第1話

文字数 9,308文字

第一章 冬

 天井を眺めながら、桃花は曖昧にしか思い出せない記憶を反芻していた。寒々しい風が窓ガラスを揺らしている。窓の向こうの海は日本海を思わせるような荒々しさを帯びている。覚えているのは、「もう時間に縛られたくない!」と、大きく振りかぶって海に向かって腕時計を投げ捨てた記憶。その後、病気になって倒れて担ぎ込まれ、病室の天井をまんじりともしないで眺めていた記憶。しかし、と桃花は不審に思った。
「今自分がいる病室の天井は、わたしが知っている天井じゃない。それに、病気になったのは春だったはず。今はどう考えても冬だし。これはどういうことだろう?」
 過去の記憶をぼんやりとしか思い出せない今、自分がいったい何者で、どうしてここにいるのか分からないのは不安だった。しかし一方で、入院している状態である以上、もう時間に追われて働かなくてもいいのだと思うと、安堵のため息が出るのだった。
 するとナースと思われる女性がやってきた。
「お目覚めですか。よかった。今、先生をお呼びしますね。温かいお茶でもお持ちしましょうか?」
というようなことをしゃべっていたが、日本語ではない聞いたことのない言語だった。しかしなぜか意味も分かるし、自分も同じように喋れることに気づいた。
「ありがとうございます。・・・あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
「はい、何でしょう。」
「ここはどこなんですか。」
するとナースは、桃花が記憶喪失であることを把握しているような優しいまなざしで答えた。
「ここはリーベル王国の海辺病院ですよ。あなたは一週間も眠っていたんですよ。」
リーベル王国?海辺病院?わたしは日本の病院に担ぎ込まれたはずなのに。
「あの、ここは日本ではないんですよね?」
「日本?聞いたことのない国ですね。」
これで確信した。まさか自分がこのような状況に陥ることになるとは夢にも思っていなかった。つまりこの状況は、「異世界転生」というやつだ。そうと分かれば、先ほどまでの頭の混乱も妙に落ち着いてくる。人間って結構、適応能力が高いのかもしれない。
「すみません、とりあえずお茶をお願いします!」

 どうやら自分は頭を強く打って倒れたらしい。だから記憶が曖昧なのかもしれないと、主治医の先生が言っていた。打ちどころが良くないかもしれないので、安静にして一か月は様子を見た方がいいという。つまり桃花はこれから一か月もの間、何もしないでゆっくりと過ごせるわけである。記憶喪失なのに、なぜか、転生前はめちゃくちゃ働かされていたような気がしていた。転生前は過労で倒れて入院したのかもしれなかった。真相はどうであれ、わたしは今、異世界で入院中なのだ。何の義務も責任もない。すべてから解放されたのだ。
 鏡を見ると、日本人であった頃とは違い、金髪にヨーロッパ風の顔立ちをしていた。新しい自分の顔をまじまじと眺めてしまう。両手もまた見慣れたかたちではないのを感じる。新しい体に慣れるにはしばらく時間がかかりそうだ。桃花はこの世界では過去の経歴も国籍も何もない人間なので、主治医の先生に名前を聞かれて、とっさにソフィア・グリーンと名乗った。なぜだか覚えていた、転生前に大好きだった小説の主人公の名前だ。これからわたしはこの新しい世界で、ソフィアとして生きていく。
 しかし、ゆったりとした時間を過ごせると思ったのに、すぐに今の生活に不満が出てきてしまった。どうしても病室の掛時計が気になって気になって仕方なかったのだ。1時間は経っただろうと思ってもまだ10分しか経っていないこともよくあった。
「ああ、このまま何もしないで横になっていなければいけないの?このままずっと、窓ガラスのガタガタいう音を聞き続けないといけないの?」
 ソフィアの病室は個室だから、他の患者たちと交流することもできない。この世界にはテレビやスマホも無いらしい。チクタクチクタクと音を鳴らす掛時計が恨めしい。秒針がとてもゆっくりと動いているようだ。この状態のままあと一か月を過ごさないといけないのかと思うと、心底うんざりとした気持ちになるのだった。ふと外を見ると、寒々しい風の中で大きく波打つ海原が広がっていた。

