第1話

文字数 13,080文字

 
「いってきまーす」
 天手大典(あまてだいすけ)くんは、元気よく家を飛び出しました。
 九州の南から更に南のこの街に越して来て、早三日。まだまだ探検するところはたくさんありそうです。
 夏休み中の引越しだから、友達がいないのが残念ですが、それは仕方がありません。
 お天気は上々。
 からりと晴れた空。お日様がさんさんと輝いています。
「うーん。どうしようかな、この辺はもう見て回ったから」
 大通りに向かう道の前で、大典くんは立ち止まりました。身体ごと、ぐるぐると辺りを見回して思案します。
 遮るもののない真夏の太陽の日差しが、まともに大典くんの頭や首筋に射してきます。お気に入りの赤いシャツの背中に、汗が滲んできました。
 あれ?――大典くんは回るのを止めました。
「あんな森あったっけ。よし、あっちに行ってみよう」
 太陽とは真逆の方角に、こんもりとした緑が見えたのです。あそこなら木陰で涼しいに違いありません。

 樹々はぎっしりと茂っていましたが、ちょうどよく、ぽかっと穴が空いたような場所がありました。大典くんはそこから森の中へと入っていきます。
 濃い緑の葉っぱが分厚く繁っていて薄暗く、足下の土は湿っていて粘っています。一歩ごとに靴裏が取られるようで、大典くんは慎重に歩を進めます。 
 進む脇には、背丈くらいある草が押し合うようにして生えていました。
 大典くんが歩いているところだけ、土がむき出しです。
 人や動物がよく通るところは草や木が生えにくいから、自然と道になるんだよ――一年生の遠足のとき、先生がそんな話をしてくれたことを大典くんは思い出しました。
 突然、樹々が左右に分かれたようになり、ギザギザの入り口のトンネルみたいな穴が現れました。
「うわぁ、洞窟だ」
 大典くんの心臓が、ドキリと跳ね上がります。
「真っ暗だ。深いのかな」
 怖々と、でもじりじりと高まってくる好奇心を抑えきれずに、穴の中を覗き込みました。
 本物の探検の予感に危ないことも忘れて一歩、また一歩、中へと足を踏み入れます。
 すぐに視界が利かなくなりましたが、冒険気分でいっぱいの大典くんは引き返すことなど考えません。手を壁の方へと伸ばし、指先でなぞりながら先へ先へと進みます。
 ――どのくらい歩いたでしょう。
 大典くんは立ち止まりました。
 り……
 澄んだ音が。
 り……り……
 鈴に似た、しかしもっと澄み切った音が奥から聞こえてきました。
「何だろう? 鈴虫、じゃないよね」
 以前おじいちゃんの家で聴いた鈴虫の()に似てると思いましたが、すぐに違う、と首を振ります。鈴虫の()もきれいだったけど、この音に比べればそれでも濁っていたように感じたのです。
 大典くんは引き寄せられるようにして、音の方へ――奥の方へとまた歩き始めます。
「うわっ」
 壁をなぞっていた指先が、何か冷たいものに触れました。
 大典くんは慌てて手を引っ込めます。
 目の端に何か光るものがありましたが、すぐに消えました。
 盛り上がっていた気持ちが、スッと冷えていきます。
 そうすると気味が悪くなってきて、早く外へ出ようと、回れ右で来た方へ向き直ります。
 真っ暗で何も見えません。
「えっ、えっ?」
 真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、入り口が見えません。
 大典くんは右に左に頭を振りますが、やっぱりただただ闇の中です。
 そんな! こんなに真っ暗なんだから、どんなに森がお日様を遮っていても、外からの光が分からないなんてこと――
 り……
 あの澄んだ音が。
 り……り……
 こうなると、大典くんは音のする方が頼りのような気になります。そちらに向かって進もうと決めました。
 もう一度、なんとか壁に触れないかと恐る恐る両手を広げます。
「わっ」
 また冷たいものが、右手の指先に当たりました。思わず大典くんはそちらに目を向けます。
 ふっ、と。
 光が瞬き、消えていきます。
 どうやら指先が触れた場所のようです。
「何だろう?」
 大典くんの胸に、再び好奇心が湧き上がってきました。
 光のあった辺りにもう一度指を伸ばします。
 冷たさを感じたのと同時に――ふっ、と。
 光が瞬き、また消えていきます。
 消える光を追うように、大典くんは掌をぐいっと突き出しました。冷たかったけれど、それはほんの一瞬のこと。
