第1話

文字数 12,070文字

     【第一発見者たち】
 そのことに気がついたのは、平成25年6月13日、木曜日の午後のことであった。職場の机の上で資料を広げ、臨時の女子職員、OとSに説明をしていた時だ。
 太田市史の近現代に掲載されている、太平洋戦争末期の米軍による中島飛行機製作所への空襲が話のテーマだった。


「これが、中島飛行機の工場被弾図で、戦後に進駐した米軍の調査団によって作成されたものだ」
 A4判の用紙にコピーされた一枚の地図を二人の目の前に示した。二人が興味深そうに地図に目をやったところで地図を指さす。
「1945年……つまり昭和20年2月10日の空襲によるもので、工場全体の地図が描かれている。このポツポツと付いている黒いマークが爆弾の落ちたところだよ」
「ええー!こんなにあるの?」
「ほんとだ。ここまで分かるんだ……」
 二人が口々に驚きの声を上げているが、それも無理もないことだ。ここから、すぐ近くにあるF重工業の前進が中島飛行機製作所であり、戦争中に空襲があったことは知っているが、まさか、どこに爆弾が落ちたかまで分かる地図があるとは、夢にも思っていなかっただろう。
「うん。実はもっと驚くことがあるんだ。この地図の凡例なんだが、3種類のマークがあるね。まず上の黒丸が高性能爆弾、次の黒い三角が焼夷弾、そして問題なのが白い丸なんだよ。白丸の真ん中を縦線で割ってるマーク、これだ」
 私が指をさしたマークに二人が注目する。
「これは不発弾のマークなんだ。全部で43発ある。この工場の中全体に散らばっているだろう。これだけの不発弾があると言うことなんだよ」
「これ……みんな『不発弾』てこと?」Oが怪訝そうな顔でつぶやく。Sも目を丸くして顔を上げた。
「それが、まだあるってことなんですか?」
 衝撃的な事実である。なんと言っても不発弾の存在は、今でも危険なものであり、現実にそれが43発もあると示されれば、誰でも息を飲むほど驚くだろう。しかも、その位置が地図に示されているのである。
「うん。たぶんあると思う。この工場被弾図は市史に載っていたが、原典は米国戦略爆撃調査団の報告書で、国会図書館から取り寄せ訳したものだ」そこで、ブリーフケースから太田市史を取り出して、該当のページを開いて見せた。
「ほら、これだよ。同じ地図があるだろう。それとこの報告書は、全体ではかなりボリュームがあってね。100ページ以上になるかな……前半が爆撃を実行した司令官の報告書で、ここから後ろが、戦後の調査団の調査結果だ。今、見ている地図はその一部なんだが、これを読むと、かなり詳しく調べていたことが分かるよ。アメリカは情報戦に長けていたそうだが、まったくそのとおりだね」
 細かい字で書かれた太田市史だが、該当する部分のページの厚さだけでも1センチくらいはあるだろうか。文字だけではなくて、写真や図面なども盛り込まれ、これでもかと言うほど徹底した調査を行っているのだ。
「この地図は、どっち向きですか?」Oが首を傾げながら工場被弾図のコピーを手に取った。私はそのコピーをOから受け取ると、現実の方向に直してその被弾図を机に置いた。
「あちらが北で、地図はこの向きになる。この被弾図の枠内が、今のF重工の工場と一緒になるわけだね」
 Oは被弾図の地図が向いている北方向に体の向きを変えた。
「すると下の道が本町通りで、斜め上に走ってるのが東武線ね。上の道はどこになるかしら?」
「足利に行く道じゃないかな。東西に走っているやつで……あれ?まてよ……その下にも道があるな」
被弾図は、建物や工場も細かく書き込まれていたため、細い道などは見落としてしまいそうだった。実際に県道より工場内の道の方が立派であり、2倍から3倍の広さがあるだろうか。
 私は、一番上の道から少し下にある、あたかも工場内を走るかのような細い道を指さした。OとSの二人は身を乗り出しながら、その上下2本の道を見比べている。
「それが足利に行く道じゃないんですか?……」とOが言うと、「私もそう思う。これが今のF重工の北側の道よ」とSもすぐに同調した。私もその時には、2本目の道が、足利へ行く道ではないかと思い始めていた。
 次に、私は2本目の道の北に隣接する施設に目をやった。六棟の建物が並んでいる。もちろん地図上は中島飛行機製作所の施設であるのだが、ある疑念が頭に浮かんだ。
「そうだとすると、ここは今、何になってるんだ?」その地図の施設に指を置き二人に意見を求めた。
「K中じゃないですか」とSが即座に答え、Oもそれを聞きながら、「うん、うん」と数回頷いた。
「私、K中出身なんです。だからここはK中の位置だと分かります」Sは私の目を見ながら訴えかけた。
 私は考え込んでしまった。そのK中学校と言われた校庭の位置に、不発弾のマークが1つ付いているからである。
「不発弾があるな……」その場では、それしか言えなかった。それから、どんな会話をしたかは忘れてしまったが、不発弾は250キロの高性能爆弾であり、K中学校に埋まっているならば大変だとの認識で三人の考えは一致していた。
 二人から「どうするんですか?」と聞かれたが、「考えてみる」としか答えられなかったと思う。少し調べてからでないと、私にはまだ確信が持てなかったからである。
 机に戻るとインターネットで地図を検索した。市史に載っている工場被弾図の地図が、はたして縮尺も含め、どの程度正確に描かれているのか分からないからだ。それに、68年も前に作られた地図なのである。道の幅や工場敷地などの各面積、東西の長さなど、現実との乖離が他小なりともあると考えられたからだ。地図が実測ではなく、単なる目見当で描かれていれば、位置のズレも相当に生じるだろう。

