第1話

文字数 6,011文字

 今日は最高の一日だったんだ。最高なんて言っても、別に大それたことじゃない。
宝くじで大当たりしたとかとんでもなく好みの美女に告白されたとか、多くの人間がそうそう経験できないようなことが起こったわけじゃない。
ただ、学生時代から久しく会っていなかった友人たちとようやく都合があって夜の街、俺の一番お気に入りの店で酒を飲み交わし、思い出話に花を咲かせたってだけ。
広い目で見ればほんの些細なことだろう。けれど、神に誓ったっていい。俺にとって今日は本当に最高の一日だったんだ。あんたもこういう気持ちわかるだろ?
懐かしい仲間と語らって酒を飲み、夜の空気をゆっくり吸いながらほんの少し酔っぱらった足取りで家に帰る。
小さなことだけど、仕事の連中との事務的な会話や不健康な食事を続けていた俺にとって下手なセラピーなんかよりずっと効果があったと思う。
あ、俺に恋人か妻がいたならもっと最高だったかもな。家に帰ると愛しの女性が寝室で静かに眠っているんだ。
俺はただいまを囁いて彼女の額にキスをする。さっさとシャワーを浴びたら同じベッドで彼女を抱きしめ夢の中さ。最高だね、はは。

 なんてほんの数分前に考えていた俺が馬鹿みたいだ。いいやちくしょう、『みたい』じゃない。完全に馬鹿だった。何がいけなかった?妄想過多か?ああ、それには俺も自覚がある・・・。
でも待てよ?妄想はするだけなら罪じゃないはずだ。俺は無罪だ。罪ならあいつだ。ていうか誰だ。あいつ、どこへ逃げやがった。畜生、痛い。血が止まらない。
いや痛みはどうにかなってきたかもしれない。それより少し前からなんだか寒くなってきたんだよ。なのに腹からどろどろ温かい、なんだ?だから血だよ。赤い血が、ああ、どうしてくれんだクソ野郎。
なんで俺がこんな目に合わなきゃならない。寒いのに汗が止まらない。口の中が錆び臭い。もう、酒も料理も味を忘れちまった。台無しだ、クソクソクソ、起き上がりたいのに、叫びたいのに、なんにもできないんだ。
俺の身体だろう言うことを聞けよ役立たず。俺の腹を刺しやがった、顔も知らないイカレ野郎をとっ捕まえてぶん殴ってやるんだ。
早くあいつを探さないと、誰かを呼ばないと、助けてもらわないと・・・。

「死にたくない・・・」

 人間というものは危機に晒されてこそ力を発揮することがあるそうだ。
この男、チャールズ・マカスキルもどうやら例外ではないらしい。彼の幸運だった点は3つ。
ひとつ、暴漢に刃物で襲われ大量に血を流していたこと。
ふたつ、彼はまだ若く、その血が健康だったこと。
最後に、彼が襲われたのが夜で、なおかつ人気のほとんどない路地裏だったこと。以上である。
この文章だけでは一体彼の何が幸運なのか、ひとつとして伝わりはしないであろう。しかし、様々な角度から覗いてみなければ理解できない幸運も時としてあるものだ。
様々な角度・・・例えば当人の価値観、目的、好みや性格など。何をもって幸運とするかは当の本人、ここではチャールズにかかっているのだ。

「可哀想に、死ぬ寸前よ」

「本当、可哀想」

「顔が真っ青、ああ可哀想」

 風が囁くような女の声だった。彼女らは口々に、同じ言葉を自身の足元へ落としていく。
3人の足元にはその身から流れた血だまりの上に一人の男、チャールズ・マカスキルが意識朦朧といった様子で倒れている。
しかし女たちの視線は倒れている彼ではなく、彼の腹からあふれ出す温かな血液に注がれていた。
女の一人、チャールズの頭のある方向に立っている、栗色の巻き毛に赤いコートをまとった奴が言った。