「うわぁ……!」
 ふっ――ぱぁっ、と。
 光が――幾つもの光の粒が暗闇に浮かびました。
 り……
 り、りり……
 あの澄んだ音も響きます。
 今度は光は消えません。暗闇の中を、散りながら広がっていきました。
 広がるそれぞれが居場所を定めるようにしてとどまると、チカチカと瞬きを始めます。
「星? もしかしてこれ星だよね」
 パチパチパチ――大典くんの声に応えるかのように一人分の拍手が起きました。
「正解だ」
 暖かな声音――大人の男の人の声でした。
 声の主は、手を叩きながら大典くんの方へと歩いてきます。
 大典くんは男の人がいきなり現れたことよりも、その風体にぎょっとしました。
 男の人の頭は、ぼうっとした光に包まれていたのです。
「よく分かったね」
 そう言うと、そっと両手を広げて大典くんを歓迎するような仕草をしました。
 光で顔が見えなくても、穏やかな物言いと柔らかな物腰が、大典くんには好もしく映りました。
 大典くんが一歩、男の人へ歩み寄ると、その人は言葉を続けます。
「これは星だ。小さい星達が輝いているんだ」
 それを聞いた大典くんは、あっと声を上げました。 
「あの、おじさん、ここ、もしかしてプラネタリウム?」
 男の人は係の人で、光るかぶり物をかぶっているんだ、と閃いたのです。
 しかし男の人は怪訝そうに聞き返してきました。
「プラ? なんだって? きみ、さっき言っただろう。星、だと。だからわたしは拍手をしたんだ。だけど――うん?」
 あれっ――ぼうっと光を放つ顔を俯けて、その人は自分の両手を見つめるようにします。
「わたしは、いったい――わたしは何を」
「おじさん? どうしたんですか」
 大典くんは心配になって、駆け寄ろうとしました。
「いや」
 男の人は、それを制するように手を上げます。 
「……そうだ、わたしはここで――そう、わたしは先生なんだ」
「先生?」
 このかぶり物をした人が?
「いや、きみの学校の先生じゃない。わたしはここの、そう……この星達の先生なんだ」
「星の? 先生ですか?」
「そうだ。この星はわたしの教え子達だ。わたし達はここで長いこと眠っていたようだけど、どうやらきみに起こされたらしい」
 男の人は光る頭を巡らせます。
 星々はチカチカと瞬きを返します。どの星もきれいで、とても嬉しそうに見えました。
 大典くんは思わず呟きます。
「星の、先生……」
「星の先生? ああ、いいな。その呼びかたはとても素敵だ」
 男の人の――星の先生の顔は見えませんが、にっこりとしたのが大典くんに伝わりました。
「ところできみの名前を聞いてもいいかい」
「あっ、すみません。ぼくは天手大典といいます。引っ越してきたばかりで、二学期からこっちの小学校に通います」
「そうか。天手くん。しっかり勉強するんだよ」
 星の先生の言葉に頷くように、周りの星達がキラキラと瞬きます。
「はい……」
 大典くんは歯切れ悪く答えました。 
 星の先生はくすりと笑います。周りの星達が今度はチラチラと瞬きました。
「天手くんは勉強が好きかい?」
「えっ、は、は……いえ」
 大典くんは言葉を詰まらせます。本当はそんなに好きではありません。でも先生に対して、そう答えるのは失礼かもしれない――だけど嘘はつけないし、と考えがこんがらがってしまったのです。
「あはは、急にこんなこと聞かれたら困るよね」
 星の先生には、そんなことはお見通しのようでした。
「この星達も勉強はあまり好きじゃなかった。だけど、それでも勉強をしたくてたまらなかったんだ」
 星達が瞬きます。強く瞬くもの、そっと瞬くもの、カッと光って、激しく瞬くもの。
 星の先生はそれをゆっくりと見回しながら、何度も深く頷きました。
 大典くんは、少し置いてけぼりの気持ちを味わいます。
「天手くん、それがいったいどういうことなのか、解るかい?」
「あ……ごめんなさい、解りません」
「そうだろう。いや、謝ることじゃない。それは君がとても幸せだということだ」
 えっ、と不可解そうな大典くんに、星の先生は語ります。
「勉強が好きじゃなくても、それでも勉強をしたくてたまらなかったというのは、だ。勉強よりも、もっとイヤなことをしなくちゃならなかったってことなんだ。分かるかい? 例えば、天手くんなら何をするのがイヤかい?」
 勉強よりも、もっとイヤなこと? 
