第1話

文字数 3,022文字

 死にたいかといえば死にたくはないしたぶん生きていくのだけれど、どうやらしでかしてしまったらしいと気づいた時、時間にして10分くらいは死にたくなる。

 10分経つと少し元気になって「いいじゃん別に、くよくよしたってしょうがない」と自分に言い聞かせて立ち直った気分になったと思ったら、急に叫び出したいほど恥ずかしくなってまた10分ほど死にたくなる。

 そんな交互にやって来る「しょうがない」と「死にたい」が徐々に緩やかになり、最終的に「しょうがない」と思える時間が伸びていくから何とか生きているが、もし「死にたい」の方が伸びてしまったら、私は死んでしまうのだろうか。

 まだそうなった事がないからわからないが、しょうがないの時間が長くなっても唐突に死にたいが数分ほどやって来たりするので油断できない。

 痛みにも似たその数分をやり過ごすために、私は冷蔵庫から焼酎のミニボトルを取り出してぐっと煽った。

 死にたいがやって来る前に、先回りして酔っぱらって訳が分からなくなってやろうと思うのに、酔って理性が薄まると我慢していた泣きたい気持ちまで抑えられず、雫になって少しずつ零れる。

 泣いて元気になるなんてお約束っぽくてカッコ悪いじゃないかと思いながら、酔って濡れたくしゃくしゃの顔で布団に潜り込み、丸々した小熊のように眠るのはなんだかんだで気分がいい。

 いつもならそのまま朝まで寝ていられるのに、その日は11月にしては暖かい夜で、くるまった布団が蒸し暑くて起きてしまった。窓の外はまだ暗い。

 時計を見る。午前2時。まだ2時間も寝ていない。

 空になった焼酎のボトルをしばらく見つめた後、私は寝汗で湿った首を軽く拭って、コンビニへ出かけることにした。

 幸い次の死にたいはまだ来ていない。

 今のうちに酒を買いに行かなくては。

 外へ出ると、部屋の中より1段くらいひんやりとしていて、長袖のTシャツと短パンで出てきた私はパーカーでも羽織ってくればよかったと少し後悔した。

 細い月灯りを頼りに小走りで公園を抜け、コンビニでコップ酒を買って元来た道を戻って再び公園に入りかけた時、そこに誰かがいることに気づいた。

 小さくて古い公園の、朽ちかけた木のベンチに腰掛けた1人のおばあちゃんだ。

 おばあちゃんはこじんまりした公園のサイズに合わせたみたいに小柄で、白髪交じりの髪を低いお団子にまとめ、袖なしのリネンぽいロングワンピースからは乾燥してかさかさと音を立てそうなくらい細い腕が伸びている。

 右手にはほとんど空になったコップ酒のグラスを持ち、左手の指には短くなった煙草を挟んだまま、隣にいる古い障子紙みたいな色の犬の背中を撫でている。

 微かに震える手は犬を撫でているようでほとんど力は入っておらず、犬は撫でられている事にも気づいていなさそうで、時々小さなくしゃみをしながら、ベンチの上で腹ばいになってうとうとしている。

 急に冷たい風が吹いてきて、私は寒さに二の腕を揉んだ。

 私が寒いんだから、肩から腕がむき出しのこのおばあちゃんはもっと寒いんじゃないだろうか。

 焼酎の酔いがまだ軽く残っていた勢いで、私は勇気を出しておばあちゃんへ近づいていった。

「あの、よかったらこれ」

 おばあちゃんは私が差し出したコップ酒を見て、黒いボタンのような目を一瞬こちらに向けたかと思うと、空のコップをベンチへ置き、震える手でそろそろと私の申し出を受け取ってくれた。

