さらば、ナオミ・キャンベル

文字数 6,577文字

 別にこんな生き方をしてるからって悩みがないとか、ファッション誌の編集部でスタイリストをしているとか、素敵な女友達とミートアップしているなんてことはない。普段の私は、弱小メーカーの営業職だし、SNSは虚栄ばっかりで、家は木造の二十五平米賃貸。だけど、別にそれでも不幸だなんて思ってなかったのよ。
「え、待って、今からあんたのアンハッピートーク聞かされるの? 正気? まだ日付も変わってないのよ? 酔ってないのよ私?」
 新宿二丁目近くのファミレスで、山田がわめく。女装をしていない日でも、この人はホゲていて、きちんと社会生活を送れているのか不安だ。私は女装してるから何の問題もない。
「じゃあ、とっととそのドリア食べ終わりなさいよ! 早く酒が飲みたいのよ私は」
「待って、最近よく噛んで食べることにハマってるの。ちょっと待って」
 山田の唇の上、少し残った髭の上を、お米粒が飾る。ドリアは、私の得意料理。大輔はよく私のドリアを食べたいと言っては、それを口実にするみたいに私の家に泊まりに来ていた。私は、付き合っていると思ってたのにな。

   ○

 セクシャリティはアイデンティティに大きな影響を及ぼしていると思う。物心ついた時から私はゲイで、教科書通りにセーラームーンが好きだったし、NANAを読んで泣いたし、あいのりを毎週録画していた。
 中学二年生のころ、その日は祝日で、ママは出かけていた。一人っ子だった私は、朝食にトーストを食べながら、隣の部屋から聞こえるパパのいびきを聞いていた。
 パパが好きだった。それは家族としてのLOVEではなく、彼の裸にいつだって触れたかったし、その腕に抱かれたくてしょうがなかった。
 トーストを食べ終わって、窓の外の曇り空を見つめながら、私は決意をした。それは、今までずっと練り続けていた、妄想にも近い計画。ママがいない、今がチャンスだった。そっと両親の寝室のドアを開き、寝ているパパに近づく。上下する身体や、中年男性特有の体臭、窓からわずかに差し込む光に照らされながらパパの上を舞うほこりまでも、全部が愛しくて泣きたくなった。
 ベッドの横のドレッサーに、ママの口紅が置かれていた。勇者の剣のように、神々しく突き立てられ、金のメッキを輝かせている。これは免罪符。女性の象徴。口紅にゆっくりと手を伸ばし、自分の唇にちょこんと色を乗せる。パパは起きない。真っ赤なリップは鎧に代わり、私はそっとパパの布団の中に手を入れ、服の上から朝勃ちしたペニスに触れた。
 あの日、私の人生の方向性は決まったんだ。

   ○

 ダイバーシティ・新宿であっても、一般の居酒屋に女装したゲイが座っていると好奇の目で見られてしまうことは、ずっと昔に学習済みだ。しかも私の女装は、びみょ女装。たぶん誰がどこからどう見たって女装だし、なんならちょっとファッションが昔だ。しょうがない、オカマの憧れる女たちは、みんな思春期の偶像なんだから。
 結局いつものように二丁目に向かったのは、午後十一時。半地下にある行きつけのゲイバーだった。
「で? 大輔クンとついに別れたわけ?」
「別れたっていうか、そもそも付き合ってたのかしら。まあ、きっともう会うこともないわね」
 大好きな友達である山田相手に、本当のことを言うのはためらわれた。フェイクを織り交ぜながら、大輔がいかにひどいクソ野郎だったのか、どんなに私が傷つけられ、世界一不幸な女になったのかを語り終わったころに、終電はなくなっていた。ついでに山田の自我もなくなっていた。この人にクライナー飲ませたの誰~。
 店を出たのは、午前二時。タクシーに山田を押し込んで見送ると、一人きりになった。二丁目の仲通りでひとりぼっちのオカマ。
「助けてぇ」
 小さい声でつぶやいてみたら、すれ違った平成生まれたちに笑われた。死にたい。