現在の太田市地図(赤枠内)

工場被弾図(上と同じ北上)

 しかし、該当地の地図をパソコン画面に呼び出し見比べたら、一見しただけで工場被弾図は、ほとんど正確だと言うことが分かった。次に机の引き出しにあった東武鉄道の記念乗車券を取り出した。この記念乗車券には、昭和22年と昭和59年の太田市の空中写真が並べて印刷されている。2枚は同じ縮尺で印刷されており、戦後すぐと現在の太田市が上空から目で見て確認できるものなのだ。
 工場被弾図と2枚の写真、それとパソコン画面の地図を、ほぼ同じ縮尺になるようコピーで調整し、重ね合わせて見た。
 変化していない道路や古墳などの地形の輪郭を重ねると、白丸の不発弾のマークは校庭の南側にピタリと納まった。鳥肌が立った。その時が、K中学校の校庭に不発弾が埋没している疑いが濃厚となった瞬間であった。

昭和22年の空中写真(弾痕もそのままの廃墟)

昭和59年の空中写真(小さい赤枠内が中学校)
 不発弾疑惑に繋がる太田空襲の話を、なぜ二人に話したのかを少し説明したい。
私は平成24年4月に、太田市役所就職支援センターに勤務した。3月に市役所を定年退職し嘱託員で再就職をしたのである。スタッフは三人で、同じフロアには勤労者福祉サービスの係員もいた。
私は趣味で小説を書いていた時期があった。細かい話は省くが、平成6年に懸賞小説で賞を取ったことがある。自治労結成40周年記念懸賞小説で、平成6年から15年後の近未来をSFで描けと言うものであった。今回の不発弾騒動に繋がる因縁深い内容なので、以下にあらすじを紹介する。


