文字数 1,446文字

 二月下旬の日本には春が、豹が歩くように忍び寄っていた。しかし長野県峰の原高原には豪雪が続いていた。まるで何かを守ろうとして、立ちはだかるかのように。

「おにごっこしよーぜー!」
 年の離れた弟が率いるクソガキ共は、私の了承を得ずにバタバタとロッジ内を走り回る。弟の保育園クラスの親同士で勝手に旅行を組まれ、長野の山奥まで連行されたのだ。

 ロッジ自体は悪くなかった。人間がくつろげる、およそ全てのものが揃っていた。暖炉、高く積まれた薪、観葉植物、卓球台、古びた漫画など。

 私が文句を言いながらここへ来たのは、東京にいたところで何も良いことはないと知っていたからだ。せいぜい梅を拝めるくらいだろう。私には休日に誘ってくれる友人がいなかった。心から打ち込める趣味もなかった。何も無かった。全てにうんざりしていたし、「スキーに来たよ!」とSNSへ投稿し自己肯定感を満たすゲームにも、うんざりしていた。

 私はガキ共から隠れるように図書室へ行った。そこには先客がいた。青年は黄色く変色しかけた漫画を、珍しい虫でも見るように眺めていた。私と同じ、12歳くらいだろう。クラスの男子より大人びて見えた。

「こんばんは」
 うろたえる私に、彼は微笑んだ。育ちの良さがうかがえる、きれいな笑みだった。
「ごめんね、うちの弟たちがうるさくて」
 開口一番謝ってしまう癖を治そうとしていたことを思い出し、小さくなった語尾は二人の間に消えていった。
「良いよ。むしろ騒がしいくらいが。元気が一番だからね」
 透き通るように白い肌、黒い髪、切れ目。美少女のような尊さを、彼は持ち合わせていた。

「ねえ、一緒に鬼ごっこしない?」
 いくつかの雑談をしながら図書室を出ると、彼は卓球台のまわりで走り回る弟たちに提案した。弟らは歓声を上げ、私も加わる羽目になった。

「はあ、暑い……あいつら、意外と速いんだから……」
 火照った身体を冷ますために、外に出る。昼の間は忌々しく感じていた吹雪とマイナス五度の凍てつく寒さが、今は心地良い。
「「気持ち良い……」」
 同じ言葉を発した主を見ようと横を見る。私は彼へ言った。
「ここ、よく来るの?」
 鬼ごっこを終えた変なテンションで、上ずった声が出てしまう。
「うん、この辺りに住んでるんだ」
 彼の声は吹雪の中に消えた。どこか寂しさを残した声だった。
「雪は良いよ。人生で出会う、うんざりする全てのものを忘れさせてくれる」
 私は一分おきに問題を起こす、年の離れた弟を思い出した。卸しがたいクソガキのくせに両親の愛情を一心に受ける、三歳児を。

 他にもうんざりするものは存在する。友人、教師、ピアノの先生。私は誰も好きじゃなかった。本来好きになるべき人間を愛せないくせに、心は愛を求めて吹雪のように叫んでいた。

 彼は玄関から足を進め、吹雪のように中を歩いていこうとした。
 私は彼に着いていこうとして-「タッチ!」
 クソガキがはあはあと息を切らせて、ロッジの中から飛び出してきた。

「おねーちゃん、さがしたよ!」
「見て分かんない?あの子と話してたの」
 弟は大きな目を見開いた。私が指さした先に、彼の姿はなかった。
「……行こっか」
「ねーねー、雪の下には何があるの?」
 泉のように澄んだ目で、弟は私を見上げた。
「わかんないな。解けてみないと」
 知らない方が良いこともあるよね、という言葉は飲み込んだ。弟の小さな手を握った。やわらかい生のぬくもりが、伝わって来た。それは冬の終わり、あたたかな春の日を思わせる、陽だまりのようだった。
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