第1話

文字数 11,941文字

 夜勤明けに乗る私鉄電車はいつも空いていた。窓の先には色を失った山々が絶間なく続き、ずっと同じ所を走っているような妙な錯覚を起こさせた。遠慮もなしに窓から降り注ぐ白い日差しが、目の奥をじりじりと焦がすようで何度か瞬きをしてから目をつむった。それすらも心地よかった。昼前の穏やかな車内は、外に出れば白い息が待っていることも忘れさせる。緩やかな揺れと開放感が体を包んで今にも宙へ舞い上がっていくようだ。体はぎしぎしと音を立てるし、鉛に繋がれたみたいに重たいけれど、それよりもやりきったという爽快感の方が大きかった。私は夜勤が嫌いではなかった。仕事後のこの健やかな時間を味わうためだけに、夜通し働くのだと言っても過言ではなかった。
 気持ちよくとろとろしていると、膝の上に置いた鞄の中のスマホが邪魔をした。半分意識がないままそれを取り出すと手の中でもう一度震えたので、青ちゃんからだとすぐに分かった。義両親と旦那の愚痴が一通目、私のシフトの確認とご飯の誘いが二通目の内容で、それは三ヶ月おきに来る定型文だった。夜勤明けであることと明日は一日空いているからランチをしよう、と返信した。彼女はいつもラインを二回に分けて送ってきた。それがなぜなのか、長い付き合いだけれど聞いたことはなかった。彼女のただの癖だとしても、毎度、無視できない脅迫観念に襲われることだけは確かだった。スマホを鞄に押し込み誰も居ない横の座席へ乱暴に置くと、再び目を閉じて私と私の影だけの世界へ落ちていく。
 最近出来たスープカレー屋さんで待ち合わせすることになっていたが、10分経っても彼女は来なかった。電話してみると、30分程遅れるから先に注文して食べていて、と言うので今日のおすすめを一人分だけ頼んだ。平日のお店は空いていて、ランチはすぐに運ばれてきてしまい食べようかどうしようか悩んでいると、ちょうどそこに彼女が現れた。前会ったときよりもまた少し顔周りがふっくらとしていた。子供が二人いるとどうしてもイライラして食べてしまうのだとよくこぼしているけれど、そんなものなんだろうか。子供のいない私にはその感覚は分からなかった。介護職員の間では夜勤明けは開放感と睡眠不足のせいで食欲旺盛になると言う人もいたけれど、私はその逆で全く食欲が沸かなかった。だから働き始めてから10㎏以上痩せてしまい、20代なのにやけに貧相な体になってしまった。主人はそんな私を鶏ガラみたいだ、と言ってはよく馬鹿にした。
「ごめん、遅くなって。出る間際に下の子がうんちしちゃうし、運転中に桜子がトイレ行きたいって言うから途中のコンビニ入ったり、しかもガソリンが全然なくてやばかったからガソリンスタンドに寄ったりして遅くなっちゃった!ごめん!」
下の子のお腹辺りを片腕で抱えて、大きな荷物を反対側の手に持った彼女は、乱れた息を整えながらいかにも慌てた様子でそう言って、私の前にどかっと座った。丸太を抱えた金太郎みたいだ。桜子ちゃんはもじもじしながら、恥ずかしそうにお母さんの隣に小さく座った。店員がお水を持ってくるとそれを一気に飲み干してからメニューを開き、あれこれ悩んで私の食べているものも確認し、桜子はなにがいい?と聞いてからすぐに、お子様カレーがあるじゃないそれでいいよね、とまくし立てて娘が何か言う前に大きな声で、すいませーん、と叫んだ。コールボタンがあるのに、と苦笑しつつも、母親とはこういう生き物なのかと彼女をまじまじと眺めた。一通りやることが終わると早速、最近どう?と聞くので私が、相変わらずだよ、とだけ答えるとその後は彼女の独壇場になった。
「聞いてよ。もうさ本当腹が立つんだよ。旦那の弟の嫁がしょっちゅう子供預けにくるって言ったでしょ。ここ一週間なんてほぼ毎日だよ。ちょっと熱っぽくて保育園行けないし、仕事は休めないとかで置いていくんだけどさ、どう思う?まぁ、おもりするのはお義母さんだよ。でもさ、病気の子供を人んちに預けるってどういう神経してんのかね。うちにも子供いるのに、うちの子には病気うつしていいと思ってんのかね。本当やんなっちゃう。どんだけ偉い仕事してんだか知らないけどさ。私が働いてないから下に見てんのよ、あの子。嫌な女。本当嫌い。親と同居してやってるのは私たちなのに、甘い蜜だけ吸おうとして常識がないのよ。まったく。若い子って本当図々しい」