 一か月が経ち、いよいよソフィアの退院の日がやってきた。
「これだけ元気ならもう大丈夫でしょう。退院おめでとうございます!」
ずっとお世話をしてくれたナースのフレアさんが太鼓判を押してくれた。
「それで、お支払いの件なんですが・・・」
「げっ」
現実は厳しかった。異世界でも働かなくてはいけないという現実。
「あの、この世界って魔法か何か使えたりします?」
「変なこと聞きますね。もちろん使えますよ。でも、魔法使いはこの国でもそんなに多くはないんですよ。魔法を使うには才能と努力が必要で、とても時間がかかるんです。」
(それじゃ、わたしは魔法使いにはなれないわ。だってわたしは才能もない地味な女子だったし・・・。)
 才能と努力。どんなに努力しても追いつけない距離はある。努力に勝る天才はいない、という言葉も聞いたことはあるけど、あのときのわたしは無力だった・・・。
 これ以上は思い出したくなかった。少なくとも魔法使いとして働くという選択肢は消えた。
「それに魔法が使えなくてもじゅうぶん便利に暮らせますし。ほら、最近発明された腕時計だってそうですよ。今まで置時計か掛時計しかなかったから、待ち合わせするときも大雑把で。ああ、そういえば有名な魔法使いが神樹の森に住んでいたような。」
フレアの言葉はソフィアの耳には入らなかった。今後のことで頭がいっぱいなのだ。
「あの、今はお金持ってないんです!必ず払いますから、仕事の探し方を教えてくれませんか?」
「でも、ソフィアさんは国籍も住所も思い出せないんですよね?どうしたら仕事に就けるのかしら・・・。」
そう、ソフィアは記憶だけでなく国籍も住所も履歴書もない。そんな人間がどうやって仕事に就いたらいいというのか。なんとなく想像される選択肢にソフィアは戦慄を覚えた。するとフレアさんが
「そういえば、主治医の先生の弟さんが時計屋を営んでいて、今、腕時計の販売で人手が欲しいって言ってたわ。わたしが紹介してみましょうか?」
「はい!それでお願いします!」
この世界で落ちぶれた生活をしたくないソフィアは、自分が時計を捨てた人間であることよりも、普通の仕事に就く方を選んだのだった。

 それにしても、時計を捨てた人間が時計を売る仕事に就くとは皮肉な運命だ。しかも、腕時計の発明によって主に都市部のビジネス街で働く人たちの需要が急増し、今、何か月も予約待ちの状態なのだという。そんな忙しい時計屋ではとても掛時計だけでは仕事にならなくて、それこそ秒単位で時刻がわかる腕時計が必要になった。というわけで、ソフィアは嫌々ながら初めての給料を使って安い腕時計を購入したのだった。ちなみに、住まいは女一人では不安だろうということで、仕事や収入が安定するまでの間は、ナースのフレアさんの家の一室を借りることになった。
「でも、よりにもよって時計を売る仕事に就くなんて。私は他人の作った時間に追いかけられる運命なのかしら。」
 しかも、時計屋の店長はとても仕事に厳しい人だった。「時計は人生に寄り添うものなんだ。もっと心を込めて売らなければならない。」というのが口癖で、道具の置き方や商品の並べ方、並べる場所、接客の仕方にも細々と注文をつけた。時には、叱ることをむしろ楽しんでいるかのように感じられた。 
 ある日、ゼンマイ式時計を売り場に置くときに、種類に応じて並べ方が異なるのだが、それを間違えたとき、「どうして間違えたんだ。何度も何度も同じことを言ってるよね。分からないならちゃんと聞かないといけないじゃないか。」と怒られた。こういう怒り方はこの店長のよくあるパターンなのだ。
(こんなに細かいことをいちいち言うなんて、まるで秒針みたいな人ね。)
「あと、君は周りに対して無関心すぎる。君より年下のマイケルの方がちゃんと気配りできるよ。どうして君はできないんだ。」
転生前の記憶は定かではないが、同じようなタイプの上司にこってりと絞られた経験があるような気がする。だとしたら店長はその上司の生まれ変わりなのかもしれない。
(転生前に散々苦しんだわたしがまた同じように苦しむの?)
 時計屋で働くということよりも、店長との関係が苦しくて、夜、眠れない日々が続いた。しかし、その中で、ゆっくりとではあるが、思い出せないはずの過去の苦しみの記憶が浄化されていくのを感じていた。
(たしかに、店長は細かいことまで口を出す人だわ。正直、どちらでもいいじゃないかと思うこともある。けれど、店長はわたしの気配りの足りなさを叱ってくれた。分からないことをそのままにして接客していれば、間違ったことを顧客に伝えてしまうかもしれないと心配していた。それに、仕事に心を込めることの大切さを教えてくれた。店長は仕事をするうえで大切な心構えを教えてくれていたんだ。これまでのわたしは自分のことでいっぱいいっぱいだったから、他の人の気持ちや親友の心配にもじゅうぶんに応えることができなかったな。)
 おぼろげながらよみがえった後悔の記憶。ふと見ると、腕時計のゼンマイがきれて止まってしまっていた。時計は1時38分を指していて、長針と短針がちょうどまっすぐに揃っていた。


