶしい。
「今日という日は、生涯何より愉快な日です。」
「これから、どんな事を頑張りたいですか?」
「まずは、少佐として‥。」
源三は頑張りたい事を言った。


源三は正七位に叙され、名を希典と改める。

⑪ 東郷平八郎のイギリス生活
イギリスに留学した平八郎は、ダートマスの王立海軍兵学校を希望したが、イギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーで学び、その後、商船学校のウースター協会で学んでいた。

最初は、気軽に英語で話していた平八郎だったが、だんだん英語が分からなくなる。
「To go, China」
金髪の奴らにからかわれて、平八郎は学校の廊下で立ち止まり、赤い顔で涙をぬぐった。

夜、平八郎は誰もいない部屋で言った。
「ねぇ、僕にも、英語を話させてよ。」
「ダメよ。日本にいる男たちは、英語なんて話せないの。」
「どうしてだよ!僕はイギリスにいるんだぞ。英語ができなきゃ、何も分からないじゃないか。」
「英語の魔法は少しだけあげる。でも‥それ以上は‥。」
「なんだい。僕は嫉妬にあたっているってことかよ。」
「そう。その通りよ。平八郎には幸せになってもらいたいけど、私はみんなのための神様なの。」
「へぇ、わかった。じゃあ、もう向こうに行ってくれ!」
「Goodbye。」
「グッバイ。」

「僕にも英語を分からせてよ!!」
平八郎はまた、大声で叫んでしまった。
『静かに。みんな寝ているのだから。』
「だけど‥、みんなが話している事が、全然わからないんだ。昔みたいに、おしゃべりをしてみたいのに。」
『おしゃべりをするかわりに、口笛を吹いていなさい。』
平八郎は昔のように、楽しくおしゃべりをする自分を想像した。
それを消すように、平八郎は口笛を吹いてみた。
すると、口で吹いていると思えないような音色が、口から流れ出した。
「英語の代わりにくれるのは、これかよ。」
平八郎は布団を頭までかぶった。
そして、もう一度口笛を吹くと、安心した気分になった。
これで、イギリス人と仲良くできるかもしれない。

次の日もその次の日も、口笛を披露することはなかったが、平八郎は元気になった。
でも、また、英語が出来ない事に悲しくなる日がきた。
夢の中で、誰もいない廊下に向かって、叫ぶ。
「僕にも、英語を分からせてくれよ!!」

『平八郎、その部屋に行ってみなさい。』

平八郎は部屋に入ると、自分の名札が置いてあった。ここは、軍人としての自分だけの部屋みたいだ。引き出しを開けると、重くて小さなピストルが入っていた。
護身用としてのものだが、万が一の時、自分の頭を撃ちぬくための物だ。
平八郎は目を閉じ、それを閉まった。

平八郎は、その時から、黙る事を覚えた。

⑫ 栄一、実業界へ
渋沢栄一は、株式会社制度を実践する事や、新政府からの拝借金返済のために、
1869年1月に、静岡で商法会所を設立した。ところが、大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。
大蔵官僚として民部省改正掛を率いて、改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
1872年には紙幣寮の頭に就任した。ドイツで印刷された明治通宝を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。

「失敗したら大問題。」
と、ハナから大隈重信とは対立しがちだった。重信は、栄一にとって、『ちょっとこわいおっさん』だった。時々、『ちょっと嫌なおっさん』に変わったりした。

「お前の希望はなんだ?」
「いや、あなたには分かんないと思うので、いいです。」
そして、逃げる夢を何度も見た。
しかし、予算編成を巡って、大隈重信と大久保利通と対立した時、そんな無礼な態度はとれなかった。
「一体いくら使いたいだ?」
「ええと‥。」
あの時のように、栄一はうなだれた。
そして、重信が慶喜のような言葉をくれるのを待ち、上目で見た。
「まぁ、いい。何やるにせよ、しっかりと国を思い、生きなければいかん。」
栄一は、1873年に井上馨と共に退官した。
その後、実業界に身を置く事となる。


⑬ 隆盛と利通の最後
1877年9月24日、西郷隆盛が亡くなる日が来る。
西郷隆盛は食料を切らし、腹はペコペコだった。薄暗い中で、袋から食料をあさるように取り出し、食べた時は、若い頃に戻ったかのようだった。
いまだ、自分の中にみすぼらしい少年がいた事を知り、泣きたくなった。
前日に流れた葬送曲が、未だ、城山に小玉していた。

頭を少しおかしくした隆盛は、子分に聞いた。
「利通は来ているか?」
「来てないです。」
「そうかい。」

『死ぬ時の高揚はこんな感じなのだな。』
隆盛は、目を見開いた。目の前がくらくらしている。

政府軍が総攻撃を仕掛けた時、隆盛は、腹と股に被弾した。
急所の付近で、隆盛は目を開き、感覚をなくしたまま、膝をついた。
「西郷どん!」
別府晋介が、隆盛の肩にふれると、すぐにどこに当たったのか分かった。
「大丈夫か?」
「はぁはぁ‥。」
「どうする?」
「首はねてくれ。」
かすかに、隆盛が言った。
「晋どん、俺ら、もうここらでよか。」
「ごめんなったもんし。」
晋介が、隆盛の首をはねると、隆盛の頭はごろりと転がった。
隆盛は目を開き、『こんな事をするなんて信じられない。』という顔だった。
「でも、頼んできたでしょう!!」
晋介は頭まで血を浴び、腰をつき、怖気づいた。

仲間が、隆盛を心配しているうちに、晋介は刀で自決した。


隆盛の死を聞いた栄一は、具合が悪くなった。そして、イラ立つ事が多くなった。
隆盛の死のニュースが出た日でも、自分の前にいる若い連中は、笑い合っている。
『ふざけるなよ。』
「こんな大変な時に、先に逝ってしまうなんて、あいつ多分せこいよな。」
栄一はイラついて泣き、若者たちに憤慨した。


隆盛は、あの世ではとても暗くなり、怒っていた。
「なんで来なかっただ。」
隆盛は暗い目で、大久保利通を呪った。
『最後は一騎打ちの掟を交わしたのに。』

あの世でも隆盛を慕っていた武士たちが、利通殺害計画を持ち掛ける。
隆盛はその計画書を読むと、雲に乗った小さな天の神様が現れた。
『そんな事を実行すれば、あなたは二度と地上へ戻れなくなりますよ。』
「いいよ。」

「ダメです!!」
天の神様は大きくなり、隆盛の前に立った。
「どうして?俺だけあんなに無様な死に様はないぜよ。」
「それは仕方ありませんよ。」
「仕方なくないぜよ。」

「あなたが愛していた物は何ですか?」
「それは、日本じゃ。」
「あなたが地上に戻れなくなれば、日本は弱くなってしまうでしょう。」
「ふーん。結構。」

結局、殺害事件を決行する事となる。
あの世の布団に寝転がり、隆盛は笑顔で言った。
「俺が一番愛していた物は、利通じゃ。」

利通は、首に刀を刺され、目を開け死んだ。
あの世から、その死にざまを、隆盛は見た。
隆盛の心は凍り、二度と地上に戻れなくなってしまった。
利通は、隆盛と離れ離れになった事を呪った。
利通は生き返ったが、隆盛は生き返らず、2人はまだ会えていない。