彼女の勢いに圧倒されただ何度も頷いていると、なんとなく視線を感じる。桜子ちゃんが私の顔をじっと見ていた。目があうとすぐに違う方向を向いて、足をぶらぶらさせながらお店の天井を眺めたり隣のテーブルの人を観察している。肩辺りまである髪は後頭部で半分に分けられ綺麗に編み込まれていて、橙色に近い黄色のワンピースを着ていた。確か4才だったはずだけれど、物静かで子供らしさのない少女だった。
 料理が運ばれてくると話は一旦中断し、青ちゃんは目の前の餌に飛びついた。少し安心しながら私もコーヒーを啜っていると、また桜子ちゃんに見られている。おもちゃやゼリーがついたお子様ランチには目もくれずに真っ直ぐな、けれどどこかおどおどしながら、その澄んだ瞳で私を見つめていた。食べないの?と聞くと、目の前のカレーをなぜか珍しそうに眺めた。下の子は赤ちゃん用の椅子に座り、お母さんのプレートから取り分けられたカレーを喜んで食べている。まだ未熟な手先でスプーンを口に持っていくけれど、うまくいかずに口や首に巻いたタオルはすぐに黄色に染まった。青ちゃんは下の子のことで忙しそうで桜子ちゃんの方は気にもかけない。不思議な少女はようやく食べ始めたけれど、そのペースは遅く明らかに食べたくなさそうだった。お腹空いてない?と聞くとびっくりした顔をしてから、ちらっとお母さんの方を見て何かを確認すると明らかにほっとしていた。
 二世帯住宅に住む彼女は、とにかく全てに苛立っていた。子供がご飯を作っても食べない、とか、それはおばあちゃんたちが勝手にお菓子を与えるからだとか、旦那は毎日帰りが遅くて家のことを何もしない、とか。大変だね、と共感してみせてもその言葉には何の意味もなかったし、彼女もそれを分かっていて聞かせていた。彼女にとって私は、話を聞くだけのマシンでそれ以外の機能は不要だった。
 また会おうね、と明るく別れてから、一人家に帰る途中でひどい頭痛に襲われた。混んでいる電車に乗るとそれが余計にひどくなり、やっぱり彼女の誘いを断ればよかったと後悔した。会う承諾をしたその時からなんて馬鹿なことを、と悔やんだけれど今では彼女への軽い憎しみさえ覚えていた。明日は日勤だから今日は早く寝なければ。
 帰っても家には誰もいない。今日は彼の方が夜勤だからちょうどすれ違いになる。こんな生活がもう二年続いていた。青ちゃんは言った。それって結婚している意味ある?と。でももう結婚した後で意味を考えても仕方がなかった。彼には彼の私には私のペースがあって、それを互いに合わせることをしてこなかったし、しなきゃいけないとも思っていない。福祉大学で一緒だった青ちゃんも一時期は老人ホームの介護職として働いていたけれど、二年も経たないうちに合コンで知り合った保険のセールスマンとできちゃった結婚して、あっけなく仕事を辞めた。働きたくなったらいつでも働けると言って。この業界は常に人材不足だから彼女の言う通りだったし、結婚、出産も友人として素直に喜んだ。けれど子供が産まれてから彼女に会うと、もう以前の彼女ではなくなっていた。口から出るのは子供と育児の話ばかりで、それ以外の世界は消え失せていた。子供は?と会うたびに聞かれたけれど、まだいいかな、と答えるしかなく、そうすると決まって、早い方がいいよとか、これを飲むとできやすいらしいよとか、挙句の果てに、もしかして妊娠しにくいかもしれないから早めに婦人科へ行ったほうがいいなどと言われて、彼女の非礼と下品さに辟易した。私はつまらないだけの講義を聞く生徒みたいに、理解しているふりをするしかなかった。子供が欲しくないわけではない。出来れば私も早く欲しい。けれどなかなか出来なかったし、最近ではその行為自体が無くなっていた。もうどれくらい前にしたのか思い出せなかった。彼はあまりそういうことに頓着がなく、子供について話をしたことも、そもそも彼が子供を望んでいるのかさえ知らなかった。夫婦として致命的な何かが欠落している気がしていたけれど、私たちは夫婦のままでいた。