第2章 春

 翌朝、まだ寒さは残るけれど日差しに優しい朗らかさが出始めてきた春のある日であった。ソフィアはいつも通り開店の準備をしていた。すると、同い年くらいに見える女の子が店の前をうろうろとしていた。
「あの、すみません。ここ時計屋さんですよね?」
「はい、そうですよ。もうすぐ開店なので、少し待っていてくださいね。」
「いえ、時計を買いに来たわけではないんです。なんだか今日は運命の出会いがあるような気がして。どうしても気になって街へ出てきたら、まるで導かれるようにここまでやってきたんです。」
「そうなんですね。」
ソフィアは開店準備に忙しくて早く話を切り上げたかったが、すると女の子が
「わたしはエレナといいます。あなたは?」
「ソフィアといいます。よろしくね。」
「よろしく、ソフィアさん。これはきっと運命の出会いね。じゃあ、仕事を邪魔しちゃいけないから・・・。」
と言ってエレナは近くのパン屋の方へ去っていった。
(彼女、エレナといったっけ。運命の出会いってどういうことかしら?)
ソフィアにとって異世界転生は孤独との戦いでもあった。見知った人が一人もいないこの世界で、運命なんてものが本当にあるのだろうか。
 そしていつも通りに午前中の仕事を終えて、お昼を食べに街へ出たソフィアは、入った店の中でまたエレナと会ったのだった。
「わあ、ソフィアさんだ。あの、よかったら一緒にご飯を食べませんか?」
「いいですよ。」
こうしてランチを共にしたソフィアとエレナは、お互いのことについて話し始めた。
「じゃあ、ソフィアさんはこの世界の記憶がないんですね。」
「そうなんです。でも、前世の記憶はぼんやりとあるんですよ。前世といっても分かってくれるかどうか分かりませんけど。」
「いえ、わたし、前世はあるって信じてますよ。ソフィアさんの言うことだもん、わたし、信じます。」
ソフィアはこの世界で始めて自分の立場を理解してくれる人に出会って嬉しかった。かすかに覚えている前世の記憶の断片。その一つ一つをすくいあげるように、ソフィアはエレナに話して聞かせた。それは前世で頑張りすぎて倒れた記憶、親友がそんなソフィアを、つまり桃花を心から心配してくれた記憶。覚えている限りのことを、ソフィアはエレナに吐き出した。
「わたしの話を聞いてくれてありがとう。こうして出会えたのもきっと何かの縁ね。これからも一緒にランチしましょう。」
「縁があるどころか、これはきっと運命の出会いなんですよ。」
「うふふ。そうね。そういうことにしておきましょう。」

 こうして二人はランチを共にするようになった。二人はまるで旧知の仲であるかのようにすぐに打ち解けた。エレナ曰く、実家は神樹の森の方にある小さな集落にあって、農家を営んでいるらしい。実家からここまでは結構な距離があるが、今は出稼ぎのためにこの街のはずれにある小さな借家に住んでいるそうだ。
「よかったら一緒に生活しましょうよ。」
エレナの提案はとても嬉しかった。いつまでもナースのフレアさんに頼ってばかりでは気が引けていたのだ。エレナとであれば一緒に生活しても苦にはならないだろうと思って、二人のシェアハウスが始まった。

 新緑が芽吹き、朗らかな日差しは祝福を向けてくれているようだ。ソフィアはエレナと出会って自分に大きな変化が起きていることに気が付いた。それは、自然の美しさに気づけるようになってきたということだ。
 ソフィアが「この花は何ていうの?」と問えば、エレナが「ライトフローラの花よ。花言葉はたしか・・・永遠の友情だったかしら。」という具合に答えてくれた。
少しずつこの世界の花の名前を覚えていけてソフィアは嬉しかった。前世では仕事に忙殺されていて、季節を楽しむ余裕なんてほとんどなかったような気がした。だからこそ、今は花のちょっとした変化や若草が生い茂っていく姿がたまらなく愛おしく感じられた。しかもその美しい瞬間を共有できる友達もいるのだ。ソフィアはこれまでの人生で神様のことを真剣に考えたことはなかったが、今は神様に感謝したい気持ちだった。
「神様、この世界に転生させてくださりありがとうございます。わたしの心はエレナとの出会いで変わりました。自然の美しさに気づけるようになりました。友情のありがたさに気づけるようになりました。この転生がわたしの運命なら、このような運命を与えてくださってありがとうございます。」
夜、エレナが寝静まった頃を見計らって、ソフィアは神に感謝の祈りを捧げた。ただ、転生前の家族や親友に会えないことが一抹の心残りだった。