 新宿から歩いて帰れないこともできなくはない距離に自宅があるので、徒歩で帰ることにする。春先とはいえ、夜の風はまだ肌に冷たい。ストッキングを履いてくればよかったけれど、この前靴磨きで使ってしまった。アマチュア女装の私は、ストッキングを二枚しか持っていない。
 そんな、課金額の低い女装な私だけど、歩き方にだけは自信があった。女装に身を包み、US9サイズのピンヒールを履けば、どこだってランウェイだった。コツコツ。女性だけが奏でることを許されるビート。コツコツ。私はこの音を、そこら辺の女よりもはるかにきれいに響かせられる。腰は振りすぎず、左右の踏み込む力は均等に、骨盤を意識しながら太ももを引き上げる。オレンジ色の街頭に照らされながら、少し酔った頭でコツコツ音とともに歩くのは、なかなかいい気分。昔、そう初めて口紅を塗ったころ、憧れてたのよ、ナオミ・キャンベルに。
 やがて交通量も減ると、暗闇に比例して孤独感が増してくる。スカートから吹き込む風が、トランクスの隙間をぬって股間を包む。性器の存在を実感すると、ああ私は男なんだった愕然とすると同時に私の中からナオミ・キャンベルが消えていく。
 大輔は、私をいつでもナオミ・キャンベルでいさせてくれる、素敵な男だった。それは、今だってそれは変わらない印象。一度だって私の女装を蔑まなかったし、ウィッグにフルメイク姿の私を抱いてくれた。彼の目の前では、ナオミでいられた。だから、彼なしでは生きていけないと思っていた。
 近道のため、公園に入る。じめっとした空気と、遠くで聞こえるカエルの鳴き声に後悔しながら、足早に通過しようとしたその時、滑り台の階段に人影が見えた。
「やば……」
 裸の上半身、大きな筋肉の上に程よい脂肪がのっていて、とてもエッチ。でも髪が短くないし、パンツとスニーカーもダサいし、なによりゆっくり私を見上げたその目線でわかる。ノンケだ。でも、めちゃくちゃタイプ。イケメンなゴリラ、みたいな顔もすごく好き。しかしながら、こんな時間にこんなところに裸でいる若い男は、確実にヤバいヤツ。
「……今何時」
「えっ? え、そうねだいたいね」
 まさか声をかけられるとは思わなくて、思わず口からサザンが出た。
「えっと、三時ちょっと前」
「マジか。ここどこ?」
「どこって……あの、酔ってるんですか?」
「うん、まあ、たぶん……寒っ」
 裸だからね。何か布っぽいものを分けてあげようと思ったけれど、あいにくなにもない。
「あの、そっちにコンビニありますけど……」
「財布ないし。ねえ、おねーさん、ちょっとお金貸してくれない?」
「え?」
 おねーさん? うそ、バレてない。女装だとバレてない?
 急に、脳の中心がピカッと光った。そして、胸の早打ちが始まる。
「……行く場所もお金もないなら、とりあえずうちに来ます?」
 信じられない。私すごいこと言ってない? あー、こうやって人って殺されるのよ。今朝未明、東京都練馬区に住む三十二歳会社員の男性が、女装姿のまま自宅で遺体となって発見されました。親が泣くわね。
「……いいの?」
「何もなくていいなら、どうぞ。シャワーくらい浴びれるけど」
 男を見下ろしながら、うっすらと笑う。あれ、私ちょっと今いい女っぽいよね?
 普段なら、絶対にこんなことしない。なんなら、ワンナイトラブだってしない主義。素性も知れない男を拾って連れて帰るなんて、天変地異だ。
 別にこの男とどうこうなんて一ミリだって考えてない。ノンケだし。ただ、何も知らない、赤の他人と過ごすのも、今の私に必要な時間のような気がした。いろいろ忘れたいこんな夜を一人でやり過ごすのに、大輔がいた記憶はあまりにも鮮やかすぎる。
 