 お昼休みに介護記録を書きながらコンビニのサンドイッチを食べていると、突然、見知らぬ人が事務室に入ってきた。私より長く勤めているおばさんたちや施設長が急に騒いで、長峰さんよ、と言いながらあっという間にその女性を取り囲んだ。脇には小学生くらいの男の子と女の子がくっついていた。久し振りだね、子供大きくなったね、元気?元気にやってます、そんなやり取りが耳に入ってきた。どうやら昔ここで働いていた人のようだ。施設長が、また戻ってきてよ、と冗談っぽく言うと、実はそれを話したくて、と女性が口にしたのでその場はにわかに活気付き、ゴールが入ったサッカーの試合場みたいに沸き立った。子供もある程度大きくなりましたし、またお世話になりたいと思いまして。化粧っ気のない女性の朗らかな笑顔と喜ぶ同僚の声。私だけは遠い国の出来事みたいに傍観していた。顔はシミだらけなのに、それが却って生々しく魅力的な女性だった。まるでおとぎの国のお姫様だ、あの人は。子供の頃の夢を実際に手に入れている人、空想の世界の生き物でしかないユニコーンにまたがって空の上の星に住んでいる。でもそれはお姫様しか選ばれない。神様に選ばれなくても、希望などなくても、いやだからこそ私は誰かの役に立ちたいと願った。
 一か月に一度の通院は、決まって夜勤明け後にその足で向かった。昔から病院嫌いで出不精な私は、普段だと簡単にそんな予約をすっぽかしてしまうからだった。夜勤明けならば多少は陽気にもなれたから、ほとんど何の苦痛もなく病院へ行くことが出来た。先生はどうですか?と聞き、特に変わりありません、と私が答える。眠れていますか?ご飯は食べていますか?等の質問に全て、はいと答えるだけで診察自体は5分もかからない。久し振りですね、またご飯にでも行きましょう、それではさようなら、挨拶と同じ。白髪で無精ひげを生やし、骸骨の標本みたいに痩せ細った、病的に肌が白い私の主治医は一瞬でカルテを書き終えると、一度もこちらを見ることなく、お大事にと言った。
 会計待ちの時間は出来るだけ誰とも目を合わせないようにしたけれど、大抵が同じ顔触れであることは分かっていた。でもその日は見慣れない女が私の斜め前の椅子に座っていて、その横にはまだ5歳か6歳くらいの少女がいた。女はだらしなく太り、髪の毛は何度もブリーチしているせいか角度によって色を変え、青にもピンクにも紫にも金にも見えた。それが肩甲骨の辺りまで汚らしく伸びていて、皮脂のせいかスタイリング剤をつけすぎているからか、べたべたしていて見ていると気分が悪くなった。異常に突き出たお腹を隠すように座る姿は凸凹の大きな岩みたいだ。隣の子供は派手なヒョウ柄のパーカーを着せられ、髪は茶色に染められていた。待っている時間、子供は動き回ったり駄々をこねたりせず、スマホから目を離さない母親の傍に黙って座っていた。一度、母親に抱き付こうとしたけれど女は、もうやめてよ、とさも不愉快そうに、その細くて小さな手を容赦なく遮った。少女は今にも泣き出しそうに口をぎゅっと結んで、また元の通り静かに下を向いた。同時に私も床を見つめて、神様に祈った。どうかあの子が、あの子と桜子ちゃんが救われますようにと。あってもなくてもいい仕事をするだけの、ただの介護職員の私に一体何が出来るというのか。
 久し振りに休みが重なった私と彼は、ちょっといい雰囲気の喫茶店でお茶をすることにした。ビルや新しい建物が並ぶ中一件だけ、古びた建物に年季の入った看板、でも古臭くなくて昔の純喫茶みたいだけどどこか新しくお洒落な喫茶店。駅前を通る度に気になっていたけれど一人で入る勇気がなくて行けずじまいだったから、念願が叶って私は子供みたいにそわそわしていた。飲み物はホットコーヒーとアイスコーヒー、カフェラテ、食べ物もサンドイッチとトーストだけのシンプルなメニューで好感を持てた。二人ともホットコーヒーとトーストを頼んだ。運ばれてくるまでの時間、私は窓の外を通りすぎる人たちを数え、彼はお店にあった音楽雑誌を見ていた。サラリーマン、スーツ姿の女性、学生、皆速足で私の画面からあっと言う間に消えていく。
