3-【ペダルの向かう先】

文字数 711文字


順調に育っていた娘と私に暗雲が立ち込めたのは、夫との別居が始まって僅か一年足らずのことである。


以前は、帰宅した娘が玄関の扉を開けると、パウンドケーキの香りがするような家だった。


ところが、小学校高学年の多感な時期に、それまで専業主婦だった母親が斜に無に働き始め、突然鍵っ子になってしまったのだ。

戸惑うなと言う方が無理である。

週に数日休んでいたものが、次第に一週間を通して休むようになるまで、そう時間はかからなかった。


どうにか、『普通』の子どものように学校に通ってくれたら。

初めの頃は、そう思わないわけではなかった。

その(じつ)、食べ物を工夫したり、睡眠環境を整えたり、いろいろ試みてみた。



だが、娘の不登校は深まるばかり。



子どもが引きこもりだなんて、親として不安でない訳がない。

だが、私は思い切って見守ってみることにした。子どもを信じてみることにしたのだ。


その日から私は、「学校に行きなさい。」も、「朝だよ。起きなさい。」も言わなくなった。



一つ目の仕事を終え、夕方家にたどり着いた頃、娘が起きてくる。

「おはよう。」

「おはよう。」

まだ、寝ぼけ眼の娘と視線が合い、挨拶の言葉が飛び交う。

私は、その視線を再び目の前のフライパンに向けると、手早く夕食を作り上げた。

「今日は、餡かけ焼そばと玉子スープだよ。」

「美味しそう。」娘が笑顔になる。

「火傷と火の元には気をつけて。じゃ、行ってくるね。」



ーーー『私たちは、これからはいったいどうなるんだろう。』

ドアに鍵をかけながらフッとそんな考えが頭を()ぎる。

私はスーパーの安売りで買っておいた菓子パンに(かぶ)り付くと、不安を消し去るように頭を振り、次なる仕事場へと向かうべく自転車のペダルを強く踏み締めた。
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