   ○

 大輔は、大学の助教をやっていて、コミュニティ福祉だとか何とかの研究をしていた。難しい部分はわからないし、大輔も仕事の話はあまり私にしてこなかった。
 二週に一回くらい会う関係。デートして、うちに泊まって、普通にイチャイチャしてエッチする。会えない日はLINEを送りあう。そんなのが一年以上続いていた。
 完璧な彼氏だったし、いろんな人にそう言ってのろけていた。見た目も好きだった。まっすぐな視線で愛を伝え、小さなわがままにも付き合ってくれた。私の話を、きちんと興味を持って聞いてくれて、別れ際に必ずキスしてくれるのも好きだった。こんな、びみょ女装の私でも愛してもらえるなんて奇跡のようで、ディズニー映画のプリンセスになった気分だった。
 でもね、ビビデバビデブーは虚構だったの。

   ○

「ごめんなさいね、狭い家だけど」
 ドアを開けて、スリッパを並べる。歩きながら聞いた話だと、彼の名前はコウタといって、現在無職。話してみると、コウタはそんなに変な感じの人ではなかった。おそらく、人への関心があまりないだけかもしれない。話し方に気遣いがない分、嘘もないように思えた。
「確かに狭いね」
「まあそうね、立地だけで選んでいるから」
 話しながら、部屋の中があまりに男性すぎるのではないかと、不安になった。彼の中の私はまだ女性だ。
「シャワー浴びる?」
「うーん、いいかな。なんか、下心あるっぽい感じになっちゃうし……おとなしく寝るので場所だけ貸してください」
「じゃあ、お布団敷くね」
 リビングに入ると、彼はフローリングに腰を下ろした。蛍光灯の下で見ると、どうしたってコウタの上裸を見てしまいそうになる。ちょっと毛深いのに、乳首がピンクなのもかわいい。こんなラッキースケベなことってある? いや、だめだめ。ムラムラ心を収めて、さもたまたま持っていたかのような顔で、メンズのティーシャツとパーカーを渡した。
「えっと、何か食べる? 簡単なものなら作るけど」
「……いいの?」
「うん、私も食べようかな。パスタでいい?」
「なんでもいい」
 キッチン、といってもワンルームなので同じ部屋の中なんだけど、まあコンロの前に立って、可能な限り手を抜いてパスタを作る。
 コウタは手持ち無沙汰な感じだったけれど、テレビをつけてあげたらおとなしくテレフォンショッピングを見始めた。
「ねえ、いやなら答えなくていいけど、なんで裸であんな所にいたの?」
 別に気にもしてないみたいな口調で聞くと、コウタは私をゆっくり見てから、またテレビに視線を戻した。本当に答えない気みたい。
 いろいろなものをトマト缶で炒めたパスタと、ただキューブコンソメを溶かしただけの野菜スープをコウタに差し出す。
「すごい、料理得意なんだな、おねーさん。いただきます」
 思っていたよりもきれいなフォークさばきで、彼はパスタを食べた。おいしいとは一言も言わなかったけれど、なんとなくそう思ってくれてるのは表情でわかった。食べ終わると、コウタはデニムを脱ぎ、すぐに布団に横になった。女装がバレるのも嫌なので、肌リスクを承知でメイクをしたまま電気を消し、ベッドに入り込んだ。
「俺さ……」
 電気を消してしばらくして、コウタがボソッと喋った。私に話しかけているというよりは、声をシャボン玉にして、空中に飛ばしているみたいだった。
「俺さ、石巻から出てきたんだ。今朝、列車で。上野駅までは何とか来れたけど、そこからは大変でさ……都会は、怖いところなんだ」
 列車、という単語に、よくわからないけれど東北の香りや、彼が本来持っている素朴さのようなものが感じられた。偏見かも。
「そうだったんだ……」
「うん……そういえば、おねーさん、名前は?」
 あれ? 今の話、もう終わり? なんで滑り台に酔って座ってたのか、全く答えになってないけど。まあ、でもいっか。もう四時過ぎてるし。
「私は、ナオミ」
 いつもの源氏名をとっさに出す。
「ナオミね。おやすみ、ナオミ」
 そう言って三秒して、コウタは寝息を立て始めた。のび太かっ。