「ええ、利通さんまで‥。」
新聞を読んだ栄一は、口をおさえ、息を飲んだ。

⑭ 希典の結婚
希典も西南戦争で指揮をとっていた。しかし、連隊旗を奪われ、自分もケガをするなど、散々な目に遭った。
特にショックだったのはあの事件だ。
戦いの最中、初老の兵が人質にとられた。普段なら気にとめないが、その時はなんかちがった。希典は涙目で敵を諭し、解放してもらった。しかし、翌日の夕方に初老の兵は死んでしまっていた。
体には踏まれた後もあった。希典は遺体のそばで涙をぬぐった。
そして、本気で自殺を考え、死のうとしたが、仲間に止められた。


その後、舞踏会で、希典は娘を紹介されたが、嫌いなタイプだった。
以前から目を合わせていた、藩医の娘お七を嫁にとる事にした。
ようやく自分も結婚が決まり、落ち着けると思った。
希典は煙草を吸い、空を見た。
「お前、お七を一生大切にできるのかい。」
神様の声が響いた。
「はい。できますとも。俺はお七さんのクソだって、食べれますよ。」
ピカッ。希典が言うと、遠くで小さな雷が光った。
「今のはダメだったか。」
希典は頭を抱えた。

別の日、夜空を見上げて、希典は昇進について願い事をしていた。
すると、大きな龍が来た。
「お前、結婚するんだってな。」
「はい。とても良い娘でして‥、僕らきっと、幸せになります。」
「そうか。その娘が年をとってからも、ずっと大事にしろよ。」
「分かりました!」

希典はお七と結婚をし、お七は静に名前を改名した。
2人で散歩中、希典は可愛らしい子猫を見た。
希典は静に言った。上空には、美しい曇り空が広がっている。
「静、あの雲、なんだと思う?」
「ええ。ただの曇り空だと思いますけど。」
「ちがう。ああいう雲は、天使を連れてくるのさ。」
希典は言い、笑った。

1978年、イギリスに留学していた平八郎は、帰国することになった。
帰国途中、西郷隆盛が自害したと知った平八郎は、
「もし私が、日本に残っていたら、西郷さんの下に馳せ参じていただろう。」
と言い、船の上で手を合わせた。
平八郎の実兄である小倉壮九郎も、城山攻防戦の際に亡くなっていた。


⑮ 敵多き男、大隈重信
重信にとって利通は、隆盛という仲間のいる恐い男だった。もしかしたら、江戸という首都が、薩摩に持って行かれるかもしれないと思うほどだった。
隆盛はいかめしい男で、神々しいといわんばかりの権力を誇っていた。
「こちらからしてみれば、お前さんの方がいかめしいんだぞ。」
夢の中で、隆盛から顔をのぞきこまれたことがある。

大蔵省の実力者としても、利通と隆盛には、気を使う必要があった。
官営の模範製糸工場、富岡製糸場、鉄道・電信の建設などの事業を重信が進めた時、民力休養を考えていた利通は、重信を嫌うようになった。
1870年に利通が、大蔵・民部の分離を行うよう運動を始めた時、重信はすぐに立ち上がり、利通に頭を下げた。
「大久保殿、ごめんなさい。許してください。」
「はぁ‥。」
利通は、重信の誠意ある態度に納得したようだった。

重信は、木戸孝允や岩倉具視とも対立するようになる。
重信は大蔵大輔に任じられていたが、免ぜられてしまう。
しかし、重信にとっての転機が訪れる。
重信にとって敵だった、孝允、具視、利通が、岩倉使節団として、アメリカに行くことになったのだ。

重信は、隆盛の信任を得て、大蔵省の実権を手にした。
内心、岩倉使節団のメンバーで、いなくなってほしくない男がいないほどであった。
しかし、戻ってくることになる。
その日、重信は朝から胃が重かった。でも、隆盛はちがっていた。
利通を見て、隆盛は笑って言った。
「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」
「そんな言い方ないじゃないか。」
「土産買ってきてくれた?」
「おう、あるよ。」
利通は、心がすっきりしたかのようだった。重信は利通と協力し合うようになる。

利通、重信、隆盛は3人で笑い合っていた。しかし、暗雲が立ち込めるようになる。
島津久光が、重信の免職を要求したのだ。重信は、病気を理由に辞表を提出したが、辞職はさせられなかった。

重信を嫌っていた木戸が復帰してくる。重信は、病気が悪化したとして出仕せず、三条、具視、利通は、重信の大蔵卿からの解任を検討したものの、後任候補がいなかったため、続投させた。
しかし、孝允と板垣退助が、重信の辞任を要求し、利通が重信を庇護する形となった。
久光と退助が辞職し、孝允の病気が悪化した事で、重信への攻撃は消滅した。

利通が暗殺されると、政府の主導権は伊藤に写った。
重信は言った。
「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう。」

1880年、重信は、後輩である佐野を大蔵卿とし、財政の影響力を保とうとしたが、重信が提案した外債募集案を佐野が反対し、重信による財政掌握は終焉を迎えた。
また、重信は、伊藤、井上からも冷眼視されるようになる。

しかし、1881年1月には、熱海の温泉宿で、伊藤、井上、黒田清隆とともに、立憲体制について話し合った。
しかし、伊藤との仲は再び悪くなる。
10月11日には、払い下げの中止と、1890年の国会開設、重信の罷免が奏上され、裁可された。これは、同日中に、伊藤と西郷従道によって伝えられ、重信も受諾した。

野に下った重信は、犬養毅らと協力し、1882年3月に立憲改進党を結成し、党首となった。
また10月21日には、早稲田大学を開設した。


⑯ 明治六年政変
1869年、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任する。1870年に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令した。1871年に参議になる。

1868年頃の西郷隆盛は体調を崩し、外出や閣議出席も控えていた。李氏朝鮮問題は、1868年に李朝が維新政府の国書受取を拒絶したことが発端だが、この国書受取と朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。
そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、隆盛と退助、副島らは、調査のために1872年8月15日に、池上四郎、武市正幹、中平を、清国、ロシア、朝鮮探偵として満州に派遣し、27日には北村、河村、別府を花房外務大丞随員として釜山に派遣した。それは実際には、変装しての探偵活動だった。

1873年の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔、上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。
この議案は6月12日から閣議により審議された。

板垣退助は、居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張したが、隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。
すると、太政大臣三条実美が、『丸腰では危険であり、兵を同行するべきだ』としたので、隆盛は拒絶した。
議会で立ちすくむ隆盛から三条は目をそらし、決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行う事を告げた。

「お願い致します。わしを満州に行かせてください。」
7月末より隆盛は涙目で三条に遣使を要求したが、三条は冷たい目で隆盛を見た。
「どうせ殺されるのがオチだぞ。」
「わしなら、いつ死んでもかまわねぇです。」
「命を粗末に考えないでもらいたいね。例え、自分だけの命だったとしてもだ!!」
三条は隆盛を指さしながら、強い口調で怒鳴った。

【朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる】
8月17日の退助宛の書簡で、隆盛はこう述べている。
どうしても自分が遣使として行きたいことと、隆盛が相手に合わせて意見を巧妙に変化させていることが分かる。