「彼ったら、とても美味しそう」

赤色の目がキラリと光る。今度は胴体の方向に立つ切れ長の緑目の女が言った。

「それに、よく見るとカッコいい」

黒髪のショートヘアがかすかに揺れる。今度は足元にいる、赤毛のストレートヘアの女。

「見てるだけでお腹がすいちゃう」

オレンジ色のコートを纏った身を震わせ、女は笑う。
女の笑った口の端には、今にもこぼれそうな唾液が光っていた。赤毛だけではない、栗毛の女も黒髪も、ただ赤毛よりも顕著でないだけでつやりと輝く口紅で彩られたそこから、化粧品によるものでない光が見て取れた。

「スー、あんた涎が垂れてるわよ、はしたない」

「チー、あんたもおんなじよ」

「あんたほどひどくないけどね」

「何よ、クーまで」

女三人よればかしましいとはまさにこのこと、彼女らは息も絶え絶えなチャールズをよそに甲高い声で喚き始めた。
スーと呼ばれた女は子供のように顔を赤くして怒りをあらわにしている。猫の毛のように細い赤毛も、霞んで見えるほどだ。
その様子に栗毛のチーは呆れたように、黒髪のクーはさも面白そうに笑いを漏らす。
しかし自身を囲むようにして行き交う彼女らの声を鬱陶しく思う余裕など、チャールズには少しもなかった。
というより彼の耳にその声が届いているかどうかも怪しい。痛みと出血、それに伴う寒さ。それらが容赦なくチャールズの意識を蝕んでいた。

「それで、この男をどうしようかしら」

三人の中でもっとも細く、どこか少年のような響きを持った声、クーが言った。

「放っといてもどうせ死ぬんでしょう」

女性的だが太く、ハスキーな力強さを持った声、チーが素っ気なく言い放つ。

「でも、それだけじゃあもったいないわ」

幼さを感じさせる、どこか鼻にかかった高い声、スーが提案するように言う。

 スーの声に三人は一斉に目配せをした。チャールズの身をどうするか。女たちはすでにそれを決定しているらしい。たとえ彼の意志がどうあろうとも。
チャールズの胴体のあたりに立つクーが、その新鮮な血溜まりに緑色のハイヒールを踏み入れる。
そしていまだに出血の止まらない腹と地面の間に容赦なく足を突っ込んで、彼の身体を仰向けに転がした。
チャールズはその衝撃すらあまり自覚できないらしい。焦点の合わない視線をどこか遠くへ投げていた。
ただ彼女らの存在は認識しているらしい。時折語り掛けるように唇が動くが、あまりにか細い声は喉が鳴ったようにしか聞こえなかった。

「あなた、なんて名前なの」

ぐったりと力の抜けた身体を持ち上げたのはスーだ。
彼女はコートの袖口が汚れるのを気にする素振りもなく、女の細腕とは思えぬ力でチャールズを引っ張り起こした。

「そんなこと言ったって、答える元気もないわよ」

スーの様子に呆れながらチーはチャールズを覗き込んだ。氷のように冷たく細い指で彼の頬をなぞると、彼女は恍惚と微笑む。

「人間って、本当か弱いわね」

彼を蹴り転がしたクーも、二人に並んでその顔を覗き見ていた。彼女もまた、微笑みを浮かべている。
チャールズの虚ろに開かれた目に彼女らの六つの瞳が捉えられているのか否か、彼は蚊の鳴くような声で呟いた。

