ファック・トゥー・ザ・フューチャー

文字数 71,576文字

21世紀の僕             6年3組 矢吹丈一

21世紀になっても、今とそんなに変わらないと思う。マイコンやテレビゲームをみんなが持っていたり小さな移動電話をみんなが持っていたりするけど、そのぐらいだ。便利な世の中にはなると思うけど、他のみんなが考えるような世界にはならない。車が空を飛んだりはしないし、ガンダムみたいな宇宙基地もできない。ロボットは小さいおもちゃみたいなやつが二本足で歩くのがやっとだし、モビルスーツで宇宙戦争なんてありえない。宇宙人も攻めてこない。ノストラダムスの大予言は当たらない。
そして、男子のみんなは野球選手になりたいとか女の子はアイドルになりたいとか言っているけれど、有名になる人は一人もいない。僕は映画が好きだから、できれば映画監督になりたいと本当は思っているけれど、きっと映画監督にはなれないと思う。仕事はいやだけど、生活のためにがんばるのは大人になったらしかたがないと思う。夢がないと言われたけれど、これは本当の気持ちだからもう書き直ししたくないです。



「矢吹…。テメエ…。何だったんだ…」
部屋中に散乱したティッシュペーパーからつんとした栗の花の臭い。二週間以上放置されたカップラーメンの空容器の中でゴキブリの子供が三匹、油まみれになって溺死している。老衰した蜘蛛が天井の角にぶら下がり、白かった筈の蜘蛛の巣は、煙草のやにで茶色く変色している。電気の傘から延びた引紐の先には何年も前にUFOキャッチャーで取ったバカボンのパパが埃だらけになってぶら下がっている。
足指の間が痒い。二日間奥歯に詰まったままの、乾燥シナチクの滓が取れない。
煩いテレビ。出っ歯の芸人が傘を回している。
「有名になる人は一人もいない?」
摂氏5度の部屋。炬燵に潜って水虫の足を掻き毟った。壊れた皮膚が赤外線に照らされて、オレンジ色に光って見える。
「馬鹿にしやがって…」
ゲロゲーロッ
ゲロゲーロッ
 テレビから、笑えない漫才。
二千一年。一月一日。二十一世紀の初日に記念すべき三十歳の誕生日を迎えた吉田日出男は、炬燵から頭を出してテレビのリモコンを構えた。
「うるせえ、ジジイ」
門松と鶴亀のオブジェで飾られた舞台の上。何年経っても同じ芸を繰り返す漫才師が二人、吸い込まれるように小さくなって消えた。
無音。静寂。
その静かさに耐え切れず、吉田日出男はまた炬燵に潜り込んだ。炬燵の中に引き込んだ十八年前の小学校卒業文集。矢吹丈一の作文に、もう一度目を走らせる。
「何なんだよ…、こいつ」
定規で引いたような角張った文字。薄茶に変色した安っぽい紙が、炬燵の中では不気味に赤い。
「畜生…」
吉田日出男の双眸から、涙が溢れて落ちた。チーンと高音を発てて、炬燵のモーターが唸り始める。
「畜生…。矢吹…。馬鹿にしやがって。俺は…。なれたんだ。プロ野球選手になれる筈だったんだ。なれる筈だったのに…」
 啜った鼻水が塩っぱい。吉田日出男は心で叫んだ。
 こんな筈じゃ無かった。
こんな糞ったれな三十歳になるなんて、あの頃は露程も思っていなかった。天才野球少年。エースで四番の凄い奴。学校中の誰もが、近所の大人達皆が、間違いなくそれを認めていた。チャンスでバッターボックスに立つと、まるで少年漫画のように、時間が止まる気がした。それまで吹いていた風がピタリと止んで、見ている皆がぎこちなく唾を飲み込む。俺は大きく息を吸って、止める。世界が真空になる。次に息を吐き出す瞬間に、バットの芯で白球が歪んでいる。急に空気が震えだして、ゆっくりと歩き出した俺は右手を突き上げる。小学生の頃も、中学の時も、何時だってスターだった。補助輪無しで自転車に乗れたのも、バック転が出来るようになったのも、初体験を済ませたのも、俺が一番早かった。
なのに。
「畜生…。あん時…。バイクになんかのらなきゃ…」
炬燵の明かりに右手を翳す。二センチ足りない中指と薬指が、滲んで揺れている。先端の四角い、爪の無い指。
二千一年の始まり。三十代の始まり。記念すべきその日。吉田日出男は、足の臭いが充満する炬燵の中で、背中を丸め声を上げて泣いた。

21世紀の僕            6年3組 吉田日出男

21世紀の僕は、野球せんしゅだ。ジャイアンツにいて、いまとおなじようにピッチャーをしながらクリーンナップをうっていると思う。そおいう人はプロだとまだいないから、僕はさいしょになりたいです。その前に僕はこうしえんに行って優勝するからドラフトかいぎでジャイアンツに1位しめいされてはいる。そしてさいしょにもらったお金でカウンタックの赤を買おうと思います。でも21世紀になって空をとぶかっこいいクルマができたらそっちのほうがのってみたいと思う。ホームランをたくさん打って三振をとりまくってゆうめいになったらたくさんお金をもらってかっこいいクルマをいっぱい買いたい。それと21世紀になったらぼくは30才だからたぶん子供がいると思うから子供にも野球をおしえたげていつかは僕がかんとくになって子供が野球せんしゅになったらいいなと思います。

「畜生…」
矢吹丈一の次頁にある、吉田日出男。十八年前の自分の作文。幼稚な文字。稚拙な文章。
夢は何一つ叶わなかった。
21世紀の吉田日出男は日雇いのガードマンだ。築二十五年の襤褸アパートで炬燵布団にくるまりながら新世紀を迎えた。三十歳。同世代のスポーツ選手達はいつの間にかベテランと呼ばれチームの主軸となっている。同い年の横綱は髷を切ってタレントになった。
空腹。時計は午後二時を指している。カップラーメンも葡萄パンもすべて食べきってしまった。借りっぱなしのアダルトビデオも返却しなければならない。
吉田日出男はヤドカリが殻を捨てるように炬燵から這い出た。ビデオの巻き戻しボタンを押し、ジャンパーを羽織る。痒い目を擦ると、茶色い目糞がぽろりと落ちた。寝癖隠しの野球帽を被りポケットに財布を仕舞う。巻き戻しが終わったビデオテープを取り出そうとしたその時、隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえた。
 若い女の態とらしい喘ぎ声。
止まる。
聞こえる。
止まる。
聞こえる。
吉田日出男には分かっていた。隣に住む四十代の独身男は今、アダルトビデオを観ている。
再生。
早送りサーチ。
再生。
巻き戻しサーチ。
リモコンを片手にベストショットを探している。
憂鬱。
再生専用の韓国製ビデオデッキからテープが吐き出された。お汁娘モモちゃん18歳。おしるこ ももちゃん じゅうはっさい。正月に、お汁娘。
鳥になりたいと思った。鳥になって自由に空を飛び回りたい。でもカラスは嫌だ。出来る事なら鶴か白鳥がいい。もう、人間はうんざりだ。
「いくっ いくっ いくっ いく〜」
隣の部屋から響く声に、聞き覚えがある。同じビデオを、確かに借りた事がある。
鶴の鳴き声を思い出せない。白鳥は鳴くのだろうか。俺は四十代になっても隣の男と同じように正月からエロビデオを観て一日に何億もの精子を無駄死にさせているのだろうか。指先の無い右手で、陰茎を握っているのだろうか。
壁を蹴り飛ばそうと振り向いて、やめた。きっと今、あいつは、一番いい所だ。

正月の空が、ポスターカラーで塗ったように青い。外に出る時、吉田日出男の右手は必ずポケットの中だ。左手に提げたビデオ屋の袋を店員に返し、観たくもない2001年宇宙の旅を何となく借りた。コンビニに入ってカップラーメンとカレーパンと苺大福と缶コーヒーを買い、自販機でセブンスターを二箱買った。田舎者がすし詰めの電車に乗って消えた後の駅前は、親や旧友に会うよりも性器を擦り合う事を選んだカップルばかりがやけに目立ち、股間が疼く。吉田日出男はエロビデオを借りなかった事を少し後悔した。
空腹に耐えきれずに歩きながら苺大福を食べた。奇形の指先に付いた白い粉を舐めながら、日本の平和を呪った。
郵便受けを空けると年賀状が一枚。レンタルビデオ屋からの年賀状。正月特典! ビデオ一本無料レンタルキャンペーン。ゴシック体の黄色い文字に舌打ちをする。
「矢吹か…」
赤錆だらけの階段を上りながら呟いた。幼稚園から中学まで同じ学校だった矢吹。小学校の五六年で同じクラスだった矢吹。勉強が出来る奴だった気もするし、そうじゃなかった気もする。走るのが速かった気もするし、跳び箱も跳べない奴だった気もする。太っても痩せてもいなかった矢吹は、身長も確か普通だった気がする。
「矢吹丈一…」
声に出して呟いてみても顔を思い出せない。
留守番電話の赤いランプが点滅している。聞くまでもない。きっとまた母親に決まっている。歩いて数分の距離に住みながら、もう二年近く親には会っていない。
「矢吹丈一…」
思い出せない。まだ実家にいるとしたら、駅前あたりで何度も擦れ違っているかも知れないのに。
テレビの中で猿人が騒いでいる。2001年宇宙の旅。始まって十分もしないうちに、吉田日出男はビデオを止めた。
「あーあ」
窓の外が夕方になっている。炬燵の中、足指の先が卒業文集に触れた。
「矢吹…。おまえ…」
元旦の陽が暮れる。何も無かった一日。虚しい正月。虚しい新世紀。寂しい誕生日。惨めな三十代の始まり。
「おまえ…。何で、分かったんだ?」



欧米のスーパーモデル達は、皆やっているらしい。
手の中に買ったばかりのボラギノール軟膏。痔の薬が目尻の皺伸ばしに効くと知人に聞いた。先端の銀色を破って穴を開けると、濁った透明が丸く滲み出す。指先に五ミリの軟膏。鼻を近付けると思った程の異臭は無い。目線を上げると鏡の中に三十女。艶の無い髪。張りの無い肌。
今年こそ幸せになりたい。今年こそはブレイクしたい。
早乙女洋子は憎らしい目尻の皺に一気に痔の薬を塗り込んだ。
笑ってみる。
唇を尖らせて挑発してみる。
乳房を寄せて唇を舐める。
そうしているうちに十分が経った。
変わらない。何の効果も感じられない。
多少の突っ張り感はあるものの、目尻の皺はそのままそこにある。
「やっぱり…、国産じゃ駄目なのかな…」
スウェットを脱いでブラジャーを外す。赤紫の乳首が、寒さに硬くなっている。乳房の周りに付いたゴムの痕が、中年期の始まりを警告している。透明のブラジャーを着けているような、間の抜けた躰。
早乙女洋子は全裸になり、洗面所の横にある風呂場のドアを押した。指先に余った軟膏を何となく肛門に塗り付ける。
熱いシャワーを頭から浴び、目尻の痔薬を落とす。磨り硝子の窓から差し込む陽光が閉じた瞼を貫いて、新世紀の始まりを告げている。今年で、二十一世紀で、三十歳になる。あと二ヶ月。三十歳の誕生日まで、あと二ヶ月。
曇った鏡にシャワーを掛ける。気に入らない。目尻の皺が気に入らない。低い鼻が気に入らない。顎の形も気に入らない。歯並びの悪さも。
八重歯。
そう。
子供の頃は、この歯が自慢だった。チャームポイント。八重歯で人気のアイドル歌手と自分を何時も重ね合わせていた。クラスのみんなに、似ていると言われた。クラスの男子みんなが、自分に夢中だった。シンデレラも白雪姫も赤ずきんちゃんも自分だった。学芸会では何時も主役だった。
八重歯の可愛い洋子ちゃん。
その八重歯が、今は憎らしい。
「もう…。はぁ…」
溜息ばかり吐くようになった。
アイドル歌手には、なれなかった。

早乙女洋子はファミリーレストランのウェイトレスだ。時給八百五十円。週に四日のアルバイトでも生活していけるのは実家で親と同居しているからで、普通の会社に勤めていないのは芸能活動をする為だ。業界内で仕出し屋と呼ばれるエキストラ専門のプロダクションに登録して十二年。モデル事務所やタレント事務所にステップアップするチャンスは、未だに巡っては来ない。
「はぁ」
口を開けば結婚しろと煩い両親。
「はぁ」
遊ばれてばかりの男関係。
「はぁ」
不倫相手は今頃、家族で初詣にでも行っているだろうか。有名にしてやると騙した男。同じ手に何度も引っ掛かる馬鹿な自分。
シャワーの温度を上げると立ちこめる湯気で鏡の中の自分が消えた。
今日はもう、何処にも行かない。

「洋子ちゃーん。ごはんよー」
親に呼ばれて家族で餅を食べる。父、母、自分。独立して一人暮らししている弟は、今年もまた、帰って来ない。
「どう?」
「うん…」
味覚を感じない。餅も豆も蒲鉾も数の子も、正月に食べる物はみんな嫌いだ。不機嫌な自分を見て父親が舌打ちする。父親を嫌いだと思うようになってから、もう十年以上が経つ。
舌が気持ち悪い。雑煮の汁の粘り気に、虚しさが込み上げてくる。射精の時、当たり前の様に口の中に出すあの男。不満はあっても何も言えず、喉に貼り付く不快感を我慢する自分。あの男は妻との夜も同じ事をしているのだろうか。そんな筈はない。私はあの男の妻よりも身分の低い道具に過ぎない。食卓のテレビの中で、傘を回す芸人。お節料理。雑煮。家族。
「洋子ちゃんおかわりはいいの?」
母親の声を無視して、早乙女洋子の心は虚空を彷徨う。なつかしいあの頃。人気者だった。輝いていたあの頃。主役だった。自分以外の人間が全てエキストラに感じたあの頃。

21世紀の私            6年3組 早乙女洋子

私の夢はアイドル歌手になることです。そしてもくひょうにしているアイドルは石野真子ちゃんです。スター誕生で歌手デビューして石野真子ちゃんみたいにベストテンで1ばんになって歌いたいそして私は黄色が好きなカラーだから黄色いワンピースを着てくつも黄色いかわいいのをはいて歌いたいと思います。そしてアイドルを卒業したらドラマとかで女優さんの仕事もやってみたいと思います。そしておよめさんにもなりたくて結婚しきでは黄色なウエディングドレスをきたいと思っています。
そして21世紀になるとすごい世の中になると思うタイムマシーンやどこでもドアが出来るかもしれないと思います。私がドラえもんの中でほしいものはデカチビこうせんじゅうでそれができたらだいじにしているスヌーピーのぬいぐるみを大きくして遊びたいと思うのでいつかできたらいいなと思います。

夢は一つとして叶わなかった。稚拙な文章を書いた自分が今となっては恥ずかしい。原色のウエディングドレスを着る事もこの歳ではもうあり得ない。
子供の頃は正月が大好きだった。大晦日のレコード大賞から紅白歌合戦。年が明ければスターかくし芸大会。憧れがブラウン管の中で躍動していた。そして今、二十一世紀。ブラウン管の中に自分は居ない。二十代最後の正月に家族と餅を食べる気まずさ。年賀状は美容院からしか来なかった。
「ごちそうさま」
「あら、もういいの?」
二階の部屋に籠もって煙草を喫う。短大の時に買ったスヌーピー柄のカーテンが煙草の脂で茶色くくすんでいる。
デカチビ光線銃は出来なかった。それどころか未だに10チャンネルではドラえもんがやっている。
隣の家の二階に住む陰気な高校生がモーニング娘のCDを聴いている。
二十一世紀になっても、何も変わらない。
二十一世紀になっても、何も変わらない。
21世紀になっても、今とそんなに変わらないと思う。
女の子はアイドルになりたいとか言っているけれど、有名になる人は一人もいない。
「あいつ…」
 運動会に来なかったあいつ。
「たしか…」
学芸会で木の役だったあいつ。
「名前は…」
名前が思い出せないあいつ。
「何だっけ…、漫画みたいな名前だったような…」
埃まみれの卒業文集を押し入れの奥から探し出し頁を捲る。変色した紙から糊の匂いがした。
 6年1組。荒木石田伊藤宇野
「どれだ…」
合唱コンクールで歌わなかったあいつ。口だけ開けて声を出さなかった事を私は知っている。橋本前田森島矢吹矢吹矢吹矢吹
矢吹丈一
「こいつだ」

21世紀になっても、今とそんなに変わらないと思う。
女の子はアイドルになりたいとか言っているけれど、有名になる人は一人もいない。

顔が思い出せない。
卒業アルバム。青い表紙に金文字で飛翔と書かれたアルバムが卒業文集の隣にあった筈だ。
矢吹丈一
一人だけ下を向いた少年。まるで特長の無い顔。
「こいつ…」
早乙女洋子は下唇を噛んだ。
「何でこんな事、分かったのよ」
尖った八重歯が下唇の皮膚を破り、鉄臭い血の味が広がっていった。



四十代も半ばを過ぎると変な所から毛が生えてくるものだな。
遅く起きた元旦の午後、三日ぶりに顔を洗う。洗面所の鏡の中に発見した一本の耳毛を弄りながら田中雄三は自虐的に嗤った。
「はは、もう駄目だ、はは、まるで駄目人間の巻」
酷い顔。濁った目。禿げ始めた額の上に寝癖だらけの頭。生気の無い肌。少し前に世間を騒がせた借金まみれの男に我ながらよく似ていると思った。グループサウンズのスターだった男。長い潜伏の後、自己破産申請を終え久しぶりにワイドショーのカメラの前に姿を現した時の、あの男の顔によく似ている。焦点の定まらない目。弛んだ瞳孔。締まりのない口。黄色くくすんだ前歯。赤黒い歯茎。多分、人生の勝ち負けは顔に出る。
何の希望も無い人生。向上心の無い顔。煤けた木造の借家に籠もって、ただ寝るだけの休日。耳毛。
指先で摘んで伸ばしてみると、三センチはあるだろうか。髪の毛や陰毛と変わらない太さの黒々とした耳毛。しっかりと根を下ろした頑丈な毛根。全く生気のない体の中で、そこだけが生命力に溢れている矛盾。
 お め で と う ご ざ い ま 〜 す !
点け放しのテレビ。傘回し芸人の声が煩い。
「何年同じ事をやってるんだ…、くだらんな…」
正月になると必ず出て来る傘回し芸人。餅を喉に詰めて死ぬ年寄り。初詣の帰りに事故で死ぬ奴。誰が買うのか分からない一億円の福袋。
何年経っても変わらない。
何年経っても俺は出世しない。
「くだらない」
顔を顰めて、耳毛を引き抜いた。針で刺したような、小さな痛みが走る。
「痛て」
 呟いて、虚しくなった。
人差し指と親指の間で、白い毛根が付いた縮れ毛を回す。
くるくる
くるくる
くるくる
「新世紀、あけましておめでとうございます。二十世紀よりも多めに回してます」
くるくる
くるくる
くるくる
回る毛先をぼんやりと見ながら、田中雄三はふと、嘗ての教え子、矢吹丈一を思い出した。
あの時。
子供らしくないと何度も書き直しをさせた卒業作文。三度目の書き直しで、漸く現れた本性の欠片。今にして思えば、全てあの少年の言った通りになっている。二十一世紀になっても、本当に何も変わらなかった。ノストラダムスの予言も当たらなかった。二本足で歩くのがやっとのロボット技術。自動車は相変わらずガソリンで走り、排気ガスを撒き散らしている。矢吹の居た学年どころか自分の教え子全部を見ても、有名になった者は一人も居ない。
「矢吹丈一、か…」
十八年前。まだ青臭い理想に燃えていた田中雄三にとって、矢吹丈一は憎らしい子供だった。特長のない顔。普通としか言いようの無い程中庸な成績。運動会を休んでもクラスの殆どが気付かない希薄な存在感。良くも悪しくも目立たない、そんな矢吹が嫌いだった。九九を暗唱したのも四十人中二十番目。逆上がりが出来るようになったのも。持久走の順位も。給食を喰う速さも。身長も。体重も。全て。真ん中を大きく外れない、出席番号二十番の矢吹丈一が嫌いだった。
もしかすると。
もしかすると矢吹は態と中庸を目指しているのではないか。そうに違いない。若い熱血教師は何度も同じ疑念を抱き密やかに彼を観察していた。然し、疑念は疑念のまま。沸き上がる憎悪はぶつけようの無いまま、ただストレスだけが蓄積していく。非を見付けて叱りとばそうにも、存在感を巧みに殺した矢吹には付け込む隙がまるで無かった。唯一、田中雄三がその嗜虐性を満たす事が出来た事件が、卒業作文の書き直しだった。
大学に入って立派な会社員になりたい。一度目の作文はそんな普通の内容だった。憎らしい程差し障りのない文章。気に入らない生徒を虐める最後のチャンス。然し、大人が手抜きして書いたような文章に夢が無いと文句を付け書き直しを命じた時の矢吹の顔に、期待していた動揺は見られなかった。ただ小さく「はい」と応えて俯くだけのつまらない反応。振り返って去って行く矢吹の背中には感情が無かった。
二度目の夢は会社の社長。何の会社かは分からないと答えた。
三度目の夢はプロ野球選手だった。先生を馬鹿にしているのかと原稿を破り捨てたその時、矢吹は初めて僅かながら本性を見せた。切れかけの蛍光灯が点滅する音よりも小さな、舌打ちの音を田中雄三は聞き逃さなかった。
四度目。印刷の締め切りぎりぎりで持ってきた矢吹の作文を、十八年経った今でも、田中雄三はしっかりと覚えている。忘れられない文章。忘れられないあの目。
あの時。
半眼で冷笑した矢吹は知っていたのだろうか。
あの時。
喉仏が音を立てて上下するのをじっと見ていた矢吹の目には、虫眼鏡で蟻を焼く少年の残酷さがあった。
あの時。
あいつはきっと知っていた。
熱血ぶった偽善者の末路を。一年後の私を。十八年後の惨めな私を。
「ああ…」
寝癖だらけの髪を掻き毟る。抜け落ちた十数本の髪の毛と大量の雲脂が、今夜ゴキブリ達の餌になる。
「ああ…。あんな…」
あんな事さえしなければ。私は今頃学年主任ぐらいにはなっていた筈なのに。あの夜。修学旅行の夜。調子に乗ってあんなに酒を飲まなかったら。もっこりと膨らんだ少女の股間に手を触れる事など無かったのに。
「糞っ」
田中雄三は黴で変色したプラスチックの洗面器に茶色い痰を吐き、鏡の中の中年を睨んだ。駄目な男。負け組。ちんかす野郎。変態。変態。変態。
「ああ。もう。どうでもいい。糞っ」
使うティッシュペーパーは四枚と決まっている。蒲団の上に広げる位置も形も決まっている。暮れに歌舞伎町で買ったばかりのビデオ。正月休みに観ると決めていたロリータビデオをデッキに挿入し、決まった体勢をとる。
「ああ…。今年も、やっぱり、変わらんな…」
左手に構えたリモコンでボリュームを上げる。じわりと汗をかいた右掌の中で、期待が形を変えながら膨らんでいく。
 さっちゃーん。ほらこっち。カメラの方向いてー。
 はーい。
テレビの中。ブランコを漕ぐ極上の天使が、田中雄三に微笑みかけた。