 大典くんは前の学校でのことを思い浮かべます。
 持久走がイヤでたまらなくて、そうぼやいたことがありました。それに乗った友達も雨で中止になればいいと言い始め、授業の方がマシだよ、と段々盛り上がっていきました。
 おまじないをしようと言いだしたのは誰だったか。お昼休みを潰して作ったてるてる坊主をたくさん逆さまに吊して、女子や先生に笑われて――バカなことしたっけな。
 もちろん雨は降らなくて、次の日はみんなでてるてる坊主の悪口を言いながら、ふぅふぅ走る羽目になりました。
「ぼくは持久走よりも、授業の方が良かったです」
 星の先生は、ほんのちょっとだけ何ともいえない雰囲気を醸し出しましたが、すぐに優しく頷きました。
「そうか。天手くんは走るのが嫌いなのか」
「あっ、いいえ、ぼく走るのは好きです。でも持久走はタイムが遅いと一周追加になったりするし、その、楽しくなくて。えっと……走りたくないのに無理に走らなきゃならないし」
「無理矢理なのがイヤなんだね。じゃあ、さぼったらどうかな?」
「さぼる?」
 先生の口からそんな言葉が出たことに、大典くんは驚きました。
「さぼる? そんなのダメじゃないですか」
「ダメ? どうして」
「だって、さぼってタイムが出なかったら成績も下がるし……それにみんな我慢して走るのに、ぼくだけ走らないなんてこと、ダメじゃないですか」
「ダメかい」
「ダメです」
 星の先生の声音は、とても真面目に聞こえました、大典くんは眩しいのを堪えて、星の先生の目の辺りを見つめて返事をします。
「ダメと思うからきみは走るんだね。みんなが我慢してるから、きみも我慢することを選ぶ」
 星の先生も大典くんの目を覗き込むようにして、軽く背を屈めます。
「はい」
 大典くんは、はっきりと答えます。
 星の先生は続けます。
「そのことは、もう少しちゃんと考えてみるといい。みんなが我慢しているから自分も我慢するということが、いったいどういうことなのか。みんなが我慢しているから、ダメとかイヤとか言わない――言えないことは、果たして正しいことだろうか」
 楽しかった思い出を話しただけなのに、どうして星の先生は難しい話を始めたのか――大典くんは軽く面食らいました。
 しかし、大典くんの胸のうちを知らない星の先生は言葉を続けます。
「好きなことさえ無理矢理だったらイヤになる。なら、嫌いなことを無理矢理にさせられるとしたら、どうだろうか」
「えっ、嫌いなこと、ですか? それはもちろん」
「そうだ、もちろんもっとイヤになる」
 ざわっ、と星達が二人の周りを回り始めました。
 すぅっと光を消すようにして、ふらつく星もいます。大典くんの頬や腕にぶつかっては、サッと離れる星もいます。
 ぶつかったところはキンと冷たく、痛いくらいに感じます。
「イヤなことが授業なら、時間がくれば終わる。嫌いなものを食べることだって、口に入れて飲み込んだら終わる。だけどそれが終わらないとしたら――天手くん、想像できるかい」
 星の先生はあくまでも穏やかに言っています。でも、星達はみんな、落ち着かない様子です。
 大典くんの気持ちも、ざわついてきました。
「朝起きてから夜眠るまで、いや、ろくに眠ることもできない毎日が続くんだ。イヤなことばかりして。イヤな目にばかり遭って」
