薄明かり

文字数 3,394文字

 僕は走っていた。ただ馬鹿みたいに、呼ばれるままにそこへ向かっていた。

 午後二時を過ぎたあたり、仕事の最中に鳴った携帯電話。表示されていたのは妻の名前であったが、耳元に聴こえる声は妻のものではなかった。今思えば、なぜその電話に出たのだろう。普段なら、呼び出しをやり過ごし、機を見てメッセージを返していただろうに。もしかしたら、僕なりに何か不吉なものを感じ取ったのかもしれない。
 少しのわずらしさを感じながら出た電話から聞こえた声は、涼やかで丁寧な男性のものだった。救急隊と名乗るその人物は、終始穏やかに、妻の置かれた状況を説明した。後ろに聴こえるサイレンの音、彼という存在を疑う余地はなかった。
 箱根で事故に遭い、大きな怪我を負い、意識がない。車に同乗していた運転手の男性は死亡しており、妻も予断を許さない状況であると。
「箱根?」
 咄嗟に発した僕の声は、動揺から不恰好に裏返ってしまう。それを感じ取った電話の相手は、僕に落ち着くように促した。彼の声が穏やかであるほど現実味が薄れていくというのに。
「何かの間違いではないですか? 妻なら家にいるはずですが……」
 僕の言葉に、彼はすぐには返さなかった。沈黙に鳴り響くサイレン。彼は、改めて妻の名前を確かめ、妻が搬送される救急病院の名前を告げた。

 会社からタクシーに乗り病院へ着くと、走って受付へと向かい、妻の名前を告げた。しかし、妻は手術中であり、会うことは許されなかった。待ち合いのロビーで待つように促され、等間隔に配置された数人掛けのソファに腰掛けた。受付の女性から渡された書類に妻の身分を記すように言われたが、ペンを握る手が震えて、書くことを躊躇った。
 夕方を過ぎ、ロビーには人がまばらであったが、僕はすぐに、一人の女性に目が止まった。
 彼女は目を赤く泣き腫らし、それでもまだ流れ続ける涙をハンカチで拭っていた。僕と同じように病院で誰かを待って涙する彼女が、妙に気を引いた。

 数時間をその場で過ごしたのち、惚けたようになっていた僕の前に医師が現れ、妻の手術が成功したことを知らせた。しかし、妻の意識は戻らず、このまま目覚めずに容体が急変してしまう可能性もあると告げられた。
 喜ぶべきか悲しむべきか、気持ちの整理のつかないままの僕を置き去りにするように、その医師は僕の元から去る。
 なぜか、同じように誰かを待ち続ける彼女を目で探していた。彼女は控えめな声で方々へ携帯電話で連絡をしていた。時折、声を詰まらせながら。彼女の待つ相手は帰らないのだと、聴こえてくる会話の端々で想像できた。
 そして、その相手は、僕の妻と同じ車に乗っていた男性なのだとも。

「箱根へ、行ってみませんか」
 あくる日、携帯電話に呼び起こされた。その相手は病院で出会った彼女からであった。
 僕はあの日、彼女に連絡先の交換を申し出た。声をかける僕を彼女は鋭い目で恨めしそうに睨むと、その場から立ち去った。
 やましい気持ちは微塵もなかった。しかし、僕の妻のしたこと、そして、その夫である僕に彼女が疑いを持たないはずもない。僕は自分が恥ずかしくなった。
 ただ知りたかった。妻に何があったのか。そして、彼女なら僕の求める答えを手にしている気がしただけだったのだ。
 僕の妻は不貞を働いた。恐らく、彼女の夫も。僕は、僕らは裏切られ、現実に取り残された。
 連絡先を知るはずもない彼女からの誘いに、僕は少なからず動揺した。

 妻の看病に、少しのあいだ休みをもらっていた僕は、昼間から女性に会うという後ろめたさを抱えたまま、車で彼女と待ち合わせの場所へと向かった。
 駅前で待つ彼女は涼しげなワンピース姿で遠くを眺めていた。今年三七になる僕と、さほど歳が変わらないはずの彼女は、二十代後半とも取れる若々しさを身にまとっていた。

 彼女を助手席に乗せ、僕たちは箱根の町を車で走った。そのあいだ、彼女との会話はわずかなものであった。
 僕と妻のあいだに子供はいなかったが、彼女には小学生の息子と娘がいた。そして、二人は近所に住む母親に預けて来たとも知らされた。