「もうすぐツアーだな」
一人ごとみたいに彼が呟いた。
「まだ半年くらいあるんじゃない?」
「半年もないさ。今年はどうしよっかな」
「なんで?」
「最近入った渡辺さん、シフトうるさいんだよな。その時だけは申し訳ないけどって今から言ってるけど、シフトは皆で調整するものだから一人のためにはね、とか言ってさ。たく、仕事は適当な癖してほんと嫌味なばばあだよ」
あるバンドにはまっている彼は、ツアーが始まるとシフトを融通してもらっていた。日勤を多めにしてもらったり有給休暇を使ったりして、その1年のうちの楽しみに出来るだけ多く参加できるよう仕事を調整していた。その分他の時期は皆が嫌がる夜勤を率先してやったので同僚たちも彼の趣味には協力的だった。
「そっか、なんとか分かってもらいたいね…ねぇねぇ、私も行ってみようかな」
「は?なんで?」
ぎょっとして大きな輪になった彼の瞳に、私の目が吸い付く。
「行ったことないからさ、付いていってみようかな、なんて。あ、もちろん一回だけね。近場でライブする時にさ」
「何言ってんだよ。駄目だよ。それに無理無理。お前も聞いた事あるだろ、ヘビメタだぞ。自分で好きになれないって言ってたじゃないか」
「そうだけど、ものは試しで、ね?最近二人でどっか出かけることも少なくなったし」
そこまで言うと彼は目を細めて大きく溜息を吐き、露骨に嫌そうな顔をした。
「突然どうしたんだよ。お前そういうタイプじゃないじゃん。お互い干渉しないルールだろ」
「…そんなルール決めてないよ」
「決めてなくても暗黙のルールだっただろ。これは俺の唯一の楽しみなんだぞ。このために働いてるって知ってるだろ。ツアー仲間もいるし。それをお前が来たら…」
「台無し?」
「…なぁ、どうしんたんだよ。今日のお前おかしいぞ」
「私はただたまには二人でいたいって思っただけ」
「えぇ?そんなこと一度も言ったことなかったじゃん。そういう煩わしいこと言わないから俺はお前と…」
「お前と、なに?」
「…」
「お前と結婚した?」
油みたいな空気が私たちにまとわりついてきて不快だ。外の道路には霜が降りているのにじんわりと汗がでてくる。
「じゃあ、やっちゃんはなんで私と結婚したの?それってなにか意味があったの?」
「あぁ、もう俺帰るわ。そういうのほんと嫌いなんだよな。俺がなんかしたか?やめてくれよ。今だってお前が行きたいって言うからこの店来たんだろ。それなのに、なんで俺が責められないとならないんだよ!」
他の客が私たちの会話に耳を澄ませている。やりすぎた、と焦った私は慎重に言葉を選び優しく声をかけた。
「責めてないよ、ごめんね。そうだよね。ちょっと変だよね、疲れてるのかな」
椅子から立ち上がりかけていた彼はまた座りなおして、貧乏ゆすりをしながらタバコに火をつけた。もうとっくにコーヒーは冷めている。
「じゃあさ、これで最後にするから、最後に一個だけ聞いてもいい?もう本当にこれだけだから」
煙を吐き出しながら無言で自分の足元を覗く彼の頭のつむじが、ぐるぐる回っている。
「…子供ってどう思う?」
「は?子供?うーん…正直今はいいかな。給料安いし拘束時間も長いし、子供育てる自信ないわ」
「…じゃあ、そういうの全部抜きにして、欲しいって思ったこと一度でもある?」
「ごめん、ない」
微塵の躊躇いもなく、それはもう見事なまでにはっきりとした彼の意思が、巨大な隕石になって私の上に音も無く落ちた。
「…わかった。だよね、私もないもん。大変そうだしさ、自分の時間もなくなるし。それに私、そんな資格ないし」
しまったと思う。ぱたりと二人の動きが止まって互いが互いを警戒するように、じりじりと相手の顔色を伺う。
「…資格ないって、どういうこと?」
「いや、深い意味はないよ。まだまだ仕事も未熟だし、家事も苦手だしさ、特に料理!これじゃ赤ちゃんが可愛そう、って意味だよ」
「ふっ確かにな。上手とは言えないもんな」