 星達が、ぶるぶると震えるようにして瞬きます。ある星は目を刺すように激しく輝き、ある星は消える寸前にまで光を落として。
「安全な眠りもない、美味しいご飯もない。ご飯どころじゃない、食べるものが――ない」
 星の先生の声も震えてきました。
「恐ろしいものから逃げ回らなければならない。怪我や病気をしても休んだり治したりする術もない。家族や友達、自分自身の命さえ失われてしまう」
 り……
「それも簡単にじゃない。苦しんで苦しんで苦しんで、苦しんだ末にだ」
 りりり……
 星達の震える光に合わせるようにして、あの澄んだ音が響き始めました。
「想像できるかい? こんなに苦しいなら、早く死にたいって、心の底から願う気持ちを」
 り……! 
 り……!
 り……!
 澄んだ音が大きく高く響きます。
 ああ! と突然、星の先生が大きな声を出しました。
「わたしはどうしてこんな話をしているんだろう!」
いきなりの星の先生の様子に、大典くんは思わず半歩引いてしまいます。
「わたしは、わたしはどうして、なんで」
 星の先生は両手で顔を覆うようにして、よろよろと膝を折るような格好になりました。
 大典くんはその場に立ち尽くしたようになって、動けません。
 すると、あちこちで瞬いていた星達が、すいっ、とこちらへやってきました。
 ぼうっと光っている星の先生の頭の周りを、静かに回り始めます。
 り……
 り、り……
 澄んだ、綺麗な音。さっきより、響きが柔らかくなったように聞こえます。
 星達が星の先生を心配していることに、大典くんは気付きました。
 やれ冒険だ探検だ、と高揚していた気持ちは、もうすっかりなくなっています。
 これはプラネタリウムじゃなくて。
 アトラクションでもない。
 あの人が光っているのは、かぶり物のせいじゃない。
 じゃあ、いったい何なんだろう。
 優しそうな男の人に思えるけど、首から上が光って見えない星の先生と、自由に飛び回ってきれいな音をたてる、氷のように冷たい星の生徒達。
 大典くんの胸に冷静な心が戻ってきます。
 ここはぼくの家のほんの裏にある森の中で見つけた、洞窟みたいな穴の中で……でもこれは、これはいったい何――大典くんは両目をゴシゴシと擦ります。
 深呼吸をして、目を開けました。
 両手をぼうっと光る顔に当てたままの、星の先生。その周りで瞬く、小さな星達。 
 さっきと全く同じものが見えています。
 同じものしか見えません。
「――思い出した。きみ、天手くん。わたしは思い出した」
 星の先生の両手が、ぐぐっと握り締められて拳の形になっていきます。
 飛び交い始める星々。
 瞬きの速度が上がります。 
 り……
 りりり……
 りりりりりりりり……
 あの澄んだ綺麗な音が、辺り一面に響き渡ります。
 大典くんは悟りました。
 これは星達の声だ!
「星が、星が叫んでる。そうでしょう、星の先生」
「ああ、そうだ。この星達は、苦しみを味わった。ここに追い詰められて、何処にも逃げることができず、誰にも助けられることもなく」 
 更に星達の叫び。
「わたしはみんなの先生だけど、守ることも助けることもできなかった」
 り!
 星の先生の言葉にかぶせるように、星達が動きを止め、一斉に強く輝きました。
 違う!