二千一年。
正月。



鼻の下に直径二ミリの黒子のある女と、新宿の居酒屋で酒を飲んでいる。
携帯電話の出会い系サイトで知り合った女。そんな所に黒子のある女は、きっと嫌らしいに女に決まっている。
女は生グレープフルーツサワーを。向かい合う矢吹丈一は生ビールを飲んでいる。
会う前に二十歳だと言っていた女は本当は二十五才かも知れないし、二十五歳だと嘘を吐いている矢吹は今、三十歳だ。
「ふーん。そうなんだ。いつもはどの辺で遊んでるの?」
「大体渋谷が多いけど、新宿もたまに来るよ。西武新宿線の友達結構いるから」
「ふーん。そっか。いつも大体何して遊んでんの」
「うーんやっぱ飲んだりとか普通だよ。カラオケも行くし」
「そっか。カラオケ好きなんだ。いつも何歌うの?」
「なんだろ。最近だとやっぱあゆとか」
「ふーん。そっか。酒は結構強いの?」
「うーん。そんなでもないよ。すぐ真っ赤になっちゃうし。嫌いじゃないけど」
「そっか。言われてみればもう赤くなってるかも」
「はは。やっぱり」
くだらない会話を交わしながら今後の計画を立てる。居酒屋の次はカラオケに決めた。黒いタートルネックのセーターを着た女は痩せている割に胸が張っていて、一重瞼でエラの張った顔のマイナスポイントを体で完全にカバーしている。嫌らしい体。二十一世紀の始まりにメールナンパで知り合った男と会うような女だ。カラオケボックスで二人きりになれば自然な展開でその体は俺の物になる。大晦日と違って今日は正月だ。電車は一時には終わる。田舎者達はみんな帰省していてラブホテルもきっと空いている筈だ。
「でもなんかほんと俺びっくりしちゃったよ」
「え、何が?」
「いやもっとほらブスっていうか期待してなかったからこんな可愛い子が来ると思ってなかったからさ。いやほんと可愛いね」
「え、そんなおだてないでよ」
生グレープフルーツサワーお代わりした女の頬が赤くなっている。一重の細い目は潤み、焦点が少しずれている。
「いや全然おだててないよ。超好みのタイプだよほんと。愛ちゃんはどんなタイプが好きなの?」
「うーんやっぱ年上で優しい人かな」
「それって俺じゃん」
「はは。そうかも。そうなの?」
「俺言っとくけど滅茶苦茶優しいよほんと。家に捨て猫五匹も飼ってるもん」
「はは。また嘘ばっかり」
「ばれた? でもほんと優しいよ俺。ちょっとトイレ行って来るね」
「うん」
チャックを下げて勃起した逸物を取り出す。我慢の限界ギリギリで飛び出した尿は、圧迫されて狭まった尿道で二方向に枝分かれし、激しく便器を叩いた。
行ける。今日は行ける。
左を向く癖のある逸物をパンツのゴムで垂直方向に固定し、セーターの裾を引っ張って膨らみを隠す。髪型を手櫛で整え、目脂を払い落とした。
「よしっ」
席に戻ると女は手鏡で自分を見ている。矢吹にはそれが醜い自分の顔を少しでも綺麗に見せて今日知り合った男を夢中にさせ一発決めようと企む女の可視化した性欲そのものに見えた。
「お待たせ。どうする? お代わりたのむ?」
「うーん。じゃあもう一杯だけ飲もっかなぁ」
偽物である可能性が高いモノグラムのショルダーバッグに手鏡を仕舞いながら、濡れた目で女が笑う。
「同じのにする? 違うのにする? どうする?」
「うーんちょっと違うのにしよっかな」
「じゃあ俺も違うの飲みたいからこれもう飲んじゃお」
ジョッキの底に十センチ残ったビールを男らしく飲み干したその時、小型犬の鳴き声が三回。女がショルダーバッグの口を開き、中を覗き込む。
「ずいぶんちっちゃい犬飼ってるね」
「はは。ちょっとごめんね」
「いいよ、気にしないで。おもしろい着信音だね」
「はは」
 沈黙。高速で動く親指。女がメールを返す間、矢吹丈一は田舎の善良な農民が小銭を貯め込んで遊びに来た東京浅草雷門の前で突然黒人に道を聞かれた時のような中途半端な笑みを浮かべながら、女がメールの返信を終えた後、最初に話す話題を探した。
「メール好き?」
「え?」
「メール好き?」
「うん。まあ好きだよ」
「メル友何人ぐらいいるの?」
「いっぱいいるよ。でも毎日メールするのは八人ぐらいかな。今日もこの後約束してるし」
「ふーん。え? この後って?」
「ほらさっき言ってたじゃん。西武新宿線に結構友達いるから」
「え? それでその友達とこの後会うの?」
「そうだよ」
女が平然とそう言ったのと同時に、また犬が鳴いた。
「何時から?」
「九時だよ。ちょっと待ってね」
女が届いたメールを開いた瞬間、口元の黒子が小さく斜め上に動き、心がここに無いのが分かった。矢吹はテーブルの下で隠すように腕時計を見た。腕の下にある逸物はまだ、硬いままだ。八時四十分。お代わりを頼むかどうかは、微妙だ。
「なんだ…、なんかちょっとがっかりだな。さっき会ったばっかりなのに」
「はは。そうだね。ごめんね」
「友達断れないの?」
「ごめん。それは無理かも」
「そっか…」
首を絞めてやりたいと思った。テレクラや出会い系サイトで事件に巻き込まれる女が増えているとマスコミで騒がれ始めて久しいが、きっとその内の半分以上はこんな気違い女が関与している。
「じゃあ明日とかまたゆっくり遊ぼうよ。正月はバイトとかも休みなんでしょ?」
「ごめん。ちょっといっぱい予定入れちゃって当分空いてないんだよね。ほらお正月ぐらいしか会えない友達結構多いし」
「そっか」
空いてない。
矢吹はその言葉を憎んでいた。興味の無い男の誘いから逃げる時、女は決まってこの言葉を使う。たかがフリーター風情が。予定が一杯で、空いてない。
「じゃあ電話教えてよ。落ち着いたらカラオケでも行こうよ」
無理矢理爽やかな笑顔を作った瞬間、また犬が鳴いた。
「はは。いいねカラオケ」二つ折りの携帯電話を片手で開きながら女が言う。「またメールしてよ。わたし電話苦手な人だから」
電話を取り上げて、真っ二つにへし折ってやりたい。作り笑いを貼り付けたままの顔が急激に赤く熱を帯びていくのが、自分でも分かった。
「ごめん。友達新宿着いちゃったみたいだからそろそろ行くね」
「そっか。でもほんとまた遊ぼうよ」
「うん」
「でも俺、逆にメール苦手だから電話教えといてよ。変な時間にかけないから」
「はぁ」
返事の代わりに溜息を吐かれた。
立ち上がった女は不機嫌にブーツを履き、矢吹は女がYKKのチャックを上げるのを呆然と見ていた。中途半端な丈のスカートから覗く形の良い脚。兎の耳の様に折れ曲がったもう片方のブーツから薄く漂う、女の足の臭い。
こんな女に。
こんな中途半端な女に。
新年早々、新世紀早々、振られる俺。
「いくら?」
両足のチャックを上げた女が振り返って言った。
「あ、いいよ」
「ごちそうさま。じゃあまたメールして」
「うん。またね」
最悪の結果になった。テーブルの上の冷めた烏賊のリング揚げをつまんで女の残したグレープフルーツサワーを一口飲んだ。どこか痒い所ありますか? と床屋で聞かれても何時も決まって特に無いです、と答えてしまう。そんな押しの弱さが敗因である事は自分でも良く分かっているのに。伝票を表替えして溜息を吐いた。
「お代わり頼まなくてよかったな…」
そう呟いて、自分の小ささに落ち込んで行く。
ジョッキに二センチ残ったグレープフルーツサワーを一息で飲み干して、矢吹丈一はまた溜息を吐いた。

長渕剛を熱唱するストリートミュージシャンを中国人のカップルが楽しそうに見ている。正月の歓楽街は普段よりも人が少なく、アジア系の外人観光客ばかりが目に付いた。
肩を落として駅へと向かう。次々と声をかけてくるポン引きを無視しながらとぼとぼと歩く矢吹を、髪の長い女が追い越していく。ボディーソープの残り香。フローラルの甘い香り。風俗嬢だと匂いで分かった。
矢吹丈一は歩を速め、女の横顔を覗き見た。薄幸そうな白い皮膚。形の良い小さな目。薄い唇。髪の先が少し濡れている。
コートの下の細い躰を想像しながら、矢吹は女を追った。脂肪の無い華奢な躰。水の溜まる鎖骨。小振りながら張りのある乳房。白い太股に浮かぶ青い血管。切なげに悶える赤い口腔。
せめて働いている店を教えて欲しいと思った。同時に、もし店を知ってしまったら暮れに貰った僅かな賞与の残りを一気に遣い切ってしまうであろう自分の性格を思い、少し背中を丸めた。不景気を理由に一ヶ月分しか出なかったボーナスも家賃の更新料とダウンジャケットとスニーカーとヘルス二回で半分以上遣い切ってしまった。
JR新宿駅の階段を地下改札に降りていく女の背中を見送り立ち止まった矢吹は、ダウンジャケットのポケットから取り出した財布の中身を確かめた。
一万五千円と小銭が少し。
元旦はATMも多分やっていないだろう。もしかすると明々後日あたりまで貯金が下ろせないかも知れない。一万円ぐらいは残しておかないと…。今日はヘルスには行けない。
高層ビルの天辺についた巨大な時計が九時十五分を指している。一人暮らしのアパートに帰るには、まだ早い。煙草に火を点けて歓楽街を振り返ると、酔った女を介抱する男がどさくさに紛れて乳房を揉んでいた。
立て続けに二本目の煙草を銜え、矢吹は歓楽街へ歩き出した。人込みの雑音で心が癒されていく。二人組の男が二人組の女に声を掛けた瞬間、「カラオケどうっすか?」薄っぺらなベンチコートを着たカラオケ屋の店員が割り引きチケットを突き出す。さっきまで長渕剛を歌っていた男が、今は尾崎豊を熱唱している。
自動ドアが開くと無意識に尻の穴が締まった。財布から五千円札を取り出し、二千円分をプリペイドカードに変えた。最新のパチンコ台に向かい、ハンドルを捻る。飛び出した銀玉の軌跡を目で追いながら、脳の中ではヘルス嬢に逸物を銜えさせていた。
勝てる気がしていた。昔から勘が良かった。
惜しいリーチの後、玉が切れた。残りの三千円を一気にカードに換え、缶コーヒーを買って台に戻ると、両隣の台がフィーバーしていた。
嫌な予感がした。昔から勘が良かった。
両隣の中年が、矢吹を挟んで会話している。
「やっと出始めたね」
「やっとだよ。確変だから次も来るよ。そっちは?」
「おれも確変だから次で三連チャンだね」
 挟まれた矢吹の台は、泣きたい程静かに玉を飲み込んで行く。甲斐甲斐しく両隣の箱を変えに来る店員が憎らしかった。
漸くスーパープレミアリーチが掛かり、矢吹丈一はハンドルから手を離した。残り玉は数発。最後のチャンス。両隣の中年が同時に矢吹の台を覗き込んだ。
「あー、惜しい」
両側から同時に声が上がり、矢吹はピストルで額を撃ち抜かれた様にがっくりと肩を落とした。
「畜生」
居酒屋で六千円。パチンコで五千円。出会い系のメールで多分三千円位。最初から一万四千円持ってヘルスに行った方が余程良かった。怒りに鼓動が激しくなり耳朶が熱くなった。最後の一発が地球の引力に吸い込まれていく。喫おうとした煙草の箱は空だった。
「糞っ」
パチンコ台を小突いた。
「はあ…」
溜息を吐いて立ち上がろうとしたその時、台の硝子に亀裂が走った。
やばい。
亀裂は放射線状に広がり、崩れ落ちた硝子の破片が慌てて立ち上がった矢吹の足下に落ちた。
「おい、何やってんだお前」
「あーあ、何やってんだよ」
両隣の中年が驚いて見ている。本人は気付いていない様だが、左隣の男の右頬に小さく血が滲んでいる。
逃げた。
店員を突き飛ばし客を掻き分け表に跳び出した。上体を傾けてコーナーを曲がり腿を上げて走った。無呼吸で大ガードを疾走し、青信号の点滅する交差点を渡った。空車の赤いランプの点ったタクシーに滑り込み、姿勢を低くする。
「京王線の初台の駅まで行ってください」
「はい」
不自然に息を切らした矢吹を、バックミラーの中の運転手が不審気に見ている。矢吹は運転手の死角に入ろうと尻一つ分右に移動し、そっと後ろを振り返った。
ネオンの街。遠くなったガードの上を黄色い電車が走っている。追いかけてくる車は、無さそうだ。
こんな筈じゃ無かった。女と一発決める筈だった。パチンコに勝ってヘルスに行く筈だった。あんなに簡単に硝子が割れるとは思わなかった。下を向くと右の拳から血が滲んでいた。
子供の頃は何でも分かった。急に学校に来なくなった高木君の机上に透明な瓶に入った白い花が置かれる事もイメージ出来たし、岡田有希子が自殺した時もやっぱりな、と思った。ノストラダムスの予言が当たらない事も知っていたし、岸部シローが破産する事も何となく分かっていた。
なのに。今は出るパチンコ台すら分からない。

矢吹丈一の職業は、テレビコマーシャルの映像編集プロダクション営業マンだ。と言っても、クリエイティブでお洒落な仕事では全く無く、電話で仕事を受けて編集室と編集マンのスケジュール調整をし、作業が終わったら料金の交渉をするだけの至って地味で味気ない毎日を過ごしている。実家から三百メートル離れた場所に家賃五万八千円のアパートを借りて一人暮らしを始めたものの、月末になると夜中にこそこそ実家の冷蔵庫を漁る生活。単調な毎日。繰り返し、繰り返し。矢吹以外に二人居た同期入社の営業部員は、一年も経たない内に田舎に帰った。
「もう初台の駅だけどどの辺で降りますか?」
「あ、この辺でいいです」
 後部ガラスを振り返る。付けられている気配は無さそうだ。
「レシートは要りますか?」
「あ、いいです」
元旦の日付の領収書が経費で落とせる筈もない。新宿から一駅分のタクシー代八百五十円を支払い、矢吹丈一は背中を丸めて人波に紛れ込んだ。財布の金がまた少し減った。
思えば、こうなる事を分かっていた気がする。エリートサラリーマンにも実業家にも有名人にも、なれる気がしなかった。女にもてない事も分かっていたから流行を追って無駄に高い服を買う事も無かった。無駄な努力を止めて効率良く生きようとした結果、何者にもなれない。明らかに不向きな営業部に配属されたものの、転属願を出す積極性も無く、周りに流される様に軟派になった。これから先は、分からない。これから先は、多分何も無い。
二十一世紀最初の正月。電車はかなり空いていた。

缶コーヒーを飲みながら、アパートに続く坂道を上る。この辺りは犬を飼う人間が多すぎる。アスファルトの染みから犬の小便の臭いがする。動物を飼いたいと思った事は今まで一度も無い。
煙草を取り出そうとポケットに突っ込んだ手に痛みを感じた。街灯に照らしてみるとまだ少し血が滲み出している。
「おいっ待て待て待て」
 背後からの声に身を固くして振り返った。
涎を垂らした頭の悪そうなゴールデンレトリバーを二匹も連れた頭の悪そうな少年が引きずられるように近付いて来る。
「また犬かよ」
犬の吐き出す息が白い。ゴールデンレトリバーを二匹も飼えるような家は裕福なのか少年は肥満児の一歩手前だ。
尻のポケットが震えた。バイブレーションと同時に鳴ったメールの着信音に矢吹を追い越した犬と少年が振り返る。少しだけ期待して開いたメールは、予想通り広告メールだった。
飲み終えた缶コーヒーを放置自転車の籠に捨てた。二階建ての木造アパート。集合ポストを開くと年賀状が二通入っていた。ヘアサロンとレンタルビデオ屋。レンタルビデオ屋の年賀状には正月三が日中のレンタル一本無料特典が付いていた。裸の女が頭に浮かんだ。四対三に四角く切り取られたビジョンは典型的なアダルトビデオの映像だ。二十歳を越えた頃からだろうか。ビデオを観ていない時でも、自慰の時に思い浮かべるビジョンにはいつも四角い枠がある気がする。風俗嬢では無い普通の女と普通にセックスがしたい。太った女でも醜い女でももう構わない。今年こそは恋人を作って人並みのクリスマスや正月を過ごしたい。三十歳。今年こそは。
「がんばろ」
階段を上りながらポケットの鍵を探ると、また拳が痛んだ。暗い気持ちと淫猥なビジョンと今年の目標を同時に抱きながらドアの前で顔を上げると、何故か、そこに、目の前に、太った女でも醜女でもない女が、立っていた。



「久しぶり。って言うか明けましておめでとう」
歯並びの悪い女が八十年代のアイドル歌手の様な作り笑顔でこっちを見ている。人並みか、それ以上の美人。袖の長いオーバーサイズの黄色いピーコートにコーデュロイの黒いパンツ。鎖骨あたりまで伸びたストレートの髪はシャギーが入っていて、染めていない黒髪は太く艶がある。眉毛を細く整えて誤魔化しているが、実際はかなり毛深そうだ。毛深い女は、きっと強欲だ。そんな女が、何故。
「あ、すいません」
何を言って良いのか分からず考えている内に、謝っていた。
「はぁ?」
 女の顔から笑みが消えた。面を付け替えたように、怒りが現れた。
「いや、あの、いいです」
何かを売り付けられるか、或いは宗教の勧誘か、女の格好から見てNHKの集金で無い事は確かだ。正月には当然、選挙も無い。
「何言ってんの。私の事覚えてないの?」
「え?」
「はぁ? 中学まで一緒だった洋子よ。とぼけないでよ」
「あ」
「はぁ? あ、って何よ。態とらしい」
言われてやっと気が付いた。本当だ。間違い無い。早乙女洋子だ。男子の人気者だった早乙女洋子。八重歯の可愛かった早乙女。アイドルになりたいと言っていた洋子。面影が残っている。が、十五年振りに会った早乙女洋子には何処か疲れた女の雰囲気がした。少女時代の華やかさは、今の洋子には感じられない。
「ごめん」
「はぁ? 謝るんなら最初から分かんない振りなんかしないでよ」
「あ、うん。でもそれよりどうしたの。今日。ほらあのいきなり。っていうか何で俺ん家知ってんの」
「おばさんに聞いて来た。それよりあんた何でわざわざこんな実家の近くに住んでんの」
「そっか。あ、ほら、何ていうか近いと楽じゃん。洗濯とか。それよりどうしたの今日は」
「よく喋るようになったのね」
「え?」
「前はこんなに喋んなかったじゃない」
一気に体温が上がって、十秒後、急激に寒くなった。腋の下と尻の割れ目を汗が流れて行くのが分かる。会話が成立しない。アントニオ猪木だったら、こんな時どう答えるだろうか。北方謙三に聞いたら、どんなアドバイスをくれるだろうか。女は冷めた目で、挑むように見ている。
「まあ大人になったら人間変わるって事ね」
そう言って早乙女洋子は上着のポケットから薬用のリップスティックを取り出し、乾いた唇にそれを塗り付けた。
三十女の唇がべったりと潤って行くのを呆然と見ながら、矢吹丈一は途方に暮れた。何故この女はここに来たのか。理由が思い浮かばない。あるとすれば、やはり宗教の勧誘か。そうに違いない。宗教に嵌った女が同級生の家を布教して回っている。そうとしか考えられない。勇気を出して初恋の相手に会いに来たなんて事は、どう考えてもあり得ない。
矢吹は無言で部屋の鍵穴に鍵を差し込み、女を無視してドアを開けた。
「わりと綺麗にしてんじゃない。男の一人暮らしにしては」
振り返ると、早乙女洋子がショートブーツのチャックを下ろし始めている。
「なに。びっくりした顔して。入っちゃまずいわけ?」
「いや、そんな事ないけど…。でも…ホント何で来たの?」
 睨まれた。
「ふんっ。知ってる癖に」
脱いだブーツを玄関に叩き付けて、洋子は矢吹よりも先にワンルームの中に入って行く。ソファー代わりのシングルベッドに勝手に腰掛けて、コートのポケットから取り出したメンソールの煙草に忙しなく火を点けた。冷え切った躰をさすり、無遠慮に煙を吐き出す。
「あー寒っ。一時間半も待ったわよ」
「すいません…」
矢吹は洋子の脱ぎ散らかしたブーツを揃え、ファンヒーターを点け、ベッドの上に灰皿を出した。温風が噴き出し、薄荷煙草と石油と香水の臭いが六畳の洋間に拡がった。
「エアコンとか無くて夏とかどうするわけ?」
「夏? 夏は、まあ、扇風機とかで、何とか…」
「いいけど別に。これ結構暖まるんだね。臭いけど」
「まあ、わりと」
「ふーん」
洋子は三分の一残った煙草を消し、コートを脱いだ。袖口に髪の毛が付いているのに気付き、指先で摘んで灰皿に捨てた。燻った煙草の火がそれに触れて、小さく、ちりりと音を立てる。
椅子のない部屋。普段ソファー代わりに使っているベッドを早乙女洋子と黄色いコートに独占された矢吹は、自分の上着をカーテンレールのハンガーに掛け、そのまま立ち尽くした。目の端に映る早乙女洋子は、つまらなそうに部屋を睥睨している。壁に貼ったアントニオ猪木のポスターを見られるのが、堪らなく恥ずかしい。
「あんたさぁ」
「え?」
「何でこんな貧乏してるわけ?」
 揉み消した煙草のフィルターに、べったりと透明なグロスが付いている。
「余計なお世話だよ。ちっちゃい会社のサラリーマンなんだから。今どき普通こんなもんだよ」
「はぁ? 競馬とかやればいいじゃん。株とか」
「そんなの余計貧乏になるだけだよ」
「そういうのは分かんないわけ?」
「分かんないって何が?」
「血、付いてるよ、ここ」
自分の右拳を左手の人差し指でトントンと叩く。その爪には黄色にオレンジのドットを描いたネイルアートが施され、付け根にはささくれが三つ出来ている。黒いニットは躰にフィットしていて、大きめの胸の形は矯正下着によるものか天然のものか判別し難い。
「あ、ちょっと転んだから」
「ふーん。まあいいけどそんなのどうでも。今見たでしょ」
「え? 見てないよ。何を?」
「まあいいけど別に。それでどうなの」
「え?」
「どうなの、私」
「え、ああ、綺麗になったよ」
「はぁ? 馬鹿じゃない。何言ってんの?」
「ごめん」
「ふんっ、ほんと大人になったのね」
洋子はまた新しい煙草を指に挟み、それに釣られてフィルターを噛んだ矢吹とほぼ同時に火を点けた。煙を吐き出す溜息に似た音が二つ同時に響き、閉め切った部屋の空気を更に汚した。
缶ジュースの空き缶を灰皿代わりにして立ったままの矢吹は、途方に暮れ、絨毯に直接座り込んだ。頭頂部に痛いほど視線を感じる。洋子の吐き下ろした煙が、絨毯の上を這って広がっていく。矢吹は自分が犬になった気がした。
メールの着信音。尻のポケットを探り携帯電話を開くと、思った通り、また広告メールだった。
「メールなんかやってんだ」
「迷惑メールだよ。最近多くて」
「ふーん」
 早乙女洋子はそう言って煙草を消し、鼻の穴から煙混じりの溜息を吐いた。立て続けに三本目の煙草に火を点け、爪の先で耳の裏を掻きながら、また矢吹を見据える。
矢吹は俯き、言葉を探した。相手が用件を切り出さない限り、断りようが無い。用件を聞いても、知っている筈だと言われる。話し掛ければお喋りだと言われ、黙っていても睨まれる。学校の中の幼稚な人間関係が嫌いだった矢吹にとっては、久し振りに会う同級生に語るような気の利いた思い出話も無い。こそこそと煙草に火を点け、ライターをローテーブルに置く動作の延長でリモコンを掴み、テレビを点けた。初詣の混雑振りを伝えるニュース。画面が変わって冬の海で寒稽古する空手着の子供。部屋が急に賑やかになり、不自然では無く視点を置く場所も確保出来た。
矢吹は早乙女洋子の会話を待つ事に決めた。
北海道の味がする味噌ラーメン。六人乗れるコンパクトカー。弱酸性で肌に優しいボディソープ。くだらないコマーシャルをじっと観た。味噌ラーメンのコマーシャルは、矢吹の会社で編集した物で、編集費は九十五万円だった。たった五万円を値引く為に、馬鹿らしい電話を三度も受けた。
「ねえ…」
煩いCMが終わった瞬間。
「ねえ…。わたし、このまま、駄目なんでしょ?」
日本一の年寄りが座布団に座って笑っている映像をぼんやりと観ながら、遂に早乙女洋子が呟いた。
「小学校の卒業文集に書いてたじゃん。誰も有名になれないって。頑張っても、意味ないんでしょ。どうなの?」
「え?」
 矢吹は振り返り、驚きに息を止めた。
「あんた分かってんでしょ?」
睨め付ける洋子の目の下に、涙が溜まって揺れている。
「私、これから、どうなるのよお」
泣いている。突然。何の連絡も無く、正月の夜にやって来た同級生。学校のアイドル。煙草。マニキュア。涙。これから。卒業文集。卒業文集? これから?
分かった。
やっと分かった。
思い出した。誰も有名になれない。あの卒業文集。この女は、もしかして、本当にアイドル歌手になろうとして、三十過ぎた今でもまだ芸能人を目指しているんじゃないだろうか。それで正月にたまたま文集を読み返して、人生相談に来たって事か。頑張っても意味ない? 有名になれない? 間違いない。きっとそうだ。馬鹿じゃねえの。本気かよ。己を知れよ。
「そっか。それで来たのか」
「…」
「泣いてんの?」
「泣いちゃ悪い?」
立場が逆転した。犬は早乙女洋子の方だ。ルービックキューブを解いた時のカチャリと鳴る音。それに似た音が頭の中で響いた気がする。テレビの中で天皇一家が手を振っている。天皇陛下、明けましておめでとうございます。僕は今日、セックスをします。
「まあ、無理だろうね」
「え?」
 矢吹は嗜虐的に小さく嗤い、力の無くなった洋子の目をじっと見た。その泣き顔にはまるで(何とかなりませんか。何とかして下さい。お願いします)と書いてあるようだ。頭の悪い女の感情は、分かり易く顔に出る。馬鹿丸出し。何とか出来る訳なんか無いのに。
「今までやって駄目なんだからいい加減諦めないと」
「無理かなあ。何とかならないかな」
「俺はテレビ局のプロデューサーでも天皇でもないんだぜ。そんな事俺に言ったってどうにもなんないよ。俺達もう三十だぜ。もうちょっと大人になった方がいいよ」
「うん…」
「泣くなよ…」
「うん…」
好い事ばかり言う占い師に客は付かない、と本で読んだ事がある。懊悩する女は皆、新宿の母や池袋の母や渋谷の母に優しく叱られ諭されたいのだ。追い込んで、どさくさ紛れに押し倒してやる。
矢吹は洋子のコートをどけながらさり気なくベッドに移動し、洋子の横に座った。二人の間の灰皿に灰を落とし、空いた手で女の前髪をそっと払った。
「泣くなって…」
「ごめん…」
少しだけ力を入れて肩を揺さぶり、
「泣くなって…」
そのまま優しく肩を抱いた。
「うん…」
自分の煙草を揉み消し、待つ。
「ごめんね、今日は、お正月なのに突然来ちゃって…」
「いいよ。気にすんなよ」
「なんか…、何て言っていいのか分かんないけど…ありがとね…」
「いいよ、それより落ちそうだよ、灰」
「あっ、ごめっ」
洋子が煙草を消すのをきっかけに、唇に吸い付いた。
尖った八重歯に舌先が触れる。ニットの上から鷲掴みにした乳房の感触は、本物だ。
「泣くなって…」
「うん…あ…」
二千一年。
元旦。
 学芸会で主役を張った女の上で、木の役だった男が腰を突き上げた。