「ちょっと、これでも頑張ってる方だよ」
ぎくしゃくした笑顔だったけれど、その場はそれで充分だった。もう本当にそれだけで。二人とも無知のまま結婚してしまったのだから。私の母は幼い頃に死に、父親が育ててくれたけれどそれは単なる共同生活でしかなかった。成人してすぐに父が病気で死んだ時、どれだけ安心したことか。これでなんの足枷も無くなったと。一方、彼は里子で成人してからはもう完全に親と絶縁状態だった。お互いに似た境遇で、だから惹かれあい通じ合ったけれど、二人とも想像でしか知らないものを、本当に存在するのかさえ分からないものを、築こうとしたのかしなかったのか、どちらにしても私たちはそれを教え合うことも補い合うことも出来ない。
 普段はシフトに希望を出すことはなかったけれど、来月の三月分については日勤を多めにしてほしいとリーダーにお願いした。リーダーは、珍しいね、と何か聞きたそうにしていたけれど、難しければいつも通りでいいので、とだけ言っておいた。彼は夜勤をたくさん入れていたので、日勤が多ければ会わずに済んだ。それが今の私たちにとって最善の策だった。
 三月に入って二週間が経った頃、私は休職した。主治医には、うつ病と診断され一ヶ月間休むことになった。
 三年前、私はパニック障害とうつ病になった。車で出勤している途中、突然息ができなくなった。訳も分からず必死に息を吸おうとするのに、全く酸素をとりこめない、体はどんどん感覚がなくなり硬直して動けない、死ぬ、と思った私は思わず救急車を呼んだ。大した執着もなかったはずの命なのに。身体に異常はなくパニック発作だと言われた。職場には、明日は行きます、と伝えたけれど次の日家から出ようとするとまた発作がでた。お辞儀をするみたいに前かがみになり、紙袋を口に当てて吸っては吐いてを繰り返した。病院で教わったことだった。死ぬわけじゃない死ぬわけじゃないと心の中でひたすら唱えながら、同時になぜそんなに怯えているのと自問し、一人じっとその苦しみが終わるのを待った。施設長から心療内科を勧められたので行こうとしたけれど、玄関扉のドアノブに手を掛けると発作の前触れみたいに呼吸が浅くなるので、怖くて私は外に出られなくなってしまった。頼れる友人もいなかった私は困り果てた。また職場に電話して、家から出られないのですがどうしたらいいのでしょうか、なんて言えなかった。途方にくれたまま一日がすぎ夜になると、思いがけないことが起きた。当時の職場の同僚だった彼、やっちゃんが突然家を訪ねてきたのだ。驚いたけれど、自分でも狼狽えるほどに心底安心した。山で遭難して迎えの救助隊が来た時はこんな感覚じゃないだろうか。気付くと大声をあげて泣いていた、ドアが開いたままの玄関先で。彼は慌てて私の背中をさすりながら部屋へ入ると、ソファに座らせ、お水を飲ませ、話を聞いてくれた。夜が明けるまで彼は私の傍にいて、何を言うでもなくただただ頷いていた。
 その時はまだ付き合ってもいなかった、ただの同僚だった。それなのに彼は食べ物を買ってきては食べさせ、発作が怖くて運転できない私の代わりに車を出してくれて、診察室に入るのが怖いという私の腕を抱えて一緒に先生に話をしてくれ、診断書も職場に届けてくれた。
 大学卒業後、介護事業所のデイサービス部門で生活相談員として働き始めたけれど、蓋を開けてみると決して相談員としての仕事だけで許されるわけではなく、忙しい介護職からの反発もあってほとんど毎日現場の仕事をやらされた。そうして残業の時間に計画書を作成するという日々が3年続いていた。身体は疲労が蓄積して感覚がなくなっていた。その上、パート職員と所長とのトラブルに板挟みになりうんざりしていて、精神的にも追い詰められていた。限界だった。彼は介護職で、シフトが一緒になれば話もしたけれど、その程度で連絡先すらも知らなかったけれど、彼は以前から私を思ってくれていたらしく、心配でいてもたってもいられず家まで来てくれた。私もそこまでしてくれた彼のことを当然好きになり付き合うようになった。休職期間が終わる頃、彼は私に言った。