 そう言っているんだ、と大典くんにも解ります。
 だから、星の先生に解らないはずはありません。
「ありがとう。だけど、あれからずいぶん経ったけど、こうして君達をここに留まらせてるのはわたしの――そうだ、ああ、わたしは本当に何もしてあげられなかった」
 ひとつふたつ、強く光った星が星の先生に近付きます。残りの星達も、チカチカと語りかけるように瞬きます。
 あれ?
 大典くんは目を凝らしました。
 一際明るく光る星が、星の先生に寄り添うようにしています。ちょうどシャツの襟のところに――けれど襟の下の影は、反対側と同じく薄っすらとしているのです。
 ということは――星の光は、星の先生には映っていないということです。
 変だぞ。でも、落ち着け、落ち着け。もうこれまでも充分変なんだ。
 大典くんはそっと深呼吸をして、辺りを見回します。
 小さいといっても、こんなにたくさんの星達がいるのに、ここは真っ暗闇のまま――そう、こんなに光があるのに、です。
 大典くんは自分の足下に目をやりましたが、何も見えません。
 手を上げてみました。目の前に持ってきても指一本見えません。
 でも星の先生と星達は、変わらずそこに見えているのです。
 星の先生は両目の辺りに拳を押し当てて「すまないすまない」と繰り返しています。
 星々はふわふわと、先生の周りを近寄ったり離れたり。
 ふと、星の先生の姿がぶれたかと思うと、そこにだぶって男の人が現れました。
 まだ若いその男の人の、大きな耳と広い額が目立ちます。ボロボロの格好で、地面に覆い被さるようにして座り込んでいます。
 ――おかあ
 弱々しい声がしました。
 子供が横たわっていました。大典くんと同じくらいの年頃でしょうか。やっぱりボロボロの格好で、顔と胸がヌラヌラとしたもので汚れています。
 男の人はその子の小さな手を、そっと握りました。
 ――おかあ
 もう一度言い、ふぅっと息を吐くと、子供の目から光が消えました。
 そしてその光景も消えました。
「ああ、きみはどんなにお母さんに会いたかっただろう。なのにわたしだったんだ。きみの手を握ったのは、お母さんじゃなくてわたしだった。わたしはきみを叱ったり、ときにはポカリとやったこともある。なのに最後にきみの手を握ったのが、そんなわたしだなんて」
 星の先生が、呻くように言いました。傍でひとつの星が、チカチカチカと瞬きます。
 りりり……
 瞬きと共に澄んだ音――この星の声なのです。
「あっ」
 大典くんはその星の中に、ほんの一瞬、あの子供の顔を見ました。
 り……
 り……
 またも星の先生の姿がぶれました。
 さっきと同じように星の先生に重なって、あの若い男の人が、さっきよりももっとボロボロになっていました。広い額が泥のようなもので汚れています。
 男の人は、片手で何か黒いものを掴んでいました。
「できない。わたしにはできない」
 掴んでいる黒いものを投げ捨てようとしますが、それもできずにまた握り直すのです。
 むき出しの地面に寝転がっている子供や、放心したように座り込んでいる子供。泣きじゃくる子供と、その背を撫でている子供。
 もう動かない子供。
 どの子供も、男の人に負けず劣らずボロボロです。みんな酷く痩せていて、顔には濃い陰が降りています。
「せんせい、くらくてこわいです」
「せんせい、お日様がみたいです」
 遠慮そうな、恥ずかしさをこらえたような声がします。
「だめよ。せんせいをこまらせちゃ」
 かすれた声がそう言います。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
 さっきの声が謝ります。
「謝るのはわたしのほうだ。わたしがこれを使えば、君達の苦しみは一瞬で終わるんだ。だけど」
 男の人は黒い何かを胸に抱えていました。
「だけど、できない。どうしてもできない」