裸の女が横に寝ている状態で喫う煙草ほど旨い物は無い。しかも、その女は同級生で、当時は見向きもされなかった学校のアイドル。テレビの横に置いた目覚まし時計を見ると、日付が変わっている。結果オーライ。最高の正月だった。本物の元アイドルと寝た気分。少女だった女の股間には十五年後の今、びっしりと毛が生えている。息を吸い込みながら発声する独特の喘ぎ方や、まるで創作活動に息詰まった時の作曲家の様な、自分の髪を掻き毟りながら悶えのたうつ特殊な性癖に一人の女の歴史を感じた。
「ねえ」
 洋子が起き上がり、手櫛で髪を解く。シーツで毛深い股間を隠しながら、自分の煙草を引き寄せ、火を点ける。
「なに?」
「これから私、どうしたらいいかな…」
「うーん。どうかな。普通に結婚とかすればいいじゃん。美人なんだし」
女は返事の代わりに煙を吐いた。
「そういうんじゃ嫌なの?」
「うん…」
「そっか」
「そんなに芸能人になりたかったんだ」
「うん…」
「なんで?」
返事はまた煙だ。
「そっか」
逸物の先に付いたティッシュの滓を指先で摘んで灰皿に捨てた。沈黙したまま矢吹は思う。もしかしたら目標があるだけ増しなのかも知れない。
「無理なんでしょ」
「無理だと思うよ」
「どうしよっかな…、これから」
幸せな女だ。並以上の容姿に生まれれば、女は馬鹿でも生きて行ける。煙草を消して横になると、矢吹は逆に自分の将来に不安を感じた。退屈な毎日。安月給のルーティーンワーク。新しいコマーシャルが次々と生み出される空間に居ながら、スケジュールと金の管理ばかりの毎日。バブルが終わり、企業は広告費を削減し始めている。このまま不況が進めば更に給料が下がるか、場合によってはリストラの対象になるかも知れない。子供の頃に思っていた通り。きっと何者にもなれないまま年を取って萎んで行く。夢があるだけまだ増しだ。学芸会で主役を張った過去があるだけまだ増しだ。俄に、女が憎らしくなって来た。馬鹿女。どうせ今日で最後だろう。性欲が回復したらもう一回戦やってやる。もし巧く行けば、アナルセックスをしてみたい。この女なら、出来るかも知れない。手を伸ばしてさり気無く尻を触ると、洋子は拒む様に躰をずらして煙草を消した。
「一つだけ方法あるよ」
 アナルセックスは諦めた。別の邪悪な考えが矢吹の頭に閃いた。
「えっ何?」
「AV」
「えっ?」
この女なら出かねない。陰毛の濃さまで知っている女がブラウン管の中で頭を掻き毟る様子を見てみたい。矢吹は起き上がり、女の目を真っ直ぐに見据えながら、もう一度言った。
「AV」
 溜息と共に洋子は目を伏せた。
「そっか…」
 泣きそうだ。泣いたらまた抱きしめて、どさくさに紛れてもう一発だ。
「そっか…やっぱり…それしか無いか…」
「え?」
「何回かスカウトされた事あるんだよね…。実は」
「そっか。そうなんだ…」
 曇った表情は、冗談には見えなかった。指先のささくれを噛む女。外反母趾気味の足指。剥がれ掛けたペディキュアを見詰める目は、完全に本気だ。
「やっちゃおっかな…」
 呟いた洋子は詰まった鼻腔から鼻汁の音を立てて息を吸い、今度ははっきりと言った。
「やっちゃおっかな」
 充血した真剣な瞳が、試すように矢吹を見ている。矢吹は息を呑み、人差し指の腹で鼻の頭の汗を拭った。
「ちゃっちゃえばいいじゃん」
「え?」
「やっちゃえばいいじゃん」
直管の轟音が遠くに聞こえる。二十一世紀になっても暴走族は絶滅しなかった。女はまた溜息を吐き、二人はまた沈黙した。好い感じに垂れ下がっていた矢吹の逸物が、皮を被りながらゆっくりと縮んで行く。空気がカラカラに乾いている西東京の晴れた夜。窓を開ければきっと、オリオン座が見える。喉が乾いた矢吹は冷蔵庫から飲み物を出したかったが、仮性包茎を見られるのが嫌で我慢をした。女よりも先にパンツを穿くのは、矢吹の基準ではマナー違反だ。
「そっか…。それしか無いよね」
 掻き上げた長い髪が二本抜けて、白いシーツの上に落ちた。自分のベッドに女の髪の毛が付いている事が、矢吹には少し誇らしく思えた。
「でもホント良く分かったね…。全部知ってたんでしょ。スカウトの事とか…。不倫してる事とかも…」
「え? まあ…、そうだけど」
腹の中で吹き出した。何処か不幸な感じがするのは男関係にも原因があったのか。顔がニヤつくのを堪えながら想像する。脂っこい髭面の四十男にねちっこく抱かれる洋子を想像すると、冷蔵庫に行ける状態になった。
「なんか飲む? って言っても烏龍茶と缶コーヒーしか無いけど」
「じゃあ烏龍茶。ありがとう」
 五百ミリリットルペットボトルの三分の一を洋子は一気に飲み込んだ。上下する白い喉。小学生の頃、牛乳が嫌いで、何時も鼻を摘んで飲んでいた洋子を、矢吹はふと、思い出した。
「ねえ、やったらホントに売れるかな?」
「そりゃあ売れるよ。AVから人気出てまずVシネに出るようになってそのままドラマとかバラエティとかどんどん仕事来るよ。」
「ほんと?」
「ほんと」
 洋子の顔がぱっと明るくなり、笑顔の口から赤紫の歯茎が露出した。笑顔が似合わない女だと思った。幸せは似合わないし、もしかすると死ぬまで不幸な方がこの女にとってはかえって幸せなのかも知れない。そう思える様な歪な笑顔だった。ドアの前に立っていた時の態とらしい笑顔、本気で笑う時の歪な笑顔。時間の流れに取り残された女。この女の破滅を見てみたい。
「うん。絶対だよ。見えるもん。テレビの中で早乙女が島田伸介といっしょに司会やってる」
「ほんと? やっちゃおっかな」
「やっちゃえばいいじゃん」
「協力してくれる?」
 洋子が顔を近付けてくる。潤んだ眼球。少し焦点のずれた目は、近眼なのかも知れない。
「え? いいよ。でも何を?」
「ちゃんと出来るか練習しないと。ほら、初めてだとちゃんと演技出来ないかも知れないから」
「演技って言ってもAVだよ」
 本音が出た。睨まれた。掌が汗ばんだ。
「でも最初からちゃんとやんないと、AVだけで終わりじゃないんだから」
「そっか。そうだね。でも俺、芝居とかやった事ないから練習相手になんないよ。俺じゃあ」
「監督になればいいじゃん」
「え?」
「なりたかったんじゃないの? 監督」
「え?」
「作文に書いてたじゃん」
「え?」



二度目の性交が終わると冷え込みに朝を感じた。旧型のファンヒーターが唸りと共に噴き出す暖気が、すぐに冷やされて天井に貼り付いて行く。煙草の脂でベージュに変色した天井には茶色い染みがあって、矢吹にはその形が隠元豆の鞘に見えた。
映画が好きだった子供時代を思い出していた。土曜日の夜は、必ず映画番組を観ていた。野球中継の延長を憎んでいた。マカロニウエスタンが好きだった。ジャッキー・チェンが好きだった。フィービー・ケイツに勃起した。大人になるに連れて、映画の好みが変わった。そう気付いて、自分にも少年時代があった事を自覚した。確かに、あの頃、映画監督になりたかった。
アダルトビデオを撮る。女優は、三十路の同級生。予算はゼロ。ちゃんと仕上げて売り込んだとしても、供給過多のAV業界にまともな買い手は無いだろう。自分に出来る事と言えば、会社の機材とビデオエディターを利用して…、例えば…、背景に宇宙空間でも合成するか…。そう考えて自分でも可笑しくなった。そんなビデオに金を払う奴なんて絶対にいない。それ以前に、そんな事を頼める同僚なんか一人もいない。とりとめのない事を考えている内に、すっかりやる気になっている自分に気が付いた。取り敢えず、デジカムを借りよう。会社の備品で、使わなくなった旧型のカメラがある。テープは会社のテープ庫に売る程あるし、照明も確かパルサーライトの三灯セットが技術部室の棚にあった筈だ。女の気が変わる前に、正月休みの間に、こっそり会社から持って来よう。ワクワクしている。こんなに興奮した事は、多分今まで一度だって無かった。
「起きてる?」
洋子が囁く。喉が乾いているのか、声が少し嗄れている。
「うん」
「私の体、どう思う?」
「どうって? 綺麗だよ」
 乳首の色素が濃過ぎる。尻の肉に張りが無い。
「ちょっと痩せた方がいいかな?」
「大丈夫じゃない。痩せてるよ充分」
「そうかなあ」
「大丈夫だよ」
「ねえ」
「なに?」
「私のあそこ毛深いと思う?」
「え? まあ、でもおかしくないよ。どうせモザイク掛かるし」
 噴き出しそうになって、必死で堪えた。
「モザイク。そうだよね」
毛深い陰部を執拗に撮ってやろうと思った。売れ残った女。売る宛のないビデオを中途半端に綺麗に撮っても意味がない。これは馬鹿な三十女のドキュメンタリーだ。モザイクなんか掛ける理由は一つも無い。ワイドレンズを付けてギリギリまで寄ってやる。元学校のアイドルだった女の股の間は、今、黒い樹海だ。実際に樹海で撮影するのもいいかも知れない。矢吹は薄暗い樹海の中、切り株に座って手陰する洋子を想像した。
「オナニーとか出来る?」
「え? オナニー?」
 思わず聞いていた。しまったと思い、すぐに、遅かれ早かれ確認しなければならない重要な事だと正当化した。オナニーシーンは欠かせない。矢吹は首を九十度俊敏に回転させ、洋子の反応を見た。
「え? まあ…、多分大丈夫」
恥ずかしそうに目を逸らした。薄い耳朶が赤味を帯びている。
「普段する事あるんだ」
「まあ…、たまにだけどね」
「ねえ」
「なに?」
「もう一つ聞いていい?」
「なに?」
「お尻の穴でした事ある?」
 洋子は溜息の後、観念した様にゆっくりと矢吹を振り返り、呟いた。
「すごい…。ほんと何でも分かるんだね…」



二千一年。一月二日。
腹が減って目が覚めた。午後一時。肩が痛い。また今日も炬燵で寝てしまった。寝汗を掻いて寝惚けて脱いだのだろう。パンツを穿いていなかった。覗き込むと、パンツと一体化したスウェットパンツが、隅の方で丸まっている。痛いくらいに朝勃ちした陰茎を炬燵の赤外線がチリチリと照らしている。昨日からほったらかしにしたままの卒業文集が、背表紙をこっちに向けている。
吉田日出男は炬燵から這い出し、目を擦った。喉がカラカラに渇いているのに、勃起した陰茎の先端からは小便が漏れそうな、人体の矛盾。
キッチンで蛇口から直接水を飲み、背伸びしてシンクに放尿した。水道代が節約出来るし、制御不能に飛び出した尿が便器を外れて床を汚す心配もないからだ。急に暖められたシンクの底板が、ペコッと間抜けな音を立てる。窓の外が明るい。雀の鳴き声が聞こえている。小便を流すついでに、吉田は冷水で顔を洗った。
ベランダに干し放しにしたパンツを取り込み、穿いた。真昼の陽光が強かったからか、思った程は冷たく無かった。テレビの中の世界は、まだ正月だ。パステルカラーの和服を着た若手お笑い芸人が明治神宮ではしゃいでいる。初詣に来たカップル達が、テレビカメラに興奮している。ジーパンのチャックを上げて、偽物の米軍ジャンパーを羽織った。財布を尻のポケットに。擦り切れて穴が空きそうになった靴下を履く。野球帽を被り、ビデオ屋の特典付き年賀状をジャンパーのポケットに突っ込んで、吉田日出男は陽光の下に出た。
踏切がなかなか開かない。反対側にいる福袋を持った中年女の二人組が、待ち切れずに袋を開けて中を弄っている。草色のセーターと辛子色のブラウスを二人は交換し、嬉しそうに笑った。右側の女の口に銀歯が光った瞬間に、通過電車が視界を遮った。

駅前のレンタルビデオ屋は混み合っていた。一直線に入ったアダルトビデオコーナーにも、退屈と性欲を持て余した男達が群れている。吉田は正月にエロビデオを観る暇人が自分だけでは無い事に、少しだけ安堵した。
昨日返却したビデオは駄作だった。若いだけでやる気の無い女では、一応勃つが腹も立つ。やはりジャンルは痴女モノに限る。例えば、性欲に狂った女がいきなり目の前に現れて無理矢理チャックを下ろされる。舌なめずりする女はまるで発情した動物だ。周囲を気にして狼狽する男に対して、目の前の男根だけが女にとっての世界の全てであるようだ。通過する車のヘッドライトを気にも止めず、それをやる為に造られたような猥褻な舌が、硬くなった男の陰茎を舐め上げる。銜え込む。吸引する。発射された精液が女の口から零れ、夜のアスファルトに滴り落ちる。そんな痴女モノAVが、吉田日出男は大好きだ。今日は、絶対、痴女モノだ。
候補が三つに絞られ、パッケージを吟味する。女の質は高いが表情が嘘臭い一本を棚に仕舞い、残った二本を背中の裏でぐるぐる回す。どっちがどっちか訳の分からなくなるまでぐるぐる回して、最終的に右手に持っている方をレンタルする事に決めた。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。本能が異変を嗅ぎ分けた。周りの男達が急にそわそわし始めた気がする。吉田は左手に持ったビデオを仕舞い、結果選ばれたテープを指の欠損した右手から左手に持ち替えた。疑問を抱えたままコーナーを出ようとしたその時、女。視界の右隅に女を捉えた。
AVコーナーに黄色いコートの女。それも一人で。周りの男達は女と距離を取り、目の端で女を見ている。正月に。一人で。エロビデオを物色する女は、普通では無い。吉田は後ろ姿の女が急に振り返り、舌なめずりしながら自分に近付いて来る様を想像し、唾を飲んだ。
女は振り返らない。手に取ったビデオのパッケージを真剣に見ている。
吉田は女を中心に円を描く様な軌道で、ゆっくりと横に回り込んだ。ストレートの黒い髪が、女の横顔を隠している。髪を掻き上げて欲しい。掻き上げろ。嫌らしいその顔を見せろ。吉田の熱いリクエストは叶えられる事無く、次々とパッケージを手に取る女の顔は、黒い髪の下だ。女の指には黄色いマニキュア。日本ではピンク色で表現されがちだが、中国で黄色と言えば好色の象徴だとテレビで聞いた事がある。コートも黄色。中国三千年の歴史が、この女を淫乱だと証明している。
棚の反対側。ビデオの隙間から、顔が見えるかも知れない。存在を消す様に摺り足で裏側に回り込むと、先客が二人いた。息を呑んで棚に近付く。野球帽の鍔を後ろに回して覗き込む。隙間から見えるのは女の口元だ。歯並びが悪い。煙草を喫うのだろう。茶色く汚れている。特長の無い唇には、べったりとグロスが塗られている。若くは無い。人妻かも知れない。
 興奮した。
吉田は我慢出来ずに目の前のビデオテープを四本纏めて掴み出した。欠損した指に気付いた右隣の男が、慌てて目を逸らす。縦二十センチ。横六センチ。女が手にしたビデオテープ二本分の隙間が、目の前に開かれた。四角く切り取られた穴の向こうに見えた顔。その顔が、大きく目を見開いて吉田日出男を見ている。
「あっ」
「あっ」

