草いきれ

文字数 900文字

 あれがいつのことであったのか、たしかには思い出せないほどに昔のことだった。草は私の胸をも隠すほどに茂っていて、私はその海を漕ぎ分けるように歩いていた。何を探していたのかは思い出せない。あの頃も、思い出せていなかったような気がする。
 何かを探して駆けだして、その足が徐々に鈍っていった。じりじりと太陽が頭を焼いて、そこでようやく気に入りの帽子を忘れたことに気がついた。草いきれに蒸されながら、私は炎天の下で途方に暮れていた。何かを取りに戻ってきたはずなのに、その何かの正体が杳として知れない。その気持ちの悪さに、家へと戻ることもまた躊躇われた。
 風のひとつもなかった。ぼうっとして意識が遠のいていく途中で、しかし私は草がわずかに揺れるのを見た。
 一体何者が揺らしたものだろうか。誘われるように私は足を踏み出した。棘を備えたいくつかの草が足を切りつけるのにもかまわずに歩いた。子どもというのは得てしてそういうところがあるが、あの時の私には間違いなく自分の幼さ以上の、非日常に憧れる子どもっぽさ以上の、魔力に似た何かが働いていたのに違いなかった。
 さわさわと揺れる草は、近づくたびに私の足以上の速さで遠のいていった。生き物のようだった。もしやまだ見ぬ動物だろうか。本の中でしか見たことのない、数多の生き物が組み合わさったような怪物がいたらどうしようか。
 そんなことはあるはずがないと幼心に思う一方で、私は非日常を追いかけて次第に足を速めた。最早己が忘れたはずのものなど頭の片隅にもなかったのだろう。無鉄砲に、あの草が遠のく以上に速く走りさえすれば構うまいと駆けた。段々と、追いかけるよりもむしろ、走ることを楽しみ始めたそんな矢先。
「あ、」
 草に覆われた地面に転がっていたものに気づかずに、間抜けな声を漏らした私は草の海に沈んだ。しかし思いの外やわらかく体は受け止められる。やわらかすぎる、ほどに。
 その後のことはそれこそ曖昧である。気がつけば、母の眼前で大泣きしながら立ち尽くしていた。母は叱るよりもむしろ、青い顔になってうろたえていたように思う。
 ただ、がぷりと大きく開いた、その口ばかりが鮮明である。
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