「助けて」

彼女らの赤と緑と橙の目が、にやりと三日月形に細められた。

 首筋の辺りがじくじくする。そこだけ熱を持っているみたいだ。
子供の頃、何歳だった?とにかく昔に思い切り砂利道で転んでできた、あの酷い擦り傷が化膿したときみたいだ。
痛痒くて、膿が気持ち悪くて、すごく嫌だった・・・。あの時は間抜けな自分を呪ったもんだが、まさか大人になってからも派手にすっころぶとは。
いや、でも待てよ?転んで首筋を怪我するものか?ないだろ。どんなエキセントリックな転び方だ。しかし転んだ先に障害物があった可能性も否めない。
それよか目が霞んで仕方ない。気分が悪いわけではないが、なんでこんなに視界が変なんだろう。電子機器の使い過ぎってやつか。近々眼科に行った方がいいかもな。
・・・待てよ、眼科より先に行くべき場所があるんじゃないか?
おい、この間抜け。なにを悠長に寝てるんだ!!そうだ。俺は刃物で刺されて倒れていたんじゃないか。
せっかく気分よく一日を終えようとしていたのにどこのどいつか知らないが、俺を刺して金を奪いやがった!!とにかく、そいつに一発くれてやらなけりゃならん。
丁度いい、視界も晴れてきた。起きられるってことは意外と傷は浅かったんだ。近くに警察署があったはずだ。まずは、そこに行かなければ・・・。

「・・・・・なんだ、あんたら」

「「「あら、お目覚め?」」」

 ふと目を覚ますと酷い寒さと痛みは引いていた。刺されてから意識を失うまでの記憶が曖昧だったがそれ以外、特に問題はない。
結構な衝撃に感じられたものだがナイフはそこまで深く刺さらなかったらしい。人間の身体は、想像よりはるかに頑丈にできているようだ。
とはいえ刺されたことに変わりはなく、財布も盗まれてしまっている。どのくらい時間が経っているのか検討もつかないが、まずは警察に助けを求めなくては。
そう思って身を起こした俺を赤、緑、橙の派手なコートを纏った女が3人、いたって冷静に見下ろしていた。

「よかった。もしかしたら、死んだのかと思ったわ」 

疑問に対する返答をするつもりがあるのかないのか、真ん中に立った赤コートの女が無表情に言い放つ。
怪我人を目の当たりにしていたわりにいやに冷静だ。

「でもこの様子なら平気そう、本当によかった」

次いで橙色のコートの女が、これでもかというくらい顔を寄せてくる。
声色と同様に幼い印象を受ける顔つきだが、香ってくる香水から子供じみた甘ったるさは感じられない。
赤コートよりも冷たい印象は受けないものの、こいつも質問に答えないのは同様だ。
俺は無意識に残った緑のコートの女に視線を向ける。助けを求めている様子に気づいた彼女は少し呆れたように微笑んでから口を開いた。

「ただの通りすがりよ。倒れてたあんたに、ちょっとだけお節介を焼いてあげたの」

透き通った少年のような声で彼女は言う。
なるほど、傷の痛みが引いているのも意識が戻ったのも、どうやら彼女たちのおかげらしい。

「そうだったのか。ありがとう」

怪しい集団だと思った自分が恥ずかしい。年若い、ましてや女性にとんだ面倒をかけてしまったらしかった。
しかしまずは犯人の特定に急がなくてはならない。その場に立ち上がろうと石畳の街路に手をつくと、水たまりに手を突っ込んだ。
最近、雨なんか降ったかな。だが今はそちらに気を取られている場合ではない。

「実は暴漢に襲われて、それで倒れていたんだ。君たちのおかげで平気だったみたいだな。ええと、この辺で怪しい奴は見なかったか」

濡れた手をジーンズで適当に拭いながら俺は早口で彼女らに言った。
返答しだいではさっさと話を打ち切って、警察署へ駆け込むつもりだったが。

「私たちがここを通るころには、あんたは一人で倒れてた」

「とっても辛そうだったわ」

「見つけたのが私たちでよかった」

緑、橙、赤がほとんど同時に話すもんで何が何だかわからない。しかし、彼女らが俺以外の人間を付近で見ていないことは確かなようだった。

「おかしな輩もたくさんいるのよ」

「今に始まったことじゃないけどね」

「あんたは美味しそうだもの」

だからもう話を切ってここを離れたい。それなのに俺が言葉を発しようとすると、彼女らはべらべらと捲し立てるように話を続けた。
おまけに話の論点がずれている。美味しそうってなんだ。暴漢の次は強姦か?

