心はゼラニウムと眠る

文字数 4,351文字

 人間の生の根幹を形成する三大欲求のうち、一番強いものは「睡眠欲」だと言う。人間は眠らねば生きてはいけない。だが、それは必ずしも肉体に限ったことではないと僕は思う。心にだって微睡の時間は必要だ。大切な人と過ごしたほっとするような時間や楽しい思い出、それがないと人間は過去を遡ることができない。微睡の時間というものは人間を少しの間だけ癒してくれるものだ。
 僕にとってその微睡んだ過去の時間は、思い返すたびに癒しと共にちくりと痛みを与えてくるものなのだけれど。

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 僕は当時、東京の山の手にある大学に通っていた。大学生活そのものはとても楽しく、充実した時間だったと思う。けれども、彼女を思い出すたびにその時間は霞んで見えなくなってしまうのだ。彼女はそれほどまでに、僕の中に大きなクレーターを残し、去っていった。
 始まりは、もう就職先の内定も決まり、あとは卒業をするのみとなった四年生の11月頃のことだ。その日のことはよく覚えている。僕は日が差す部屋で本を読んでいた。本の名前は「ティファニーで朝食を」だったと思う。人をだめにするという売り文句のソファーの中で姿勢をゴロゴロ変えながらその本を読み進み、半分ぐらい読み終わったところで、インターフォンが鳴った。出てみると、そこには兄と一人の女性が立っていた。当時、兄は海外文具を専門に扱う小売店の営業担当だった。
「なんだ。兄貴か」
「おう。就職決まったんだってな。おめでとう」
 兄は僕にさらりと祝いの言葉を述べた。淡白なように聞こえるかもしれないが、これが兄の平常運転の話し方だ。兄は僕に土産のワインとディーゼル時計の入った紙袋を渡す。きっとお祝いの意味を込めてのことだろう。兄は自分の感情を言葉ではなく行動で示す、少し昔気質な部分があった。
 僕は兄と隣の女性を部屋に入れ、コーヒーをマグカップに入れて出した。女性はにこりとほほ笑んで「ありがとう」と言った。茶髪に染めた髪がよく映える美しい女性だった。
「あ、こちらが俺の彼女の三月(みつき)
 まあだろうなと僕は思った。兄はコーヒーを飲んで少し顔をしかめながら話を進めた。

「それでだな、俺はしばらく出張で大阪のほうに行かないといけないんだ。一週間くらい。そこで、お前の家で彼女を預かってほしいんだ」

 この話を聞いて素直にわかった、預かるよと言える人は地球上にどれくらいいるのだろう。まあ少なからず存在するとは思うが、僕はあいにくそういう人種ではなかった。
「はあ? なんでだよ。自分の家に泊めればいいじゃないか」
「そうできればいいんだけどな。実は彼女、ここ最近ストーカーの被害にあってるんだ。俺がいるから付きまといの範疇で済んでるが、俺が家を空けているうちにどんな被害にあうかわからん。警察も捕まえるまであと一週間はほしいと言っているし、その間はどこか安全なところに避難しなければならない」
 それがここってわけか。まあ確かに筋は通っている。ストーカーさんもまさか彼氏の弟の家なんて知らないだろう。
「と、いうわけでよろしく頼む」
 兄はそう言い残し、彼女を置いて出張に行ってしまった。空港に行くついでにここに来たらしい。おい待て、いくら筋は通ってても女性経験など数えるほどしかない僕と、兄の彼女とは言えど女性と一緒の空間に閉じ込めるのはどうなのだ。僕は居心地の悪さと湧きどころのわからない緊張の狭間に放り出されたようで、救いを求めて三月さんを見る。彼女はコーヒーを飲みながら僕を見て、微笑んだ。
「部屋綺麗にしてるね。本もいっぱあるし、リクガメちゃんもかわいいし。一週間楽しくやれそう」
 彼女はそう褒めてくれたみたいだが、僕のテンパり気味の脳はそれを処理できるほど、器用ではなかった。

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 彼女は一言でいえば、猫みたいな人だった。自由奔放で身勝手、でも目が離せない何かがある。まさしく猫だろう。彼女は僕が大学に行っている間は僕の積読本を読んだり、リクガメと戯れているらしい。そのせいか、僕のリクガメは彼女と僕の姿を認めても彼女にしか寄って来ない時もあったし、酔っぱらた彼女に未読のミステリーの犯人をネタバレされることもあった。それでも僕は最初の日に感じた他人と過ごすことに対する億劫さや彼女への警戒心は消えていた。僕はレポートを片付け、彼女は本を読む。僕の部屋の中は二人人間がいるにも関わらず無言の空間だったが、僕はそれがひどく心地よかった。

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 6日目の朝。彼女の携帯に警察から連絡があり、無事にストーカーが捕まったという報告が入った。彼女はその報告を聞いてもほっとするような素振りすら見せず、ただ「そうですか」としか言わなかった。それについて彼女に尋ねると「なんでだろうね。分からない」と言葉を濁し、まるでストーカーなどいなかったかのように僕の作業のほうへと関心を向けた。僕は今、植物標本の吸水紙を交換している真っ最中だった。この作業を怠ると、植物から出る水分により、カビが繁殖してしまう。
「へえ。でも楽しそう。どうやって作るの?」
「とってきた植物の形を整えて新聞紙で挟んで、もう一枚の新聞を吸水紙として上に乗っけて、その上に重りかなんかを乗せて3週間ほど乾かして完成です。最初の1週間程度は吸水紙は毎日、それ以降は2~3日に一度くらい交換してください」
「それ押し花じゃないの?」
「いえ植物標本です」
「あ、じゃあさあ。今から一緒に公園に取りに行かない? 私も一から作ってみたいんだ。ついでに映画も何本か借りたいし」
「映画?」
「そう。あ、今日徹夜コースだからよろしく」