 顔をグシャグシャにして、言葉を継ぎます。
「それでもわたしは……これを捨ててしまうこともできないんだ」
 黒い何かをぎゅっと抱き込むと――許してくれ――男の人は膝を折り、同時にその光景は消えました。
 ――星の先生と周りを囲む星々だけが、大典くんの前に残りました。
 星の先生の頭は変わらず光ったままですが、その光が何も照らしていないことを大典くんは認めました。
 それなのに。
 本当はここは自分の腕さえ見えない暗闇の中なのに。星の先生の姿は、切り取ったようにはっきりと見えているのです。
 大典くんは思い切って、一番近くにいる星に向けて掌をかざしました。
 星はびっくりしたようにチカッと大きく瞬きましたが、大典くんの手には光も影も射しません。やはり本当の光ではないのです。
「天手くん、わたしは何もかも思い出した」
 星の先生はゆらりと頭を上げると、ボロボロの男の人と同じ声で言いました。
 り……
 りり……
 星達も、それぞれ澄んだ響きとともに瞬きます。光の中に、さっきの子供たちの顔がふぅっと浮かびました。
 みんな、星の先生のことをとても心配そうに見ています。
 ため息をついてまた頭を垂れてしまった星の先生は、星達のその顔に気付けません。
「星の先生、ぼく、ぼく」
 黙って見ていた大典くんの胸の奥から、重くて熱くて激しいものが、ぐぅっと迫り上がってきました。
 産まれて初めて感じたそれは喉の手前で詰まってしまい、あまりの苦しさに大典くんは腰を折りました。
「う、う、うわあああああああああ」
 知らず叫びがほとばしり、重くて熱くて激しいものが体の外へと飛び出します。それは胸の芯から噴き上がった、名付けようのない感情でした。
 ここがどこなのか、これが何なのか大典くんには解らないままでしたが、そんなことはもうどうでもよいことです。
「星の先生、ぼくにも見えました」
「そうか」
 星の先生は穏やかに答えました。
「ぼくは。ぼくにできることはありませんか。お水を持ってきましょうか。薬や布団も」
「いや、ありがとう。だけどもういらないんだ。もう終わったことなんだ、あれは」
「でも」
 大典くんは言葉を詰まらせました。
 星達の声もやんでいます。
 静かな時が流れます。
 やがて、ぼうっと光っている星の先生の頭が、ゆっくりと上を向きました。
「天手くん、わたしは考えていた。どうして今、ここにきみが現れたのだろうか、と」
「え、それはぼくが引っ越してきて、家の周りを探検してて」
「そうじゃない」
 星の先生は大典くんに向き直ります。
「何故今なのか。何故、きみなのか」
 り……
 星々が、話し合いでも始めたように、活発に瞬き始めました。
 何故と言われても、大典くんには解りません。
「必ず理由があるはずだ。だってわたし達は、ずっとここで眠っていたのだから。きみの様子から思うに、あれから相当の年月が過ぎているのだろう」
 星の先生は、腕組みをして考え込む仕草をしました。
 しばらくそうしていると、ひとつの星が星の先生の耳の辺りに漂ってきて、チカチカチカと瞬きました。
 星の先生はハッとして、腕組みを解きました。
「天手くん、もう一度きみの名前を言ってくれないか」
「えっ、はい、天手大典です」
「天手大典! あまてだいすけ! ああ、そうか。きみは名前に太陽があるんだ。だからわたし達はきみに起こされたんだ」
 り……!
 りりりりり……!
 そのとおりと言わんばかりに、星達が一斉に瞬きました。澄んだきれいな音が、一面に満ち広がっていきます。
「あの、どういうことですか? ぼくがいったい」
「天手のて、大典のだ、『てだ』。この子達の言葉で『太陽』の意味だ!」
 星の先生は、きょとんとしている大典くんの手をとらんばかりにして喜びます。
「みんな、太陽だ! お日様がやってきた!」
 り……
 りり……りりり……
 りりりりりりりりりりり!