「中には持ち帰ってペットにする輩もいるし。でも私、ペットはスーで十分」

「変態がいるのはどの生き物も一緒よね。私の知り合いなんてね・・ちょっとクー、誰がペットよ」

「血の良し悪しと容姿って関係あるのかしら?あんたは見た目も結構イケてる」

「あらごめんなさい、だってあなたってば仔犬みたいで可愛いわ」

「私はあんな風にキャンキャン鳴かないわ!!でも可愛いっていうのはうれしいかも!」

「黒髪の男ってセクシーよね。あんたは瞳もすごく素敵」

「けど、ペットにしたくなる気持ちもわかるわ。あんた魅力的よ」

「そうそう、それで私の知り合いよね、そいつはね・・」

「スー、もしかしてあのペドフィリアの話??」

彼女たちのおしゃべりは止まない。口紅で彩られた唇はまるで機械仕掛けのように動き続けている。
男として美女に褒めてもらえるのは大変光栄なことだが俺は変態のペットになりたくはないし、第一その話には興味がない。

「待ってくれ!!あんたらなんの話をしているんだ!??」 

大声で話を遮ると意外な程あっさり彼女らのおしゃべりは止んだ。六つの瞳が一斉に俺を見る。

「俺は自分を襲った犯人を捜したいんだ。それで、あんたたちはこの辺で怪しい奴は見なかったんだな?それなら、それでいい。俺は近くの警察署へ行く。介抱してくれて助かったし、褒めてもらったことも、嬉しい。本当にありがとう。だから、俺はもう行くよ。もう夜中だし、女性だけで歩くのだから気を付けてくれ」

先ほどのトリオの合唱と同等程度に捲し立てる俺を彼女らはきょとんとした表情で見つめている。
状況についていけないという顔だが、それはこちらも同じだ。彼女らにはついていけない。
それだけ言うと俺は路地を出るため明るい方向へと歩き出した。

その時だった。三本の腕が、俺に向かってぬっと伸びる。

「必要ないわ」

右腕を掴まれた感触に反射的に振り返ると、赤コートが笑っているのか無表情なのか、とても奇妙な顔で言った。
同時に視界に入ったのは先ほど水溜まりに突っ込んだはずの、けれどどうしてか血まみれの右手。

「どこに傷があるっていうの」

「どうして暗闇で私たちが見えるの」

緑と橙が呟く。傷はきっと腹にある。痛みも何も感じないけれど。
目は・・・元から視力は良い方だ。きっと、そうだからに違いない。
俺は腹の辺りをまさぐる。見るとおろしたてのシャツの左側、肋骨に近い部分に赤黒いシミが大量に付いていた。
シミはじっとりと嫌な湿り気を帯び、噎せ返りそうに生臭い、錆に似たにおいがする。想像を絶する出血量に、俺は思わず青ざめた。
だがシミの辺りをいくら触っても痛みはない。俺は女性の前だということも忘れ、引きちぎるような勢いでシャツの前を開いた。

傷がない。ほんの数センチの跡も。

 あまりに非科学的な状況に言葉も出ない。俺は女たちに向き直る。
ほんのわずかな光しか届かない路地で、彼女らの色白な顔や透き通った瞳の色、異なった質を持つ髪の毛の一本一本までもが判別できる。その背後にある街並みも、俺たちを挟んで建つ煉瓦づくりの衰えた部分も。

首筋が、じくりと強く脈打った。

「助けを求めたのはあんただった」

「地面の血溜まりはさすがに飲まないけれど」

「あんたが人間のままでもデートに行きたかったかも」

赤、橙、緑が捲し立てるように語る。
俺は熱を持つ首筋にゆっくりと触れる。
首筋には、今だ開ききった二つの穴。

「ヴァンパイアの姿はもっと色っぽいわ」

「私もデートに行きたい!!」

「なんならこれから行きましょう」

かしましく動く彼女らの口にきらりと輝く牙が覗いた。
乾ききった舌を運ぶと、口内に鋭いそれがあることに気付く。
彼女らの六つの瞳が俺を捉える。ああ、なんて

「断る」

なんて最低な一日なんだ。
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