 僕は彼女に押されるがままに近所の大きな公園にやってきた。だが時期は11月。落葉広葉樹なんかは葉を落としてしまっているもの多い。この公園は植えられているのはコナラやブナなどの落葉広葉樹などがほとんどなので残っているのはコスモスなどの草本が主となる。しかし、草本の目ぼしいものはあらかた公園が管理しているので採集禁止だ。僕のような人間はぱっとしないそこらの植物でも好奇心の対象にできるが、彼女のように植物に興味のない人からすればそこらの雑草なんかは思慮の範囲ですらないのだろう。彼女は速攻で興味を失い、早く映画を借りに行こうと急かしてきた。
「あ、ついでに帰りに花屋によってもいい? 彼と住む家の彩にしたいの」
「あ、まあいいですけど……。そういえばなんで兄貴なんですか?」
 これは兄の結婚を聞いた時から抱いていた疑問だ。
「実は私が大学生の時に告白されてね。君の兄さんとはゼミが一緒だったの」
「告白……ですか。あの兄が……へえ」
 なんとも珍しいことがあるものだ。あの兄が告白だなんて想像ができない。
「あーやっぱり珍しいんだ。彼の親友の人からも言われたんだよね。こんなことは初めてって。しかもさ、告白の言葉がさ『月が綺麗ですね』だったのよ」
「はあ。なんかすごいですね」
 まあ理系の僕でも知っている告白の文句だが、それを実際にやる人がいるなんて思ってもみなかった。
「でしょー? いや私もちょっとおかしくて笑いかけちゃって。でも別に一緒にいたくないってわけでもなかったしむしろ彼といる時間は心地よかったしね。それがまあ結婚までいくんですから人生何があるかわかりませんなあ」
 僕はこの時、「そうですねえ」とか「やっぱり何が起こるかわかりませんねえ」とか返したと思ったが、彼女の最後の返答を聞いた時、胸がチクリと痛んだ。
 その後、彼女と僕はレンタルビデオ屋でそれぞれ好きな映画を二本ずつ選んで借りた。彼女は『タイタニック』と『ショーシャンクの空に』を、僕は『ダークナイト』と『ジュラシックパーク』を選んで借りた。レンタルビデオ屋を出ると隣に花屋があったので、彼女はそこでゼラニウムを買った。深紅の花弁は太陽を思わせる。なぜゼラニウムにしたのかというと赤が綺麗だから、だそうだ。
 家に帰り、ゼラニウムを袋から出してみるとひとひらの花びらがぽろりと落ちた。
「あ……」
「まあ植物標本にしましょう。花弁もかけていない、完全な花びらのまま落ちましたし」
「あー押し花ね。いいかも」
 そのあとのことは特に語るようなことはない。彼女と一緒に植物標本を作り、出前を食べながら一晩中映画を見た。ただそれだけだ。でも、タイタニックの終盤、彼女はテレビ画面の向こうに写る世界に涙した。その時、僕はなぜかその彼女の姿を見て、昔見た彗星を思い出した。ただただ落ちていくだけなのに、光り輝くその星の姿は美しく、僕の記憶に焼き付けられた映像。彼女の無邪気で自分に素直なその生き方は、まるで落ちて光り輝く彗星のようだと、僕は少し詩的なことを思ってみたりもした。

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 次の日の昼。兄が彼女を迎えに来た。彼女は一週間ぶりに見る恋人を眠気眼をこすりながら出迎えた。
「どうでした、楽しめました?」
 僕は何となく彼女に聞いてみた。彼女は眠そうな顔をしながらも少し考えた後にこう言った。
「楽しめたというよりは、心地が良かったかな。なんだか微睡の中にいた気がするよ。君が彼に似ているからなのかな。まあとにかく眠っているみたいに心地よかった」
 彼女の眠気も限界が来たようなので、そろそろ玄関の外で待つ兄に彼女を預けなければならない。
「あの」
「ん?」
「いや、あのお元気で」
 彼女は小さく微笑みながら手を少し上げて、帰るべき人のところへと帰っていった。

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 それから一か月後。彼女から封筒が送られてきた。クローバーの模様が書かれた封筒の中には、便箋と赤いゼラニウムの押し花が張り付けられた栞が入っていた。便箋には泊めてもらったお礼の言葉がつらつらと書かれていた。

「君は彼と一緒で、人の幸せを第一に考えられる人です。これは私が言うのだから間違いはないです。絶対に。でもあなたの幸せも考えてあげてください。また会いましょう /三月」

 手紙はこの一文で締めくくられていた。そこまで読んだとき、僕がなぜ、彗星を思い出したのかはっきりと理解した。
 ああ、兄よ。今はお前が心底憎らしい。兄弟とは言え、ここまで、こんなところまで似るというのか。なんと残酷なことだろう。

 だが、僕はこの感情に決して名前をつけるような行為はしない。無駄なことだ。それは自覚してしまったら癌細胞のように僕の心に根付いてしまう。それでも、そうだとしても、彼女の言ったことが本当ならば、僕のこのささやかな、踏みつぶされる雑草の如き行動にも、意味があるような気がした。

 僕は胸に抱いたその感情を心にしまって、ゼラニウムの栞を指でなぞる。その花は、標本にしたときに乾燥して色味がほとんど抜けてしまっていたが、僕の目にはとてもきれいなものに見えた。





《了》
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