「凍りついた地平線」
 ある都市の物語。自動車産業の工場が海外移転をしてしまい、残された広大な土地に市がレジャーセンターを建設している。ある日、工事中に大爆発が起こり、工事関係者が亡くなる事故が発生する。
 市や警察は、建設反対を叫ぶ人たちの妨害工作だとして、捜査が進められるが、二人の市職員がその事故の原因に疑念を抱いたのである。 
 二人が密かに調査を進めるうちに、爆発事故の原因は、太平洋戦争中の空襲による不発弾だと突き止める。戦前、その工場は軍用機を生産しており、250キロ爆弾の不発弾がたくさん埋まっていると分かってきたのだ。
 しかし、多くの利権が絡んだレジャーランド建設事業関係者は、事業続行が不可能となる不発弾の存在を無理やり隠蔽してしまう。そこで、巨大組織との戦いとなるが、最後は不発弾の存在を世間に暴露することにより職員の勝利に終る。
 こんな物語だが、OとSの二人から読んでみたいとの申し出があったので、作品のコピーを渡したのである。この作品に使った資料は、太田市史の近現代を参考にしており、爆撃機の機数や投下された爆弾の量なども史実に基づいている。工場被弾図にある不発弾の数も小説内で紹介し、そのうちの1発が爆発するとの設定であった。
 この小説は、空襲を受け不発弾がゴロゴロ埋まっている工場構内が、工事により突然爆発する悪夢を描いたもので、太田市の近未来を警告するシミュレーションでもあるのだ。
 太田市の地域に特化した小説であるため、二人はその小説で描かれたことと、現実に起こりうる可能性などについて、その疑問を私に質問していたのである。
 それが、はじめに紹介した工場被弾図の説明場面であり、K中学校に1発埋没している疑惑が生まれたきっかけとなったのだ。
 その晩はなかなか寝付かれなかった。F重工の構内に不発弾があるのは、小説でも取り上げたので色々な意味で承知もしていたが、それが中学校の校庭にあるとなれば、まったく話は違ってくるのである。
「放置する訳にはいかないな」これが一晩で心に決めたことである。

     【中島飛行機太田製作所の空襲】
 昭和20年2月10日、サイパン島より飛び立ったアメリカ戦略空軍のスーパーフォントレス…B29、84機が午後3時5分に目標の上空に到達した。
そして748発の500ポンド爆弾と198発の500ポンド焼夷弾が飛行機工場めがけて投下されたのである。


B29 スーパーフォントレス 新井勲氏 提供画像

昭和20年2月10日 太田を爆撃中のB29 爆撃された工場より煙が立ち昇っている(太田市史)

爆炎を上げる工場(太田市史)

地上から見たB29編隊(太田市史)
 
 問題となるのは、この500ポンド高性能爆弾である。高度8千メートルから見れば、ほんの豆つぶ程度の目標に、750発もの爆弾が雨あられと降り注いだのだ。
わずか35分の空襲で、国内でも最大規模の飛行機工場はほぼ壊滅状態となった。
この工場で働いていた従業員は約3万人、空襲警報が出ても、多数の従業員が職場の警備にあたっていた。彼等は焼夷弾攻撃を予想していたため、自衛団と称して、職場待機を命ぜられていたのだ。
当時の報告では、約100人の従業員が、この敷地内で死亡しているが、まわりの被害を考えれば、もっと多かったことが予想される。
 また、戦後、進駐した米軍の調べでは、投下された748発の高性能爆弾中、敷地内に命中したものは、123発であり、その内の43発は不発弾であった。
命中率16パーセント、625発は敷地外に落下している計算だ。(凍りついた地平線より抜粋)

迎撃の日本軍戦闘機(シルエットから中島製の局地戦闘機”鍾馗”では)

撃墜される迎撃の日本軍戦闘機 太田上空で必死の防空戦が繰り広げられた(撮影はB29のガンカメラ)

空襲前の中島飛行機太田製作所 工場の屋根に迷彩塗装が施されている(米軍偵察機撮影)

空襲数日後の中島飛行機太田製作所 ほぼ壊滅状態と認められる(米軍偵察機)
 
 以上が小説の中で紹介した空襲の内容だが、太田製作所の空襲は2月10日が初めてであり、2月16日と25日にも空襲を受けているが、規模ははるかに小さいものであった。
 今回、問題にしている不発弾は、2月10日によるものである。