 星の先生の言葉に、星達がパッと大きく瞬きました。力の限りといわんばかりに、ぐんぐん光が増していきます。
 星の先生が両腕を大きく広げました。
 それを合図にしたように、星達は螺旋を描きながら、舞うようにして飛び回ります。とてもとても嬉しそうです。
 りりり、という音が、大典くんの耳の奥で反響するほどに強く高く――。
「……わぁっ」
 大典くんは目を見張りました。
 星達の放つ各々の光が、ぶわっと大きく膨れたのです。
 それが隣り合う光とぶつかります。そのぶつかったところから、キラキラと美しい金の粉が飛び出しました。
 金の粉と引き換えるようにして、星達は散りながら消えていきます。
 りりり…………
 り、り…………
 り…………
 …………
 ……
 やがて、星達は全ていなくなってしまいました。
 澄んだきれいな音も、もうありません。
 静寂が訪れました。
 無音の中、星達の代わりに生まれた金の粉が、渦を巻いて漂います。最初はゆっくりと、それから段々と激しく。
 そうやって回転していくうちに、金の粉は幾つもの小さな塊になりました。
 これは――もしかしたらあの星達と同じ数だけあるのかもしれない、と大典くんは思います。星の数を数えていればよかったな、と。
 次第に渦の流れは緩やかになり、やがて回転が止まりました。
 少しの時の後、漂っていたその塊達からの、ピシリという音がしじまを破ります。それぞれが一文字に裂けて、そんな音を立てたのです。
 裂け目はみるみる大きくなり、ムクムクと何かが出てきました。
 蝶です!
 金の衣を脱ぎ捨てるようにして、大きな蝶が次々に生まれ出ました。丸まっていた翅は、あっという間にピンと広がり、それは見事な紋様が現れます。
 黒と白が絡み合うような模様――なんと美しい蝶でしょう!
 蝶達は、揃って翅を広げて飛び立ちました。同時に、金の塊だったものは溶けるようにして消えてなくなってしまいます。
「……すごい」
 大典くんは大きく息をつきました。知らず息を詰めていたのです。
「きみのおかげだ。天手くん」
 大典くんは振り返ります。
「ぼくの?」
「そうだ。この子達はお日様をずっと待っていたんだから」
 飛び回っていた蝶達が、星の先生の周りに集まってきました。星の先生の頭は、今もぼうっと光っていますが、蝶達はみんな、もう、ちっとも光っていません。
 光っていなくても、その姿ははっきりと大典くんの目に映っているのです。
「――あっ」
 星の先生の光が、いつの間にか弱くなっていたことに大典くんは気が付きます。それを知ってか知らずか、星の先生は出会ったときと同じように、穏やかに言いました。
「天手くん。『てだ』を持つきみに、この子達を連れて行ってもらいたい。どうか安全で安心できるきみの世界に、この子達を」
 話している間にも、星の先生の光は徐々に弱くなってきています。もうすぐその顔が見えそうなくらいにまで。
「さぁ、みんな、天手くんに付いて行くんだ。お日様のところに連れて行ってもらうんだ」
 星の先生は蝶達にそう言うと、大典くんの方へと大きく手を振ります。
 しかし蝶達は、星の先生の傍から離れません。
「だめだ、だめだ。言うことを聞きなさい。わたしはもう、きみ達とはいられない」
 星の先生の光は、もうすぐ消えてしまいそうです。大きな耳と広い額が分かります。 
「お願いだ――」
 絞り出すような星の先生の声に重ねるようにして、大典くんは言いました。
「みんな、ぼくと一緒に行こう!」
 大典くんは深呼吸をすると、言葉を続けます。
「星の先生も一緒です!」
 とても強い口調に、自分でもびっくりしました。
 一番大きな蝶が、星の先生の周りを誘うように回ります。
 他の蝶達も倣います。
「――ありがとう」
 星の先生の光は、もうほとんどありません。目や鼻の輪郭が分かります。
「みんなの気持ちは解っている。だから、わたしの気持ちも解ってくれ」
 星の先生はくるりと後ろを向きました。
「待ってください、星の先生も一緒です」
 大典くんは、星の先生の手を取ろうとしましたが、スッとかわされてしまいます。
