家属教

文字数 1,891文字

「ここに住んでくれる人は、みーんな家族なの」
 初夏という言葉では片づかないくらい、じっとりと汗ばむ陽気だった。環境問題なんてポロシャツ着て仕事してるやつらが考えればいいや、と思っていたぼくだけど、この日はさすがに温暖化を意識せざるを得なかった。五月なのに肌を焼かれる感覚がある。じんわりと確実に、死へ向かっていく錯覚がある。
 だから、大家さんに「麦茶でもどう?」と朗らかに声をかけられたとき、ついつい誘いに乗ってしまった。安普請のアパートの一階は丸々大家さんの家で、縁側に並んで座る。雑草の生い茂った庭をぼやく大家さんを無視して、ぼくはひたすら喉の渇きを潤した。ここに入居してから、錆のにおいがする水道水しか飲んでいない。ぬるめの麦茶でも、久しぶりの味付きの液体に舌が喜んでいる。
 けれど、もちろん大家さんとぼくは家族じゃないし、ここの住人だって絶対に家族じゃない。家族のすばらしさについて滔々と語る合間に、大家さんはしきりに雑草の繁殖力について愚痴をはさむ。
 ぬるい麦茶一杯の報酬にしては、雑草たちの背は高すぎた。おまけにぼくは無職だ。麦茶よりもコーヒーやビールを買う金のほうが欲しいわけで、無償の愛ってやつには無性に腹が立つ。ボランティア精神にあふれている人が、世の中には多すぎる。スポーツの祭典でさえ、無報酬の手伝いで成立してしまうのだ。まあ、今や開催されるかはあやしいところなのだけど。
「本当はね、ここに住んでくれる人だけじゃないの。あっちの国もそっちの国も、みーんな家族なの」
 二杯目を要求するか、草むしりの必要性をほのめかされるか。その攻防ばかりに気を取られていたのだが、メインの家族のすばらしさについてのほうがどうもきな臭い。いくら雑草が鬱陶しいからって、あまりに語りすぎじゃないか?
 大家さんの話は壮大で理想的で、つまりは夢物語だった。言葉の端々から察するに、どうも大家さんは家属教の熱心な信者らしい。ぼくは内心舌打ちをした。よりによって家属教。人類みな家族を掲げて押しつけてくる、非常に厄介な宗教だ。麦茶一杯で勧誘されるとは、ずいぶん安い信念だ、とぼくはため息を漏らした。
「二号室の学生さんは四国の人。三号室の画家さんは北陸の人。四号室の哲学者さんは北海道の人。四号室のみゅーじしゃんさんは九州の人……」
 慣れない横文字に大家さんは舌足らずだ。いや、それよりも驚いた。そして胸の内に抑えきれない嫌悪感が渦巻いた。無意識に大家さんとの距離を取る。尻の半分が縁側からはみ出る。体中に染みこんだ麦茶をしぼりきってしまいたくなる。
「……そんなに外国人を住まわせてるんですか」
 言葉にするのも抵抗がある。大家さんは初めてぼくに視線を寄越した。困ったような、泣きだしそうな表情。吐き気がした。道理で破格の家賃だったわけだ。つい飛びついた自分が情けなかった。懐事情はそのまま人の余裕につながる。ぼくには選ぶ暇など一切なかったのだ。
「外国人なんかじゃない。みーんな、家族なの」
 家属教は頭のネジがゆるんでいる。かつては一つの国だったことくらい、誰でも知っている。しかし、そこから独立分断されていった経緯こそが重要なのだ。
「外国人をこんなに自由に住まわせてたら、疫病が流行りますよ」
 国が細分化されたのは理由がある。未知なる疫病が大流行したとき、愚かな外国人は自分本位に往来し、あちこちにウイルスを蔓延させたのだ。シャットダウンするには、もっと外国人の自由を規制するしかない。
 ならば、ここを守るために国となろう。
 あちこちが外国人を敵視して、昨日まで気軽に行楽していた土地が遠い国となった。人はちっぽけで、それこそ自分と自分の本当の家族程度しか目が行き届かない。小さくまとまって、外的要因を排除する以外に合理的な生存方法などないのだ。
 その結果、ぼくは家族を失った。もうあの人たちは外国人なのだ。遠い世界の人たちなのだ。
 だから、目の前の胡散臭い宗教信者なんて、もちろんぼくの家族なんかじゃあない。
「麦茶、もう一杯くれませんか」
 脳が溶けそうになるほど、日差しはきつくなっていた。先ほどの麦茶はもう蒸発してしまったに違いない。喉の渇きが止まらない。
 家属教信者の麦茶なんて。理性がどこかで叫んでいるのが聞こえる。けれど、本能には抗えない。今日は、本当に暑い。海も山も見えないこの国は、どうかしてしまうほど本当に暑い。
「草むしりしてくれたらね」
 汗一つかいていない大家さんは、すました顔でこう言った。火照った脳が、本当の家族の面影をそこに重ねる。
 今年の夏は、本当に暑くなりそうだ。
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