2020年6月26日

文字数 974文字

いつもなら、9時ちょうどに在宅勤務を始める。

だが、今日はどうしても朝イチで仕上げなければならない業務があり、

8時半ごろにパソコンのスイッチを入れた。

キーボード、テレビ、メッセージの着信、すぐそばで母が新聞を読む音。

我が家の朝のノイズに混じって、1本の電話が鳴った。

介護ヘルパーさんからである。

「おじいさまが、廊下で倒れられています。先ほど救急車を呼びました」

仕事もそこそこに、急いで現場へと向かう。

担架に乗せられたのは、わたしの知っている祖父ではなかった。

青白く、何かと闘っているような顔だった。



脳出血だった。

血管が切れたのは、転ぶ前か後か。

恐らく、脳の血管が切れたことにより、倒れてしまったようだ。

意識を失ったせいで体をかばえず、祖父の肩や顔には大きなあざが浮き上がっていた。



それは闘いのしるし。わたしには、そう見えた。

祖父は若いころ、国鉄で運転手として働いていた。

だからだろうか、わたしは子どものころから、責任感が強く、真面目な印象を持っていた。

弱々しげに病室のベッドに横たわる祖父は、ひとり、闘っていた。

コロナのせいで、個室であっても、家族であっても、2人ずつしかフロアに入れない。

検温の紙を握り締め、エレベーターホールで待ちながら、
伯父さん伯母さんと何度交代したことだろう。

祖父がうっすらとでも思い描いていた最期は、決してこんなはずじゃなかったと思う。



懸命の処置もむなしく、祖父はその日が終わる直前に亡くなった。

しかし、コロナが邪魔をして、お見送りさえ満足にしてあげられない。

寝たきりで介護施設に入所している祖母も、夫の葬儀に参列できない。

感染拡大を懸念して、遠くの親戚も呼べない。

こじんまりとした会場で、お念仏を唱える僧侶の声が、響き渡っていた。



棺の中の祖父は、穏やかだった。

出血の痛みや苦しみと闘い、コロナの寂しさとも闘い、そして乗りこえ、
たったひとりで天に召された。

黄泉の国では、マスクもせず、自由に歩き回れること。

すでに先立った家族や友だちと、社会的距離を気にせず、いつまでも話ができること。

百合の花を手向けながら、心に思い浮かべた。



これから祖父は、青く広い空の下、仏さまのお弟子さんとして旅に出るらしい。

焼き場を出て見上げた空は、雲間から光がもれていた。
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