第3章 夏

 やがて新緑の季節が過ぎ去り、日差しが熱く感じられるようになったある日、ソフィアはエレナに相談した。
「ねえエレナ、わたし、心残りがあるの。」
「そうなのね。どんな?」
「わたし、転生前に親友と何か約束したような気がするの。それに、転生前にはちゃんと家族もいたわ。でも今はこの世界で一人で生きている。いや、あなたという友達がいるのはわかっているの。でもね、時々不安になるのよ。わたしは一人で孤独なんじゃないかって。」
「・・・」
「それに、わたし、このまま今の生活を続けていくべきか迷ってるの。いろいろあって今の時計屋さんで働くことになったけど、正直、忙しすぎて参ってしまう時があるのよ。ねえ、わたし、どうしたらいいと思う?」
「・・・わかったわ。わたしに考えがあるの。わたしね、神樹の森に住んでる魔法使いのタウおじいちゃんにお世話になったことがあるの。とても優しくて親切なおじいちゃんよ。きっとあなたの今の悩みに答えてくれるわ。今度一緒に会いにいきましょうよ。」
こうしてソフィアとエレナは老賢者マスター・タウに会いにいくことになった。
 神樹の森は街から何キロか離れたところにあり、昔から神聖な場所として人々の尊崇の念を受けていた。その森の中に魔法使いの師であるマスター・タウの住処があった。白く輝く粘土質の素材をドーム状に固めて作ったような家に住んでいた。
エレナがマスター・タウに呼び掛けた。
「タウおじいちゃん、こんばんわ!」
「おやおや、二人とも時間通りにここに来たねえ。見なさい、あの時計を。時間ぴったりだ。」
見ると、掛時計の針は7時38分、つまり長針と短針がぴったり一致する時刻を指していた。今日は7月7日でもある。
「君たちはここに導かれてきたんだよ。まあゆっくりしていきなさい。ちょうど夕食にしようと思っていたところだ。一緒に食べようか。」
 タウはスープと畑でとれたジャガイモをごちそうに夕食を用意してくれた。夕食を済ませると、さっそくタウがソフィアにたずねた。
「ところでソフィアさん、あなたはわしに何か相談があってここに来たんじゃないかな。」
「そうなんです。実は、わたしはここではない世界から生まれ変わってきたんです。前世のことはあまり多くは思い出せないんですが・・・前世でのわたしは、今の職場のように時間に追われて生きていたと思うんです。そして病気になってとても苦しんだことは覚えています・・・そんな中でわたしを想って支えてくれた友達がいて・・・友達や家族に会えないことが心残りなんです。それに、今のような忙しい職場で生きていくのに疲れてしまいました。わたし、どうしたらいいんでしょう。」
「なるほど。君には今、魂の休息が必要のようだね。」
「魂の休息?」
「人生には走り続けるばかりでなく、魂を休ませることが必要な時期があるのじゃ。君は、すべてが与えられていることに気づいておるかな。」
「すべてが与えられている・・・」
「そうじゃ。人生には苦難や困難が付きものじゃが、同時に救いの手も差し伸べられておる。こうしてわしのところに導かれてきたようにな。気づいていないだけで、すでにたくさんのものが与えられておる。それは水や、空気や、太陽の日差しはもちろん、草花や、健康な体や、友人や、人生の師もそうじゃ。それに、すべての人に平等に与えられているものがある。それは時間じゃよ。時間は平等に与えられた神の慈悲であり、愛こそが時間の本質なのじゃ。素直なあなたは、人に愛を与えることができる存在じゃ。愛を与えて生きるとき、あなたの時間に愛の花の種がまかれる。それがいつしか育って花が咲くのはとても嬉しいことじゃよ。ソフィアさん、あなたに瞑想の仕方を教えてあげるから、この機会によくよく心を見つめなおしてみなさい。」


