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文字数 1,015文字

 停電になって冷蔵庫を開けた時、父の綻んだ顔と自分の顔が一瞬、重なったような気がした。
 市の大雨警報の放送が流れて、その放送をもかき消してしまいそうな勢いの雨音は、一瞬でもこの場を人間に譲る気はないのだというように、鳴り続けて止むことはない。
 真夜中だというのに、人も雨も騒がしい。
 クーラーの除湿機能が止まった部屋は、ムンと湿度が上がってくる。
 裸足の足の裏には、心なしか少し湿っぽいフローリングが吸い付いて、キュキュっと音を立てる。

 あっちぃな、と思わず女性らしくない言葉で呟いて、私は冷蔵庫から取り出した生ぬるい保冷剤を首に当てた。
 今日のような停電の夜、我が家には(といってもまだ九州の実家に住んで時のことだけれど)ちょっとした習慣のようなものがあった。
 溶けてしまうともったいないから、と父さんが冷蔵を開けて、取り出したチューペットアイスを家族全員で食べるのだ。
 父さんと母さん、姉さんと弟と私。五人家族だから一袋のアイスを食べ切るのは苦痛とは感じなくて、むしろ我が家では一種の特別なイベント事のようなものだったから、停電になると子供ながらにわくわくした。
 アイスは、1日一本までという決まりだった。
 うちの父は何かと厳しい人で、そのルールを破ることは許されなかったのだけれど、停電の日は特別で、何本食べても叱られることはなかった。

 こんな日だからいいんだ。たまには緩くやっていかなきゃ人間やっていけないよ。
 父はそう言って、誰よりもチューペットアイスをかじった。
 普段、父は自分が課したアイスのルールを決して破らなかったのに、その日だけは気にせずにアイスを食べたりするものだから、次の日お腹を下していた。

 こんな日だからね、と私はチューペットアイスを取り出して、八重歯で口の部分を噛み切った。
 溶け出している氷の上に溜まった汁を啜ると、甘酸っぱい濃いリンゴ味が乾いた口の中に広がる。
 チューブに歯を立てると、ジャリっと氷が砕ける食感がする。
 あっという間に一本を食べ終えて、私はまた冷蔵庫からアイスを取りだす。
 今度袋から引いたのは、ブドウ味だった。

 停電の復旧は、暫く時間がかかるようだ。
 激しい雨は、まだ止まない。
 停電の日の父のように、残業手当の付かないプレゼンテーションの資料を放り出して、私はあの頃を思い出して、夢中で何本も好きなだけアイスをかじった。
 たまには緩くやっていかなきゃ、人間やっていけないから。
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