ヒゲ泥棒

文字数 1,312文字

あれは僕が中学生の頃だったと思う。
ある事件が世間を騒がせた。
言わずと知れた「ヒゲ泥棒事件」である。

連日ニュースで報道されたその事件は僕のいる町で起きた。
当然子供の耳にも入り、学校でも知らない子はいないくらいに有名だった。
大人たちは「そんな卑猥な事件を子供に聞かせるわけにはいかない」と躍起になっていたがその甲斐もなく、町内ではヒゲドロという愛称で親しまれていた。
それでも大人たちは暫くの間、チャンネルを変えたり、食事中にそんな話はやめなさいと注意していたが、とうとう町内掲示板や電柱に指名手配の似顔絵と盗まれた髭の似ヒゲ絵が貼り出されたため誤魔化しきれなくなり、徐々に注意する声も聞かれなくなっていった。

ヒゲ泥棒は僕らにとって、特に男子中学生にとっては禁断の魅力があったが、公に「ヒゲが好き」と叫ぼうものなら向こう1年間は「アイツは髭が好きなやつだ」と後ろ指を指される生活が待っている。
まるでそれがアブノーマルであるかのように。
そして、雑誌の後ろのグラビアヒゲドルのページを切り取って集めているだとか、毎晩ヒゲでヌイていると噂に尾びれ背びれが付き噂が独り歩きしてしまえば、安心して学校に行けなくなってしまう。
しかし、本音の部分ではみんなヒゲが好きだったし、みんなそうしていた。
時効だから告白すると、かくいう僕も父の書斎からシェービングクリームを拝借して、ありもしないヒゲに妄想を膨らませながら顔に塗ったものである。
思春期の男子なんてそんなものだ。

だから掲示板に似ヒゲ絵が貼り出されたときには、大人はガックリと肩を落としたし、女子はワーキャー言って指の間から見ていたし、男子中学生はポケット越しに股間を抑えた。

盗まれたのは大手企業の社長が蓄えていた立派なヒゲだった。
長さ、ツヤ、クルリと弧を描いた妖艶な形。
これも今だから告白すると、僕は電柱に貼ってあった1枚を破りとって持ち帰ったことがある。
あの時は興奮したものだった。
しかし、本当にみんなが注目していたのは盗まれたヒゲではなく、容疑者が蓄えていたヒゲだった。
決して主張しすぎず、かといって存在感がないわけではない。
そばにいることがあたりまえであるかのような安心感、それでも失われない出会ったときの新鮮感、一言で言うなら「家庭的」なヒゲだった。
なんと、容疑者はヒゲ持ちでありながらヒゲを泥棒していたのである。


「そんな……欲張りな。」


隣を歩く友人の竹野内がそう呟いたのを今でも覚えている。

ただ、子供たちのそんな興奮とは裏腹に捜査は続けられ、起きた事件の凶悪さの割に容疑者は早々に捕まった。

『恐怖のヒゲ泥棒、ついに逮捕』

朝食のとき、緊急生放送として報道されたその映像は衝撃的なものだった。
犯人が連行されていく姿、その顔にはあのヒゲがなかったのだ。
剃ったとか、脱毛したとかそんなレベルの話ではなく、確かにあったはずの髭が、あの家庭的なヒゲがなくなっていた。
そして代わりに、盗まれたクルリと弧を描くような妖艶なヒゲが、そこにはあった。


「付けヒゲだったのかよ!」


僕は誰もいないリビングでテレビに向かって叫んでいた。
まだニキビ面の中学生が、ヒゲの本当の魅力に気付くのはもう少し先のことだ。
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