そして8月17日の閣議で隆盛の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった。
三条は、箱根で療養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奉上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき。」という回答がくだされた。
内藤一成は、明治天皇はまだ二十歳そこそこであり、三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている。

9月13日、岩倉使節団が帰国した。
利通を見て、隆盛は笑って言った。
「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」
「そんな言い方ないじゃないか。」
「土産買ってきてくれた?」
「おう、あるよ。」
利通は、心がすっきりしたかのようだった。

少し休んだ利通と隆盛は、他のメンバーと共に談笑した。あんなに嫌だった岩倉も、こちらを見て微笑んでいる。
利通と2人きりになった時、隆盛は利通を覗き込んで言った。
「三条のおっさん、おいらを満州に行かせてくれないんだぜ。」
「どうゆうこと?」
「利ちゃんはいいだろ?長くエメリカに行ってきたから。」
「いいや、別に楽しいんじゃなかったよ。」
利通は鼻をかき言った。隆盛は正直言って、今にも涙がこぼれそうだった。

「ふーん、隆ちゃんが行きたいなら、満州に行かせてもらえば?」
「そうだな。もう一度、頼んでみる。」

次の日、使節団がいない間に、留守政府がどういう改革を行ったのかを、退助がすまし顔で説明して、隆盛が補佐で言葉を交わした。
学制改革、徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革などである。
『ええ、そんなに?』
利通は隣にいる岩倉と木戸を見た。岩倉も木戸も目を丸くしている。

『利ちゃんがそっちを選んじゃったんだから。』
隆盛を祈るような気持ちで利通を見た。利通は鋭い目で隆盛を見たが、隆盛の目を見ると、すぐに視線を下に降ろした。
『許せない。』
利通は口元を少し動かした。
「どうしただ?」
隆盛が聞くと、利通はうなだれて、口をおさえて、下を見た。

「どうしたじゃないだろう?なんだよ、これは。」
岩倉が言った。
利通は隆盛の手前、ふくれてみようと思った。隆盛も利通と仲良くしたいと思った。
しかし、2人は神様の糸に動かされてしまう。
2人は仲たがいしてしまった。

「みんな驚いた顔してたね。」
退助は隆盛に言った。退助はいつでも元気である。留守内閣時代、隆盛は退助に腕を組まれた事もあったし、退助が名前にTを持つ者が多いと言った事もある。よく夢の話もされた。清で中華まんを食べたというホラ話である。

利通は人が変わってしまった。利通は妖艶なオーケストラの音色に包まれ、隆盛と対決する意向を決め、子供達に遺書を書いた。一方で、隆盛は遣使の決定が変更されるなら自殺するという書簡を三条に提出した。

10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣、江藤、後藤、副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時遣使を主張した。このため15日の閣議では、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、西郷の即時遣使を要求した。
決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った。しかし、期日等詳細は決まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したものにとどまった。
10月17日に岩倉、大久保、木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。
三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて、18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した。夜になって三条は自邸に隆盛を呼び、決定の変更を示唆したが、隆盛はこれに反発した。
翌日、三条は病に倒れた。
10月19日、副島、江藤、後藤、大木の4人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とすることを、徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された。
10月20日、22日に岩倉が太政大臣摂行に就任し、西郷、板垣、副島、江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にでも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行になっているから、三条の意見でなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。
四参議は「致し方なし。」として、退去した。

岩倉は10月23日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べたうえで、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した。岩倉と大久保は目を合わせた。利通は祈るような気持ちだったが、岩倉は昨晩数時間かけて考えた明治天皇への脅しの芝居を決行するか悩んでいて、冷や汗だらけだった。
岩倉は肩で息をした。大久保も顔が真っ赤になった。西郷は遣使反対派をちらりと見て、また前を向いた。利通は隆盛に声をかけようと思ったが、声が出なかった。完全にあちらのゆすりである。あちらというのは、神の国の人の事だ。
「エメリカに行った時、面白くなかったのかな。」
隆盛はふと、そんな事を思ってしまった。
隆盛は潔く辞表を提出し、帰途についた。自分がやらんと決めていた事は、2人がいないうちにやっておいた。隆盛はずっと自分のパートナーは利通だと思い込んでいた。退助という偽パートナーを見た時、イライラした。この男はいつでもパーティー気分である。しかし、退助とならうまくいった。もしかしたら、本物の俺のパートナーが退助だと想像を始めた時、胃がきりきりと痛んできた。3カ月前にウサギを食べた事が体をもたらせていたと思う。前に古事記を手にとり、パラパラとめくってみたが、よく理解しなかった。神など不思議なものだ。不思議なものなど、この世で信じなくていい。
隆盛はよく酷い事をした。人を殺めた思い出があるとしたら、瀕死の婆さんが川のそばで寝ていて、息を確認するために口に手をかざし、もしかしたら押さえた時の事だ。でも、あれは夢でいい。隆盛がした酷い事は、動物を殺す事だ。小さい頃からよくやった。優しく話しかけて、首をぽきんと折るだけ。そうやって呪いを集めていた。自分でも知らない間に。

10月24日、岩倉による派遣延期の意見は通った。
退助、江藤、後藤、副島らが辞表を提出し、25日に受理された。
本当は受理されたくはなかった。受理された時、本当にイライラして、涙が出てしまった。
この一連の辞職に同調して、政治家、軍人、官僚600名が次々と辞任した。
事実上の解体である。明治六年政変。

利通は意味が分からなかった。黒い悪魔に取り憑かれたようで、便も奈落の底で固くなっている感じだった。ただ悪魔に突き動かされた。
「国家将来のために悪評をかぶるつもりで実行しました。」
利通はか細く震える声で、部屋で寝間着姿で何度か繰り返した。
「あなた‥。」
障子の向こうに妻がいた。こちらにどうしてもらいたいのかは、知っているつもりだった。こういう事は、確かに嬉しい日もあった。だけど、ささやかな事だ。翌日に妻と何をしたのか知っているような議員が怒鳴る時は、世間は厳しいと感じる。妻の事も嫌いになる。
でもそんな時、頼りになった人は、隆ちゃんだ。
「ずっと、我らは友人でしょう?ねぇ、隆ちゃん。」
布団の中で言い、涙をぬぐった。

大隈重信は、西郷が遣使を望んだ事は、征韓論の盛り上がりを見て、朝鮮宮廷で殺害される事を最後の花道として望んだ、自殺願望ではないかと推測している。


1875年9月20日、江華島事件が起こる。
「江華島事件大変だな。」
退助がそう言った時、隆盛は西洋の空気で気分が朦朧としていた。夢を見ていたのかもしれない。一瞬、退助が朝鮮語をしゃべったのかと思った。
『本当はこっちと仲良くしなければならない。』
何度、一人言を言い、顔を手でぬぐったことだろう?よくよく考えてみれば、もしもお隣と仲良くすれば、エメリカという大国が攻めてくるに決まっていた。
「雲揚号事件、大変な事になっちゃったんじゃない?」
退助はキャンディーをなめながら言った。
「こっちには死者がいなかったからよかったんだけど。」
「死者は出ずに?」
「いや、いたけど、一人だけ。」
退助は人差し指を上げた。


