第1話

文字数 1,996文字

 ここのところ残業続きで、私はへとへとに疲れていた。その日も、昼ごろに残業となりそうな雰囲気が漂いだし、実際にそうなった。
 確かに繁忙期ではあるのだけれど、繁忙期と言えば、当たり前のようにサービス残業が許されるものではない。だいたい繁忙期ならそもそも、割増で残業代を出すのが普通の会社なのではないのか。
 しかし、ブラック企業以外の何ものでもないこの会社は、当然のことのように繁忙期のサービス残業を強要し、おまけに最近では、繁忙期が一年のうちの一時期というのではなくて、だんだんと頻繁に訪れるようになっている。そのせいで、社員が櫛の歯が欠けるようにやめていく。するとまた繁忙期が増える。悪循環だ。
 午後十一時を過ぎると、社内は守衛さんを除いて私一人になった。なぜそれが分かったのかと言うと、三階を見回りにきた守衛さんが、暗い廊下をトイレへと向かう私の顔に懐中電灯の光を当てながら、こう言ったからだ。
 「もうあんた一人だよ。毎日精が出るね」
 私は、屈託のない守衛さんの破顔に苦笑いを返した。
 トイレの電気をつけぬまま天井を見上げ、深いため息をついて、小便器に用を足した。それから電気をつけ、洗面所で入念に手を洗い、ついでにざぶざぶと洗顔した。台に両手をつき、鏡に映った自分を見つめる。濡れそぼった野良犬のような、ひどい顔だった。
 「クソ会社め、いつかゼッテー訴えてやる」
 私はそうつぶやきながら、今日はハンカチを忘れてきていたことを思い出し、シャツの袖で顔をぬぐった。しかし袖は、ごわごわしている上に吸湿性が悪く、十分ぬぐい切れない。私はチェッと舌打ちし、濡れたままトイレを出た。
そこに立っているのがペンギンだったことに、私はもっと驚いてもいいはずだった。しかし、自分でも意外なほど冷静に受け止めていた。驚愕が度を超すと、人の心は逆に、凪の状態に陥るのかもしれない。
 ペンギンは暗い通路の、非常口を示す緑色の淡い光に照らし出されていた。陰影が色濃く、輪郭がぼやけていたけれど、それはペンギン以外の何ものでもなかった。ひょっとしたら人形かも、誰かかがいたずらで置いたのかもしれない。私はそう考え、少しだけ近づいてみると、ペンギンは少しだけ後ずさった。人形なんかじゃないのだ。
 「やあ」
 と私は言い、軽く右手を上げた。それから微笑みかけた。怖がらせてはいけない。度を越した驚愕はいつの間にか、私という人間には分不相応な慈しみの心に変わっていた。なんとかこのペンギンと、仲良くなりたいと思っていた。何ともいえぬ愛くるしさに包まれたその外見が、いろいろな嫌なことを忘れさせてくれる不思議なオーラを放っていたからにちがいない。
 「どうも」
 と、ペンギンは言わなかったけれど、その短い手が、少しだけ持ち上がった気がした。一応、受け入れられたみたいだ。こっちに近づいてくる。ペンギンのペンギンによるペンギンのための、あの足取りで。
 ペンギンは前を通り過ぎるとき、横目でちらりと私を見た。私はそれを「ついてきな」と言っているものと受け取り、指示に従う。エレベーターに突き当たった。乗ろうとしているのだろうか。しかし、ボタンはけっこう高い位置にあり、あの手じゃ届きそうにない。くちばしを使っても無理だろう。
 するとペンギンは前かがみになり、両手とおしりをブルブルと振るわせた。何かに向かって力を込めるみたいに。その何かがボタンであることはすぐに分かった。上向きの矢印が点灯し、「チーン」という音とともに扉が開いたから。ペンギンは念力でエレベーターを操作することができるらしい。
 エレベーターが屋上に到着すると、そこに守衛さんがいた。しなりの利きそうな、大きなムチを手にしている。ペンギンはチョコチョコ進み、他のペンギンの列に加わった。
 眠らない東京の街の高層ビル群が煌々と輝いている。ここはしがない雑居ビルの、さびれた屋上ではあるけれど、これから偉大な何かが行われようとする物々しい雰囲気が感じられる。だってこんなにも、ペンギンが整然と並んでいるのだ。
 守衛さんに、私は見えていないようだった。彼が一度ムチを打つと、劣化の著しいコンクリート壁から砂塵が舞い上がった。
 「さあ始めるんだ」
 と守衛さんが言い、またムチを打つと、ペンギンたち全員が前かがみになって、両手とおしりをブルブルと振るわせた。そう。さっきのペンギンがエレベーターの前でしたのと同じように。
 「この世界ではなあ」
 守衛さんがさっきより力を込めて言うと、一瞬ためをつくり、フィリップ・マーロウの次の台詞を一気に吐き出した。
 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はないー」
 絶叫が響く中、ペンギンたちはブルブルをより小刻みにした。休憩しながら、何度か繰り返すうち、夜のしじまの中で、コンクリートジャングルが少しだけ浮いた。(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み