破壊された戦闘機「剣」と思われる

     【総務部長との会談】
 翌日の6月14日の金曜日、出勤してすぐ行動を開始した。不発弾を取り扱う部局は総務部の危機管理室になる。そこのトップは総務部長なので、そのトップに情報提供をしようと考えたのである。
 話が1度で済むように、関係する書類のコピーを整えた。太田市史の「工場被弾図」と「空襲データ」、昭和22年と昭和59年の太田市上空の空中写真。それと現在の太田市地図や総務省の不発弾処理の経費などの資料も用意した。
 事前に予約をし、午前11時30に面談をした。デリケートな内容でもあるので、リフレッシュルームで総務部長と私の二人きりでの話とした。
 資料を順次説明して、不発弾の1発がK中学校にある可能性を伝えた。説明を初めてすぐに総務部長の顔つきは強張ってきた。説明が終わると、私はイスの背もたれに背中を預け、無言で資料を見つめている部長に声をかけた。
「これで自分の肩の荷はおりたよ。どうかな?感想は……」
 総務部長は頭を抱える仕草をすると苦笑いを浮べた。
「まいったな。おかげでこちらの肩が重くなったよ」
「トランプのババ抜きみたいでさ、ジョーカーをそちらに渡した気分だよ」
「まったくだ。このジョーカーはどうしようかな……次に引き継いじゃおうかな」
 そんなやり取りをしたが、私からはK中学校の探査だけでも、すぐにやったらどうかと意見具申をした。それに対し総務部長は次のような見解を示した。
「処置等が今年度になるか来年度になるかは分からないが、仮に来年度以降の場合は後任者に引き継いでいくよ。それと、F重工の操業停止も考えられるので、その影響を検討し、やるとなれば、初めに市長へ報告するのが妥当かと思う……」
 F重工への影響は私も考えないではなかったが、行政職員とすると、やはりそこが引っかかるようである。
「この問題は事務で上げるより、外部から持ち込まれる方が話を上げやすいんだよね」と総務部長は最後につぶやいた。
 会談の印象は一言で表現すると消極的である。それだけ問題が大きく、かつ複雑なのだと考えさせられた次第である。今回の会談は、公式な通報と言うよりも下話的な性格が強く、いわゆるお互いの出方を探った形に結果としてなった。
 そのため、私の肩の荷は会話とは違い、ぜんぜん楽になっていなかったのである。

     【テニスをする中学生】
 次の日が6月15日、土曜日なので仕事は休みだ。今日は長女を足利市に連れて行く日になっている。私の運転で午前8時15分に自宅を出た。車はK中学校の前を走る道路に入ったが、長女には前もって不発弾の話をしてあったので、二人の視線は自然と中学校の方向に向いている。
 右に広大なF重工の工場群を見ながら、左は住宅や消防署を見て、いよいよK中学校のフェンスに差しかかった。車のスピードをやや緩めて左の窓を指差した。

K中学校、フェンスの先がテニスコート

「そこの校庭の手前……ちょうどテニスコートがある場所の下あたりに1発埋まっている」
 そのテニスコートは数面あり、数十人の中学生がそこでテニスの練習をしていた。私はその中学生の姿を見つめていたが、運転をしていたのですぐに前へ向き直った。
 車が中学校を通過してからすぐに、再び左を指さした。
「あそこにも1発ある」
 それから、さらにもう1発の位置を指さして現場を通過した。長女は「ふーっ」と深い溜息をつくと「テニスをしていたね」と沈んだ声でつぶやいた。
 足利市に到着してから、長女が所要を済ませている間、私は散歩をしながらも、テニスコートで練習をしていた中学生の姿が頭から離れなかった。
 その時、私は次に相談する人のことを考えていた。誰にするかは心に決めていたが、それをいつするかで悩んでいたのだ。相手はK県会議員で、私が自治労の懸賞小説に応募した時に、K県議は自治労県本部の役員をしていた関係もあり、入選した時にお祝いをしてもらったことがある。付き合いも長く、30年近く交際を続けていたと思う。
小説の内容も不発弾だし、今回の問題も不発弾である。何か因縁みたいなものを感じながら、私は携帯電話をポケットから取り出した。
 K県議が電話に出ると挨拶を済ませ、すぐ本題に入った。
「Kさんは、どこかの中学校の校庭に不発弾が埋まっていると聞いたことがありますか?」
「不発弾が中学校に?いや……今まで聞いたことはないが……」
「そうですか。実はそのことで、Kさんに検証してもらいたい資料があるんですが、どこかで会っていただけますか?」
「それは早いほうがいいね。明日の午前10時なら空いてるから事務所でどうかな?」
「わかりました。それでは10時に資料を持って伺います」
 これで歯車が回るだろうと思うと同時に、市役所で働く自分の立場が微妙になるなとの予感もした。
 足利市から太田市に帰る時、再びK中学校の前を通過した。もうテニスは一人もやっていなかったが、長女にK県議に相談することになったと話したら、
「それは良かった。私も市役所だけじゃ動かないと思っていたんだ。あのテニスをしている中学生を見たらたまらなくてね……」とほっとした表情を浮かべていた。