「わたしは行けない。一緒には行けない」
 星の先生の頭から光が消えてしまうのと同時に、ゴウッ、と風が吹きました。
 蝶達が風に煽られます。
「わたしがわたしを許せたら、そのときはきっと追いかけるから――いつか」
「星の先生!」
 大典くんは背中に暖かいものを感じます。
 ちらりと振り返ると、でこぼこしたものが――地面が、壁が、見えてきます。
 本物の光が。
 あれは入り口から射す太陽の光だと、大典くんは察します。
 蝶達は風に逆らい、懸命に羽ばたいています。
「星の先生! こんなのダメです。星の先生、さっき行けないって言いましたよ。行かない、じゃなかった。それって本当は行きたいってことですよね?」
 吹き付けてくる風から顔を腕でかばいながら、大典くんは懸命に言葉を探します。
 大典くんのすぐ傍の蝶が、強まってくる風の勢いに耐えきれず、入口の方へと飛ばされました。
「きみも見ただろう? わたしはこの子達を苦しめた。これ以上ないほどに苦しめたんだ。だから」
 星の先生の応えは、風の音にかき消されました。それでも大典くんにはその先が分かります。
 星達の中に見えた子供達の顔が、大典くんの胸をよぎります。みんな星の先生のことが大好きなんだと、はっきり分かる顔でした。
 大典くんは、風音に負けない大声を出しました。
「星の先生! みんな待ってます。みんなの気持ち、伝わってるんでしょ? 解ってるって言ったじゃないですか」
 強い風に押されそうになる大典くんの目の端に、光をなくした星の先生の姿が微かに映りました。こちらに向き直っています。
 大きな耳と広い額――星の先生は確かに大典くんを見て、確かに微笑んでいました。
「星の先生、そんな」
 羽ばたき疲れた蝶が、次々に飛ばされてしまいます。
 ――こんな最後は、あんまりだ! いけない、いけない!
「ダメです!」
 そう口にして、大典くんはハッとしました。
 星の先生との、あの難しい話に思ったやりとりのことを――そうだ!
「星の先生、言ったじゃないですか。みんなが我慢してるからって我慢することを選ぶのは正しくないって。じゃあ、ぼくも言います! みんなが苦しんだのは解ります。でも先生も一緒に苦しんだのに、先生だけがもっともっと苦しまなきゃいけないなんて、そんなのおかしいんじゃないですか」 
 大典くんは精一杯手を伸ばしました。
 星の先生の微笑みが崩れます。
 風の勢いが、恐ろしいくらいになりました。
「みんな星の先生が大好きなんだ。一緒じゃないと、先生、またあの子達を苦しめちゃうよ」
 精一杯伸ばした大典くんの指先に、何かをかすめたような感触がありました――確かに。

 ぱぁっ――
 突然の眩しさに、大典くんは思わず目を閉じました。
「んっ、うーん」
 じわじわと瞼を開くと、そこは家の裏手にある雑木林の前でした。
「あれっ、ここは?」
 林の中は背の高い草が隙間なく茂っていて、とても入れそうにありません。
 道がないこともそうですが、生えている木の感じも、大典くんの記憶にある森とは全く違います。
「星の先生! ちょうちょ!」
 ぐるぐると見渡しましたが、星の先生も蝶達も何処にも姿は見えません。
 大典くんは呆然となり、しばらくじっと立ったままでした。
 ――と、
「うわっ!」
 いきなり目の前に大きな蝶が現れました。
 黒と白が絡み合うような模様の、とても美しい蝶です。
 蝶は、大典くんの鼻の先をひらひらとすると、ふわりと舞い上がりました。
 大典くんが見上げると、同じ模様のたくさんの蝶達が、群れを作って飛んでいるではありませんか。
 群れは大きな蝶を迎えると、更に高く高く昇っていきます。
 ――太陽の方へ。
 まもなく美しい蝶達は、お日様に溶けるようにして見えなくなってしまいました。
                         
                                       おしまい
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