調布飛行場から太平洋の小島に向かうセスナ機が青空を等速直線運動で進んで行く。金網を掴む女の肩越しに放課後の校庭が見える。金属バットの高音が屋上まで響いて届く。野球部を引退した中学三年の吉田日出男。冬服に替わったばかりの、初秋。女の指に力が入り、金網が音を発てて軋んだ。捲り上げたスカート。露わになった双臀に体をぶつけると、白い太股の内側に赤い線が引かれた。全校生徒七百人。その頂点に立った気がした。学年のアイドルを征服したまま地上を睥睨する。グランドの人間が、矮小な虫に見えた。短ラン。学校で一番丈の短い学生服は、屋外でのセックスに適していた。女が、流し目で振り返る。夕陽を浴びて逆光の横顔。上気した張りのある頬。振り返る。女の顔。
早乙女洋子。
それは、早乙女洋子だった。
「あれ? 吉田くんじゃない。久しぶり」
四角く切り取られた穴の向こうで、早乙女洋子が微笑んでいる。吉田は右手に掴んだビデオテープを落としそうになり、奇形の指先にぐっと力を込めた。
「あ…、久しぶり」
「どうしたの? 今日は」
「どうしたのって…」
「そっか。エッチなビデオ借りに来たに決まってるよね」
「え? まあ…、そうだけどそっちこそどうしたの?」
「ビデオ借りに来たに決まってるじゃない。そうだ。ねえ、吉田くんはどんなの借りるの?」
「え?」
「どういうやつが好きなの? おすすめってある?」
「別に無いよそんなの」
 嘘を吐いた。
「よく借りるの?」
「たまにだよ」また嘘を吐いた。「そっちこそいつも借りてるの?」
「初めてだよ。観たことはあるけど」
「ふーん」
「ねえ、私がAV出たら売れると思う?」
「え? 出るの?」
「うん」
「えっほんと?」
「出るって言ってるじゃん。駄目なの?」
洋子は顎を上げて唇を尖らせた。
四角く切り取られたエロビデオの窓。吉田は息を呑み、言葉を探した。昔から、ペースの掴めない女だった。中学を出た途端に電話が来なくなり、何時の間にか会わなくなった。早乙女洋子。気付いたら、何時の間にか先輩の彼女になっていた。
「べつに…、別に駄目じゃないけど。まあ…いいんじゃない。多分出たら借りるよ」
 本音だった。
「ほんと?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「そうだ。ねえ、吉田君も出てみない?」
「え?」
「男優さんっていうの? それやってみればいいじゃん。私も最初は知ってる人の方がいいし」
「え? 俺が?」
「大丈夫だよ。その方が知ってる人が観たときに言い訳しやすいし。ほら、洋子がAV出てるって噂される時に吉田君も出てた方がごまけるじゃん」
鼻の頭にびっしりと汗をかいた。この状況。この会話。ペースが合わない。吉田は穴の向こうの洋子から視線を外し、下を向いた。頭頂部に、洋子の強い視線を感じる。
「でもちょっとな…。恥ずかしいから今回は止めとくよ。そういうのは、やっぱしプロじゃないと…。やったことないし…」
「大丈夫だよ。監督も同級生だし」
「え?」
 吉田は顔を上げた。同窓会には行った事が無いが、いつも同級生の現状が気になっていた。みんなが、社会の隅で、惨めに暮らしていれば良いと思っていた。劣等感が胃袋の中で蜷局を巻いた。AV監督なんて、吉田にとってはまるで夢の職業だ。自分を差し置いて、そんな華のある職業をしている奴がいる。
「監督? 同級生って? 誰?」
「矢吹君」
「え? 矢吹って作文の?」
 あいつ。未来を予知した矢吹丈一。吉田の中の矢吹は今、裸の女に囲まれてブランデーグラスを掌で回している。
「あ、吉田君も覚えてたんだ。あの作文」
「え? まあ。あいつ…。そんな仕事やってたんだ…」
「やってないよ」
「えっ?」
「これからやるの」
「え?よく分かんないな。どういう事?」
「だからぁ。まだやってなくてこれからやるの」
「えっ? AVの仕事やってるんじゃないの?」
「だからやってないって言ってんじゃん」
「じゃあ何やってんの?」
「聞いたけどよく分かんない。直接聞いてみれば言いじゃん。そこにいるから」
「えっ?」
 黄色く塗られた洋子の人差し指が、二人の間の穴の中に差し込まれ、その先端が吉田の左目の端を指していた。吉田は驚きに口を開いたまま、ゆっくりと自分の左後方を振り返った。
「吉田君、久しぶり」
それは、多分、矢吹だった。
「お前、矢吹?」
「そうだよ」
変わったような気もするし、まったく変わっていないようにも思える。特に美男子でもなければ醜くもなく、お洒落でもなければオタクでもない。金持ちのポルノ王にも見えなければ、失業者にも見えなかった。吉田は暫くの間矢吹を観察し、劣等感を埋める欠点を探したが、何もなかった。その間、矢吹はずっと、個性の無い笑顔で、吉田を見ていた。
「仕事は…」何をしているのか聞きかけて止めた。自分の仕事を聞かれたくなかったからだ。「元気だった?」
「あ、うん。まあまあかな。吉田君は?」
「え、まあ、元気だよ」
「そっか」
矢吹の目線が、エロビデオを四本掴んだ自分の右手にある事に気付いた吉田は、漸くテープを棚に戻した。隙間を埋める瞬間、洋子が穴の中から欠損した指先を見ていた。吉田は右手をポケットに差し入れながら振り返り、矢吹の視線もそこを追っていた事を悟った。
「これ、高校ん時ちょっと事故っちゃって」
「うん。知ってたよ。バイクでしょ」
吉田の顔が蒼白になった。
予言者。
 ノストラダムスは偽物だった。ユリゲラーもスプーン曲げしか出来なかった。デビッド・カッパーフィールドもミスター・マリックも矢吹の前では単なる奇術師に過ぎない。矢吹丈一は、本物だ。吉田は同級生であれば誰もが知っていて単に気を遣って本人に言わないだけの話を誇大解釈し、矢吹を神格化した。彼の前では、何を隠しても無駄だ。本気でそう思った。
 吉田はポケットから指の足りない右手を出し、親指で眉尻を掻いた。左手に持ったままの痴女モノのエロビデオ。自分の趣味を隠しても無駄だ。
「吉田君って意外と変態なのね」
いつの間にか横に来ていた洋子が、左手のテープを見ていた。
「こんなの普通だよ。SMとかじゃないし」
「だってラベルに変態って書いてあるじゃない。変態性欲痴女⑦ってほら」
「うるせえな」
「私、これにするんだ」
 目の前に差し出した洋子の手には、吉田が滅多に観る事の無い、アイドル顔の単体女優のパッケージが二本握られている。
「そんなの観てどうすんだよ」
「はぁ? だからAV出るからこれ観て勉強するに決まってんじゃん」
「ほんとにやるの?」
「だからやるって言ってんじゃん。吉田君もやるのよ。ね、矢吹君」
「え、うん」
「うんってお前、俺なんかじゃ無理に決まってんじゃん。なあ」
「無理じゃないよ」
「えっ」
 笑みの無い矢吹の目は、本気に見えた。
「大丈夫だよ。吉田君なら体格もいいし。それに、きっと楽しいよ」
「出来るかな」
「出来るよ」
吉田は矢吹から目を逸らし、左手のビデオパッケージを見つめた。いつかこの向こう側に行きたいと思っていた。華やかな世界。綺麗な女と絡んで金を貰う。幸せな職業。親や同級生に見られても関係ない。ガードマンをやっている所を見られるよりは、余程ましだ。
「でも、これって仕事じゃなくて遊びなんだろ?」
「なに言ってんのよ。遊びじゃないわよ。本気で練習するんだから。ね、矢吹君そうでしょ?」
洋子が唇を尖らせる。
「え、うん。一応ちゃんと編集もして、売り込みに行くから」
「売り込みって、俺はこれからどうなんの? 本物の男優とかそういうのになれるってこと?」
「なれるよ」
「な…」
吉田日出男は能面の貼り付いたような矢吹の顔をじっと見た。
「ホントかよ。だって俺、指だってこんなんだし」
「大丈夫だよ。AVをきっかけにして、俳優になるよ。悪役商会に入ってやくざ役で有名になる」
「ホントかよ…」
吉田は俯き、乾いた唇を舐めた。哀川翔に、憧れていた。竹内力も、同じ位、好きだ。怪我をするまでは、ちょっとした不良だった。ポケットの中の右手が、無意識に握り締められる。爪のない指先が、掌を強く押した。
「そうなんだ…。人生変わるかな…」
「変わるよ」
「ちょっと…、俺、考えてみよっかな…」
「考えてみてよ」
 店内に響く流行歌。カラオケで歌われる事を意識して作られた、単純なメロディラインと酒席の合いの手のようなコーラス。不景気なのは自分だけでテレビの中と新宿と渋谷と原宿は毎日が祭りだ。カラオケにも若者の街にも、もう何年も行っていない。怪我をして指を無くして以来、ずっと世の中から取り残された気がしていた。不良女子高生のスカートがロングからミニに変わり、長髪の遊び人が幅を利かせ始めた高二の秋に、野球の出来ない野球部員は学校を辞めた。何年も前から、ゴキブリだらけの汚い部屋で何時もテレビばかり観ていた。もう何も出来ない気がしていた。そんな自分が、今年、出来る事。
「ねえ、そんな変態ビデオ返して、これから三人で一緒にこのビデオ観ようよ。ポケットに入ってるそれってただになる年賀状でしょ。矢吹君も同じの持ってるからこれ二本共ただで借りようよ」
「三人でって…、いいけどどこで?」
「矢吹君の家」
 何かが変わる気がした。今日はカップラーメンとパンを喰ってオナニーしてテレビを観て寝る筈だった。
「行こっかな」
吉田日出男は興奮していた。楽しいと思った。こんなハプニングがあるとは思わなかった。嬉しそうに見られるのが恥ずかしくて、漏れそうになる笑みを堪えながら、吉田はそっと、変態性欲痴女⑦を棚に戻した。

「じゃあ行こっ。そのハガキ貸してっ」
口笛を吹きながらスキップする洋子を先頭に、奇妙な三人組はAVコーナーを出て行った。
そしてコーナーに残った寂しい九人の青年達は、全員が変態熟女3P系のビデオをレンタルし、正月の帰省で揃わないバイトの代わりにレジに立った若禿げの店長を驚かせた。



「ねえ。吉田君お昼ご飯食べた?」
 甲州街道を渡る赤信号で、洋子は二人を振り返った。
「まだ喰ってないよ」
「じゃあ、もう今日から駅前のスーパーやってるから何か買ってこうよ。私作ってあげるから。矢吹君もお腹減ってるでしょ?」
「まあ、ちょっと」
「オッケー。じゃあ私が美味しい物作ってあげる」
 洋子は上機嫌で微笑み、二人を交互に見た。矢吹はちらりと料理とは縁遠い洋子の黄色い爪を見てすぐに目線を外し、吉田は残り少ない財布の中身を気にした。
「でも俺、そんなに金持ってないよ」
 カップラーメンとパンを買う予定だった。
「三十過ぎてそんな貧乏臭い事言わないでよ。大丈夫よ、二千円でお釣り出るから千円ずつで。それならいいでしょ?」
「まあ、いいけど」
表情が晴れない様子から、洋子は吉田の懐具合を悟った。きっと指が無いから割の良い仕事が出来ないのだろう。そう思った。ポケットに突っ込んだままの右手を一瞥して、すぐに目を逸らした。
「じゃあ吉田君は五百円でいいや。矢吹君千五百円ぐらいあるでしょ」
「まあ…、あるけど」
「よしっ、じゃあスーパー行こっ。」
駅前に戻りながら、洋子は子供の頃を思い出していた。家庭科の授業。人参の皮を剥く自分の姿を、男子達が憧れの眼差しで見ているのを、皮膚で感じていた。物凄い勢いでキャベツを千切りにする眼鏡を掛けた料理学校の娘は、俎板を打ち付ける小気味良い包丁の音も虚しく、洋子の背景の一部に成り下がっていた。お気に入りの黄色いエプロンを着け、大きめのヘアピンで髪を留めた、可愛い少女。その意外にも家庭的な一面は男子達をときめかせ、ちょっとした失敗に戯けて出した彼女の赤い舌の形を、欲望の自己処理方法を知らない彼らは数日間、鮮明に記憶していた。料理を作る自分を、また、男達に見せたい。みんなの憧れだった自分に、もう一度、戻りたい。私はまだ、終わってなんかいない。

色艶の良い食材を選び抜いた洋子は、二人に金を払わせ、二袋に分けたビニール袋をそれぞれに持たせた。冬の渇いた空気が唇を乾燥させ、赤信号の度にリップスティックを塗り付ける。後ろを歩く二人の男は会話も無く、上機嫌な女の尻を追いながら淡々と足を運んだ。十五年の歳月は二人の男の人格を変え、一人の女のそれを、全く変えなかった。
洋子は思う。不倫相手のあの男は、今頃、本妻の手料理を食べている。おせち料理。想像の中の男は本妻に蒸し海老の殻を剥かせ、弱火にかけた鍋の中では、雑煮が煮えている。携帯電話の電源は、当然、切ったままだ。
正月の東京は空気が澄んでいて、同じこの時間に同じ日本のどこかで雪が降っている事が嘘のように感じる。飛行機で数時間、ハワイに降りればそこは夏で、今年もきっと芸能人と芸能レポーターが大挙して押し掛けている。別に本妻と別れて欲しい訳ではない。芸能人になりたかっただけだ。嘘吐きな男に騙されただけだ。精液を飲んだのに、芸能人にはなれなかった。アナルセックスをさせてあげたのに、見返りは何もなかった。もう無意味なセックスはしない。男とは、もう会わない事に、今決めた。二十一世紀。自分は新しく生まれ変わる。見せる為のセックスをして、スターになる。
アパートの階段を上りながら、洋子はイメージした。「君ねえ。ちょっと考えたほうがいいんとちゃうか?」素人の新婚カップルに島田伸介のつっこみ。「ふふふ」その隣で微笑むスタジオの花。「なあ早乙女どう思う?」目が合ったしゃくれ顔に応える言葉を探している途中で、アパートのドアが開いた。

「あんっ、あんっ、あんっ、あんっ、あんっ、あんっ、」
色黒のマッチョマンが色白の女の尻をリズミカルに突いているのを凝視しながら、三人は並んで絨毯に座り、洋子が唯一作れる料理、ビーフストロガノフを食べた。
「ねえ、ほらこの人、ちょっとだけ吉田君に似てるね」
何が出来るのか分からないままに、手伝わされた料理。その曖昧な味を美味いとも不味いとも判別出来ず、ひたすら機械的に嚥下する吉田は、挿入したまま女を抱え上げて焦げ茶のフローリングを歩き回る男優と、自分を重ね合わせた。逸物に一気に血液が集結し、はち切れそうになる。性欲は完全に、食欲を凌駕して膨らんでいた。
「そうかな」
「似てるよ。ほらこの横から見た時のほっぺたの感じとか」
「おまえもさぁ、こ、こういう風に…、して欲しいの?」
洋子は吉田の質問には応えず、スプーンを口に銜えたまま、女の表情を注視した。たいして可愛くはない。目は小さいし、鼻の穴の大きさが左右で違っているのも変だ。パッケージに騙されたと思った。脚だって自分より太いし、お腹だって出ている。昨日まで自分の体型を気にしていたのが馬鹿らしい。この程度の女が主役を張っているくらいなら、AV業界なんてたいした事は無い。自分でも充分いけると思った。腕力が尽きた男優が女を降ろし正常位に切り替えた。腰の動きを速め、ラストスパートに入る。矢吹の狭いワンルームマンションに女の態とらしい喘ぎ声が響き、少し弛んだ腹に大匙三杯分の精液がぶちまけられた。快感の余韻に恍惚となった女の口元に、萎みかけた陰茎が突きつけられ、当たり前の様にそれは唾液が糸を引く口内に含まれる。洋子は無意識に、口の中のスプーンを舌先で舐めた。
性交と性交の間には、女のイメージカットが挟まれるのがお決まりのようだ。近代的な公園。噴水の前でソフトに露出する女。ピンクのダッフルコートを羽のように広げて、くるくる回っている。
「こういうのいいよね」
洋子は横目で矢吹を見た。
「聞いてんの?」
「え? 俺に言ってたの?」
「あたりまえじゃん。とぼけないでよ」
「まあ、結構いいと思うよ」
「ホントにいいと思ってる?」
「うん…」
洋子の視線に耐えきれず、矢吹は半分以上残したビーフストロガノフに再び口を付けた。
「なんかさぁ、こんな感じにほらスローモーションとか使ってなんていうか綺麗な感じに出来るかなぁ。でも、こういうグラビアみたいな感じだけじゃなくてちょっとお芝居するような映画っぽいっていうか、どう?」
「うん。いいと思うよ」
「ホント?」
「うん…」
「ねえ」
「なに」
「矢吹君じゃなくて吉田君」
「え? 俺?」
吉田は死んだ曾祖母の事を考えていた。家族の誰かが誤ってテーブルの味噌汁を零すと、信じられないようなスピードでテーブルに突進して来て、母親が雑巾を持ってくる間に一息で味噌汁を吸い尽くし、ああよかった、もったいない事してばちがあたるところだった、と勝ち誇ったように微笑んだ曾祖母。人目のある所で勃起してしまった時、吉田は何時も八十七歳で世を去った曾祖母を想い逸物の怒張を鎮めていた。
「私もうお腹いっぱいだから、これも食べてよ」
「え? 別にいいけど」
「おいしいでしょ。これ」
「うん。でもこれって何なの? シチュー?」
「はぁ? バカじゃないの? ビーフストロガノフにきまってんじゃない」
ブラウン管の中では、クライマックスにあたる3Pが始まった。両手に握った二本の男根を交互に、また、同時に口に含む女。洋子はモザイクに目を細めた。本当に二本の男根が一つの口に入るものなのだろうか。何かで実験してみる必要があると思った。トイレットペーパーの芯か…、指だと…、六本分かな…。洋子は無意識に口を開け、それに気付いた吉田は目を丸め、二ccのカウパー腺液を密かに分泌した。
さっきまで口の中に入っていた二本の内の一本が、後背位で突き入れられる。声を上げる間もなく、もう一本が再び唇に押しあてられた。二つの穴で粘液が音を立てる。吉田に似た方の男は巧みに体位を変え、騎乗位の状態になった。カメラは露わになった結合部分をクローズアップで捉え、それは強めのモザイク処理を通しても、疑似では無い事が分かった。フェラチオから解放された女の声帯からは、自分の腰の動きに合わせた嬌声がリズミカルに響き出す。絶頂に達して動きを止めた女は放心する暇も無く仰向けに寝かされ、二人の男に次々と排泄される。重力によって左右に広げられた推定Dカップの胸の谷間に溜まった二人分の精液を掌で触る女。近付くハンディカメラ。戯けて拡げた指の間に出来た乳白色の膜は、両生類の水掻きのようだ。
無意味な女の笑顔が白くフェードアウトし、舞台は森の中に変わった。森と言ってもそこは、さっきの噴水のある広場のすぐ脇にある新宿中央公園の一部で、恐らく少しカメラを振れば、薄汚い浮浪者と段ボールハウスがある事を洋子は知っていた。
「ふーん。安い作りね。最後まで見て損しちゃった。ちょっとトイレ」
ドアを閉めるなり洋子は水を流した。自分の排便の音を隠す為だ。残された二人は会話も無く、同じタイミングで煙草に火を点け、ビデオデッキのディスプレイに表示されたカウンターの数字が、巻き戻しによって減っていくのを凝視していた。ビデオテープはあと一本ある。
吉田日出男はちらりと矢吹丈一の股間を見た。表情からは分からない矢吹の、今の気持ちを知りたかった。もしかすると、興奮した三人でビデオの中と同じ事が始まるかもしれないと、密かに期待していた。ベージュのチノパンを穿いた股間は、自然に収まっている。流石だ。早乙女程度の女やこの程度のビデオでは、ビクともしない。痛い程怒張した自分の逸物を、吉田は恥ずかしく思った。
矢吹丈一は一人きりになりたかった。一人になって、腹を抱えて笑い転げたかった。約三ヶ月分の笑いを躰の内に溜め込んでいた。新しい登場人物は、最高のキャラだ。足りない指先が、毛むくじゃらの恥丘をぎこちなくまさぐる映像を想像すると、堪らず鼻の穴から笑いが漏れ、矢吹は鼻水を啜る振りをしてそれを誤魔化した。
「風邪ひいてんの?」
「あ、ちょっとね」
カウンターに0が並び、テープが止まった。同時に水を流す音が響き、不貞不貞しい足取りで洋子が戻った。
「最悪。なんか落ち着かないね、ここのトイレ」
 二人は同時に、洋子を振り返った。
「ユニットバスって嫌じゃない?」
不機嫌な洋子の態度を見て、矢吹は生理の始まりを連想し、吉田は大便だった事を誤魔化そうとしているに違いないと想像したが、実際は本当ににユニットバスが嫌いなだけだった。
「そうかな。慣れれば別に平気だよ」
「ふーん。私は嫌だな」
「俺ん家もユニットだよ」
「あ、そう」
 不倫相手の番組プロデューサーは、経費で落とせる事を理由に会社の近くのビジネスホテルばかりを利用し、それが洋子には不快だった。同僚と鉢合わせする事と財布の身銭が減る事を恐れた小物は、いつも一人でチェックインし、携帯電話で部屋番号を伝えて来た。こそこそとエレベーターに乗り込み、小さくドアをノックする時、洋子はまるでホテトルだった。ユニットバスが、嫌いだ。ソファのないシングルルームが、嫌いだ。あの男が、嫌いだ。
「じゃあ私そろそろ行くね」
「え? どこに?」
 吉田は驚きに目を丸めた。
「バイトあるから」
「バイトって何やってんの?」
「ファミレス。文句ある?」
「ビデオは? まだもう一本あるよ」
「知ってるわよそんな事。馬鹿じゃないの。明日まで平気でしょ。明日また昼過ぎに来るから。そんときまでに書いといてね。矢吹君」
「え? 何を?」
 出会い系の女と同じだと思った。予定があるのに、言うのは直前だ。矢吹は半ばあきれ顔で、短くなった煙草を揉み消した。もし昨日セックスしていなければ、強烈な怒りが込み上げた筈だ。しかし今日の矢吹の心と陰嚢には、大きな余裕があった。
「何をって脚本に決まってんじゃない。とぼけないでよ」
「え? ああ」
「いいの書いてよ」
「まあやってみるよ。でも今日一日じゃ…」
「全部じゃなくてもいいのよ。大体のストーリーだけで。どっちかっていうとホントは全部の方がいいけど。やばっ。行かなきゃ。じゃあね」
大慌てで黄色いコートを羽織り、煙草をポケットに仕舞う洋子を、二人は呆然と見ていた。靴を履く為に尻を突き出すように腰を屈めた洋子。ブーツのチャックを上げる洋子を、矢吹は出会い系の女のデジャヴのようだと思い、吉田は充血した目を大きく開き、真っ直ぐにその尻を視姦していた。

「なあ。あいつぜったいさっきウンコしてたよ。そう思わねえ?」
「それで何か機嫌悪かったのかな。便秘とか」
「やっぱり。そう思うだろ? 俺ぜったいウンコだと思うよ。ウンコだよあれぜったい」
「そっか」
口の端に泡を溜めながら話す吉田は、会話に餓えていた。二人は、二十一世紀になって遂に初めて、同級生らしい会話を始めた。
「でもホントこれ不味かったな。っていうか訳分かんない味じゃねえ? ビーフ何だっけこれ」
「何だっけ、俺も忘れちゃった」
「普通忘れるよな。ぜったい忘れるよ。訳分かんねえもん。あいつも全然変わんねえよな。ホント。変な女だよ。ホント」
 そう言って、吉田日出男は思った。訳の分からなさでは、矢吹の方が数段上だ。お前はホント変わんないな。と、同級生としては言いたい所だが、変わったかどうかすらも分からない。昔の矢吹の記憶が吉田にはまるで無いのだ。しかし、その事がいっそう矢吹をミステリアスにしていた。天才や超能力者は、きっとそういうもんだろうと、吉田は妙に納得し、今後始まる何かへの期待に胸を焦がした。
「なあ。これからあれ書くの? 脚本」
「まあ…。とりあえずやってみるよ」
「なあ。でもどうする? あいつアイドルビデオかテレビドラマのつもりでいるぜ。無理じゃねえ? もう三十だぜ」 「そうだね」
「俺はやっぱあいつだったら痴女物がいいと思うな。何かこう夜中とかにいきなり男襲うみたいな。どう? その方があいつ似合うよぜったい」
 暗闇で男を誘惑する洋子を想像した吉田は、同時にその時の自分の演技を考えて首を捻った。観る側の立場と演じる立場。そんな違いを初めて感じた。今日、二人に会わなければ、そんな事を考えるなんてあり得なかった。きっと将来、今日のこの日が自分にとって特別な日になる気がした。二千一年。誕生日の次の日。
「痴女物か…。ちょっと考えてみるよ」
「ホント?」
「うん」
「でもぜったいそれがいいって訳じゃないから全然気にしなくていいよ」
「うん」
「なあ」
「なに?」
「矢吹。でいいかな。呼び方」
「いいよ」
「おれの事も呼び捨てでいいよ」
「うん」
「じゃあ、俺も、なんか時間ないし監督さんの邪魔しちゃ悪いから、そろそろ行こうかな」
「え、うん。分かった」
「なあ」
「うん?」
「俺も来ていいかな。明日」
「勿論、いいよ」
「じゃあ、頑張ってな」
「うん」
便所の前で鼻を鳴らし、戯けるように顔を顰める。踵の潰れたスニーカーを引っ掛けながら、吉田は最高の笑顔で、指の欠けた手を振った。