   ○

 別に大輔の浮気なんて疑ったことはなかった。あの時、確かに私は、大輔がシャワーを浴びている最中に彼のトートバッグの中を覗き見したけど、本当にただ、端から見えていた紙の束が気になったから。今思えば、あれは女の勘だったのかもしれない。
 紙の束には、びっしりと文字が並んでいた。タイトルらしきものを見たとたん、身体中がバクバクと波打ち、血管が震え出した。
『解離性同一性障害と性同一性障害の相関関係の定点観測(ナオミ/省吾)』
 省吾は私の本当の名前。私は、彼の研究の対象だった。彼氏でも彼女でも省吾でも、ましてやナオミでもない。モルモットであり対象Aでしかなかった。
 これが、あの恋の終わり。

   ○

 よく眠ることができなかった。感傷的になっていたし、コウタのいびきがうるさいし。
 カーテンの隙間、白んできた空がまぶしい。月は、太陽のためにその姿を徐々に薄くし、存在を消していく。
 枕が合わないのか、コウタは何度も寝返りを打っていた。大きく太ももを動かすと、布団がはだけて、ボクサーパンツ一枚の股間が露になった。朝勃ちなのか、大きくいきりたち、時折ビクンと跳ね上がる。
 起こさないよう、そっとベッドから起き上がった。コウタを見つめながら、ベッド脇のドレッサーから口紅を手にする。そっと、唇にコーラルピンクを乗せた。私はナオミ。
 準備が整うと、ゆっくりと腕をコウタの下半身に伸ばす。指先で、その亀頭を撫でたい。起きないように、そっと。
 コウタの顔を見る。その表情はコウタなのに、瞬きをするたびに大輔の顔がちらつく。なにこれ? 思わず、股間に伸ばした腕をひっこめた。
 大輔、ナオミと恋愛シミュレーションに勤しんだ、大輔。私、色々調べたけど、どう考えても解離性なんとかじゃないよ。ってゆーかトランスジェンダーでもないし。あ、だからか。あなたの求めているものじゃなかった私は、もう愛するふりすらしてもらえなかったんだ。本当に、信じていたのに、私。ひどいよ。あなたに出会えて、人生の運を全部使ったと思っていたのよ。本当に愛していて、男なのに男が好きな自分を受け入れられなくて、血のつながりが憎くて、あの頃、いつも自分で自分を殺していたのよ、パパ。わかる?
 頬を伝う冷たさに、自分が泣いていることに気づく。あーあ。なんて惨めなんだろう私は。人差し指で涙をぬぐい、そのまま唇に持っていく。私、本当はピンクなんて好きじゃない。緑が好き。こんな色、全部落ちればいいのに。そう願いながら、涙のしずくで唇をこする。ああ、水分が、涙が足りなくて全然リップが落ちない。

 いつの間にかまた寝ていて、起きたらコウタの姿はなかった。布団は整然と畳まれ、テーブルの上には「お世話になりました」という、汚い字の書置きがあった。

   ○

 辛くても時間は流れて、いっそうつ病にでもなりたかったけれど、私の神経は図太かった。あと体重もなんか増えた。
 今日も、生きるためにお金を稼ぐ。営業先で、特別魅力的でもなんでもないサービスのプロモーションをして、売れて、よかったと思いながらもちょっと空しい気持ちで会社に戻る。
 大手町。このビル街が好き。計画され、日本の建築技術を結集して作られた、ちょっと偽物くさい景色。ここには女装の私じゃなくて、今みたいなスーツ姿の私が似合う。
「……ナオミ?」
 男の私にかけられる、美しい女性モデルと同じ名前。ここでその名前を呼ぶ人はいないのに。
「やっぱりナオミだ」
 もう会うこともないと思ってたし、特に会いたいわけでもなかった。でも、元気そうでよかった。今日は服を着ているのね。
「男の人だったんだね、ナオミ。でも、歩き方ですぐにわかったよ。きれいな歩き方だから」
 コウタが、八重歯を見せて微笑む。鼻の奥がツンとする。無性に泣きたくなってくる。
「待って、私の名前、ナオミじゃないの」
 コウタは、別段驚いてもない風に、へえ、と生返事をした。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「省吾。私の名前は、省吾っていうの」
 コツコツ。誰かのヒールの小気味よい音が聞こえて、すぐに大手町の喧騒に消えていった。さらば、私のナオミ・キャンベル。
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