第1話

文字数 1,868文字

 妖精を見たことがある。子供の頃と言ってもそれほど幼くもない、大人ではなかったと言えるぐらいの歳だった。
 自宅のベッドで寝ていて目を開けると天井と壁の境目が見えた。天井と壁が接する部分は素材のちがいからどうしても隙間ができる。そこに取り付けられる細長い縁木を廻り縁という。その廻り縁を黄色い小さな人が重力無視で左から右へすたすたと歩いていった。夢を見たのか、いや意識はあった。周囲は明るかったから夜ではない。熱でもあって寝込んでいたのか、いや只眠るのが好きで、夜はもちろん昼間でもいくらでも寝ていることができた。子供と大人、眠りと目覚めの狭間に脳が見せたマジックだったのかもしれない。夢より鮮明な現実より曖昧な経験だった。
 妖精と一口に言っても世界各地に大きさも姿形も性質も異なる様々なものが数多くいる。アメリカのアニメーション映画の影響で翅のある小さな妖精が有名だ。水のウンディーネ、風のシルフ、火のサラマンダー、土のノームといった錬金術の自然精霊はゲームに親しむ子供たちの馴染みだ。日本の使い魔も一種の妖精と言えるかもしれない。最近では3D映像でファンタジー映画に出演した、しもべ妖精がいる。妖精は昔から伝説や伝承、文学で語られ、絵画や映像で描かれつづけ、妖精学の分厚い本まで出版されている。
 私は学者になるほどの賢さも根気もなかったので、探偵になった。突拍子もなく聞こえるかもしれない。けれど、廻り縁などという思いがけない所に妖精などという思いもよらぬものを見たせいで、普段人が気にとめない片隅に視線をむける癖がつき、探し物が得意になったのだ。妖精を研究する学者がいるぐらいだから探偵がいてもいいのではないだろうか。はようせいと要請されれば即探します、ようせい探偵、なんちゃって。
 そして、今、私は依頼人に要請され妖精を探すために森に踏み入っている。Wようせい探偵である。
 早春の森は未だ肌寒いものの、光に満ちている。木々は殺風景な灰色の樹肌から白緑や紅の若芽を出し、柔らかい新緑の予感を抱えている。秋から冬にかけ降り積もった落ち葉は半ば土に還り、萌え出した短い草と共に踏めば、ふわふわした絨毯のようだ。川の分流を雪解け水が勢いよく流れ、澄んだ調べを奏でる。水辺は苔に覆われ、水仙や踊り子草の花が咲いている。
 誰もいないのに気配を感じ、足音を忍ばせる。思いがけないほど近くにいた。動きを止める、息さえ止めたいぐらいだ。けれど、不可能なので逆に深く呼吸する、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら。
 人間と異なる縦に長い竜の瞳孔を持つグリーンゴールドの目で、木々の間からじっと私を窺がっている。虹彩は瞳孔に近いほど緑がかり外側へ広がるほど金色に輝く。逆三角形の小さな顔で、少し釣り上がったアーモンド形の大きな目を見開いている。やはり人間と違う先の尖った耳をピンと立て私のほうを向いていた。水をはじく毛足の長い上等の毛皮のコートを着て、日本女性が成人の日に振袖の襟もとに巻くような純白のファーを首に巻いている。
 都会暮らしの依頼主は、森の妖精と呼ばれる彼女のためにこの森へ訪れた。なぜ性別がわかるのかと言うと、依頼主から聞いていたからだ。森を一緒に散策中、突然、何かに呼ばれたように駆け出し、森の奥に消えてしまったらしい。
 怖がってはいないようだ。けれど、驚かせてはならない。私は慎重に捕獲器を地面に下し、後ろに下がった。中には彼女の好きな食べ物が入っている。森を遊び、お腹がすいているはずだ。どうか中に入ってくれ、決して害さないから、と祈る。
 彼女はかわいらしい鼻をひくひくさせ匂いをかぐと、素早く捕獲器に入り、勢いよく食べた。依頼主に聞いていた通りの食いしん坊でよかった。
 こうして私は、ノルウェーの森の妖精、ノルウェージャンフォレストキャットの保護に成功し、依頼主である飼い主さんに感謝されたのである。失せ物、猫探しは、得意である。
 森でのアバンチュール後、彼女は玉のような子猫を三匹産んだ。うち雄一匹を飼い主さんが私にプレゼントしてくれた。最初は戸惑ったものの、穏やかで賢く、呼べば来る犬っぽい子猫は、今では探偵業の立派な相棒を果たしている。言うまでもなく猫探しの達人ならぬ達猫である。唯一の欠点は母親譲りの食いしん坊か、それも愛嬌だ。公私共に彼との生活が楽しくて仕方がない。
 時々、彼は天井と壁の境目あたりをじっと見ている。仰向いた顔が左から右へ動いていく。私にもまた見えればよいのにと、大人になったことを残念に思う。
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