⑰ 新選組
下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、1874年に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。
1875年、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。
1877年、西郷が亡くなったと聞かされた時、退助は股を抑えて座り込んだ。すごく息ぐるしいのが分かった。涙さえ出ない。肌はみるみるうちに白くなった。
息苦しいのは何日か続いた。
『何か甘いの食べれないかな。』
「ちくしょう。」
こういう時にでさえ、食い意地を張る自分が悔しかった。今まで悔しかった事は数えきれない。一番は、戦いの最中に仲間がウサギを食べていて、自分だけが食べそこねた事だ。

1881年、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。

1882年3月10日、板垣退助は東海道演説旅行のために東京を出発した。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。

4月6日午後1時、岐阜県厚見群富茂登村(現岐阜市)の神道中教院にて、板垣、内藤ロイチらが自由党懇親会の演説を行い、午後6時頃演説を終えた。

退助は演説の後はいつも神経が高まるのを感じていた。大きく呼吸をする。

ふいに、隆盛の事を思い出す。
『隆盛殿、文久の時…。』
「おーい、西郷さーん!!」
退助が隆盛に話しかけた時、邪魔が入った。隆盛の足の間にしゃがんで顔と手を出した事はもう覚えていない。もともと自分は幽霊みたいなヤツだ。いや、もとは幽霊だった。戦に出て、死んできたんだし‥。
隆盛は話終わり、こちらを見た。
「あの‥。」
「文久って、八月十八日やろ?」
「はい。その時はどこに?」
「俺は島流しになっていたから、話にしか聞いておらん。あの日の事はな。」
「僕はその場にいたんですよ。」
退助は顔をほころばせた。
「俺が思うには‥、三条のおっさんが力を持っているから、そういう事が起こるんだぜ。」
隆盛は少し笑った。
「新選組はどうしましょう?」
「あいつらの事は別にいいぜよ。好きにやらせときゃ。」
隆盛は言ったが、黒い瞳の奥はきらりと光っていた。



⑱ 日清戦争
日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。

東郷平八郎は緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦、黄海開戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦第一遊撃隊司令官として澎湖諸島攻略戦に参加した。

乃木希典は1892年12月8日、10カ月の休職を経て復職し、東京の歩兵第一旅団長となった。日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。
乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港を出港して、10月24日、花園口に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、11月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた。
1895年、乃木は蓋平、太平山、営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた。
日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となった。

1896年10月14日、乃木は台湾総督に命じられたが、1897年11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退による台湾総督の職務実行困難だった。

⑲ 日露戦争
日露戦争とは1904年2月8日から1905年9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。

図書館で本を借りた東郷平八郎は本が破れているのに気がつき、直すことにした。
図書館の係員は言った。
「あの、こういうのは直さなくていいですから。」
「へ?」
「ほら、二枚、貼りついちゃってる。」
「はあ、すんません。ほんまに申し訳ないです。」
「いや、いいですけど‥。」
係員は海軍の服を着た東郷という男がどれほどの男なのか観察した。
平八郎は小恥ずかしい気分で図書館から出た。
ドン
ぶつかってきたのは、桃色の着物を着た娘だった。
「ああ‥。」
「だ、大丈夫かや?」
「ええ、ありがとう。」
娘は平八郎の手をとった。
「ああ、次回からは気をつけるように。」
平八郎は何度か娘と出くわすようになるが、日露戦争に向かう事が決定する。
平八郎は一人きりの部屋で言った。
「僕のこと、好きなんですか!」
「自分のこと、愛してますか!」

「ならばついて来ないで下さい!!これから、難しい戦争をしますから。」

東郷平八郎は、旗艦「三笠」に座乗して、海軍の作戦全般を指揮する。
旅順封鎖作戦時の触雷による戦艦「初瀬」「八島」の喪失を報告されても周章狼狽せずに両艦の艦長を労い、海軍内の動揺を収めた。6月6日には大将に昇進している。


そして1905年5月27日に、ロシアのバルチック艦隊を迎撃する。
作戦会議が行われたが、一週間前になっても本筋が立たない。東郷はイラついて、拳で机を叩いた。みんなが部屋を出ていくと、東郷は落ち着いて地図を広げ、作戦を練り始めた。
途中、女神のささやきや、女性の悲鳴が聞こえたが、無視するしかなかった。霊の声が作戦を教えたが、東郷はそれをやったらダメだという説明をした。
東郷は一人で本筋を立てた。

この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
東郷は敵前で大回頭を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。
これを「トウゴウ・ターン」という。

乃木希典は第3軍司令官に任命された。乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。
『名誉の戦死を喜べ』と電報には記載されており、勝典の戦死は新聞でも報道された。
1904年6月6日、乃木は児玉源太郎と共に大将に昇進し、12日には正三位に叙せられている。
第3軍は6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回、10月26日に第2回、11月26日に第3回の総攻撃を行った。また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した。

途中、作戦はうまくいかず、乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2400通も届けられた。

そんな中、11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死する。
『お父さんが偉い人だからといって、お前たちが隠れるような真似があっては困る。』
乃木は息子達に、自分が先頭に立って戦えという指導をしてきた。
息子達とはよく戦争ごっこをし、乃木は味方の影に隠れる兵士のモノマネをして、息子達を笑わせた。
しかし、長男の勝典が戦死して以来、『勝典が死んで、お前まで死なれたら困る!』と保典に言い聞かせたが、保典は兄への愛を選んでしまった。
保典の戦死を知った乃木は呆然とした後に、顔を赤くしたが笑顔で言った。
「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」

長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後には、「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした人もある」という俗謡が流行するほどだった。

乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦だったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された。
しかし、東郷平八郎と向き合った時は辛かった。『海の東郷、陸の我。』乃木は舌で上唇をさわり、下を向いた。生えかけの頬の髭にさわると、泣きそうになってしまった。
東郷は軍人としての言葉を言い、「立派だった。」と言った。そちらの方が一つ年上だったので、少しだけ安心した。しかし、家に帰ると一人の布団の上でわあわあ泣いた。船のおもちゃをぶつけ合い、『だけど、向き合って人を殺すなんてやらないんだろう?』白髪交じりの髭に涙をこぼした。船の戦がぶつけ合いじゃないとは、知りたくはなかった。
ふいに、息子の辛い顔を思い出してしまって、よけい涙が出た。




⑳ 乃木希典
明治天皇の勅命により、乃木は軍事参議官と学習院長を兼任することとなった。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職につく場合、予備役に編入される規定だったが、乃木が予備役に編入されることはなかった。

『いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ』

明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれている。

乃木は生徒と寝食をともにし、駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた。学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した。
乃木は本当に面白くて、時々つばを口の周りにこぼしていた。この人が日露戦争に行ってあんなに嫌われた人だとは信じなかった。でも、日本全員が一度嫌っておいて、息子2人を亡くした乃木を、全員また好きになったのだ。乃木はそういう人だった。
ある男子生徒が、「クソ戦争。」と言った時、乃木は顔を暗くした。そして、腕組みをして、涙をこぼした。その時、やっぱりこの人が乃木大将なんだと、皆が実感した。皆沈黙して、男子生徒を睨み小突いている時、ある女子生徒が言った。
「だけど、先生って、元帥にもなれるんでしょ?」
「いや、私はならん。」
「えー、なんでー。」
女子生徒は顔をしかめてしまった。親が昇進できないような気持ちだった。
男子生徒はあとで謝りに来た。乃木は快くそれを許した。たくさんの物を嫌い、自分がどれほど失って、人を殺してしまったか。よく一人で怒っていた。だけど、男子生徒のおかげですっきりした。