「希美の強制終了ボタンが押されたんだよ。俺はもう辞めていいと思う」
復職に不安だったし、またあの衣食住すらない仕事だけの世界に戻るのかと思うと絶望的だった私は、彼の言葉で決心した。事業所を辞め、その後すぐに彼と結婚した。
 暫くたって病気が落ち着いてから、今のグループホームへ転職した。自分でも何故ここを選んだのか分からなかった。仕事口など吐いて捨てる程あったのに。多分、もう人間を相手にしたくなかったのだと思う。ホームの入居者も人であることに間違いはないのに。私はただ、物事の善悪の区別が出来る、もしくは多少なりともその知識が残っている人間と交わりたくなかった。2年間働き、認知症患者だけの施設は想像以上に大変だったけれど、行き場のない人達を助けることにやりがいも感じていた。でもやっぱり今回もダメだった。彼は辞めた方がいい、とまたしても言ってくれた。そう言葉をかけてくれると思っていた。そうして、今度の休みには温泉にでも行こうと私に微笑んだ。優しい彼、弱い自分。二人の立ち位置の確認作業。
 全てはフラットで凪のような日常に戻った。朝が来たと思ったらもう夜が来て夢を見た。そうして一ヶ月はあっと言う間に過ぎていった。退職するから診断書はいらないし、もう症状はほとんど良くなっていて薬も余っていたから受診する必要はなかったけれど、彼が心配するので仕方なく病院へ行った。待合室にいると、前回の受診の時に見かけたあの女が来て、また私の前の椅子に座った。前と同じ恰好で、前よりも彩りの失せた顔の少女も一緒だった。天井近くに付けられたテレビからはニュースが流れていた。見るともなしに見ていると、突然見覚えのある懐かしい建物が映った。私が働いていていたグループホームだ。画面下のテロップには、
「インフルエンザ感染者11名、死亡者7名、施設内感染を隠ぺいか」
と出ていた。
「この施設では三月末頃に入所者と職員がインフルエンザに感染していたにも関わらず市に報告を怠ったとされ、感染した入所者のうち7名の死亡が確認されています」
淡々とした何の感情もないアナウンサーの声。キーンという高温が耳の奥で鳴り始めて、なのにテレビの声だけは鮮明に聞こえた。顔はみるみる崩れていき、口は横に大きく歪んだ。私は笑っていた。
 本当は、うつ病なんかじゃなかった。主治医には三年前と同じ症状を訴え、怯えた様子を見せて診断書を書かせたにすぎない。休職に入った日の一週間前、私は体調を崩した。それでも身体に鞭を打ち気力で仕事へ行った。三日間38度5分の熱が続き、それからは少しずつ解熱していったけれど関節痛やだるさ、食欲のなさ、喉の痛みは一週間くらいあった。予防接種を打ったからなのか、それとも年齢のお蔭か、その程度ならば無理がきいた。咳や鼻水がでなかったのも幸いした。施設にウイルスが蔓延した頃を見計らって、精神科を受診し診断書を貰い休職、どうせ辞めることになると踏んでいたから、私が感染元だと分かるはずもないと高を括っていた。
 これが初めてではなかった。転機は1年前のある事件だった。どこかのグループホームで職員が入所者に暴行し死なせてしまった。ありがちな事件だと特に関心も示さず、テレビから離れて朝の支度をしていると、ある言葉が聞こえてきた。それが私の全てを変え、奪い、そして本物の命を与えてくれた。
「暴行した職員は反省しておらず、家族や社会のためになることをした、家族は無駄なお金を払い続けなくてよくなるし、国は無意味なことに税金を使わないでよくなった、などと供述しているとのことです」

 数年か長くても10年くらいでこの世から消える命のために、私は必死にやってきた。それが使命だと、誰かを助けていると思っていた。でも実際、ホームにあったのは何も入っていない空っぽの箱と時間だけだった。自分が誰なのかも、大切だった人のことも、生きているのか死んでいるのかも、何もかも全てを失ってそれでも体だけは動いている、この世界で一番悲しい生き物、それが生き永らえるように、ただそれだけのために自分の命の時間を削っていたんだ、私は。私がしてきたことで喜んだ人は一人もいなかった。入所者が亡くなれば大抵家族は涙を見せつつもどこか安堵していた。私は、この家族のことも、頭が吹き飛んで胴体だけになった老人のことも、皆不幸になるような仕組みに加担していた。