     【K県議の決断】
 6月16日の日曜日、午前10時にK事務所のドアを開けた。K県議は黒っぽいスーツを着ていた。私と同じ昭和26年生まれで、黒く日焼けした顔を私に向けて「よう」と気さくに片手を上げた。
 打ち合わせ用の長テーブルのイスに腰を降ろすと、私はブリーフケースから封筒を取り出した。封筒の中身は総務部長に渡した資料と同じもので、太田市史の「工場被弾図」と「空襲データ」、昭和22年と昭和59年の太田市上空の空中写真。それと現在の太田市地図や総務省の不発弾処理の経費などの資料であった。また、今回の話のきっかけとなった私の小説「凍りついた地平線」も入れておいた。
 テーブルに資料を出し工場被弾図の説明からはじめた。
「これは太田市史に掲載されている中島飛行機製作所の工場被弾図です。そこに日付が書いてありますが、昭和20年2月10日の空襲によるものです。この資料は戦後に進駐した米軍によって作成されたものですが、注釈にあるように、データはすべて中島の幹部によって示されたものとなっています。黒丸が爆弾、△が焼夷弾、白丸が不発弾です。どうですか?何か見えてきませんか?」
 K県議は食い入るように被弾図を見ながら、あきれたように声を出した。
「すごい資料だなあ……市史は持っていたけど、これは気が付かなかった。これが不発弾てこと?……ええ?!……43発もあるの?」
「次の空襲データ表を見てください」
 その空襲データ表には、日時、空襲の部隊名、高度は2万7千フィート(約8千メートル)、機数は84機、投下した高性能爆弾の数は748発の500ポンド爆弾と書いてある。500ポンドとは250キロである。問題はその次の表で、地上における確認と題して、工場敷地命中九十七発、工場建物命中26発、不発弾43発と内訳が詳細に書いてあるのだ。さすがにこのデータには、見る者をうならせるものがある。
「ここまで調べあげてるんだ……それで、この不発弾が中学にあると言うわけだ。どれなんだ?……」また工場被弾図に顔を近づける。しばらくすると、「ああー、これか。こいつはK中だね」とつぶやいた。
「今のK中の位置でしょうね。その施設は中島の青年学校だったんですよ。戦後、そこをK中にしたんだと思います。建物は作り直してますけどね」
「すると、この青年学校の玄関先に落ちている不発弾が、今のK中の校庭となる訳か……」
「この写真を見てください」私は2枚の空中写真を広げた。写真はA4判の大きさで、中央に大きな工場が、ほぼ正方形の姿で写り込んでいる。昭和22年の写真の工場は、空襲で建物が壊滅して廃墟同然である。昭和59年の写真の工場は、F重工なので整然と写っている。
 2つの写真を見比べると青年学校とK中学校の位置はピッタリと重なった。
 K県議は顔を上げて私を見た。そこには戸惑いの表情も見て取れる。
「どこから見ても、これはやっぱりK中だよ」
「間違いないでしょうね。それを検証してもらいたかったんです。根拠資料はどうですか?米軍の報告書ですが信憑性はあると思うんです……これがコピー元の太田市史です」
 太田市史をテーブルに乗せ、該当ページを見せるとともに、米軍の報告書の全体をパラパラとページをめくりながら説明した。