乃木は裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育係も務めた。裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。
乃木はそう言ってしまった後、裕仁は天皇家でそれを話すだろうと思い、恐くなった。だけど、仕方のない事だ。もしそれを続ければ、裕仁は命を狙われかねない。歩いた方が危険でない気がする。今まで、自分はたくさんの人殺しの作戦を見たし、それがどんなに卑怯でうまいのかも分かっていた。

素直に歩いて登校するようになった裕仁に、乃木は話しかけた。
「おや、ミドリムシがついているよ。」
「え?」
ミドリムシと言われて、裕仁はカメムシを想像したが、「ほら。」乃木が見せたのは、緑の幼虫だったので、裕仁はぎょっとした。
「うわ。」
「大丈夫、まだ幼いからね、刺さないよ。」
「うん‥。」
『これ、食べてもあんまり美味しくない。』
「大丈夫か!」
「ええ、平気です。」

裕仁は勉強がうまくできないが、絵は上手だった。しかし、この先何十年後かに、この子が日本を指揮すると思うと、乃木はいてもたってもいられなかった。
「お前、こんな勉強もできんか!」
「はい‥。」
「なぜだぁ!皇室にはもっと良い世話係がいるだろう!」
「うん‥。でも、ダメだから、先生に教えてもらえって。」
「ああ。こりゃ、俺でもなんともできんぞ。」
乃木は赤い顔で頭を抱えた。

裕仁は居残りで勉強をする事となり、乃木はそばの机で生徒の日記に返事を書いたりしていた。乃木がもしも現代にいれば、人生の教訓を本に書いたり、インターネットに記事を載せたりする事が好きかもしれない。
裕仁は立ち上がり、静かに乃木の下に来ると、「院長閣下、質問いいですか?」と言った。
「ええ?」
「ん。」
裕仁は口ごもり、自分の机に戻ってしまった。
「なんだ?言ってみよ。」
「えーと。」
裕仁は遠くを見て、現代風の若者の顔をしたので、乃木はつまらんと思い、裕仁の前まで歩いた。
「なんだい?ひろ。」
「んーと、先生は戦争での出来事を全て記憶していますか?」
「はい。もちろん。」
「では、この問題を解いてください。」
「だから、これは俺じゃできないって。この問題は先生が解くもんじゃなくて、お前がやるんだぞ!」
「人は気づいていない間に記憶を消してもらっています。僕はそれを知っているから、戦争に出ないように天皇になるんです。」
裕仁はついに泣きだした。
「ええと‥。お前は何を言っているんだ!こんな幼子を本気で天皇にしようなんて思っとるヤツはおらんて!」
「うん‥。でもね、人は気づかぬ間に、神様から力をいただいているんです。」
裕仁は泣いた。

乃木は考えた。確かに、今までの戦争で自分は何度も撃たれた気がする。それでもまだ生きているのは神様のおかげかもしれない。いや、でも‥。乃木は頭を抱え込んだ。神様がもしいるとするなら、なぜ俺の息子の命を奪ったんだ?『自分なら絶対大丈夫。』と信じて、陸軍大将をやったんだぞ。けれど、息子は戦死してしまった‥。
「俺の部下なら死にゃしない。」と言ったこともある。

乃木は天皇家に畏れを感じていた。過去に戦争で人殺しをして鬼になった時の記憶が現れて、冷血な目をすることがある。現代のように薬も発展していなかったので、乃木は体にたまったホコリと共に、心も弱くなっていた。
確かに、明治天皇は神様の世界から降りてきた男だと信じている。しかし、どうしても、明治天皇から神様の話を聞く事はできなかった。俺ゃ、なんだかこわくて、たずねることもせんかった。なぜ、一人で戦争をやめさせるんだ?
『は、始めたのは、貴様らの方じゃ。』
乃木は明治天皇になりきって、一人の時に言った。明治天皇が言うはずの文句を自分がいう事がある。

1912年7月30日、明治天皇は61才で崩御した。危篤状態になったときには、乃木にだけひそかに事態が知らされていたという。
乃木は正直言って、辛かった。明治天皇と乃木は、1杯だけ酒を飲んだことがある。しかし、乃木はそんなこと、他の連中と何度もやっている。戦友との酒飲みはそんなに品が良いものではなくて、にぎやかにヤクザのように笑い、盃を交わすというものだ。
たった1杯、酒を飲んだだけで、もう友達だったのか?それが分からなかった。乃木はもっといい連中を知っていた。
だから、悲しくて‥。俺ゃ、優しいので。

乃木は悲しい目をして、家の表札を外してしまった。

乃木は大粒の涙を流して、裕仁の手をにぎった。
「悲しいね。大帝が亡くなっちゃったよ。裕仁親王、これからはあなたが頑張るんだよ。」
「うん‥。」
裕仁も泣いた。

乃木は小説家の森鴎外と親交があるが、森鴎外は訳が分からない男だった。戦争に行ってきたのは皆同じだが、森の変わり方はどこかおかしかった。
「うわ。」「普通じゃない。」
2人で話している時も、横を向いてひとり言を言い出すのだ。
「君はどこか悪いんじゃないか?少し様子が変だぞ。」
「いえ、大丈夫です。あのよければ、僕の新小説を読んでください。」

1912年9月10日、乃木は裕仁に本を渡し、熟読するように言った。森鴎外の小説を読ませようという心も少しはあったが、あれではこの人の勉強にならない。
「はい。これはすごく勉強になる本だよ。」
「うん。あの‥院長閣下はどこかへ行かれるのですか?」
「いやいや。わしはもうここにはおられんのだよ。」
乃木は赤い顔で言った。裕仁はもう一度、乃木の手に触れたかったが、我慢した。

乃木は明治天皇から長い手紙をもらったが燃やす事にした。
「なぜそれを燃やすのですか?」
妻が聞くと、
「こういうものは取っておいちゃいかん。」
乃木は答えた。

「あなた、西郷隆盛さんとも戦ったんでしょ?」
前に妻が言ってきた後、なんだか不気味な感じがした。
日露の後‥。俺はけしからんと怒鳴った。もう限界だった。別れたいが、世間が赦してくれない。死んで別れるしかない。最後の最後まで、明治天皇が導いてくださったのだ。