 僕たちは彼女の夫が亡くなり、妻が怪我を負った場所を訪れた。
 それほど幅の広くない道。妻の乗った車は上り坂からカーブに差しかかったところで、下り坂のスピードにカーブを曲がり切れず、対向車線に膨らんだトラックと正面衝突してしまったと警察から知らされていた。
 彼女はその場に持参した花を供えた。そして、手を合わせ目を閉じると、しばしそのままでいた。どうすべきか思い悩んだが、彼女と一緒に手を合わせることにした。
 その時、下り坂を車が猛スピードでカーブに差しかかり、ちょうど対面した車が、けたたましくクラクションを鳴らす。
 僕たちは歩道上にいたが、僕はその音に驚いて、咄嗟に彼女の身体を引き寄せていた。
「すみません」
 我に返り、彼女からすぐに離れた。彼女は「いいえ」と短く返した。

 その後、僕たちは駐車場に車を止め、箱根の温泉街を散策した。取り留めないものを眺めては会話を重ね、彼女は時折、控えめな笑顔を見せるまでになった。
 それでも、僕も、恐らく彼女も同じ思考に捉われて笑顔を収めた。妻も、彼女の夫も、こうして逢瀬を楽しんでいたのではと。

 それから、僕たちは、ホテルの一室にいた。誘ったのは彼女からだった。まだ陽も沈んでいなかった。窓から挿す灯りが部屋を仄かに照らしていた。
 部屋を進む僕の足取りは、気恥ずかしさと後ろめたさに重い。引き返してしまいたい気持ちでいっぱいだった。しかし、彼女はゆっくり窓へと進むと、自然な仕草でカーテンを閉め、外から挿す光を遮った。
 一気に暗くなる視界に、僕は恐怖にも似た感情に襲われ、咄嗟に室内灯のスイッチを探して壁に手を伸ばした。すると彼女は、一瞬とも思える早さで僕に詰め寄ると、その手を優しく掴み、僕の胸に頭を沈めた。
 僕は驚き、固まってしまったかのように身動きが取れない。そんな僕の身体を溶かしたのは、僕の唇に重ねられた、彼女の唇の温かさと柔らかさだった。
 身体の自由が戻った途端、僕の唇は、腕は、激しく彼女を求めた。彼女をきつく抱きしめ、乱暴にその唇を味わった。

 ふと、目が覚めて、自分がどこにいるのかわからずに混乱する。隣には同じように裸の彼女が、背中を丸めてベッドに座ったまま、呼吸を繰り返していた。夜明け前の薄明かりの中で彼女は、真っ直ぐに遠くを見つめたままの姿で動かなかった。
 彼女の横顔は涙するでもなく、それでいて惚けているでもない。しっかりとどこかを見据えていた。
 そのたたずまいが、僕には堪らなく美しく見えた。家事で荒れた指先も、力をなくしている乳房も、輝きを失いつつある肌に刻まれたしわも。どれもが彼女という孤独な復讐者の美しさを際立たせていた。
 僕は今すぐにでも彼女をこの腕に抱き寄せたいと思うのに、できなかった。そうすれば、彼女の身体が脆く崩れ落ちてしまいそうな危うさを感じていたから。眠ったふりをしながら、彼女の横顔を見つめ続けた。
 なぜ、彼女は僕とこうなることを望んだのだろう。夫を失った寂しさから、もしくは、自分を裏切った夫への当てつけか。それとも、彼女の夫を奪った妻から僕を奪うため。たったひとつわかるのは、彼女の見つめる視線の先に、僕はいないということだけだ。

 彼女と別れた日の午後、妻の入院する病院を訪れていた。集中治療室のベッドで機械に繋がれた妻をモニター越しに眺める僕の胸の内は空虚だった。
 僕は妻を愛していた。ともに月日を過ごし、結婚し、十余年が過ぎても、僕なりに妻を大切にしていた。三十も半ばを越え、子供を持つことを諦めた。幾度となくそのことについて話し合い、妻もその結論に納得していたはずだった。仕事に追われ毎夜遅く帰宅する日々。妻のためと思う僕の帰りを、彼女はひとり、何を思い、待っていたのだろうか。

 病院のロビーでソファに腰掛け、名前を呼ばれるのを待つ。そこにはさまざまな人が行き来していた。そこに彼女の姿はない。
 僕は両手で顔を覆い、うな垂れた。人の目など気にせず、滅茶苦茶に叫びだしてしまいたくなる。その声に妻が目を覚ましたのなら、今の僕をどんな表情で見るのだろう。
 耐え難いほどの寂しさが僕を包む。一体、僕は何を願い、誰に抱きしめてもらいたいというのか。
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