 独りになった部屋。矢吹は俯せになって枕を叩いた。笑い過ぎて、息が出来ない。涙が次々と溢れ、世界が歪んでいる。アイドルになりたかった女とプロ野球選手になりたかった男のセックスを、映画監督になりたかった自分が撮影する。三十年間の自分の笑いが、全て嘘や芝居に思えた。本当に可笑しい時、人間は涙を流して呼吸を止める。ベッドの上に女の髪を見付けるだけで、綺麗にビーフストロガノフを平らげた皿を見るだけで、様式便所の蓋が閉まっているのを見ただけで、一晩中矢吹丈一は、笑い転げる事が出来た。ノートを千切りながら、鉛筆を削りながら、矢吹は何度も呼吸を止めた。



まだ午後三時過ぎだというのに、紅く街を染め上げた冬の陽射しの中を、吉田日出男は小走りに進んだ。サイドステップで擦れ違う自転車を躱し、若い女を追い越し際にちらりと振り返り、ポケットの中のアパートと実家と盗まれて今は無い自転車の鍵を鳴らしながら、青信号が点滅する横断歩道を渡り、レンタルビデオ屋に駆け込んだ。やはり我慢が出来なかった。このままでは眠れない。2001年宇宙の旅では、躰を軽くする事が出来ない。入口の新作ビデオコーナーに群がる人間共を掻き分けて、二十歳未満立入禁止と書かれた暖簾を潜った。借りたいビデオは既に決まっている。それはセブン。
変態性欲痴女⑦

※  誰かが生ゴミを捨てたのか、小窓の外で烏が煩い。安酒を飲み過ぎたせいだろうか。小便がいつもより黄色い。  田中雄三は便器に痰を吐き、伸びた爪で腹を掻いた。石油ストーブの上で銀杏が弾ける音。このごろ小便の切れが悪くなった。異臭を放つ濡れた陰茎を振って、五日間着替えていない寝間着のズボンとブリーフを同時に上げた。  埃の浮いた冷や酒と銀杏。腹が減ったら永谷園の鮭茶漬け。乾燥して象の皮膚のようになった脛を掻き毟ると、ぼろぼろと垢が零れ出し、綿のはみ出た座布団の上に落ちた。 「あ」  耳を澄ます。  子供の声。少女の声。 四つん這いで窓に近付きカーテンを開けると、六歳位の男の子が二人でボールを蹴っている。今の子供達には野球よりもサッカーの方が人気らしい。 「なんだ…、男か…」  落胆して四つん這いのままバックした爪先が、コップ酒をひっくり返した。慌てて口を付けようとした座布団の上の、蛆の死骸のような垢を見て、田中雄三は風呂に行こうと決めた。  外の光が眩しい。北風が目玉に当たって、悲しくもないのに涙が出た。乱反射した光が、揺れる。それが何だか新鮮で、田中は流れる液体をそのままにした。冬休みに入ってからというもの、生の実感がまるで無かった。いつもの事だ。教師特有の長い休暇は、春夏秋の三回、田中を廃人にした。
空気が澄んでいる。富士山が見えるかと思ったが、見えなかった。いつの間にか、この町も変わった。畑しか無かった駅の南西に、最上階の外壁に番号が書かれた同じ造りのマンションが建ち並び、ゴミの分別と子供の教育に口煩い人間達が住み着いた。富士山は見えなくなり、コンビニと生ゴミと烏が増え、四軒あった銭湯のうち二軒が潰れた。少子化は進み、愛する一人っ子達には過剰な期待が掛けられた。町が変わって、人も変わった。父兄達に昔の大らかさがあれば、これ程までに落ちぶれる事も無かった。勘違いした中流の糞達が、こうやって日本中を変えていくのだろう。真夜中のエレベーターを降りてコンクリートの公園に集まる少年達は、いつかこの町をスラムに変えるかも知れない。
まあいい。富士山なら、風呂屋の壁にもある。それにもしかすると、父親と一緒に来た全裸の少女が見られるかも知れない。  硝子の引き戸を開けて目糞だらけの目を凝らすと客は大人ばかりだった。中でも、年寄りばかりがやたらと目立つ。嘗て賑やかだった年始の銭湯は、今や年寄り達の社交場だ。ケロヨンの広告の入った黄色い盥。脱衣所の煤けた木棚。ずっと変わらないと思っていた銭湯が、何時の間にか老人ホームに変わっていた。
諦めて風呂に漬かると、死角になっていた洗い場の方から若い男が現れた。二十代後半の大男。両肩に見える入れ墨。豪快に掛け湯を被り隣に入ってきた男に、田中雄三は少し緊張した。思えば何千人もの生徒達が入学し、卒業して行った。有名人になった者はいないが、大手企業で重要なポストに就いている者や、道を踏み外して犯罪に走った者はいるかも知れない。今、隣にいるアウトローが、自分の教え子である可能性もゼロでは無い。二十一世紀。子供達が夢見た世界は来なくとも、子供達が夢見た自分になれなくとも、確実に時は町を変え、人を変える。何も変わらないと思っていた世界の中で、変わらなかったのは、実は自分独りなのかも知れない。
先に上がった入れ墨の青年が立てた波が、顎の先で砕けた。たわわに垂れ下がった彼の陰嚢。温湯で紅く変色した背中の毘沙門天が、真っ直ぐに田中を見ていた。  年老いて行く。  卑屈に屈めた腰が、きっと近い将来曲がったままになり、加齢臭の染みついた汚い寝間着のまま、垢だらけの煎餅布団で冷たくなる自分を想像し、堪らなくなった。これから俺は何をすればいいのだろうか。首の皮一枚で繋がった学校では、出世どころか目立った行動の一つも出来ない。性癖の秘密を知った見合い結婚の妻は、もう二度と帰っては来るまい。どう生きるべきか。どう老いるべきか。そんな事は誰も教えてはくれない。そう考えた時、矢吹丈一の顔が思い浮かんだ。  矢吹丈一。  思えば今の田中雄三は、嘗ての矢吹と同じだった。目立たないように、揚げ足を取られないように、定年まで首にならないように、恩給を貰い損ねないように。意図的に存在感を希薄にして生きる自分は、彼と何ら変わりがない。
矢吹丈一。
彼は今、どうしているのだろうか。今年で三十位になっている筈の彼は、エリートサラリーマンか、それとも反社会的集団の一員か。それとも、子供の頃そうだったように目立たない人生を送っているだろうか。
矢吹丈一。
 中流の象徴だった少年。その少年の驚くべき予言。彼は今も、未来を知っているだろうか。

 伸びきった無精髭を剃り、泡の立たない汚れた体を何度も擦った。風呂屋の富士山は夏で、青い湖には赤いヨットが浮かんでいる。女風呂にも富士が描かれているのだろうか。女風呂の富士は夏だろうか。女風呂に、少女はいるだろうか。矢吹は今、何をしているだろうか。  体重計に乗ってみた。正月だというのに、二キロ痩せていた。田中は番台で牛乳を買い、少しずつそれを飲んだ。

風呂屋を出てやっと、正月らしい事を一つした気になった。尻や脛の痒みが無くなり、浮腫んだ瞼が軽くなった。過ぎた過ちを悔やんでも始まらない。公務員をやっている以上は、餓える事も無い。寝た子を起こさないように気を付けて振る舞えば、何時かは皆、忘れるだろう。覚醒剤で捕まったおかまの歌手は、今や芸能界のご意見番だ。
「よしっ」
体も綺麗になった事だし、家の掃除と洗濯でもしてみるか。餅の一つでも喰ってみるか。駅前のスーパーは、今日からやっている筈だ。そう思って歩き出した田中雄三は、ふと、レンタルビデオ屋の前で立ち止まった。家を出際にポケットに入れた葉書。褞袍のポケットからはみ出したその葉書には、レンタル一本無料特典が付いている。
「はは。まるで駄目人間の巻」
田中雄三は小さく呟き、吸い込まれるように店内に消えた。

日本語のラップミュージックが流れる店内。二十歳未満立入禁止と書かれた暖簾を潜ってアダルトコーナーに侵入する。目当てのブロックは一番奥の一番角。ロリータコーナーだ。ロリータとは言っても所詮合法ビデオの出演者は十八歳以上。目の肥えた田中にとっては子供騙しの偽物だ。まあいい。どうせ無料だ。つまらなければ、かえって家事に専念出来る。田中はパッケージの背表紙から、好みの少女を探した。五十代前半にして、まだ衰えぬ性欲。そもそも教師になった理由も、不純な物だった。
「畜生。貸し出し中かよ」
不意に背後から野太い声がして振り返った。空のパッケージを手に舌打ちする男。冬だというのに項にはべったりと汗を掻いている。
「畜生。これもかよ。全部ねえじゃん…」
彼の借りたいビデオは、悉く貸し出し中のようだ。田中は『少女監禁調教 もう帰らせてくださいⅦ』を手に取り、満足げに歩き出した。豊満なグラビアアイドル隆盛の時代。テレクラや出会い系サイトによる少女売春の増加と、買春側を晒し者にする一方的な報道。ロリコン迫害の時代。ビデオレンタルに関して言えば、ライバルは減少傾向にあるようだ。殆どのロリコンビデオが、棚に残っている。
「畜生…。あれ?」
視線を感じて振り向くと、青年が指差している。
「あ」
その顔。確かに、見覚えがあった。
「先生?」
「吉田。吉田君か?」
「やっぱり。変態先生じゃん」
野球が得意でクラスのリーダー格だった吉田日出男。何時もピンバッチの一杯付いた巨人の野球帽を被っていた。相似形で大きくなった彼が今、大リーグの野球帽を被って目の前に居る。教え子と再会する場所としては、ここは最悪の場所と言えた。
「大きくなったな」
「先生は全然変わんないね」
元教え子の視線が降りてきて、見られた。テープの背表紙を上に向けていた事を激しく後悔した。左手に風呂桶。右手にロリータビデオ。羞恥の極みだ。
「先生まだそんなの借りてんの? 正月から風呂桶もってロリータなんて、ホント懲りてないね。元気だった?」
「まあ、相変わらずだよ」
「でもよく見るとやっぱちょっと老けたかもね。顔色も良くないし」
「まあ、そうかも知れんな。君の方はどうなんだ?」
「何にもいいことないですよ。不景気だし」
「そうだな」
「先生はいいじゃん。公務員が今、一番もてるんだよ」
「そうか。せめて二十年前にそういう時代が来て欲しかったものだな」
「やっぱあれ以来学校じゃ浮いてんの? まだいるんだよね」
「首の皮一枚ってとこだな」
「大変だね」
「まあな」
「こんなとこにいていいの?」
 田中は苦笑し、眉尻を掻いた。見られてしまったものは仕方が無い。ここで会うと言う事は、会った相手もまた不純なのだから。
「しかし今日は変な所でホント昔の知り合いによく合うなぁ。先生で三人目だよ。こんな地元の真ん中にいて今まで全然会わなかったのに」
「正月だからな。田舎者が帰省して分かり易くなっているんだろうな」
「そうだね。会ってても気付かなかっただけかもね。分かんなかったもんなぁ、矢吹とか全然」
「矢吹。矢吹と会ったのか」
「覚えてる?」
「ああ。矢吹。丈一」
「さすが担任」
「どこで会った」
「あ、ここだけど」
「ここって。ここか」
「うん」
「この、エロビデオのコーナーか」
「だからそうだって。ここだもん」
 吉田はスニーカーの底で床を叩いた。自慰をする矢吹。まだ、この町に住んでいる矢吹。否、今は正月だ。一時的に実家に戻っているだけかも知れない。剃刀負けして紅くなった顎を撫で、田中雄三は顔を上げた。
「彼は、今何をしているんだ」
「サラリーマンだって言ってたよ」
「サラリーマン…、そうか…。一体どんな」
「聞いた気がするけど忘れちゃったよ。そんないい部屋じゃなかったからたいした事ないと思うよ。ユニットバスだし。俺もだけど」
「家に行ったのか」
「行ったよ」
「まだ調布に住んでるのか」
「うん。甲州街道の向こうっ側で一人暮らししてるよ」
「そうか」
 この町に居る。ユニットバス。やはり彼は、今も中庸なのか。未来を予測する事が出来ても、自分の人生は変える事が出来ないでいるのか。彼は今、自分の未来をどう予測しているのか。そして、彼は、今の私をどう見るだろうか。
「あと早乙女洋子にも会ったよ」
「そうか」
 早乙女洋子。私の好みのタイプではなかった。自意識の強い女の子だった。
「こんど一緒にエロビデオ撮るんだ」
「え、エロビデオ?」
「そう。今度撮るんだよ。三人で。俺と洋子が出て矢吹が監督。でもこれ誰にも言っちゃ駄目だよ」
「一体何の為に」
「俺もいまいち良く分かんないんだけどね。面白そうだし。ちょっと人生変えたいから」
「そんな事で人生が変わるのか」
「分かんないけどそうらしいよ。俺、将来悪役の俳優になるんだってさ」
「矢吹がそう言ったのか」
「そうだよ」
「いつ」
「だから今日だって。今日ここで」
「そうか。君は一体今どんな仕事をしてるんだ」
「まあ、普通に…。でもすごいよあいつ。先生あいつの卒業文集おぼえてる? 何でも分かるんだぜ、あいつ。携帯とかパソコンとかも当ててるしノストラダムスの予言のこととかさあ」
田中雄三は混乱した。矢吹は一体、何をしようとしているのか。目の前の元教え子の冴えない顔。この顔が俳優になれるとはとても思えない。矢吹丈一。最後の卒業作文を提出した時の、あの目。矢吹少年の冷酷な双眸が、瞼の裏に浮かんだ。幸福そうな吉田の笑顔は、何かの暗示に掛かっているようにも見える。
「早乙女君の方は一体何になると言ってるんだ」
「確か島田伸介とかとバラエティ番組出るって言ってたと思うよ」
「そうか」
 疑念が確信に近付いていく。吉田日出男と早乙女洋子。矢吹は馬鹿な二人をからかっているのではないだろうか。あの卒業文集。二十一世紀になって作文を読み返した二人の馬鹿が目の前に現れたら、矢吹は一体、何をするだろうか。アダルトビデオ。興味深い。充分あり得ると思った。笑いそうになった。
「先生。どうしたの? 考え込んじゃって」
「すまん。それで一体どんな内容なんだ。そのビデオは」
「まだ分かんないんだよ。明日までに脚本っていうの? 書くって言ってたよ。俺は痴女物がいいってさっき言ったんだけど。洋子はあいつホント馬鹿だからさあ。アイドルビデオみたいにスローモーションがあって何て言うかお芝居みたいな、そんなのもやりたいって言ってたよ。ホント馬鹿だよね。あいつ変わんねえよホント」
「アイドル」
田中雄三の脳裏で矢吹少年が冷笑した。
その顔に、誘われた。脚本を読んでみたい。三十女のスローモーションと馬鹿な二人のセックスを何とか自分も見てみたいと思った。
「じゃっ、先生、俺そろそろ行くわ。こんなとこで長話してたら先生だってやばいっしょ」
「ちょっと待ってくれ」
腕を掴んでいた。右手を離れたロリータビデオが、コンクリートの床で乾いた音を立てた。
「私も出来れば会ってみたい。嫌われているかも知れんが……。次に会うとき同行しては駄目か」
「別に…、いいと思うけど…」
「そうか。じゃあ私の連絡先をメモできるか?」
「携帯も置いて来ちゃったからなんもないよ。明日の昼過ぎにあいつん家行くけど」
「明日。それなら明日ここで待ち合わせしないか」
「ここって、ここって事?」
「否、表か、或いは寒いからレジのあたりはどうかね」
「表でいいよ。中混んでるし。じゃあ一時にしよっか」
「分かった」
「そう言えば先生明けましておめでとう」
 吉田は子供っぽく笑い、親指で頭皮を掻いた。
「ああ。おめでとう」
「地元なんだから気を付けた方がいいよ」
 口元に手を当てて、ひそひそ声を出す吉田の顔を見て、田中雄三は苦笑した。
「分かった。私もすぐに出る。明日な」
エロビデオを観る気は、いつの間にか無くしていた。田中は落としたテープを棚に返し、夕焼けの街に出た。逆光の中、長い影を引きずって吉田が歩いて行くのが見える。期待が不安を圧倒していた。何の根拠も無く、何かが変わる予感がしていた。明日。矢吹丈一に会う。彼は私の未来をどう予言するだろうか。
私を弄ぶか。
私を嗤うか。
私を無視するか。
私を導くか。 

 二千一年。一月二日。



 
右から二本、左から二本。四本の指を口に突っ込んだこの顔は、果たして美しいと言えるのだろうか。早乙女洋子は鏡に映った自分の間抜け面をまじまじと覗き込んだ。第一、こんな中途半端な状態で果たして男の方は気持ち良いのだろうか。指を出し入れしても、頭を前後に振ってみても、左右の指先同士が触れ合うばかりで、口に含んだ意味はまるで無いように思える。指先が触れ合うと言う事は、亀頭が触れ合うと言う事だ。人並みよりも若干大きかった気のする吉田のものと、昨日見た至って一般的サイズの矢吹のものが、擦れ合う様子を想像しながら、洋子は首を傾げた。開いた唇の端から唾液が溢れそうになり、慌ててそれを吸い込んだ。温かい息が濡れた指先を掠め、同時に巻き込んだ舌先が、指先に触れた。
「あ」
舌を出して上下に動かすと、両方の中指の先端がチロチロと刺激され、生暖かい粘液に濡れた。
「これなら…。モザイクで分かんなかったけど、こうやってたのか…」
少しだけ納得した洋子は、何となく濡れた指先の臭いを嗅いだ後、歯を研き始めた。喫煙習慣で黒ずんだ八重歯の裏を入念に研きながら、有名になる前に矯正したいと思った。そう言えば、石野真子もいつの間にか歯並びを治していた気がする。出来れば歯並びだけでなく目も鼻も顎の形も直したい。但し、その為には親に甘えて金を出して貰わなければならない。整形したいと言ったら、親はどう反応するだろうか。反対するに決まっている。それ以前に、親に相談する事を考えただけで憂鬱になる。親が嫌いだ。特に父親が嫌いだ。洋子は歯磨きを吐き出し、また鏡の中の嫌いな顔を見た。
アダルトビデオに出てタレントになる。
アダルトビデオに出てタレントになる。
アダルトビデオに出てタレントになる。
と、いう事は、もしかして、そういう事? そうか。
洋子は八重歯を剥き出しにして鏡に笑い掛けた。そうだったのか。アダルトビデオに出ればお金が入る。そのお金で少しずつ整形して行って、少しずつ綺麗になって、どんどん人気が出て、ちょっとずつテレビに出始めて、そのギャラでまた少しずつ整形して、どんどんどんどん綺麗になって、最後には物凄く有名になってる。そうか。分かった。そういう事だったのか。
早乙女洋子は生乾きの髪を梳かし、また指を舐めた。目は閉じていた方が良さそうだ。
躰にフィットする黒いタートルネックを着て、いつもの黄色いコートを羽織った。ビデオの女のように一回転して、微笑んでみた。台所から煮物の匂いがする。数分後に、母親は家族を食卓に呼ぶだろう。もう沢山だ。いい加減に家を出て、バストイレ別でオートロック付きのマンションに一人暮らししたい。場所は勿論、調布や府中や八王子では無く、港区に決まっている。晴れた昼にはオープンカフェでお茶を飲み、芸能人御用達のイタリアンレストランで高級ワインを飲みながら、小皿に盛られた綺麗な料理を少しずつ何品も食べたい。
「お父さーん。ようこー。ごはんよー」
返事をしない唇にリップスティックを塗り付けて、洋子は洗面所のドアを閉めた。今日は親戚の子供が家に来る。お年玉をねだられない内に、家を出なければならない。父親とそっくりな顔をした茨城弁の抜けない叔父にも、犬にイニシャル入りの手編みのセーターを着せる叔母にも会いたくない。会えば必ず、いつ結婚するんだと聞いてくる煩い親戚。
台所を通って、無言で玄関に向かう。どこへいくんだと舌打ちする父親。筑前煮の皿を手に溜息を吐く母親を無視して、早乙女洋子は陽光の下に出た。雲の無い空に光る太陽は子供が描いた下手糞な絵の様で、自分の撮影が行われる日は、もっと幻想的な雲があると良いと思った。

駅前のドトールで生クリームの乗ったアイスコーヒーを飲んだ。硝子窓から見える改札からは、大きな鞄を持った帰京者が次々と現れて散っていく。もう何日かすれば彼らはスーツに着替え、毎朝満員の電車に乗るのだろう。洋子にはサラリーマンやOLの気持ちが理解出来なかった。せっかく生まれて来たのに何故毎日同じ電車に乗って同じ職場で働かなければならないのだろうか。有名になりたい。マネージャーが車で迎えに来れば、電車に乗る必要も無くなる。
腕時計を見ると、午後一時を回っていた。中学の同級生に似た女が、五歳ぐらいの男の子を連れてパン屋に入っていった。肉屋の娘で太っていた女。もし彼女だとしたら、いつの間に痩せたのだろう。幸せそうな親子。産道から赤ん坊を捻り出した時、肉屋の娘はどう思ったのだろう。
仏頂面で携帯を弄っている正面の席に座った女子大生風の女が、遅れてきた恋人に微笑んだ直後に、早乙女洋子は店を出た。歩道橋の上から見る甲州街道は早くも渋滞が始まっていて、誰かが捨てたコンビニの白い袋が、ゆっくりと進む車の列に何度も踏まれて宙を舞った。爆音でカーステレオを鳴らす赤いスポーツカーのドライバーは、リズムに合わせて顎を突き出している。ダンスミュージック。映画のエキストラでクラブに行った時に、助監督の男が言った言葉を思い出した。そこの黄色い君、ちょっと浮いてるからもうちょっと後ろの方回って。若者達の嘲笑。屈辱だった。
ありふれた路地を抜け、ありふれた人間と擦れ違い、ありふれた二階建てアパートの階段を上る。どこにでもあるような普通のアパート。オートロックである筈がないドアの前に立つ。その扉を開けると、そこはドライアイスの焚かれたステージで、幻想的なレーザービームが七色に放射されている。舞台の真ん中に立った瞬間、曲のイントロ。同時に眩しいスポットライトが私を照らし、いつの間にか背後に現れたバックダンサー達が曲の転調と共に踊り始める。私を引き立てる為に、汗を流す男女。私よりも何時間も前にスタジオ入りして、何時間も待たされたダンサー。イントロが盛り上がり、ボーカルの出頭三拍前。私は弾けるように笑いながら、大きく息を吸う。
もう二度と後ろには回らない。
もう待たされない。
ノックもせずにドアノブを捻る。男の足の臭い。一斉に振り返る三人の観客達。早乙女洋子は八十年代のアイドル雑誌のような笑顔で言った。
「おまたせっ」