乃木はお茶を飲み、言った。
「さっき便したでしょ?」
「してないです。」
「だって前に、玄関にあったんだぞ。汚い黒いのが。」
「そんな事、なんで言うんです。」

「俺は、もう死のうと思う。」
「はいはい。勝手にくたばれば‥。」

「お前、俺と別れてくれ。」
「なんでそんなことを。」
「できなければ、今、ここでお前を殺す。」

9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木は妻を殺した。本当はまだ、7時台だったと思う。最後に目を開けて死んだ妻を見降ろし、乃木はようやく妻が求める男になれたと思った。妻が浮気した若い兵士は、そのようにふるまっただろうか。うん、そうだろうな。最後に、乃木は優しい顔で涙をこぼし、指でぬぐった。
生徒たちの顔を思い出して、グーで目をこすり、裕仁の気配を強く感じた。
やはり、彼には何かがある。
『来る。』
裕仁は、自分の家まで車を回すだろう。
「ひろちゃんに、神様のお話を聞けたかもしれないな。」
乃木はこう言わない。
乃木は外国語をしゃべれないことに劣等感があった。しかしなぜ、日露のあとに、自分は英語もロシア語もドイツ語も話せたのだろう?
何度も何度も、自室で外国語を試してみたが、ダメだった。
最後に外国語を口にすることができた。自分でもなんと言ったかわからんほどの言葉を。
おそらく神の世界の言葉だろう。神の世界の言葉など、現実では通用しない。
それを悔しく思った。

『来ちゃうな、ひろちゃん。』
午後8時、天皇の柩が二重橋を出発したときに号砲が鳴ると同時に、乃木は頸動脈を切った。
真っ赤な血とともに床に倒れた乃木は、人生の炎が冷めるのをじかに感じて楽になった。

「神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる」

「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」

裕仁はやはり車を回したかった。しかし子供のわがままは通らず、家来が馬に乗って、乃木の家まで見回りにきた。良い男の家来は「多分大丈夫だろうな。」と言い、乃木家の門は叩かなかった。灯りは煌々とついていた。

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手に泣いてしまった。
「なんであんなに嫌ってしまったのだろう。」
多くの人がそう言っていた。一度は嫌ったが、二度目は好きになった。
裕仁は乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、
「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた。
あの時の家来は遠くから裕仁をながめた。裕仁に咎められるのは怖くて、必死で言い訳を考えたが、誰にもとがめられなかった。

乃木夫妻の葬儀は1912年9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。

1892年生まれの芥川龍之介は、乃木の訃報を新聞で読むと、ギョッとした。
親父がそわそわして悲しそうだったが、理由をたずねなかった。たずねる必要もない。俺に学習院を進めてくるんだもん。
『あんな親父大嫌いだからね。』
そう思って新聞を開くと、ちょうど、乃木が死んだという事が書かれていたので恐くなった。両親はすすり泣いている。オラァ、どうしても、あの軍人を好きになれないねぇ。
龍之介は足音を大きくして二階に上がり、原稿用紙を前に文字を書きなぐったが、すぐに疲れて涙が出て来てしまった。

乃木のことを、皆が褒めたたえているが、俺は好きにナレナインデ。スイマセン。サヨ―ナリ。
ふざけて原稿用紙に文字を書くが、こんな物を提出するわけない。
「出せないし。持っていくわけないし。」
龍之介は原稿用紙をながめて、ぶつぶつとつぶやいた。
『君は、サマになっている。
君は文人墨客の風情がある。』
太宰治は、小説家になりたい男の話を書いている。だいたいは、芥川龍之介のことである。

乃木は、昔の文豪に最も愛された軍人であることはまちがいない。
夏目漱石「こころ」森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」
芥川龍之介「将軍」
三島由紀夫「憂国」
司馬遼太郎「殉死」
渡辺淳一「静寂の声」

乃木が亡くなった1912年には、この物語の主要登場人物の半分くらいが生きていた事が不思議である。明治維新はすごいと思う。徳川慶喜もまだ生きていた。板垣退助もまだ生きていた。大隈重信もまだ生きていた。渋沢栄一もまだ生きていた。

大隈重信は乃木に厳しく叱責した事がある。でも日露での勝利、ああ、あの時は自分をなさけないと思ったな。
重信は重い義足で机を蹴り、大きな音を立てると、そのままうつぶせに倒れていた。


渋沢栄一は、その時、乃木どころではなかった。日本の経済、財閥、金融‥それらのために奔走していた。自分の敵か敵でないのか、はっきりと境界線を分けていたので、乃木は敵ではないと決めていたし、眼中になかった。伊藤博文はちょっと敵だった。敵な時もある。でも、日本初の内閣総理大臣だったので、こりゃ歴史的人物であるなと感じ、畏れていた。乃木さんが亡くなった事で、日本の経済がどう変わるのか、それが問題だった。


「乃木って誰ぇ!!」
退助は最初から乃木が国民から愛されていることに嫉妬を感じた。自分よりも10つ以上年が低い奴だ。嫌だ。
退助は乃木が嫌いだった。
「俺も連れて行ってくれよぉ!!」
退助は誰もいない所で自分がしてきた戦を述べ、西郷隆盛とも戦ったことにして話をした。
しかし、すぐに黙って首をふった。
「隆ちゃんとはそんなことできないよねぇ。」
時々、退助は利通になる事があったようだ。

「乃木さん亡くなりましたよぉ!!」
ちょっとうざかった若手が言い放ったのが、第一報だった。妻が持ってきた新聞を手にとり、広げた。やっぱり、この時も、利通になってしまっていた。
利通は、東郷も乃木も流れ弾で死ぬ男だと思っていた。
隆盛もちょっとそれは思ってしまったかもしれない。
退助は言った。
「最後までやる事が派手だな。」

『板垣死すとも自由は死せず。その方が良いだろう?歴史的名言だよなぁ!!神よ!!』
退助は便所の後で思った。


徳川慶喜は、乃木大将なんて誇り高くて嫌いだった。でも、新聞を読むと、涙がでた。慶喜は戦が上手い方だと思っていたが、海外では実践していない。
『外国となんか、仲良くしなきゃいけねぇし。』
慶喜はカメラに手を伸ばすと、青と白の模様の着物姿で横になった。時々、目のピントが合わなくなり、このカメラを目の代わりに代用しようかと思っていた最中、知人がたずねてきて、眼鏡を作ってくれた。



㉑徳川慶喜
徳川慶喜が40歳の誕生日を迎える8日前、49歳の西郷隆盛は大きな声で1人喋りをして満面の嘘笑いをして言った。(この頃は電話などない。)
「慶喜さん、誕生日おめでとうございます。」
『ありがとう。』
慶喜も泣き笑いをした。



㉒板垣退助
1898年、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は隈板内閣とも呼ばれる。
退助は子供じみたところがあり、大隈重信にむかって「みんな、あんたのそういう所が嫌いだった。」と言った。西郷隆盛の名前を出すと重信がぎょっとするので、退助は最後まで、西郷隆盛の名を時々出していた。
「あの人も缶詰になっていた。」
重信がそう言った時、退助は弁当を食べながら、上目で重信を見た。内心、今度は俺の方が驚いた。どういう事だろう?詳しくは聞けないが、知らない方が得なのかもしれない。

内閣は内紛が激しく、4カ月で総辞職せざるを得なくなる。総辞職を決めたのは、重信だ。重信は神様の声を聞いた。
1900年、退助は立憲政友会の創立とともに政界を引退した。
退助は自宅に相撲同情を築くほどの好角家としても知られており、国技館の名付け親でもある。
政界引退後は、1904年に機関誌『友愛』を創刊したり、1907年には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。1913年2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。1914年には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。台湾で料理を食べた時、退助は感動で涙が出た。
そして、屋台でスープを食べ、帰国前夜には、念願かなってあんまんじゅうも食べた。
美味しかった。あれで美味しくないわけない。でも、『美味しい』という言葉が分からなくて、何も言えなかった。だから、家で言った。何度も何度も心の中で伝えた。

