僕はブレッド

文字数 1,951文字

 僕の名前はブレッド。この町をねじろにする町犬一派の若手だ。静まり返った町の裏路地に土埃を立てて疾走する僕の爪は力強く、星の光を映し込んで鉛色にぎらつく。僕は瞬きをすることなく遠くの一点を睨みつけ、より一層力を込めて地面を掴む。町の家々にともる灯りは次々に消えていく。僕はそのすべてが消えてしまうよりもはやく、やがて来る終わりのない真っ暗な夜を追い越して、最愛の時間から逸れてしまわないことを誓うために走った。

 僕の脚は先を急ぎ、頭は2年前のことを今再び思い出そうとしていた。本当か嘘かあいまいになりつつある記憶を必死に手繰り寄せる。かつて僕と一緒に生活したおじいさんのゴツゴツとした手、その手が僕の背中に乗せられた時の重み、僕の毛色を讃える優しい声を思う。
 おじいさんはいつも、僕の背中を撫でながら、
「お前、こんがりと焼けたパンのようにいい毛色をしているね」
 と、低く深くまろやかな声で僕を讃える。そして、目を細めて僕の首元の匂いを嗅ぐようにして、ぎゅうっと抱きしめてくれるのだ。その時、僕は、胸の奥がきゅっと嬉しくなって、もう忘れてしまった母の腹の上はこんなだったかもしれないと、夢見心地になる。僕の最愛の時間だ。
 それが2年前、おじいさんは突然この町を去った。おじいさんの知り合いたちが町じゅうから家に集まってきて、しくしく泣いていた晩のことだ。深く眠って少しも動かなくなったおじいさんを、彼らは黒い箱の中にしまって車に乗せた。そのまま車は二度と帰ってこなかった。夜になって朝になりまた夜になっても、僕はおじいさんを乗せた車を見送ったままでいた。

 あれは、僕がついに腰を上げて、喉の渇きを潤すために水場へ移動した日のこと。水を口にした僕の耳に、声が流れ込んだ。
「水は美味いか」
 声の方を見やると、チラチラと明滅している小さな光があった。目を凝らすと、光の奥に、ゴツゴツとした石ころが見えた。光る石ころはくるんと前転をして見せてから、僕は星だよ、と笑いながら言った。くるくると遊んでいたら空から落っこちてしまい、おじいさんを見送り続けていた僕を見つけたという。それからずっと見守っていたらしい。その星の光はあまりにも小さかったが、時にきつく、時にあたたかく灯って、その光を僕の瞳に投げ入れてきた。かちこちに凝り固まっていた僕の胸は、その光のせいでグラグラ揺れた。僕たちは随分長い間、世間話をした。おじいさんの話もした。彼に空に帰る算段を尋ねると、
「時期がくれば昇るさ」
 と言った。その返答はあまりに呑気なものだったが、僕は少しほっとしていた。

 僕が星と話をしていると、珍しがって、このあたりをねじろにしている町犬たちが声をかけてきた。いつの間にか、僕は彼らと行動を共にするようになった。町犬たちの多くが、二度と帰ってこない車を見送ったことがあり、見送ったことがないものは、それを知るものたちと接する際に持つべき身のこなし方を心得ていた。
 僕は、町犬たちにも、おじいさんとの思い出を話して聞かせた。話せば話すたび、おじいさんとまた出会える気がした。それと同時に、話すほどに、本当のおじいさんのことを少しずつ忘れていった。
 おじいさんのことを思い出そうとすると頭に靄がかかったみたいに取り止めがなくなっていく。僕の体が親しんだはずのおじいさんの手やその温みや重みは、だんだんと薄らいで、いつの間にかすっかり失ってしまった。次々に覆い被さってくる新しい陽射し、新しい水、新しい僕の体の細胞たち……不可逆な僕らは、一度失ってしまえば、かつてあった最愛の時間とは二度と出会うことはできない。あの日、車を見送った場所を離れ、水を口に含んだあの時から、僕とおじいさんの別れは始まっていた。おじいさんはあの日立ち止まり、僕は新しい水を飲み、食べ物を口にし、昨日より今日、今日より明日へと生きていくからだ。もう二度とおじいさんに抱きしめてもらうことはできなくても、ただ忘れてしまうみたいに、最愛の時間を僕の中で死なせたりしたくない。
 僕は、あの日の水場へ出向き、ごくりと水を飲み込んだ。そばで星がくるんと前転してみせた。僕はおじいさんとの思い出のように生きよう。僕という犬そのものが、あの最愛の時間そのものになるんだ。
 ある晴れた日の夜、町犬一派のリーダー格が僕を呼び出して問いかけた。
「お前、名前はあるかい?」
 僕は自分で決めた名前をこの時初めて名乗った。
「僕はブレッド」
 おじいさんに愛された毛並みを持っている愛すべき犬。それが僕だ。

 名前を名乗ったその時、あの星が空高く昇りゆくのが見えた。僕は一目散に駆け出した。

 僕は走った。
 空を逆走する流れ星が、より一層輝いて見える。
 僕は誓った。僕の名前はブレッドだ。
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