「あれ、何? 変態先生じゃない」
ユニットバスとキッチンに挟まれた狭く短い廊下の先。安物の青い絨毯に座っている男は二人ではなく三人で、小汚い三番目の男は、小学校時代の担任教師だ。洋子は乱暴にブーツを脱ぎ部屋に上がり込むと、毛玉だらけの茶色いセーターを着た小男の顔を覗き込んだ。
「やっぱりそうじゃん。なんで変態先生がここにいるの?」
田中雄三はそれに答えず視線を落とし、唇の端で苦く嗤った。
「ねえっ。なんで? 誰が先生呼んだの?」
腰に手を当てて二人を睨め付ける。犯人はすぐに分かった。殆ど表情の変わらない矢吹に対して、吉田は明らかに動揺している。目が合うと、吉田は一旦俯いた後、唇を尖らせて捲し立てた。
「いいじゃん別に俺何か昨日さあ、偶然俺先生に会って二人に会った話ししたら何か矢吹に会いたいっていうから連れて来たんだよ」
「ふーん。それで?」
「それでって?」
「それでビデオの事とかも全部喋っちゃった訳? あんた馬鹿じゃないの。信じられない」
吉田の間抜けな表情から秘密の漏洩を確信した洋子は、舌打ちし、脱いだコートを頭に振り降ろした。その風は薄くなった田中雄三の頭髪を二センチ揺らし、黄色いウールの巻き付いた吉田の頭を見た矢吹丈一は、笑いを堪えて下唇を噛んだ。
「やめろよ」
「馬鹿じゃないの? 前から馬鹿だと思ってたけど。あんたそうやってみんなに喋ってまわってんじゃないでしょうね」
「喋ってないよ…。変態先生だけだよ」
「はぁ? やっぱりそうじゃん。信じらんない。ホント馬鹿。先生にそんな事喋ってどうすんのよ。馬鹿」
「あんまり馬鹿馬鹿言うなよ。」
「はぁ? だって馬鹿じゃん。ねえ矢吹君。馬鹿でしょ、こいつ」
矢吹は曖昧に頷きながら、部屋の隅に小さく座ってこそこそと視線を送ってくる田中雄三について考えていた。一体、奴は何をしに来たのか。修学旅行で酔っ払い、子供の股間を触った変態教師。何度も卒業作文を書き直しさせた担任教師。まさか奴も正月にあの時の作文を思い出して人生相談に来たのか。冴えない風体。生気のない皮膚と毛髪。人生が上手くいっているとはとても思えない、淀んだ眼球。数分前、吉田の大きな体の裏から顔を出した小男。風音に消えそうな声で「明けましておめでとう」と言った変態は一体、何をしに来たのか。
「それで何? みんなで私の話してた訳?」
一人だけベッドの上に腰を下ろし、見下すように煙草を銜えた洋子は少し冷静さを取り戻し、美味そうに薄荷の煙を吐いた。
「いや、俺らも今来たばっかしだから、お前が来る五分ぐらい前だよ、なあ矢吹。そうだよなっ」
「うん」
 矢吹は頷き、曖昧に笑った。
「ふーん。それでどうすんの」
 不貞腐れた様に洋子は言い、吉田を睨み付けた。
「どうするって?」
「ホント馬鹿じゃないの。先生いたら話しにくいじゃん」
「え。いいじゃん別に」
「何言ってんのよあんた。先生は矢吹君に会いに来たって言ってたじゃん。なんで一緒に打ち合わせしなくちゃなんないのよ」
「そっか…」
吉田は指のある方の手で鼻を掻き、指先に付いた脂汗をジーパンの太股で拭った。
「ねえ。どうなの?」
頭頂部に冷たい視線を感じて顔を上げた田中は、真っ直ぐに自分を見ている洋子に気付き、慌てて唾を呑んだ。
「どうなの? ねえねえ。やっぱさあ、先生もやっぱり矢吹君に将来の事聞きに来た訳?」
「まあ…、そんなとこだな」
「ふーん。先生ちょっとそこの灰皿取ってよ」
「あ、ああこれか」
黄色いマニキュアの塗られた指に、ブリキの灰皿を渡す。礼も言わない横柄な態度は、子供の頃と変わらない。人を見て態度を変える女。今の自分は、この女に取って惨めな負け組なのだろう。この女に猿轡をさせて糞尿まみれにしてやりたい。自分が世の中にとって何の役にも立たない、単なる糞尿製造器である事を思い知らせてやりたい。田中雄三は矢吹の撮るビデオが、スカトロ系の物になれば良いと思った。ちらりと矢吹の方を見やると、早乙女洋子の煙に誘われたのか、彼も煙草に火を点けている。マイルドセブンライト。煙草を喫う事は意外だったが、極めて一般的な銘柄が矢吹らしいと納得した。狭い六畳強の部屋に紫煙が立ち籠め、喫煙習慣の無い田中は、せめて吉田日出男が喫煙者でない事を願った。
「そうだ」尻のポケットから煙草と赤い百円ライターを取り出しながら、吉田が目を輝かせた。「変態先生も一緒にビデオ出ればいいんじゃねえか? だいたいAVって男優二三人出てるよ。ほら。昨日観たやつだって、ほら一人ずつ出て来て最後には三人でやってたじゃん。そうだよ。普通そうだよ。その方がいいよ。だいたい普通はそうだよな、矢吹」
「はぁ? 何いってんのよ。普通はとか言って馬鹿じゃないの。矢吹君がやるんだから普通のやつなんか作る訳ないじゃん。第一あんた知らないの? 先生は子供じゃないと駄目じゃん。馬鹿じゃない。ホントむかつくあんた」
「でもやっぱ俺だけより二人いた方がいいと思うけどなぁ。先生やっぱ変態だから大人だと勃たないの?」
「いや…。必ずしもそうとは限らないが…」
年に数回は、府中の格安ソープに行っていた。教師になって初めての教え子は、とうに二十歳を過ぎている。田中は女の年を聞き、顔付きの似た同い年の教え子とソープ嬢を重ね合わせる事で、合法に近い形で衰えない性欲を処理する事が出来た。記憶にある限り勃たなかった事は一度も無い。この女が相手ならば、確実に可能だろう。憎たらしい女だとはいえ、早乙女の少女時代を知っているのだから。
「ほらみろ。先生だって大丈夫だって言ってんじゃねえかよ」
「あんたホント馬鹿。そういうのってあんたみたいな馬鹿が簡単に決められる事じゃないって分かんないわけ? そんなのディレクターが知り合いだからテレビ出してやるっていうインチキ業界人と変わんないじゃない。そういうのは監督とかが決めるんだから。ね、監督」
「え」
監督と呼ばれて動揺した。矢吹は灰の落ちそうになった煙草を、そっと灰皿に近付けながら、言葉を探した。確かに、面白い。ロリコンの変態教師が、教え子の三十女と絡む姿は、最高に笑えるドキュメンタリーだ。視界の隅の変態は恥ずかしそうに俯き、掌の汗を膝で拭っている。もしかすると、奴は最初から参加する為にここにきたのか。可能性はある。心なしか口元がにやついている。変態は小さく唇を開き、ひっそりと息を吸い、急に矢吹を振り返って言った。
「どうかな」
「え?」
「もしその、ビデオに参加すると、どうかな。私の将来は。映画俳優にでもなれるかな」
濁っていた筈の双眸に、挑戦的な光が見えた。変態の唇が、悪意に歪んでいる。矢吹は田中の変化に息を呑み、不自然に目を逸らした。吉田と洋子も、自分を見ている。新しい予言を聞き逃すまいと耳を峙て瞳孔を閉める気配が、槍のように飛んで来て顔に刺さった。予言。予言をしなければならない。尻の割れ目が嫌な汗で湿った。ここで下手な事を言ったら、全てが消えてしまう。息が詰まり、呼吸が乱れた。矢吹はそれを悟られまいと態と大きく息を吸い、偽りの溜息を吐いた。
「さあね」
予期せぬ答えに田中は目を丸め、残る二人には僅かな落胆の色が見えた。吉田、田中、そしてベッドの上の洋子。矢吹は思わせぶりに三人を三秒ずつ睥睨し、もう一度田中を真っ直ぐに見据えた。思いだした。優秀な予言者は、絶対に具体的な事を言わない。ノストラダムスもそうだったように。
田中への予言は、これしか無い。
「それは、分かんないな。でもやらなかったら一生今のままだよ」

田中雄三は、舌の裏側に唾液を集めて飲み込んだ。矢吹の目。あの時。卒業作文を書き直させた時の、残酷な双眸が、今目の前にあった。今のままの、一生。目立たないように、揚げ足を取られないように、寝た子を起こすように過去の汚点を思い出させないように。ゴキブリのようにこそこそと暮らす人生。妻も愛人も無く、友人も居ない。今のままの、人生。
それでも良いと思っていた。定年まで教職にしがみ付いていれば、国が破綻でもしない限りは、人並み以上の年金生活が送れる筈だ。年金が下りるまで、後十八年。今のままで、後十八年。田中雄三には、それが途方もなく長い歳月に思え始めた。鉛を飲み込んだ様に、胃袋が重くなっていく。今年小学校を卒業する生徒が、十八年後には三十歳になる。
「今の、まま、か」
無意識に独白していた。何故か六割ほど勃起していた。退屈な生活。今すぐに外に飛び出して勃起した陰茎を扱き、道行く少女にぶっかけてやりたい。そう思って、さらに硬くなった。
「あれ、先生勃起しちゃってんじゃん。ぜったい勃ってるよほらあれ。矢吹ほらっ。ぜったい大丈夫だよ。もう勃ってるもん」
 興奮した吉田が、爪のない右手中指で田中の怒張した股間を指し、得意気に笑った。田中は恥ずかしそうに俯き、片膝を立ててそれを隠した。洋子は呆れて口を開き、「変態」と呟いて小さく舌打ちし、あからさまに目を逸らした。
「先生、人生変えるなら今がチャンスだよ。なっ。矢吹」
「何言ってんの? 勝手に決めないでよ。私嫌だからね。こんな変態。ねえ先生。分かったんだからもう帰れば? 先生なんか悪い事したんだから一生このまま、こそこそしてればいいのよ。ねっ。矢吹君」
まるで苛められっ子のように俯いた田中雄三を見据えながら、矢吹は沈黙した。変態は次にどう出るか。何で勃起しているのか。何を想像しているのか。一体、何をしに来たのか。まるで分からなくなった。確実なのは、今の生活に満足していない事。人生を変えたい事だ。
「もう。何で帰んないの。ここに居て何がしたいのよ。私達これから打ち合わせなんだから邪魔しないでよ」
 知りたいと思っていた事を、都合良く洋子が聞いてくれた。矢吹は田中の渇いた唇が動き出すのをじっと待った。
「…せてはもらえないか?」
「はぁ? 聞こえない。」
 田中は意志のある目で顔を上げ、洋子に向かってもう一度言った。
「やらせてはもらえないか?」
「はぁ?」
「こんな変態の年寄り相手では君も辛いだろう」
「当たり前じゃない」
「尤もだろう。であれば、どうだろう。スタッフとしてやらせてもらうと言うのは」
「スタッフ?」
「そうだ」
「矢吹君も一人で撮影するのは大変だろうし実は私もこう見えて撮影が趣味で、小型のDVカメラとバッテリーライトを持っている。カメラが二台あった方が、編集の時に選択の幅が出て良いと思うが。どうかな」
「先生そんなの何に使ってんだよ」
吉田の下品な笑い声に田中は苦笑し、「まあ、いいじゃないか」と言いながら鼻の下を掻いた。
「どうかな。矢吹君」
矢吹は頷き、同意を示した。何をさせるにしても、家に帰すには惜しいキャラクターだ。このまま様子を見て、楽しみたいと思った。
「いいですよ」
「そうか。早乙女君はどうかな」
「別にスタッフならいいけど…。矢吹君ちゃんと指示して変態みたいな映像撮らせないでよ」
 矢吹は我慢できずに笑みを漏らし、それが部屋の空気を明るく変えた。緊張が解れた田中は窓から差し込む陽光でシルエット気味になった矢吹の顔を見て、何か不思議な気持ちになった。

「じゃあ矢吹君そろそろ脚本見せてよ。出来てるんでしょ」
「ああ。まだ走り書きだけど」
「えー、出来てないの?」
「まあ、でも先に大枠決めとかないと後で無駄になるから」
「そっか。取り敢えず見せて。その前に何か飲み物ないの」
答えを聞く前に立ち上がった洋子は勝手に冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶と、重ねたグラスを四つ持って戻ってきた。自分用のグラスにお茶を注ぎ、後は自分で、と言わんばかりの乱暴さでテーブルにボトルを置いた。
「じゃ、見せて」
 矢吹の出した一枚の紙切れを、三人は身を乗り出して覗き込んだ。子供の頃とあまり変わらない、整った癖の無い文字。三対の眼球が、その文字を追う。

ファミレスの店員、洋子。暴力団員の客、吉田。緊張してコーヒーを零す洋子。吉田の指に気付き、恐怖に顔を引きつらせる。激怒する吉田。トイレに洋子を連れ込み、汚れたと言って陰茎を掃除させる。吉田は洋子を拉致。富士の樹海につれていき、無理矢理に手淫させる。

「これだけ?」
「え、うん…。駄目?」
 唖然とした洋子の白い顔が、見る見る赤くなった。鼻の穴が僅かに広がり、右足で貧乏揺すりを始めた。テーブルの上のグラスが小刻みに揺れ、テレビのリモコンが数センチ動いた。
「何これ。まだ全然じゃない。こんなの、脚本じゃないよ。短かすぎる」
「大丈夫。これからちゃんと長くするよ。取り敢えずお芝居のある感じにしたかったから。設定が良ければ今日の夜から書くよ」
「こんなの嫌だ。だって綺麗なシーンとか全然ないし、スローモーションとか入ってないじゃん」
「まあ、そうだけど…。それはお芝居とは別にちゃんと撮るよ」
「でも嫌だファミレスの店員なんてそのまんまじゃん。もっとアイドルっぽい役でなんかないわけ?」
「アイドルっぽい役…」
 矢吹は下唇を弄りながら途方に暮れた。吉田は複雑な表情で自分の右手を見詰め、それに初めて気付いた田中は、矢吹の意図を理解し、含み笑いを漏らした。
「俺、やくざ役か。上手くやれるかな」
 指の欠けた右手を握り締め、吉田が言う。
「大丈夫だよ。怪我した事が、逆にプラスになる。その手は誰にも真似出来ない吉田君の個性だよ」
「そっか」
突然、洋子がテーブルを叩き、倒れかけたペットボトルをすんでの所で田中が抑えた。
「こいつの事なんかどうでもいいのよ。それより何とかしてよ。私の役」
「でも…、これだったらお客さんが居ない時間に盗み撮りでロケも出来るしお芝居もちゃんとあるから…」
「だから嫌だって言ってんじゃない。これじゃないと有名になれない訳? そんな事ないでしょ。もっと他の役で有名になれる方法考えてよ今すぐ」
部屋の酸素が一気に薄くなった。喉が渇いた矢吹は、お茶を注いで飲みたかったが、洋子に睨まれて動けずにいた。女との揉め事には慣れていない。ヘルス嬢の陰部に指を入れて怒られた時も、「ごめん。ここって指入れ禁止だっけ、知らなかった」と、卑屈に笑って誤魔化していた。
アイドルっぽい役って何だ?
看護婦? 貸してくれる病院なんて無いし、衣装や小道具を揃える金も無い。
スチュワーデス? もっと無理だ。
家庭教師。家庭教師なら何処でも撮れる。でもアイドルっぽいか? 全然だ。
花屋? 女刑事? 女自衛官? 女占い師? 女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女
「それなら女生徒役はどうかな」
全員が田中雄三を見た。
三人の視線を受けた田中は、一瞬躰を硬直させた後、すぐに落ち着きを取り戻した。三人の教え子が、自分の話を聞こうとしている。背筋を伸ばし、咳払いを一回。ゆっくりと息を吸って、腹筋に力を入れた。
「早乙女くんはまだ高校の制服を持っているかな」
「たぶん」
「それならば洋服は問題ない。もし無かったら、或いは、学校を特定できる制服に問題があれば私の知っている店で買えば良いだろう。矢吹君、私もお茶をもらって良いかな」
「はい」
田中は美味そうに喉仏を上下させ、話を続けた。
「せっかくこうやって仲間に加えてもらったからには、私にしか出来ない協力をしたい。みんなも知っての通り、私は教師だ。今は冬休み。私なら宿直の日、撮影場所として学校を提供出来る。どうかね」
にっこりと微笑む田中を見て、矢吹は度肝を抜かれた。馬鹿じゃねえの、こいつ。何考えてんだ。また捕まってもいいのか。田中の表情には今までに無かった自信が漲り、とても冗談を言っているようには見えない。それどころか、その顔は、八十年代のドラマに出て来る教師のように、妙な安心感さえ抱かせた。
「でも…。そんなのがバレたら先生やばいんじゃないですか?」矢吹は自分でも可笑しいと思いながら、頼れる変態先生の立場を案じた。「ただでさえ一度問題起こしてるのに」
「矢吹君はバレると思うか」
「いや…。どうかな」
 余計な事を言った。こいつはかなりの曲者だ。変な事を言うと、足元を掬われる。矢吹は不自然に見えないように目を逸らし、曖昧に答えた。
「大丈夫だ。心配はいらん。爆弾犯人の予告電話でも無い限り夜中に誰かが来る事は無い。小学生から受験勉強する今の子供は、学校の成績よりも塾の成績を気にしているから答案用紙を盗みに来る事も無いし、第一冬休み明けすぐに試験など無い。小学校に金目の物など無い事は、大人なら皆知っている」
「でもさあ」黙って話を聞いていた洋子が口を開いた。「映像見たら分かっちゃうんじゃないの? 卒業生とかが見たら分かるよぜったい」
「問題ない。君達が卒業してから二十年近くになる。教室も講堂も少しずつ改装されて昔の面影はあまり無い。出演する君達を見た同級生も、自分の子供を母校に通わせている僅かな者以外は、気付かんだろう。その僅かな者が自主制作のアダルトビデオを観る可能性は、かなり薄い。学校なんてどれも似たようなものだし、撮影するのは安全上夜になるから、更に特定は難しい筈だ。小学校だから当然、机や椅子の大きさに無理はあるが、その辺は許容範囲だろう。どうだね。矢吹くん」
「問題ないです」
「それよりいつも制服とか買ったりとかしてんの? 先生」寂しくなった吉田が会話に割って入り、洋子に睨まれ、舌を出す。
「馬鹿は黙っててよ」
「だから馬鹿って言うなよ。でもちょっと辛いんじゃねえの。三十の女が学生なんて」
「まだ二十九よ。馬鹿」
楽しいと、思った。矢吹は笑みを零し、くだらない事で言い争う二人に目を細めた。自分達が卒業した小学校。その教室で、体育館で、図書室で、絡み合う二人を早く見たいと思った。内容なんかどうでも良い。三十過ぎの同級生が小学校で、制服で、そう考えただけで腹が捩れそうになった。出来れば、田中も教師役で参加させたい。この女に、同級生と担任教師の男根を、同時に銜えさせたい。洋子さえ説得すれば、変態は出演するだろうか。それ以前に、変態の目的は何だ。もう一度、その事を整理しなければならない。学校の鍵を開けた上に、自分自身も出演する事は、田中に取ってはあまりに危険過ぎる行為だ。もし関係者に見付かった場合、言い訳出来る筈が無い。第一、エロビデオを撮る目的を彼はどう思っているのか。吉田がそれを話したとすれば、メーカーに売り込みに行くと聞いているとすれば、そんな事が出任せである事ぐらい田中なら解る筈だ。もしかすると奴は、ただ俺がこの二人を使って遊んでいるだけだと言う事を知っているのかもしれない。そうだとすれば、全て辻褄が合う。そうだとすれば、奴も楽しみに来たのだ。自分自身が楽しいと思えば、奴は喜んで、芝居でもセックスでもするだろう。
「せっかく学校で撮影するんだから、先生も出たらどうですか。その方が楽しいですよ。」思い切って言ってみた。「当然先生役で。早乙女さんは学校のアイドルで野球部のマネージャー。吉田君は野球部の部長。やっぱり三人いた方が、話に幅が出ていいと思うな」

田中雄三の顔が、目に見えて明るくなった。背番号入りのユニフォームを初めて貰った時の野球少年がするような、純粋な笑顔だった。
「いいのか」
田中は矢吹と洋子を交互に見て、洋子から無言の合意を取り付けた。この部屋にこの女が入って来た時から、そうしたいと思っていた。生意気で横着なこの女のくすんだ肉弁を思い切り拡げて、垢だらけの逸物を突っ込んでやりたかった。矢吹が本物の予言者かどうかなど、どうでも良くなっていた。この女も指の無い馬鹿男も、俳優になどなれる筈がない。矢吹丈一は、二人をからかって遊んでいるだけだ。そして、恐らくはうだつの上がらない淫行教師の私も、矢吹にとっては格好の芸人になっているのだろう。それでも良い。どうせ一時の遊びならばやらない手はない。彼の言う通り、何もしなければ、今のままだ。こんな年増が女生徒役をやるAVなど、万が一にも売れる筈がない。唯一のリスクといえる、矢吹が撮影したビデオを使って自分を脅迫するという可能性も、田中雄三には無いように思えた。ありふれた町のありふれたアパートに住み、地味な家具に囲まれて国産の煙草を喫うこの男が、とてもそんな大それた事をするとは考えられなかった。いざとなれば、彼にもきっと弱みはある筈だ。もし最悪の事態になれば、今度は私が、この馬鹿二人を焚き付けて、彼の人生を非凡な物に変えてやる。
「でもさあ」すっかり機嫌を直した洋子が髪を掻き上げ、黒々とした直毛が一本、シーツに落ちた。「まあ学校のアイドルで野球部のマネージャー役? それはいいとして矢吹君お芝居以外の何て言うかイメージみたいなやつはどうするの?」
「例えば水飲み場とかどうかな。ほら、あの渡り廊下の所にあったやつ。先生まだあれってあのままありますか」
「あそこはそのままだ」
「じゃあちょっと唇から零しながら水飲むとか、よくグラビアなんかであるみたいにカメラに向かって水飛沫飛ばしながらはしゃぐとか、そういうのがいいんじゃないかな」
「まあ。いいけど」
洋子は嬉しさを噛み殺すように唇を尖らせ、奥歯に力を入れた。捲れ上がった唇の端から、八重歯が零れないように窄めた唇が、少し乾いている事に気付いた洋子は、コートのポケットに入っている筈のリップスティックを探った。
そんなシーンは夜には撮れない。そう言いかけて止めた田中は、矢吹の心情を勝手に想像し、ほくそ笑んだ。そんな事、彼なら当然、分かっている筈だ。この女がどうしてもとごねだしたら、家にある赤外線ライトを使えばいい。田中は暗視ライトに照らされたモノクロの三十女が、制服ではしゃぐシュールな映像をイメージし、口元を小さく歪めた。
「それで? 矢吹君いつ撮影するの?」リップスティックを塗り付ける。洋子はその指先に見付けたささくれを噛んだ。
「先生。次の宿直いつですか?」
「明日だ」
「その次は?」
「春休みまで待つ事になる」
「じゃあ明日やるしかねえじゃん」吉田が会話に加わる。「結構やばくねえ? 全然時間ねえじゃん」
 田中は背筋を伸ばし左目の端に矢吹を捕捉しながら吉田に向かって笑い掛けた。
「快楽とは常に、リスクを伴うものだよ」
 全校生徒に語りかけるような口調で言い放った田中は、照れくさそうに俯き、小さく二回、咳払いをした。