「これは確度が高いよ。だって市で作った本だし、調査したのは米軍だろう。その辺の茶飲み話とは違うからね」
 まったくそのとおりである。「あそこにあるらしいよ」と世間話に出るものと違い、正確な地図にきっちり落としているのである。元資料は国立国会図書館にあったものだから、資料としても第一級の資料に該当する。
 私は総務部長と会談した内容を話した。積極的な動きは難しいだろうとの感想も付け加えた。K県議は頷きながら、聞いていたが私の話が終わると、
「事務レベルで持ち上げるのは無理だと思うよ。問題はF重工の4、50発が絡んでしまうからね。K中よりこちらに目が向いてしまうよ。たぶん問題が大きすぎて動きがとれないと思う」
「私もそう思います。K中の話をしても聞いてる人は、結局はF重工に目が行ってしまうんですね。工場被弾図だからF重工のが不発弾の数は多いし、あとの空襲を含めれば、50発以上はありますよ。でも、F重工は民間会社で大人の世界なので、ある程度、自己責任で考えたとしてもいいですが、K中は違います。子供たちがいますから……」
「そうだよ。学校に不発弾があるとなると話は違ってくる。F重工はさておき、ここだけでも先になんとかしないとね。それに、隠そうとしても市史に載ってるんだから、いずれはバレるよ」
 その後の会話の流れは、K中学校は市の施設であるから、すぐにでも調査が可能であること。また、位置が校庭で建物の下ではないので磁気探査も容易にできるだろうと話した。
 あるかないかを論議しているより、実際に1発探査をしてみれば分かることで、そこが市の施設であれば、市が決断すれば出来るのである。仮にそこから反応が出て不発弾が発掘されれば、地図の他の箇所もあると考えて間違いはない。
 K県議は熟考しているようだったが、決心したように顔を上げた。
「どうだろう。自分が何か出来ないだろうか……知ったからには、このままには出来ないので解決の力になりたいと思うのだが……どうかな?」
「そう言ってもらうと助かります。よろしくお願いします」私はすぐさま賛同した。正直に言って、自分一人では、どうにもならないと悩んでいたからである。
「この問題は、事務レベルで順番に上げると、どこかで消えるか、事務のトップ近くで止まってしまう可能性も考えられるんです。だから、そうならないようにしたいんです」
「俺もそう思う」とK県議は同意しさらに続けた。
「たぶん消えるだろうね。今、考えているのは、俺が市長に直接持って行くことなんだ。中間の事務を通しても、そこが悩むだけだから、現場を抜いて市長に直接面談を求めるよ。それなら絶対に消えないだろう」
 私もそれならば、まったく異存はないので、市長との面談はK県議に一任した。これで確実に歯車が回るとの安心感が、私の心に生まれたのは事実である。
 
     【不発弾の性格】

昭和63年10月 新道町の不発弾(250キロ爆弾)露出時 青山撮影

太田市所蔵不発弾



 今までの会話の中で、色々な人から数々の疑問点が出された。不発弾の性質を理解する上で重要となるので、そのやりとりなどを、次にまとめておいた。
①  不発弾には偶然発見するものと情報提供により調査発見するものの2種類がある。前者は工事などで出てくる例が多く、これを発見弾と言う。後者は地区の年寄りなどが証言し、探査発掘で出てくるもので、これを埋没弾と言う。今回のケースは埋没弾である。
②  日本における不発弾の推定量だが、第二次大戦中の弾薬の5%程度が不発弾に推定されており、その後の撤去作業や永久不明弾を除外しても、2500トンは全国に眠っているとされている。
 それから言えば、中島飛行機製作所の不発率は非常に高いことになる。250キロの高性能爆弾に限るが、工場に命中したものが123発で43発が不発弾と記載されている。不発弾は内数か外数か分からないが、内数なら35%、外数なら26%である。全国の推計値の5%は、航空機から投下された爆弾だけではなく艦砲射撃の砲弾や野砲や戦車砲、機関砲に高射砲など、様々な種類の爆発物の重さによる平均値である。
 なお、爆撃機による不発弾は、それとは別の文献に数量の20%程度と読んだことがある。それならば、太田の不発弾率とかなり符合しているようだ。だから、43発あっても不思議ではない。
③  長年、土中に眠っていた不発弾は、腐って爆発しない?……これは大きな誤りである。最近では、平成21年1月14日、糸満市で水道工事中に重機の接触で爆発し、2名が重軽傷を負った。戦後、不発弾の爆発事故での死亡者は710人に昇り、負傷者は1281人と想像以上に多いのである。