 枯れ枝みたいに細い指に新品のコップ酒は重いのか、おばあちゃんは蓋を開けようともせず、コップに手を添えて膝の上に置いたままじっとしている。

「あの、開けましょうか」

 そう伝えると、おばあちゃんは震える手でコップ酒を空のコップの隣に置いてここに、と小さく掠れた声で呟いた。

 私は新品のコップ酒の蓋を開け、空のコップに3分の1ほど注いで彼女へ手渡すと、おばあちゃんは震える手でコップを口元へ近づけてゆっくりと飲んだ。

 おばあちゃんの喉仏が、コップを持つ手と同じように震えながら微かに動いている。黒くて小さな瞳はどこを見ているのか、口にする酒と連動しているようにつやつやと潤んでいる。

「…てられたんよ」

「えっ?」

「捨てられたんよ、うち」

 おばあちゃんがそう言うのを聞いた途端、私はいつになくこんな夜中によく見ればちょっと、いや結構怪しい人へ近づいたことを後悔した。

 これからよくわからない話に長々と付き合わされ、引き留められて帰るに帰れず寒さで風邪を引いてしまったりするのだろうか、自宅はすぐそこなのにと考え始めた私を見もせず、おばあちゃんは言葉を続ける。

「好き合うてると思うとったんな。可愛がられとったから」

 部屋を出る時に感じていた暖かさは既に1ミリもなく、しんと冷たく乾いた夜空に細い月が浮かび、おばあちゃんの顔を照らしている。

「毎日夢に見るんよ。楽しかった頃のことな。もうな、それは楽しかったぁ。好きな人とな、手を繋いでな、コーヒー飲んだよ。ミルクの、ミルクホールでな、別れてそれっきりや」

 それはおばあちゃんの過去の恋の話のようでもあり、昔観た映画か小説の話のようにも聞こえる。

 掠れた声で短く話すおばあちゃんの語り口は思ったよりも嫌な感じがせず「別れてそれっきりや」という言葉に、自分が昨晩しでかした格好悪い失恋の顛末をふと思い出して鼻のあたりがつんとなった。

「ずっと探しとるんよ。ずーっとよ。知り合いに聞いても知らん言うんよ。今度会う時は薄紫のスカート履いてきてと言うたのにな、今度が来んのよ。待っても待っても、ずうーと来んのよ」

 おばあちゃんの麻のワンピースは色褪せて黄ばんでいるようで、縫い目の部分は薄い紫色をしているようにも見える。

「あの人はどこへ行ってしもうたんかな。うちはからかわれとったんかなーとちょっとも思うたけど、ええ人やったからな。今度会う時は紫の、薄い紫のスカートでいうてな」

 そう言いながらおばあちゃんはふらっと立ち上がり、空になったコップと既に火の消えた短い煙草を持ったまま、今にも風に吹かれそうな拙い足取りで歩いていく。

「聞いても知らんいうんよ。皆知らんていうんよ。そんな知らんことないわっちゅうてな、でも夢に見るんよ。毎日夢に見るんよ。手を繋いでコーヒー飲んでな、ミルクホールでそれっきりや……」

 それまで眠そうに丸まっていた犬が急に起き上がり、おばあちゃんの声がする方を追いかけて、静かに歩いていった。

 ベンチにはまだなみなみと残った方のコップ酒が置かれ、さっきまでおばあちゃんと犬が座っていた空間がぽっかりと開き、街灯がスポットライトのように照らしている。

 死にたいかといえば死にたくはないしたぶん生きていくのだけれど、これからもっともっと生きた後に、昨日しでかした事なんかきっと私は覚えちゃいないだろう。

 そしていつかあのおばあちゃんと同じ年になって、色んな事を忘れまくった後に砂金のように残る思い出があんなにも切なくて美しいなら、もっと狂おしいほど失ってみるのも悪くない。

 私はおばあちゃんがいたベンチに座って、残っていたコップ酒を啜った。風は冷たいけれど、みぞおちの辺りはぽわんと暖かい。

 独り芝居でもしている気分になって少し重くなってきた瞼の隙間から夜空を見上げた。

 月の光はあまりにも細くて雲に隠れてしまい、代わりに近くでチラチラしている街灯の方がよっぽど月みたいでちょっと笑えた。
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