 二千一年。一月三日。



初日の出登山に出掛けた大学生のパーティーが、行方不明だ。山腹は吹雪が続き、今日の捜索中止の知らせを聞いた家族が、不安と落胆に憔悴している。深刻顔のニュースキャスターが、好感度を下げないように注意深く表情を弛め、自転車に乗る犬の話題に移るのを観ながら、矢吹は何の根拠も無く全員死んでいるだろうと思った。夕方六時。外はもう真っ暗だ。昼間の内に会社から持ってきたパルサーライトの調子を試しDVテープの包装ビニールを剥がした。出来ればカメラをテストしてみたかったが、それはまだ手元に無い。車に乗らない矢吹に取って会社から運ぶ機材の量には限界があり、カメラと三脚は田中の私物を使う事にしたからだ。吉田には、電気ストーブと延長コードを。洋子にはティッシュペーパーとコンビニのおにぎりを頼んである。
集合時間の十時まで、あと四時間。ベッドの上で横になって、意味無く陰部を弄った。駅前のラーメン屋は、もうやっているだろうか。何故かやっていない気がした。多分営業は明日、一月五日からだ。
起き上がって歯を研き、浴槽を洗い、久し振りに湯船に浸かった。気が付くと鼻歌を歌っていた。近藤真彦の、すにーかーぶるーす。何故そんな旧い歌が浮かんだのか自分でも可笑しくなり、笑いながら歌った。
男と女の別れの歌。それは自分を美化する事が許される一握りの美男美女達と、自分を勘違いした大多数の豚の為にある物で、自分に取っては関係の無い物だと子供の時から思っていた。中途半端な容姿の自分が中森明菜と付き合える筈がないと、子供の時から分かっていた。大学生になって、自分が思っていた通り中途半端な容姿の女と付き合い、ディズニーランドに行きたがるその女にディズニーランドに行かなかった事を理由に振られて以来、恋愛を馬鹿らしいと思うようになった。中途半端な女の機嫌を損ねない様に暮らすより、気の向いた時にヘルスに行く方が幸せだった。
長湯でふらつく体を拭いて、黒い服に着替えた。煙草を立て続けに二本喫って、灰皿を洗った。爪が伸びている事に気付き、切り終えても、まだ八時を過ぎたばかりだ。
矢吹は我慢出来ずに部屋を出た。パルサーライトのペリカンケースを抱えて歩道橋を渡り、吉野屋で牛丼の並盛を食べ、駅前の喫茶店で百五十円のコーヒーを注文した。薄いオレンジと白いストライプの可愛い制服を着た店員は、贔屓目に見ても四十代前半で、店内を掃除している背の高い男は、どう見ても日本人ではないし、ブラジル人でもない。ベルサーチに似たロゴの入ったジャージを着て金色のブレスレットを填めた中年の客が、伸ばした小指の爪で鼻糞を穿っている。窓の外に見えるカラオケボックスの入口に、高校生が溜まっている。人数分の肉まんと缶コーヒーを買って戻ってきた少年は多分苛められっ子で、その証拠に彼の分の肉まんは無い。肉まんを買う為だけに呼び付けられたのか、彼は用が終わると群を離れ、猫背で歩く後ろ姿に嘲笑を受けている。矢吹は家に帰って泣きながら口に何個も肉まんを押し込む彼の姿を想像した。その想像が正しければ、彼の肥満の原因は、そこにある。
九時三十分。小学校まで、ここから五分。まだかなり早いが、矢吹は喫茶店を出る事にした。年増の女店員に金を払い自動ドアを出た所で穴の空いたダウンジャケットから羽を撒き散らしながら歩く浮浪者と擦れ違った。働かない若者と働けない大人。裕福な家に育った肥満体の苛められっ子と母子家庭の苛めっ子。浮浪者を避けるようにして目の前に差し出されたピンサロのティッシュを受け取り、ポケットに仕舞う。
途中で通り過ぎたラーメン屋の電気は、やはり消えていた。



待ち合わせの場所、小学校前のコンビニでは、吉田がエロ漫画を立ち読みしていた。足下には金属バットのグリップがはみ出した旅行鞄と、恐らくは電気ストーブが入っているであろう持ち手の付いた段ボール箱が置いてあり、少なくとも三日間は連続で穿いているジーパンの股間は、言い訳の出来ないくらいに勃起している。大きなペリカンケースを持った矢吹が近付くと、気配に振り返った吉田は、嬉しそうに頬の筋肉を弛め、「一時間も早く来ちゃったよ。」と笑った。
「早乙女さんはまだだよね」
「うん」
硝子の向こう側に嘗ては無かったフェンスで囲われたグランドが見える。死角になって見えない体育館の中では、田中が先行して準備を進めている筈だ。矢吹は草食動物の様に用心深く耳を澄ませながら体育館のカーテンを閉めて行く田中の姿を想像した。田舎の分校でもあるまいし、今時宿直なんてあり得ない。田中はきっと、カードキーでセコムの警備を切り、新学期が始まった後、それが発覚した場合の言い訳も、入念に考えているに違いない。撮影を今日にした理由は恐らく、正月休みで警備員が不足した時期を狙った事と、単に一日でも早くやりたかったからだろう。大手のコーヒーチェーン店に、外人と年増しか居ない時期。田舎者が帰省から帰ってぐったりしている夜中に、変態教師が学校に忍び込んでいる。
「なんか懐かしくねえ? 小学校来るなんて久し振りだよ」
「そうだね」
「お前同窓会とか行ってた?」
「行ってない。吉田君は?」
「全然。出世してねえもん」
「そっか」
「お前休みの日とかいつも何してんの?」
「別に、寝てるよ」
「俺も。普通そうだよな。女とかいるの?」
「いないよ」
「なあ。矢吹」
「ん?」
「今度遊びに行こうぜ」
「いいよ」
「洋子遅えな」
「うん。でもまだ、二十分ぐらい前だよ」
二人は同時に店内の時計を見た。おでん鍋にはんぺんを補充している店長の視線を感じた二人は何となく落ち着かなくなり、吉田の提案で煙草を喫いに外へ出た。

二人がポケットから煙草の箱を取り出すのを、早乙女洋子は電柱の陰からじっと見ていた。主役がスタッフよりも早く現場にいた事は、今までのエキストラ人生の中で一度も無かった。十時になって準備が整い不測の事態が無ければ、矢吹の携帯に田中から連絡が入る。洋子は矢吹が電話を耳に当てる瞬間に、登場する事に決めていた。ワイヤーの跡が付かない様にノーブラにした乳首が、寒さで勃起している。二人に釣られて銜えた煙草を持つ指先が、小刻みに震えた。
退屈凌ぎに携帯電話を開く。メールを打つ相手は、もう居ない。洋子は不倫相手からの受信メールを、一つずつ消して行った。四十を過ぎた金髪男からの絵文字を多用したメールは甘い誘い文句のオンパレードで、日付を遡る毎に騙されて来た経緯が暴かれて行く。親指を高速で動かして、過去を消して行く。
︽とりあえず会わない?︾
︽やっぱ主役の女の子の事務所絡みでダメみたい。またいい話あったらまわすよ︾
︽とりあえず説明とかしたいから会ってメシでも食わない?︾
︽今度知り合いのディレクターがやってるドラマのオーディションがあるんだけど出てみない?︾
潰しても潰しても現れる男のメールを一括消去して、電池残量表示の一段階減った電話を閉じた。視界の隅に電気の消えた小学校。懐かしい。あの頃に戻りたいと、ずっと思っていた。洋子に取ってそこは、人生をリセットする最適の場所に思えた。
鼻水を啜り、冷えた体をさすった。コンビニの前の二人も、同じように両手で体を抱え、肩を竦めている。矢吹が左腕を翳すのを見て、洋子も腕時計を確認した。十時五分前。三人はまた、同時に煙草を銜え、ほぼ同時にそれを踏み潰した直後に、矢吹のポケットから在り来たりな着信音が響いた。
来た。
洋子は一旦踵を返して七メートル二人から離れ、背筋を伸ばして息を吸った。
今から、人生が変わる。
今日から、私は、スターになる。
誕生。
スター、誕生。
「ルナ…。ルナ…。今日から、わたし、ルナ…」
早乙女洋子は、颯爽と歩き出した。一昨日の夜から考えていた新しい芸名。ルナ。月と書いてルナと読む。矢吹が電話を切ると同時に二人の前に現れたルナは、唇を半開きにして、シャンプーの香りの残る黒髪を掻き上げた。
「おまたせ」



教職員玄関の分厚い硝子戸をノックすると、懐中電灯の光と白い影がぬっと近付いて来て、素早い動作で内鍵を捻った。
「さっ。早く」
隙間から顔を出した田中は、乾燥した指で矢吹の腕を掴み、三人が校内に入るとすぐに、ドアの鍵を閉めた。既に三足並べてある来賓用のスリッパを懐中電灯で照らし、履いてきた靴を入れる為のビニール袋をそれぞれに手渡す。
「なるべく足音を発てんようにな」
 最も足音を立てそうな吉田を一瞥した田中は、マントの様に白衣の裾を翻し、三人を先導して歩き始める。
「大丈夫だよ。それより先生、前からそんな服着てたっけ」
「一度着てみたいと思ってな。理科室から拝借してきた」
「なんかさあ、先生ちょっと立派に見えるよ。偉い学者さんみたい。なあ矢吹、そう思わねえ?」
矢吹もまた、同じ事を考えていた。髪を七三に撫で付け、大股で歩く田中は、とても問題を起こした変態教師には見えなかった。なりきっている。鍵のぶらさがった木の板を小脇に挟んだ姿は、看守の様でもあり、威圧感さえ感じさせた。
リノリウムの廊下を端から端まで渡り切り、一階の突き当たりの教室、なかよし学級と書かれた特殊学級の前で、田中は立ち止まり、慣れた手付きで鍵を開いた。
「教室を使う場合、ここが良いと思うがどうかな」
「なんでなかよし学級なのよ。普通の部屋でいいじゃん。一緒なんだから」
抗議する洋子には見向きもしないで、田中は真っ直ぐ矢吹に向かって続ける。
「ここなら、多少物を動かしても、少なくとも生徒は不審に思わない。今の担任教師は定年間近の、君達も知っている黒田先生で、生徒が転校して一人減っても気付かないような男だ」
「分かりました」
矢吹は頷き、田中のセンスの良さに感心した。この女を陵辱する教室は、なかよし学級以外には有り得んだろう。瞬きしない視線の奥から発せられる、心の声を受け取った。教室は暖房で暖められていて、電気を点けると、窓硝子には既に黒紙でぴったりと目張りがされていた。教壇の上には、出席簿と指し棒が置かれている。完璧なロケーションコーディネーター振りだ。
「後は、特別教室で言うと、図書室、理科室、家庭科室、視聴覚室、君達の頃には無かった情報処理室と言うパソコンのある教室があるが」
「いや。教室は一般的な物が良いでしょう。それより」
「体育器具室かな」
「は。はい…」
 体育館では無く、体育器具室と言う所に、熱い拘りが感じられた。
「行って見よう。私も君と同じように考えていたから、そっちもある程度、もう準備が出来ている」
田中は流れるような一連の動作で、懐中電灯を点け、教室の電気を消し、扉を開けて廊下に出た。三人が続いて廊下に出た時には、既に教室の鍵を構えて扉の裏に立っていた。
廊下の突き当たりのドアを出て、渡り廊下を進む。兎の居ない兎小屋。ゴミを燃やせなくなった焼却炉。錆だらけだった筈の体育館の鉄扉は、暗いグリーンに塗り替えられている。夜だからそう見えるだけで、実際にはもっと明るい色なのかも知れない。三人が想像を膨らませる間も無く扉は開かれ、懐かしいワックスの匂いが鼻腔を擽った。
水銀灯がゆっくりと点灯し、オレンジ色の光の玉が等間隔で床に映った。三人は思い思いに周囲を見回し、感嘆の吐息を漏らす。
「うわあ…。こんな低かったっけ。これならダンク出来そうだな」
吉田が指差すバスケットゴールは、マイケル・ジョーダンなら飛び乗れる程低く見える。その上の観覧席は全ての窓に暗幕が引かれ、矢吹が上げた目線を下ろすと、体育器具室と更衣室のドアの間に、きっちりと整理された機材が並んでいる。既に三脚に取り付けられたカメラ。結線されたドラムコード。清潔な毛布。8インチのモニター。ホッカイロ。救急箱。
「すごいですね。先生何時から準備してたんですか」
「七時過ぎだ。ここは防音だから、皆もう普通の声で話して良い」
「はい」
「器具室も見てくれ」
「はい」
観音開きの扉の中。初心者、中級者、上級者と三段階に塗り分けられた今風の跳び箱が三組。キャスターの付いたボール籠がバスケット、サッカー、ドッジ、とその他用の四つ。フラフープ、一輪車、グラスファイバーの竹馬等が雑然と置かれた中央に、体操用のマットが、二枚重ねで敷かれている。
「すごい…」
こんな嫌らしい体育器具室を見るのは、初めてだ。アングルを想定して映らないと考えたのか、扉の裏の隅の方にビニール袋を内側に被せたゴミ箱と、石油ストーブが置かれている。
「なんだ。先生、ストーブあるじゃん。俺せっかく家から持って来たのに」
抗議する吉田が汗ばむ程に、室内は暖かい。
「すまんな。時間が余ったので用務員室から拝借して来た。あまり灯油が減ると疑われるから、後で君の物と交換しよう」
「まあ、別にいいけど…」
「ねえ。それで、どうすんの? これから」田中の視界を遮る様に前に歩み出た洋子は、矢吹の前に立ち、前髪を払った。今日の主役は、自分だ。変態教師の下準備は当然の事で、縁の下の力持ちは、一生、縁の下に居ろ。「早くしてくれないと、夜は肌の調子が悪くなるんだからね」洋子は田中に敵意を感じ、それは自分でも疑いようの無い、嫉妬だった。
「そうだね。じゃあ早速準備するから取り敢えず二人は制服とユニフォームに着替えて。先生はそのままでいいです。二人が着替える間に、先生と僕とで段取りを決めましょう」
「分かった。急ごう」
 田中が顎を引き、瞳孔を閉める。
「ふん。それでどこで着替えればいいわけ?」
「隣の更衣室が良いだろう。少し寒いが、我慢してくれ」
「オッケー。そこね」
「俺のストーブとコードどうする?」
「じゃあ、取り敢えずその辺にに置いといて。あとは、こっちでやるから」
「分かった。それでユニフォームなんだけどさぁ」
「なに?」
「高校の時のだと俺太っちゃったからピチピチだから一応今日巨人のヤツも買って来たんだけど、どっちがいい?」
「巨人じゃダメだよ。無理してでも高校のユニフォームにして」
「分かった」
二人が更衣室に消えた後、矢吹と田中はどちらからとも無く目を合わせ、二人同時に、にやりと笑った。

ジュラルミンケースを開き、灯体とスタンドを取り出す。田中に確認するまでもなく、スタンバイする場所は器具室の中だ。三灯の内、一灯は上目からマットの真ん中、つまりは人物用に。一灯は低い位置でフレキシブルに動かせるように、つまりは結合部分のスポットライトとして。残りの一発はフォーカスを開いて天井に当てた。カメラは動き易いように三脚から外して手持ちで撮る事にし、田中の提案でワイドコンバージョンレンズを取り付けた。作業しながら矢吹は簡単な段取りの説明をし、田中はそれを完璧に理解した。
「別に巨人のユニフォームでも良かったかも知れないですね」
「意外にな。背番号が気になるところだがな」
矢吹は田中を試し、変態教師は最上級の反応を示した。
「なんだよすげえ楽しそうじゃん」
巨人軍の永久欠番、背番号1のユニフォームを諦めたフリーターの三十男が、金属バットを手に器具室に入って来た時には、全ての準備が整っていた。その時が近付き、少し緊張しているのか、吉田の笑顔は不自然に強張っている。洋子がまだ居ない事に気付いた吉田は、「女の着替えは遅せえなあ」と舌打ちし、「バットなんか持つの久し振りだよ」と誰にともなく言った後、体育館に出て、数回、素振りをした。事故から十四年。無い事が当たり前の様になった右手の先が、しっかりとバットをグリップしている。もう一度、野球をやりたいと思った。明日から、何かが出来る気がした。

「ちょっとぉ。あぶないからどいてよ、そこ」
振り返った吉田は、ぎょっとしてバットを落とした。
「お前、違うじゃん…」
「違うって何よ。馬鹿のくせに。どいてっ」
 洋子は吉田を突き飛ばし、器具室に入って胸を張った。
「おまたせっ」
袖と裾と首周りに白いフリルの付いた黄色いワンピース。前髪を四十五度前方に立てたポニーテールに黄色いリボン。ビューラーとマスカラで誇張された目元。左手には色褪せたスヌーピーのステッカーが貼られた旧型のラジカセ、右手には金色のカラオケマイクを握っている。
矢吹と田中は、一瞬呆然とし、言葉を亡くした。女は何時も、計画を狂わせる。頭頂部から怒りの熱が降りてきて、足の裏が汗で湿った。叱って着替えさせるべきか、無理に微笑んでこのまま撮影するか。二人は頭に同じ二つの選択肢を思い浮かべ、天秤に掛けた。前者は、最悪の場合、準備が全て水の泡になる危険性を孕んでいる。後者は、妥協以外の何ものでも無い。
矢吹は一旦、歯を見せかけ、開きかけた唇をすぐに結んだ。やはり妥協はしたくない。そう思ったその時既に、矢吹の頬の動きに反応した田中の口が、反射的に言葉を発していた。
「早乙女君。制服は…、どうした…」
 田中は、矢吹が踏み止まったのを見て、失敗したと思った。これは自分の言うべき事では無かった。
「うるさいわね、じじい。ちゃんと持ってきてるに決まってんじゃない。変態。さっきから余計な事ばっかりやって。制服制服って制服なんか後回しに決まってんじゃないロリコン。ねえ、矢吹君。先にこっちから撮ってよ。学校のアイドルでしょ。そう言ってたじゃない。私、歌うから」
「う、歌うって…」
「歌っちゃダメなわけ? いいじゃん。なんでダメなのよ」
「いいけど…、どこで…?」
「決まってるじゃん。あそこ」
黄色いマニキュアを着けた洋子の指先が、紫紺の緞帳が下げられた講壇を真っ直ぐに指している。
「それを、撮るわけ?」
「そう」
矢吹の視線が、講壇の右上にある時計に動いた。十時四十五分。考えて見れば、それ程慌てる事も無い。制服をちゃんと持って来ているのならば、焦る必要も無いだろう。後で、白けながらイメージカットを撮るよりも、先にやってしまった方が寧ろテンションが下がらなくて良いかも知れない。
「いいよ。じゃあ準備しよう」
「ほんと?」
洋子の顔が面を付け替えた様に明るくなった。剥き出しになった右の八重歯に、口紅が付いている。
「じゃあ吉田君も手伝って」
「いいよ。何すればいい?」
何か機材を運ばせようと器具室の中を振り返ると、既に田中は準備を始めていた。

三脚に取り付けたカメラを運び出しながら、近付いて来た田中が、耳元で囁く。
「照明はどうする? テープは回すか」
「はい。一応出来る範囲でちゃんと撮ります」
「わかった」
矢吹は吉田にライトを運ばせ、自分はドラムコードを延ばして電源を確保した。まるで手慣れたプロのスタッフがやるように準備は着々と進行し、何時の間にか居なくなった田中が、どこかステージ裏で操作をしているらしく、講壇のダウンライトが音も無く灯った。軽快に階段を上った洋子は壇上に立ち、奇妙なスキップで何度か舞台を往復した後、邪魔な演台をどけるように吉田に命令し、吉田と戻ってきた田中がそれを運ぶのを満足げに見た。
「ありがと。これで動きやすくなった」
「早乙女君。音楽は何で再生する。CDかな」
「カセット。悪い?」
「確か講堂のスピーカーでかかる筈だ。爆音とまではいかんがラジカセよりは良いだろう」
「ふん。じゃあ、そうして」
「マイクもケーブルがあるから、そこから音が出るように出来る」
「ふーん。じゃあ、そうして」
洋子はラジカセからカセットテープを取り出し、無愛想に手渡した。手首のスナップを効かせた素早い動きで差し出されたスケルトンのテープには、2001・1・4さつえい用とマジックで書かれたラベルが貼ってあり、田中はステージ裏の音響装置の方に向かいながら、鼻水を飛ばして吹き出した。
ワイドコンバージョンを外して上着のポケットに入れた。矢吹はフォーカスをロックし、携帯電話の着信履歴01番に残った田中の番号をコールした。
「もしもし、僕の方はいつでもオッケーです。先生どうですか?」
「大丈夫だ」
じゃあ直前まで電話はこのまま繋いで置いて下さい。吉田くーん。そろそろ撮るからそこ下りてー」
何故か爪先立ちになった吉田が舞台を駆け下りると、洋子はマイクを両手で構えて真っ直ぐに立ち、カメラのレンズ越しに矢吹と目を合わせた。
「ねえ。もう撮ってるの?」
 スピーカーを通した洋子の声がホールに響く。
「まだだよ。じゃあ回すね」
「まだ音楽かけちゃダメだからね。私がおじぎしたらすぐかけて」
受話器の向こうから、「分かった」と、田中の声が聞こえ、舞台の袖を見ていた洋子が満足げに頷く。
RECボタンを押す。液晶に赤いランプが点り、カウンターが回り始める。
「さあ、行こうか」
洋子が頷く。自分以外に三人しか居ない体育館の舞台で、掌に人という字を十回以上書いて飲み込む奇行をした後、大きく息を吸い込んだ。

「あ、あ、テスト、テスト。じゃあ行くね。えー。初めまして。お月様の月って書いて、ルナって言います。名字は、まだ、考え中です。もうすぐ二十三歳です。歌います」
お辞儀。
田中は涙を流して笑いながらカセットデッキの再生ボタンを押した。これ程笑ったのは、一体何年振りだろうか。小さな事ではあるが、確かに、今日を境として人生が変わる気がした。呼吸が出来ない。酸欠で蒼白になりながらも、ここに来て良かったと、本当に思った。
八十年代初期のアイドル歌謡。イントロが流れ出し、洋子は小刻みに膝でリズムを取り始めた。四小節後に曲は大きく転調し、弾ける様に踊り出す。反復横飛びに近い大きな動きで左右にステップを踏み、マイクを持っていない方の手を右上から左下、左上から右下に、千切れそうな程振っている。矢吹はカメラに添えた手を離した。笑いを堪えて震える体が、カメラを揺らしていた事に気付いたからだ。体の中に、笑気ガスが充満し、爆発しそうだ。目を逸らせたい、でも見ている。洋子は一瞬たりともカメラから目線を外す事無く、甘えた声で歌い出した。お互いに通話を切り忘れた携帯電話から、微かに田中の笑い声が聞こえる。矢吹はファインダーを覗く振りをして、両目を閉じた。少しもったいない気もしたが、大丈夫だ。すべてはテープの中に、収められている。明日になれば、気絶する程笑える。我慢。
間奏。
そっと右目を開けると、ファインダーの中の洋子が後ろ向きになって踊っている。ピストルの形になった右手の指先が、リズムに合わせて天を突つく。ポニーテールにした枝毛だらけの毛先が、上下に揺れている。
矢吹は息を吸いながら笑った。背中のチャックが銀色に光っている。王貞治のユニフォームを買った吉田と同じように、洋子も今日、あの服を買って来たのだろうか。どこで? あんな服、一体どこに売ってるんだ。そう考えて窒息しそうになった。我慢。もうすぐ間奏が終わりそうだ。
歌い出し三拍前で曲は再びうねる様に盛り上がり、洋子は歌の始まりに合わせてくるりと振り返った。反復横飛び。腕を振る。弾ける笑顔が、瞬きもせずカメラを見ている。曲はクライマックスを迎え、三回目のサビに入り、洋子の踊りは片手を体の前に大きく差し出して胸を反らせる動きに変わる。同じ動きを繰り返す内に、曲は終わりを迎え、ゆるやかにフェードアウトし、小さくなっていく伴奏の音に合わせて洋子も声量を下げていく。そんな事をしなくても事前に教えて貰えれば、アンプの方で音を絞ったのに。田中は最後の声を震わせながら海老反りになる洋子に苦笑した。