第4章 秋

 こうしてマスター・タウのもとでのソフィアの瞑想修行が始まった。自然豊かな湖のほとりにある小屋に住み、ひとり湖畔を眺めながら瞑想するのだ。季節は秋、美しい紅葉の中で瞑想できるのはとても幸せだった。息をお腹に落とすように吸い、ゆっくりと吐き出す。呼吸を繰り返すうちに心が湖のように平らかになっていく。そして、これまでの人生についてゆっくりと振り返るのだ。
 この世界に初めて生まれ変わったとき、見知らぬ天井で不安な中、ナースのフレアさんにとても親切にしていただいた。時計屋で働くようになってからは、怖い上司におびえる日もあったけれど、実は仕事をするための愛の鞭でもあったんだ。そしてエレナとの出会い。この孤独な世界の中で、あなただけが心の拠り所になっていた。エレナ、あなたのお陰よ。どうもありがとう。
 このように、これまでの思いつくだけの記憶を頼りに、一つ一つに感謝するという瞑想をおこなった。そして月が美しい満月を見せてくれたある日に、ついにソフィアは桃花であった時の記憶を思い出したのだ。
(そうだ。全部思い出した。わたしが桃花だったとき、わたしはWEB制作会社のデザイナーとして働いていた。そこにはライバルのデザイナーがいて、その人の方が仕事が早く正確で的確だとよく評価されていたんだ。そんな風にいつも比べられるのが嫌で嫌でしょうがなかったっけ。でもある日、そのデザイナーが他社に引き抜かれ、会社を退職していったのだ。結果、それまで溜まっていた仕事のぜんぶがわたしのところに流れてきた。だから夜遅くまで働いて、夜は眠れない日々が続き、ストレスで何度も吐いたんだ。だからわたしは時間に追われるのが嫌だったんだ。そんな時、わたしを精神的に支えてくれたのが、親友の遥香だったっけ。いつもわたしの相談に乗ってくれたし、わたしに励ましのメッセージを送ってくれたんだ。でも、わたしは過労で倒れてしまった。病院のベッドのそばで、遥香は泣きながらわたしの手を握ってくれたっけ。そのときだ。「たとえ何があっても、わたしはあなたの友達よ。わたしはあなたの永遠の味方なんだから」と言ってくれたのは。
 今、遥香はどうしているだろう。わたしがこうして異世界で生活していることを知ったらどんな顔をするだろう。きっとびっくりしてひっくり返るわね。ふふ。)
 するとエレナが軽食を持ってきてくれた。そこでソフィアはエレナに今思い出したことを伝えてみた。エレナは涙を流して
「そうだったのね。苦しかったね。大変だったね。」
と言ってくれた。するとエレナは
「ソフィア、たとえ何があっても、わたしはあなたの友達よ。わたしはあなたの永遠の味方なんだから。」
と言ったのだ。
えっ?とソフィアは思った。
「今のことば、誰かから聞いたの?」
「ううん、なんだか自然に出てきたのよ。遠い昔、わたし、誰かのためにそう祈ったことがあるような気がするの。そう、病室で寝たきりになった親友がいて、彼女のために、神様に祈ったの。神様、どうか彼女を助けてください、もし彼女が死んでしまっても、生まれ変わってわたしを彼女のそばにいさせてくださいって。」
 そうだ、わたしは遥香に看取られながら、息を引き取ったのだった。
「もしかして、あなたは、遥香・・・?」
エレナは何のことかよく分からないという顔をしていた。けれどソフィアの中では、気持ちは一つに固まっていた。
(そうか、エレナは遥香の生まれ変わりなんだ。わたしは一人ではなかったんだ。彼女と一緒に生まれ変わり、こうして今世、再び友達になったんだ。)
根拠はないけれど、ソフィアの中では確かな現実として感じられたのだった。
「ありがとう、遥香。いいえ、エレナ。わたしたちの友情は永遠よ。」
「ハルカ・・・?なんだか昔、そんな名前で呼ばれたことがあるような気がする。なんでかしらね。うふふ。」
やっぱりエレナは遥香なんだ。ソフィアの確信は強まった。
 遥香が転生前にわたしを支えてくれたように、わたしもエレナを支えてあげられるような人になりたい。ソフィアは神に祈るのだった。
(神様、どうかわたしの願いをお聞き届けください。愛こそが時間の本質なら、わたしはエレナの時計になりたいのです。彼女を幸せにするために寄り添いたいのです。どうかわたしの心を生まれ変わらせてください。)
すると夜空に一筋の光が弧を描いた。

 ソフィアはマスター・タウの計らいで、エレナの実家のすぐ近くの自然豊かな土地に居を構えて、エレナの農作業を手伝うなどしてマイペースに生きることになった。マスター・タウはソフィアに魔法をいくつか教えてくれた。例えば、瞑想する中で鳥たちの見ているものを見る魔法。植物たちに花を咲かせる魔法。テレパシーを使う魔法などなど。こうしてソフィアは、マスター・タウに教えを請い、エレナと語り合い、村人と苦楽を分かち合い、愛し合い、平凡だけど幸せに生きることができるようになった。止まったままの時計はソフィアの机の中で大切に保管されていた。時計は止まったが、時間は動き出したのだ。
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