カッコー

文字数 1,763文字

 木目調のフローリングの上にテーブルが三つあって、それぞれの周りに四、五席ずつ椅子が並べてある。初級、中級、上級に分かれていて、僕は初級コースを選んだ。一緒のテーブルに着いたジュンとカナという二人組は僕よりずっと若かった。カップルかもしれない。無料で淹れてきたコーヒーを一口飲む。大層苦かった。
 
 ダヴという青年が残りのもう一席に座った。彼もたぶん、僕より年下だと思う。お互いに自己紹介をした。マイネームイズリョウスケ。ナイストゥーミートゥー。お互いの年齢や趣味を聞いたり、英単語でしりとりをしたりしていたら、あっという間に一時間半が経っていた。ダヴは僕より三つ年下だった。
 
 次の日は午前中に営業に行って、午後からオフィスに出社する。総合職とは、結局のところ、必要なことは自分でやるほかないんだと思った。事務所に帰ってくるなり、二歳上の松井さんが上司に怒られている声が聞こえてくる。何度も同じことを言わせるな。結論から話せ。僕はスーツのジャケットを椅子の背もたれにかけて、自分のパソコンを起動させて、コンビニで買ったカフェオレを飲む。ごくり、ごくり。仕事を一人で抱えるな。分からないことはすぐに聞け。なんでそれが出来ないんだ。カフェオレは、少し甘すぎた。その日は夕方を過ぎても電話が鳴りっぱなしで、やっと一息ついた頃には二十一時をまわっていた。
 
 
 僕は案外、器用に生きてきてしまったのかもしれない、と、ふと思った。
 
 
 最初の授業からちょうど一週間が経った。会社のある渋谷駅から徒歩五分にある雑居ビルの六階に、僕はもう一度足を運んだ。うちは『英会話教室』じゃあなくて、もっと気軽に立ち寄れるようなところでありたいと思っているんです。初めてここに来た時に、受付の女性が笑顔でそう言ったので、僕は目を逸らしてしまった。偶然にもまたジュンとカナと同じテーブルになった。二人とも顔を覚えていてくれていたのがなんだか嬉しかった。僕も彼らが前に話したことを思いだした。出会って間もない人たちだけれど、そういう人と話すほうが肩の力が入らなくていいのかもしれない。

 次の日も出勤するなり、デスクの上の書類の束にため息を吐く。ため息を吐くとしあわせが逃げてしまうよ、と昔付き合っていた子が言っていた気がする。逃げていく分のしあわせが残っていたらいいなと思ったら元気が出た。たった二年ぽっちの経験から判断して、優先してやらなければならない仕事から手を付けていく。時には後輩に頼られたりして、時には取引先から無理を言われたりして、てきぱきと(本当はそんなに容量は良くないと思われる)仕事をこなしていくうちに、やっぱりさっきのはから元気だったかもしれないと思う。
 
 日曜日の午後四時から一時間半。週に一回、英会話教室(受付の女性は英会話カフェと呼んでいた)に行くことがなんとなく習慣のようになった。まだ三回目だけど、それはつまり三週間も続いたということだ。その日、ダヴは上級コースのテーブルに着いていたので、僕も上級コースを選んだ。好きな映画を英語で紹介することになった。隣に座った女性は発音は上手くなかったけれど、一言一言、自分の好きな映画について楽しそうに語った。カッコーが、なんとか、というタイトルだったと思う。内容については何一つ聞き取れなかったので、さすが上級コースだと思った。僕の番がまわってきた時になって初めて、僕は好きな映画なんてないことに気が付いた。なんでだろう。嫌いなことならたくさん浮かぶのだけれど。
 
 
 次の日、松井さんが会社を辞めた。
 相変わらず、僕の仕事は定時には終わらない。
 どちらが良いのかは、どちらにも分からないと思う。
 
 
 二十二時。終電が遅い京王井の頭線に感謝しながら駅の方まで歩いていていくと、銀座線の改札口の近くでダヴに会った。授業以外で彼に会うのはもちろん初めてだった。軽く挨拶をしたけれど、話したいことが英語で出てこなくて悔しかった。すごく悔しかった。ダヴはカタコトの日本語で話してくれた。悔しいから、また来週も行こうと思った。

 帰りの電車の中で、「カッコー」、「映画」と調べてみた。知らない映画の題名が出てきた。悔しいから、今度観ようと思った。


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