「ありがとうございます」
 再び両手でマイクを持ち、戯けた顔で小さく頭を下げた。満足気な笑顔にはうっすらと汗の膜が張り、温度の高い息が白く煙っている。矢吹は録画を止めようと赤いボタンに中指を伸ばした。田中はカセットを止めようと停止ボタンに指をかけた。その時。シンセドラム。二曲目のイントロが始まり、洋子が垂直に四十五センチ跳び上がった。
「アーユーレディー? イエー!」
金切り声の自問自答。腰を回して踊り出す洋子に矢吹と田中は呆然となり、吉田は次のイエーは自分も言った方が良いかどうか真剣に考えた。

好きな男子に告白出来ない女子高生の想いを歌いきった三十女が、息を切らして「もういいわ」と言った時には、真夜中十二時五分前。結局、洋子はカセットテープ片面分、六曲を歌い、放心した。持参のミネラルウォーターを飲み、「どう? よかった?」と、マイクを使って矢吹に呼び掛け、矢吹が頷くと嬉しそうに笑った。「じゃあ、着替えるね」
カメラの横を通り過ぎる時、女の汗の匂いがした。矢吹は更衣室に消える女の後ろ姿に、少しだけ勃起した。



「なっ、いいだろ、洋子。俺もうたまんねえよ」
「ちょっとぉ。何回言ったら分かるの馬鹿。ルナだって言ってんじゃん」
「ごめん、なっ、いいだろルナ」
「何それ。もう一回やり直してよ」
体育器具室。後ろ手にドアを閉めながらベルトの金具を外す吉田は、緊張に表情を強張らせ、三回目のNGを出した。
「どっちでもいいじゃねえか…」
その呟きは完全に聞こえていて、洋子は怒りに目を剥いた。
「どっちでもいいじゃないわよ馬鹿。あんたがちゃんとしないとみんなが迷惑するんだからね」
 矢吹は半ば呆れ顔で、ルナの抗議に合意した。どっちでもいいけど次は失敗しないでくれ。最初からこの調子じゃ朝になる。
「ルナ、ルナ、ルナ、ルナ、ルナ、ルナ、ルナルナルナルナルナルナルナルナ」
ぶつぶつと復唱しながら、吉田がドアの外に向かう。それを睨み付けながら後に続く洋子がドアを閉めるのを見て、矢吹はカメラのスタートボタンを押した。
「じゃあ行くよ。間違えないでね。ルナだよ。よーい。はい」
ドアが開き、押し込まれる様に洋子が入ってくる。体操マットの縁に足を取られてよろける洋子の腕を、指の足りない吉田の右手が、しっかりと握っている。
「なっ、い、い、い、いいだろ、ルニャ。俺、も、も、もうたまんにぇえよ」
「駄目っ。見つかったらどうするの」
「だ、大丈夫だよ。誰も来ないって」
吉田はちらりと矢吹の方を振り向き、カメラの赤いランプが消えていない事を確認した。ぎりぎりセーフで、芝居は続く。後ろ手にドアを閉め、閉めたその手でベルトを外しながら、右手で洋子を引き倒す。都合良く倒れ込んだ洋子の顔は、パンツを濡らして屹立する吉田の股間の前にあり、頭を掴まれ押し付けられた陰茎が、洋子の鼻を押し曲げる。
「駄目。人が来る」
「大丈夫だよ。もう誰もいねえよ。ほら。早くっ」
ペイズリーのパンツをずり下ろす。血管の浮き出た吉田の逸物は、ほぼ垂直に天井を指し、先端から零れた粘りのある滴が、涙の様に陰茎を伝う。
洋子は上出来と言える演技で周囲を確認し、観念した素振りで赤黒い逸物を含んだ。粘膜と唾液の嫌らしい音が器具室に響き、露天風呂に浸かった瞬間の年寄りの様な表情で虚空の一点を見ている吉田の口からは、吐息が音を立てて漏れている。粘液の音は徐々に激しくなり、そのスピードを追う様に、吉田の声も間隔を詰めて行く。それらが最大になった所で、二つの音は同調し、陰嚢が重力に逆らいゆっくりと迫り上がって行った。
「駄目だ。もう俺、我慢出来ねえ」
吉田はルナを押し倒し、口から放たれた陰茎の先が、臍の下に当たってパチンと音を立てる。
「嫌っ。こんなところで」
「大丈夫大丈夫大丈夫」
吉田の不器用な指が、リボンを解き、制服のリベットを引き外した。露わになった推定Dカップの乳房。ノーブラ。少し体を横にした洋子の、右の乳首が矢吹を、左の乳首が吉田を見た。矢吹は驚きながらも右の乳首にズームインし、吉田は反射的に左の乳首に吸い付いた。何でノーブラなんだ? 同じ疑問を抱えながら二人は自分の作業をこなし、二分後、同時に同じ事を考えた。
パンツは穿いてんのか?
吉田は乳首にしゃぶり付きながら、スカートを捲り上げた。矢吹はすかさずそこにパンし、吉田の欠けた指先を追う。黄色のシルク。滑らかな絹の感触の下に、ごわごわとした剛毛の存在を感じた。
下は履いている。
吉田は一気にそれを引きずり下ろし、少しだけ湿った毛むくじゃらの股間に顔を埋めた。喉の渇いた犬が盥の水を飲む様な、動物的な舌遣い。薄目でカメラを見ながら喘ぐ洋子の呼吸が、どんどん速くなって行く。唾液と愛液が混じった嫌らしい汁が、早くもマットに染みを作り、感じ始めた洋子が、自分の髪を掻き毟り出す。
「こらっ。お前ら何をやっているんだ」
絶妙のタイミングで扉が開いた。
「せ、先生!」
棒読みの台詞を言いながら振り返った吉田の前歯に、黒々とした陰毛が二本、挟まっている。洋子は、さっと制服の前を合わせ、乳首と陰部を隠した。
「あーあー。お前らっ」田中は堂に入った芝居で二人を交互に見やり「これで二人とも退学だな。」と唇を歪めて嗤う。矢吹は田中のリアルな芝居に感心した。
「野球部も当然、都大会には出場停止、だな」
「先生、それは。それだけは」
「駄目だ。野球部の部長が、あろう事か学内でこんな事を。見逃せんなぁ。私の責任問題にもなる」
「先生、それは。それだけは」
「何度言っても駄目だ。早速指導部長に報告しなくては」
「先生、それは。それだけは」
「まあ、それほどまでに言うなら黙っていてもいいんだが…」田中は蛇のような双眸を女の方に向けた。「分かるな」
観念した洋子がコクリと頷く顔を撮りながら、矢吹は田中の股間を見て驚いた。その形がはっきりと分かる程に、田中の逸物が怒張している。
「君もこのままでは退学だ。知っているか。女の中卒はつらいもんだぞ」
田中のリアルなアドリブに、洋子は何も言わず、俯いて下唇を噛んだ。摺り合わせた太股が、粘液で濡れている。
「そうか、いいのか。残念だな。こんな事で。人生台無しだな」
田中の意地の悪い台詞の後、沈黙した空間に四人の息遣いだけが響いた。カメラの液晶に表示されたカウンターが、音も無く進み、一秒間に三十枚のスピードで記録されて行く映像には、変化がない。洋子が動かない。やはり変態教師に抵抗があるのだろうか。最悪の場合、田中の出演は諦めて吉田との絡みを続けさせよう。焦れた矢吹が一旦カメラを止めようとしたその時、動いた。洋子が体を起こし、四つん這いで前進して行く。
卑猥に尻を動かし体をくねらせながら進む洋子が、田中の足元に辿り着き、ゆっくりと膝立ちになる。白衣の合わせを開く。黄色いマニキュアの指先でジッパーを抓み下ろし、ブリーフの間をまさぐって陰茎を引っ張り出した。吉田の巨根と比べても遜色の無い、黒光りした逸物は、挑むように血液を漲らせ、洋子の鼻先を指している。
「おお」
包まれた田中は堪らず呻き声を立てた。三十女の口腔の動きは、磯巾着を連想させた。府中のソープ嬢よりも数段上を行っている。田中は教え子の成長に、目を細めた。生意気だった少女が今、自分の支配下にある。手抜きの無い舌遣いが内申点を上げた。早乙女洋子が、牛乳を嫌いだった事を、ふと思い出した。牛のミルクが飲めない女が、男のミルクを体に浴びる。その事を想像した田中の逸物は、更に硬く、肥大化して行った。
独りになって何をしていいのか分からなくなった吉田は惚けたように、小刻みに動く洋子の後頭部と矢吹の顔を、交互に見ている。相手を奪われて百合の蕾のようにやや下を向いた陰茎を見て、矢吹は吹き出しそうになった。
(な め て)
 声を出さずに指示を出す。
(え)
(な め て)
次はその後に、舌を出して身振りで補足した。
(あ   わ かっ た)
吉田は嬉しそうに頷き、匍匐前進で洋子のスカートに潜り込む。すぐに淫猥な音が響き出し、頭にスカートを被った吉田の、百合が咲いた。

「ぷはー」
汗だくの吉田がスカートから顔を出し、息継ぎをしたタイミングで、矢吹は一旦、撮影をカットした。
「よしっ、みんな。そろそろ、アレやろう」
「アレってアレ?」
吉田が両手で筒を作り、《も》の形に開いた口の前で前後に振った。
「そう」
制服を着せたままの性交は、田中のアイディアだ。乳輪が半円ずつ見えるはだけ方で開いた制服。今風のミニではない、十年以上前の丈の長いスカート。その裾は膝上まで捲れ上がり、汗ばんだ太股が露わになっている。
像の中心に居る洋子を挟み込むように、二人の男が立った。
「よーい。はい」
洋子はまず、吉田の陰茎を舐め上げた。順番にやらないと公正さを欠くと思ったからだ。吉田、田中と来たら、次は吉田に決まっている。銜えてみて、味が違うと感じた。田中の物はゴムのようで、今口の中にある吉田の物は、鯣のような味がする。気のせいか。確かめようと逆を向くと、何時の間にかズボンと下着と白衣を脱いでいた田中が準備万端で順番を待っていた。
塩気の無い田中の性器は、やはりゴムのようだ。きっと男は中学生ぐらいから生臭くなり、中年になって一旦匂いが無くなり、年を取るとお爺ちゃんの匂い、加齢臭を出し始めるのだろうと想像した。
一昨日観たビデオを思い出し、洋子は交互に二つの陰茎を銜えた。片方を含んでいる間、もう片方を手で扱くのが恐らくは基本だ。そして、片方に割く時間を、少しずつ短くして行く。
右右右右右。左左左左左。右右右右。左左左左。右右右。左左左。右右。左左。右。左。
少しずつ両手を引き寄せ、ゴムと鯣を近付けて行く。これを歌に例えるならば、今はちょうどサビの前の、曲が盛り上がってくるあたりだ。
左右左右左右左右左右左右左右左右
今だ。
洋子は思い切り口を開いて、サビを歌った。舌を高速で動かし、二つの亀頭を同時に舐めた。
ララララララララララララララララ
瞳を閉じて、歌詞の無い歌を熱唱した。

紐で吊られた人形のように、腰を持ち上げて背伸びする田中の爪先を見て、矢吹は必死に笑いを堪えた。人間掃除機に吸い上げられる小男。白いポロシャツにグレーのチョッキ、雑巾色の靴下を履いた足は筋が切れそうな程ぴんと伸ばされている。マットレスの端には、几帳面に揃えられた偽革のスリッポンがある。
矢吹は人間掃除機に近付き、その吸引口を接写した。口の端から漏れる息が、レンズを少し曇らせる。高速で動く舌が二本の亀頭を叩く音は、近くで聞くとヘリコプターの羽音のようだ。気配を感じて薄く開いた洋子の瞳は焦点がずれていて、開いた瞳孔が穴のように見えた。

「やべえ。俺もう我慢出来ねえよ」
吉田は洋子の手首を掴み、股間に絡み付いた指を引き剥がした。インコースの危険球を避ける時と似た動きでヒョイと腰を引き、ユニフォーム姿の巨体を、猫背のままカメラに向ける。
「矢吹ぃ、悪りいけどもう入れちゃっていいかなぁ。このままだと出ちゃうよ。ホント」
茶色く汚れたソックスにアシックスのスパイク。毛深い脚の付け根にある陰茎が、花形満の予告ホームランと同じ、四十五度の角度で天を指している。
洋子を挟んで左側の脚は、漸く無理な爪先立ちの苦行から解放された。逆に若干前屈みになった田中が、激しく動くポニーテールの頭をそっと抱えながら、矢吹に向かって深く頷く。
「うん。分かった。でも吉田君、今、カメラ見ちゃったから、もう一回ちょっとだけさっきの体勢になって。そこから撮った方が後で編集し易いから」
「分かった」
 矢吹は、吉田と田中の顔がフレームから切れるサイズまで前進し、左手を挙げた。
「じゃあさっきの形になって。手で合図するから、吉田君は合図の後寝かせて、まず正常位ね。先生の方はお任せしますんで自由にやって下さい」
二人の男優は大きく頷いた。吉田は破裂しそうな股間をそっと差し出し、田中はまた少し背伸びをする。目の前で合わさった二本の逸物に、口を開いた洋子の顔が、生暖かい吐息と共に近付いてくる。
ララララララララララララララララ
液晶のカウンターが二十秒分回るのを待って、矢吹は左手を斜めに振り下ろした。
監督のサイン。
本番だ。
元球児はサッと腰を引き、女の肩を掴んで仰向けに寝かせた。スカートを捲り上げ、亀頭の先から滴るカウパー腺液を、雑菌だらけのマットレスで拭った。スタンスを決めてバットを握る。器具室の中。吹く筈の無い風が、ピタリと止んだ気がした。久し振りの打席。久し振りのセックス。バッターボックスのすぐ傍までカメラが近付いてきて、インパクトの瞬間を狙っている。待っている。期待している。期待されている。俺は必要とされている。吉田は、一点に狙いを定め、小指から順番に、グリップを握り直した。

元旦に見た時には、尻穴の周りまでびっしりと生えていた陰毛が、よく見ると刈り揃えられている。内股の付け根には、剃刀負けで出来た赤く小さな斑点があり、矢吹は(剃ったな…)と思った。モヒカンの鬘を被ったような陰部。その名の通り暗い陰になった部分にライトの光が当たり、濡れた黒毛が艶やかに光った。
見上げると、田中が絶妙な高さでライト脚のネジを固めていた。
密林の中に現れた、不気味な秘密基地の入口が、ゆっくりと蠕動している。吉田の操るモビルスーツが着陸体勢に入り、割れた湖に下りて行く。
「やべぇ…、ああ…、気持ち、いい…」
呟く吉田の顔を見て、矢吹は、盲目の高僧が念仏を唱える姿を削り出した木彫りの国宝を想像した。確か、日本史の教科書に、そんな写真があった気がする。
「ああ…、気持ち、いい…」
吉田の逸物は、舌になっていた。その味蕾で、久し振りにありついた大好物を、大事そうに舐め上げながら、味わっている。
「ああ…」
矢吹は結合部のクローズアップから、ゆっくりと後退して、カメラを引いた。何時の間にか洋子に添い寝する形で横になっていた田中が、制服の前を開いて左の乳首を吸っている。自分がアングルの中に入ったと気付いた田中は、江戸っ子が蕎麦を啜るような下品な音を立て始め、息が続かなくなると、今度は生暖かい息を細く長く吐きながら、高速で舌先を動かして、乳首を振るわせた。その動きに反応した洋子の口から声が漏れ、その声を自分の動きに因るものと勘違いした吉田が、少し腰の動きを速めた。
凄い映像だと思った。
高校野球のユニフォームを着た三十男は、少しでも結合時間を延ばそうと自分の舌を甘噛みしながら腰を振っている。その舌で寝ているセーラー服にポニーテールの三十女は、白衣を着た変態教師に乳首を吸われている。カメラを引いて初めて、洋子の右手がしっかりと田中の陰茎を握っている事に気が付いた。洋子にはもう、薄目を開けてカメラを見る余裕は無く、元旦の夜と同じように両手は自分の髪へ。乳首に飽きた田中が脇腹を舐め上げた瞬間から、その髪を掻き毟り始めた。体が酸素を必要とし、鼻の穴が一ミリ程拡がっている。矢吹はその穴にぐっと寄り込んだ。暗い穴の中で針金のような硬い鼻毛が微かに揺れている。矢吹の意図を察して、またライトの向きを変えようとする田中を片手で制して、矢吹は少しカメラを引いた。
始まる。
「はーひぃーはーひぃーはひぃーはひはひはひはひー」
息を吸い込みながら発声する独特の喘ぎ方。
「はひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひはひ」
ゴムで束ねた髪が解けて、頭皮からシャンプーの匂いがした。
一秒間に二往復半。吉田がまた、スピードを上げた。握力十五キロの非力で、田中が乳房を鷲掴みにする。元旦の夜とは較べものにならない激しさで身悶える洋子の姿を見て、矢吹は少し嫉妬した。吉田の背中側に回り込んで、結合部分を接写する。隙間から飛び出すように溢れる愛液が、嫌らしい音を立てながらマットレスに降り掛かっている。レンズが、濡れた。
「やばい。そろそろ。もう。俺。やばい。いっちゃいそうだよ」
垂れ下がっていた吉田の陰嚢が、今は迫り上がったまま降りて来ない。
「いいかな。いっても」
 そう言って、また舌を噛んだ吉田が充血した目で振り返る。
「待ってっ。アングル変えるから。手で合図したら顔か腹にかけてっ」
 尿道口から金玉が飛び出しそうな程の極限状態にある股間から大股で離れ、矢吹はカメラを引いた。田中は吉田が精液を掛け易いようにセーラー服の前を大きく開き、寿司を巻くようにスカートの裾を丸めて露出面積を拡げ、俊敏な足取りでフレームから外れた。
「どっち?」
「え?」
「どっちか決めてくれないと。あ、やばいよ。やばい」
「え?」
「顔? 腹?」
「じゃあ顔!」
愛液の付いたレンズを吹こうとポケットのハンカチを探って、二秒後に諦めた。吉田はもう、限界だ。
ポケットから抜いた左手を、上げて、振り下ろす。
頷いた吉田が、火の出るような勢いで、激しく腰を振り始める。
田中が固唾を呑み、瞬きしまいと刮目する。レンズに付いた愛液が、蛞蝓が這うように、垂れる。

その時。

分かった。

見えた。

遭難した大学生は、明日の午後十二時三十六分に、全員、遺体で見付かる。
傘回し芸人の片方。芸をしない方は、2002年の春に死ぬ。
「はひ、ひっ、ひ、ひぃっ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 洋子の絶叫が、コンクリートの器具室に響く。
「いくっ、いくっ、いくっ、いくよっ」
 吉田の陰茎が、痙攣を始める。
「待てっ!」
三人は同時に、カメラを、矢吹を見て固まった。
「やっぱダメだっ。外に出すなっ!」
不景気は深刻化し、銀行や証券会社が、潰れる。
テロリズム。
疫病。
「吉田くんっ! 外に出すなっ。そのまま。そのまま中に出せっ。産まれる子供は、メジャーリーガーになるぞっ!」
「え? 何? 何て言ったの?」
「いいからっ。そのまま中出ししろっ!」
田中の老後。年金制度は崩壊している。
「いいい、いいの? じゃあ出すよ。あ、あ…」
一億八千二百飛んで三匹の精子が一気に飛び出し、百二十三番目に出た一匹が百二十二匹を追い抜いて、洋子の卵子と結合した。それは、細胞分裂を繰り返し、後に吉田月男と名付けられ、来年の十一月十一日の夜七時三十八分に、帝王切開で生まれる。月男は身長百九十二センチの大男になり、甲子園を沸かせ、今現在は存在しないパリーグの球団、ユニクロカラーズで活躍。五年連続でホームラン王になり、年棒は二億を超えるが霊感商法に引っ掛かり、五億円を散財して世間の笑い者になる。しかし、フリーエージェントでニューヨークヤンキースに入団し、メジャーリーグのホームラン記録を塗り替えてからは、国民的な英雄となり、巨乳グラビアアイドルの妻との間に生まれた娘はアメリカのハイスクールでチアリーダーになり、学生フットボールリーグのナンバーワンクォーターバックとの間に生まれる混血の娘は、十六歳で世界のヒットチャートを塗り替えるトップシンガーになる。
洋子は六本木の再開発で出来る巨大なインテリジェントビルの住居棟、その最上階にある、当然バスとトイレが別々の、それどころか東京中が見渡せる大理石のバスルームで、泡まみれになって思う。
あの時、あれをやって、本当に良かった。
少し時間は掛かったが、テレビにも出られた。ワイドショーのコメンテーターになり見当外れな辛口批評で茶の間を沸かせ、全く売れなかったが企画物のCDも出した。スロージンのボトルを握ったまま、お気に入りのシステムキッチンで死んだ洋子の体を照らす月。その月は二百三年後に粉々に砕ける。
増え過ぎた人間。
燃える。
沈む。
泣き叫ぶ。
月の星屑が広がる宇宙。その隙間に浮かぶ、巨大なコロニー。電球の無い部屋は、眩しい程に明るい。天井が、床が、部屋自体が光る住居。流線形の、奇妙な家具。赤い、女の後ろ姿。体に密着した、赤い、ラバーのスーツを着ている。ソファに形の良い尻を沈め、サイドテーブルの上のコブラの鎌首に似た置き物に手を伸ばす。その頭を掴んで持ち上げると、収納されていた胴体の部分、太いコードのようなものが続いている。股を開いて鎌首の先を装着すると、それはまるで、悪魔の尻尾のように見える。女は横になり、唇を半開きにしたその顔には、ゴーグルを装着している。ジョイスティックの付いたリモコンを操作する女が、ゴーグルの中で見ている3D画面。白、黄色、黒のカラーチャートの中から白五十八パーセント、黄色二十九パーセント、黒十三パーセントを選択すると、全裸の男が次々と現れる。「SKIP」と女が呟く毎に、目紛しく画面は変わり、欲深い彼女の唇が「ENTER」と発音する間に、百人以上の男が現れては消えた。選ばれた男が、女の上に覆い被さる。悪魔の尻尾がくねくねと動き始める。雌の臭いが立ち篭めた白い部屋。新素材強化硝子の丸い窓に、カーテンは無い。円形に切り取られた宇宙。そこに、地球。錆色の地球が見える。
遠くに光る白い点が、物凄い速さでコロニーに近付いてくる。人型のロボット。背中に背負ったランドセル型のウラン発動機から、オレンジ色の炎を噴き出しながら着陸体制に入る。
あれは、
この形、
知っている。
そっくりだ、
矢吹は、DVカメラをグリップした手を、だらりと下げた。
洋子の膣から、月男になり損なった精子が垂れる。
信じられない未来がやって来る。
間違い無い、
あれは、
「ガンダム…」
(了)
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