 1年間で、二人を正しく導いた。最初はやっぱり冬だった。もともと徘徊癖のあるおばあさんを誰にも見られないように非常口に連れていき、鍵をあけ重い扉を開いた。ただそれだけだ。数時間後にどこかの道路で見つかったけれど、時期は一月、風邪をひき肺炎をおこして死んだ。うめさんは体は元気だったけれど認知症重度で、排泄物を床や壁に擦り付けたり、職員に向けて投げたりした。食事の時はこんなもの食べられるか、と食器を職員に叩きつけたり、職員を噛み爪でひっかき、何度も殴った。
 次は夏だった。ホームに外国人の介護職員がいて、としさんはその職員に向けて度々暴言を浴びせた。彼女から攻撃を受けると思いこんでいて、あいつが部屋に爆弾をしかけた、とか、あいつが俺の食器に毒を持った、なんてことを毎日毎日喚き立て、家族が来た時もそれをまことしやかに伝えた。もちろん、としさんは相手が家族だなんて分かっていないし、家族のほうも病気のせいだと分かっていた。でも、彼女は見る見るうちにやつれていき、虚ろな目をしたままついに辞めてしまった。優秀な介護職員だった。その夜としさんが寝てから部屋に入り、彼の手足に跡が残らない程度に緩くロープを巻き付けた。朝になりそれをほどいて、静かに部屋を後にした。ロープで圧迫されていた血流が解放され、一気に全身を巡る。夜勤明けに施設から、朝としさんが心不全で亡くなったと連絡を貰ったので、朝の見回りの時はまだ寝ていましたと報告した。
 今回ほどに一度に多くの命を救える方法はないだろう。すがすがしい達成感で一杯だった。私は人のためになることをしたのだから。大学や現場で繰り返し習った福祉の心、なんてものはもうとっくに無益なことだと理解していた。本当に人を救うのは、死、のみだ。一人老人が減れば、一人子供が救えると信じた。身体も不自由になり自分が誰かも分からない、そうなったら安楽死をさせるという法律がなぜ出来ないのか不思議でならなかった。だから、私がやった。私はようやく人のためになる仕事をしたのだ。 
 斜め前に座る少女が椅子の上に膝立ちになり、くるりと後ろを向いた。彼女と目が合いそうになった瞬間、女が、母親が彼女の頭を叩いた。少女の目には怯えも恐怖もなく、ただ空虚のみが漂っていた。突然、足先に鋭い痛みが走り膝の辺りまでびりびりと痺れた。私はその女の座る椅子を、後ろから思い切り蹴り上げていた。すぐに振り向いて私を凝視し舌打ちをする女。私もめいっぱい力を込めて舌を鳴らした。
「なんだ、てめぇ」
女が立ち上がる。同時に私も腰を上げて、相手の顔のすぐ前に立つ。殴ってくる。お腹に鈍い痛み。すぐに私は女の鼻めがけて思いっきり拳を突き出した。パキっという音がして女はどさっと床に転がり、何か獣のような呻き声をあげながら顔を押さえている。私の肩を誰かが掴む。振り返ると青い制服を着た警官がそこに立っていた。頭も視界も真っ黒になってそのまま私は倒れた。
 目を開けると真っ白な天井、壁、布団。窓の外には見たことがあるようなないような光景。私はどこにいるのだろう、なんでここにいるのだろう。なぜか右手はジンジンと熱を持って痛い。ベッドから降りて鉄格子のかかった窓から下を覗くと、駐車場に青い制服を着たあの時の警官がいた。駐車待ちの車を誘導している。あれ?違う、なにかが違う、なにかが…あれは、あの青い制服は警官じゃない。警備員だ、警備員だ。私は我を忘れて、お腹を抱えて笑った。
「はははは、あははははっはああははは」
私の部屋なのに、勝手に他人が次々と入ってくる。白衣、白衣、白衣、そして彼。やっちゃんの顔が見えても、とにかくおかしくておかしくてどうしようもなくて、私はいつまでもいつまでも笑っていた。誰かが何かを叫んでも、やっちゃんの泣きそうな顔が目に映っても。
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