1919年7月16日、82才で退助は亡くなった。
『誰にも介錯をしなかったことがよかったと思います。』
それが人生の感想の第一声だ。

勇の処刑を思い出した。『よくあんなに昔の事。』
大昔の戦を思い出すと泣けてきた。
そして、西郷隆盛の顔が浮かんでくる。
『あんた、そんなに偉いんだねぇ。わしの人生の最後に現れるほどに。』

『一番の‥友達だったのかな?』

大隈重信が自分の墓に花を添えるのを見て、退助は言った。
『あの時のこと教えてよ、お兄さん。』
重信に、もう二度と、自分の声は届く事はなかった。
『大っ嫌い!!』

『神様、わしに自由をありがとうございました。』
大きなお釈迦様の気配を感じ、退助は指を組み言いました。

芥川龍之介は新聞で板垣退助の死を知ったが、そこまで辛くはならなかった。しかし、退助が今までしてきたことを知ると、嘘だと思った。誰もが他人の過去には半信半疑になる。

慶喜にとって退助は敵だった。退助と聞けば敵だった。嫌で卑怯なヤツだった。ようやく亡くなったというのは、うれしくもない。こっちだって味方をやられたんだからさ。

栄一は退助のことがちょっといやだった。以前、退助がこちらを見てぶつぶつと言っていたのだ。退助も戦で人の命を奪ってしまったので、精神が多少狂ってしまっていたのかもしれない。でも、栄一にとって、退助は敵ではなかった。最後は立派に仕上げる方だと思った。退助を想うと、今まで戦から逃げてきた自分が情けなくて、部下の家でまんじゅうを食べている最中に涙がこぼれてしまったことがある。

東郷平八郎は、板垣退助という人物を知っていたが、まさか後世では、自分より、板垣退助の方が、名が通るとは思わなかった。心の中で、『陸の人』と罵ったことがある。だから、退助とも乃木とも酒を飲めんかった。

大隈重信は知っての通り、退助が苦手だった。でも、退助はさんざん味方を亡くしてきた男である。最後に、親以外で、本当に退助を愛せるのは自分だろうと思う。本当にそう感じる日がきた。
以前、国会で、退助は腹をくだしていた。だから、重信がトイレに行かせた。
なんだか子供のおもりをしているようで、照れくさい時があった。
ああやって、自分の屁の匂いを、議員や兵士にかがせたのか?
しかし、とんでもない人物がいたもんだ。歴史に残るだとか、そういう事は思っちゃない。
例のヤツは、「自分がやりたいからやっている。」と言った。「そんなんで何も残せないでしょ。」とも。
「そうだねぇ。」
俺は答えて、とんでもない男だなと思った。草原で、駆け回っているようなそんな男だ。
でも、愛せる日がくる。そう言い聞かせて、ここまできた。
俺は、100万円札の顔になる男だと、酒に酔って言ったことがある。まさか、ヤツに先越されるとは。
大隈重信より板垣退助の方が、歴史で名が通るとは、思っとらんかった。


㉓大隈重信
大隈重信は義足の内閣総理大臣である。大隈重信は生涯でたくさんの事をしたが、一番有名なのは、早稲田大学を創設した事だ。
大隈重信は『人生125歳説』を唱え、早稲田大学にとって125という数字は特別な物となっている。
重信は義足の総理大臣として、第8代と第17代を務めている。
大隈重信は日本で初めてメロンを栽培した人物である。
大隈重信はお金を表す指のサインを考えた人物である。
天気予報の177番は、もともと大隈重信の自宅の電話番号だった。
日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、ゲージを1067ミリメートルに決めたのは重信である。

安政の五カ国条約とは、日米修好通商条約・日蘭修好通商条約・日露修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約のことである。これらは圧倒的に日本に不利なもので、1872年岩倉具視から1911年小村壽太郎まで9人の外交責任者が条約改正に挑んできた。大隈重信もその中の一人である。

1899年2月11日、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布されたが、重信は伊藤の憲法改正に伴う枢密院の会議に参加した事は一度もなかった。
黒田内閣では、伊藤は憲法改正を進め、重信が条約改正を進めていたのである。

機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス誌『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは小村壽太郎だったともいわれている。

そして条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は四面楚歌の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作に乗り出したのが明治天皇であった。
明治天皇は使者の元田を使って、伊藤博文をたずねた。
天皇の提案になかなか応じようとしない博文に業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議を開くよう命じた。
黒田首相は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった。

1年間のヨーロッパ視察を終えた山縣有朋内務大臣が帰国するが、意見はまとまらなかった。
条約改正反対派の天皇と伊藤博文、断行派の大隈重信と黒田首相である。
11日、伊藤博文は枢密院議長の辞表を提出してしまう。
10月15日、条約改正の閣議が再び開かれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈ともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった。

10月18日、黒田首相は再度条約改正の是非についての閣議を開いた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、閣議は中止論に傾きかけた。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。
事態が急変したのはその直後であった。

その閣議の帰り道、大隈が乗る馬車に爆弾が投げつけられた。犯人は来島恒喜という男である。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆破した。

10月に入り、とても天気の良い日が続いた。晴れていても、風が心地いい。重い服を着ていた時代を思い出せばなんてことないが、それでもむさくるしいと思う事もあった。今は天候のおかげで気分は楽だ。
最近、目がかすんでいるせいか、正装の明治天皇が閣議にご登場された時、とても暗い男に見えた。新聞で読んだ犯罪者の男である。次の瞬間には、もう元に戻っていた。
ご立派な‥天皇のお姿に。

家に帰れば団欒が待っている。そう思いたかった。重信は馬車に乗り込んだ。
『黒田首相はそういう人だな。』
窓の外を見て、重信はそう思った。
妻の手作りちゃんちゃんを着せられるような男だという。

「仲間だけど‥、お前には人生向いていない。」
風に吹かれた重信は言った。
「貴様に首相はできん。」
「じゃ、誰が向いているかというと‥わしである。」

「わしであるんであるんである。」

『それ本当か?』
「うん、本当。」

爆弾は重信の足元に投げ込まれ、爆発し、重信は右足を切断することとなった。

重信は朦朧として目を半目に開けた状態で病院に運ばれた。当時の最先端の医療が備わっていた病院で、『そんな半人前を治さんでもいいのに。患者が盗人でも治すのかい?ああ、おかしいよ。‥わしゃ、介錯を任せられそうになったこともあるのに。』酒を飲みながら、その病院を毛嫌いしたこともある。
でも、その病院に連れてこられた時、ようやく医師を好きになった。

『重信さん、悪いね。○○‥。』
白衣の医師が説明しているが、よく聞こえていない。重信は朦朧として、ただうなずくしかなかった。お釈迦様は地上に降りて来て、重信の様子を見ていた。
重信は手をあげて、切断の意思を伝えた。
医師は涙目になり、嬉しそうに病室を出ていった。

医師は白髪で眼鏡をしていた。そして、日本刀を使った刃物で、その医師、多田井が重信の足を切断した。
骨に当たると、一度刃は止まったが、ためらうことなく、多田井は足を切断した。
多田井はどうなってもかまわなかった。