 爆発こそしなかったが、平成23年7月に名古屋市で処理された不発弾は、信管を抜き取った自衛官が、不発弾の状態を「軽い衝撃でも爆発する恐れがあった」と証言した。
 また、衝撃を加えなければ爆発しないのか?……との疑問に答える事故が20年前に実際に起こっている。平成4年11月4日、大分県大分市のバイク店がいきなり爆発し、店舗が全壊全焼、経営者の妻が重傷を負った。地面をえぐる穴が大きく開き、金属片も発見されたことから、科学警察署が鑑定した結果、第二次大戦中の米軍の不発弾であることが判明した。このように、特に衝撃を与えた訳ではないのに、自然に爆発するケースも存在するのである。
④  不発弾の処理件数だが、陸上自衛隊・第102不発弾処理隊長の話では、一都十県で年間300件、10トン、全国で1700件、66トンを処理しているそうだ。
 では、太田市ではどうなのかを議会の摘録で検証すると、次のとおりと思われる。
昭和49年までに龍舞町地内で8発、その後、南矢島町で3発、また新道町(昭和63年)で1発処理した。平成14年9月、南矢島町の不発弾を1発処理し平成19年10月、東長岡町の不発弾を1発処理した。合計すると14発となる。(市に確認した訳ではない)
⑤  不発弾はどのくらい地中に潜るのか?……爆弾の種類にもよるが、昭和20年2月10日の太田空襲と同じ条件とした場合。
 高度8千メートルから250キロ爆弾を投下すると、落下スピードは約340キロとなり、地面に激突して地中に潜る深さは、一般的に5メートルから6メートルと言われている。地面が軟らかいなどの場合は、10メートルに達する例もあるそうだ。
 実際に平成14年9月22日に行われた南矢島町の不発弾撤去は、5メートル四方に深さ6メートルから7メートルの掘削を行ったと議会に報告している。
⑥ K中学校の不発弾処理はやらなかったのか?学校を建てたときに、分かっていたなら不発弾の撤去はやったはずとの意見もある。
 これもなんとも言えないのだが、しかし限りなくやっていないと思われる。K中学校が開校したのは、昭和26年だからもう日本の法律だ。不発弾の処理は市が勝手に出来ないので、国に申請や認可をもらうため記録が残るはずである。私や知人たちが知る範囲では、K中学校の不発弾処理は聞いたことがない。

昭和26年開校時のK中学校 バスケットボール 
 
 それに当時は、F重工敷地だけではなく、その周辺に爆弾穴が無数にあったため、1発程度の不発弾は、話題になりにくい状況であったと思う。ようするに、珍しくないのである。
⑦ F重工構内の不発弾処理はやらなかったのか?その疑問も当然わいてくる。F重工構内とK中学校は異なることが一つある。それは米軍から返還された時期が違うのである。
 中島飛行機製作所の太田工場は昭和20年9月18日に進駐軍が来て接収したとされている。


接収されたビルの星条旗
 
 昭和33年7月に接収解除となり国に返還され、昭和35年8月にF重工は大蔵省から払い下げを受けたとある。一方、K中学校は昭和25五年の建築で昭和26年の開校であるから、F重工構内の接収とは関わりがないようである。
 F重工は戦後15年にして取り戻した工場であり、15年間の空白でその間に米軍が処理したのではないかとの話も出るが、その根拠となる証言や資料が提示されているわけではない。
 私たちが根拠としている米軍報告書の工場被弾図は、「地上における確認」となっているので、掘り起こして確認したものではない。さらに報告書の注記には次のように書いてある。「データは中島の幹部によって示されたもので、時間的な遅れと米軍による占拠・工場撤去により数値の正確さは確認されなかった」つまり現物を見て確認していないのだ。
 空襲の証言者たちは、不発弾が埋まっている所には赤い旗が立てられていたと言っている。時限爆弾ではないが、時間経過で爆発する可能性も考えられていたようで、近寄らないように注意していたそうだ。また、不発弾が開けた穴は数日で塞がってしまうそうで、位置が分からなくならないように旗を立てたとも言っている。
 戦後、米軍が不発弾を掘り起こして処理をした話は聞かない。沖縄でも他の市町村でも自治体が処理をしているのが現状である。そのため、太田に進駐した米軍が、1発処理するのに6、7メートルもの穴を掘って、5、60発の不発弾をクリーンにしたと言うのは信じ難い。信じるためには、それなりの根拠の提示が必要と思われる。
 以上が不発弾に関する疑問点などをまとめたものである。

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