「重信さん、足のことだけどね‥。」
「どうなってもかまわない。」
「ああ、そうかい。でも、あの桜の木の下に植えたからね。○○寺の和尚にも来てもらって。そいつがまたとんでもない和尚なんだけどさ。」
多田井はにっこり笑った。重信が元気になったので、安心しているようだ。

重信には野菜が柔らかく煮込まれたスープが運ばれた。
「わしはこんなにまずい飯は食えん。胃は健康だからもっと肉をくれ。」
重信は言い、次の日の晩には肉の塊がきたので食べてみると、足がずきずき痛むようになってしまった。
看護婦が重信の下の世話をして、朦朧とした意識の中、重信は「お前・・。」とつぶやいたが、その人は妻ではなかった。


重信は家内や子供に対して一人しゃべりをしたし、空想の中で議会に迷い込んで一人で大演説をした。多田井はそれを聞き、『もしかしたらまた戻れるかな。』そう思い、冷や汗をかいた。一人しゃべりを続ける重信の口から、西郷隆盛の名前が出た時、多田井は目を見開いた。

重信は12月には退院し、12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた。

1898年、重信は内閣総理大臣に任命される。
「足がないくせに。」嫌な事も言われたが、重信は言った。
「内閣総理大臣は足を使わんでいいから、わしがやる。」
『それしか方法はねえし。』

しかし、強くなった重信は明治天皇とうまくいかなかった。板垣退助とペアを組んだ隈板内閣はそれほどの成果をあげられなかった。

しかし、それから16年後の1914年、76歳の重信は再び首相に返り咲く。
『よ、ご立派。』

退任時の年齢は78歳6カ月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。

1922年、85歳の重信が亡くなった時には、日比谷公園で国民葬が行われ、渋沢栄一も参列した。
たくさんの人達が別れを告げる中、渋沢栄一は涙声で、「どうもありがとうございました。」と言った。この時ばかりは、若かりし頃の自分に戻れた気がした。

多くの歴史的偉人たちが黄泉の国から現れ、重信の人生を称えていた。
癌で重信よりも早く死んだ多田井も老人となり現れた。
東郷平八郎は元帥としての礼服をきて、大隈重信の国民葬の最後に立ち、敬礼をした。

「俺よりも葬式がでかい。」
霊として現れた退助は言った。

そして重信が亡くなった翌年の1923年に関東大震災が起こる事となる。

渋沢栄一は夢を見た。
誰もいない月夜の晩に泣きながら歩く西郷隆盛がいる。今までの罪を思い出しているのだ。西郷隆盛は人を殺すよりも、動物を残虐に殺してしまっていた。嫌な悪夢に取り憑かれていたのだ。動物に切腹をさせたらどうなるかとか、動物を打ち首にしたらどうなるかとか、そんな悪夢を見て、うなされていた。実際に動物をたくさん殺してしまった。
そして、その晩、この川に熊が流されていて、自分が助けてもしも友達になれたらと考えた。
その頃、隆盛にはお金がなかった。
「ちょうどいいわい。」
隆盛は橋から川に飛び降りて、一人でもがいていた。そして動物のように川から這い上がり、匂いをかぎまくった。

金銀財宝。
西郷隆盛が持っていた不思議な力である。よくお金を手に入れた。

西郷隆盛の死から46年後、大久保利通の死から45年後、乃木希典の死から11年後、板垣退助の死から4年後、大隈重信の死から1年後。
1923年の9月1日に関東大震災が起きた。


㉔関東大震災
「ああ!」
地震だ。驚いて、「地震だ。」という言葉が出なかった。しばらくして、「地震だあー!!」という男の大きな叫び声が聞こえた。
大正12年9月1日午前11時58分32秒に、関東大震災がきた。

渋沢栄一は布団にもぐりこんで、ぶるぶると震えた。

芥川龍之介は31歳で、その日、大学で教鞭をとっていたかった。
そうでなければ、河童を描いていたかった。
木の机の前に座り、ペンをもてあそばせていた。新小説を催促するかのように地震がきた。

ガタン。津軽も少し揺れた。
「お兄ちゃん。」
14歳の太宰治は、昔14歳の兄を亡くしていた。

「わああああ。」
誰もがそう言って、机の下で揺れがおさまるのを待った。
関東大震災は双子の地震とも言われている。

大きな火災がきて、誰もが暗い顔で東京の街を歩いていた。
パフッ
黒くこげた紙が芥川龍之介の顔に舞ってきた。

「ああ!」
渋沢栄一は黒焦げたお札を拾い、財布にしまった。
こんな時、お空にいらっしゃる神様と手をつなげたら。

戦が足りなかったと、誰もがそう感じた。

「戦など好きじゃない。」
多くの人がそう言って泣いた。それが美徳の時代だったが、関東大震災によりハイカラというファッションは消えてしまった。そして戦争の時代へと向かっていく。
この時すでに、日本はアメリカに狙われていた。関東大震災がなければ、日本はアメリカか中国に完全に占領されていただろう。
もっと軍事力をつける必要があった。


㉕芥川龍之介
芥川龍之介は1927年7月24日に亡くなった。明治を代表する作家夏目漱石を先生と呼び、明治25年から昭和2年までの短い人生を生きた男は、日本を代表する作家である。
明治時代を夏目漱石、大正時代を芥川龍之介、昭和時代を太宰治が文豪として時代の代表を務めている。芥川龍之介は夏目漱石を先生と呼んだが、太宰治は夏目漱石を毛嫌いしている。夏目漱石の写真で最も有名な右肘をつく写真は、明治天皇の大喪の礼、乃木が死んだ日に撮られた物である。
『先生、危篤』
電報を受け取った芥川龍之介はおぼつかない足取りで夏目漱石の家を目指したが、夏目漱石はすでに亡くなった後だった。
3人とも作品の中に自分を残しているが、芥川龍之介が一番自分自身をかっこよく描いている。
地獄変の中で「誰です?」と聴く男、羅生門の中で老婆の服をはぎ取る男、物語に登場するかっこいい男のほとんどが自分自身なので、世の中の人達を惹きつけている。

芥川龍之介は服毒自殺をした。死ぬ間際に聖書を読んだという。
大隈重信、渋沢栄一、東郷平八郎が、「羅生門」と「蜘蛛の糸」を当時読んでいたのはすごいと思う。
晩年の芥川龍之介は文のパズルは出来なくなってきていた。戦を知らない彼には関東大震災の思い出が強すぎたのかもしれない。彼はたくさんの死体を見てしまったのである。
それでも、3人の作家の中で一番コメディー色が強いのは芥川龍之介である。

慶喜は明治天皇が亡くなった年にこの世を去った。

この物語に出演していない神が、日本人が長年愛してきた一万円の顔である事は忘れてはいけない。渋沢栄一は脇役として登場していた、決して、明治維新の主役ではなかった。
人を斬った事などないのだから。それは一番頭が良い事だ。よく勉強のできる人である事はまちがいない。芥川龍之介も太宰治も自分を殺した。二人の先生である夏目漱石は千円札の顔になった。

頭の悪い人に日本の一万円札を任させられるはずがない。

そう言うと、退助は目を丸くするだろう。

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