第1話

文字数 4,991文字

はじめはガラスのような音だった。見ればおはじきくらいの欠片が道の落ちていた。
――時間結晶だ。
俺は上を見上げた。
深夜の工業地帯。昼間ならば人が行き交うのだろうが、今は周囲に自分以外いない。俺はこの場所に用事があったわけではなく、ただ家へと帰る道中に通りがかっただけだったが。
工場の上層は、暗くてはっきりとは見えない。しかし尚も頬を掠めるように結晶は少しずつ落ちてきている。
……上へ行くか、このまま様子を見るか、時間結晶を拾って帰るか。
その三択を考えている内に、事は動いた。
工場から夜空に、黒い影が放り出された。
「……え?」
思考が止まる、一瞬の間。影は俺の方へ落ちてきて、影が人間だと分かったときには鈍い音と共に頭から地面に叩き付けられていた。
俺の数メートルも離れていないところ。
足は本来曲がってはいけない方向に曲がっていて、裂けた皮膚から白い骨が見えかけている。肺に折れた肋骨でも刺さったのか、必死に呼吸を吸おうとしているがビクビクと胸を震わせるだけで酸素は入っていかないらしい。
あまりに凄惨な、落下死体。
「ちょっと、待てよ」
手が、足が、震えた。
額にじわりと滲む汗を拭いその人間に近付けば、着ているものは紺色のセーラー服で、血に濡れている顔は自分よりも若い、まだ幼さの残る少女のものだと分かる。
救急車を呼んだとしても、間に合わないのがありありと分かる。
けれど……死体じゃない。まだ死んでない。
ならば、この俺にこそ出来ることがある。
震えはこの状況への恐れによるものではない。生かすか生かさないか、それを俺が決めなければならないということに震えている。
奥歯を噛んで、ポケットからスマートフォンを取り出す。電話を繋げたのは、119ではなかった。
「――相瀬!」
「切羽詰まった声でどうしたの?」
「目の前に、ほっとけば死ぬ人間がいる」
その言葉だけで、相瀬は理解したのだろう。わざとらしいため息が、耳元で聞こえた。
「……やれって、言われたいだけでしょう?」
「…………」
「責任はお前のものだよ」
それを聞き、俺は電話を切った。
短く息を吐いて呼吸を落ち着かせ、前を向く。
震えるな。
自分の足で立て。
後戻りは出来ない。
ネックレス代わりに着けていた小瓶を胸元から取り出し、栓を抜いた。落ちている物よりも遥かに純度の高い、しかも効果は逆の《逆行結晶》。
責任は、全部取ろう。
逆行結晶を少女の胸の、心臓がある辺りに押し付ける。
手の中でゆっくり融けていく感触がある。それと共に、少女の傷はだんだん塞がっていった。


「……ここは、どこ」
「良かった。起きてくれて」
本当に、良かった。
時刻は日付が代わり日曜日の午前九時。思ったよりは早い目覚めだ。
あれから相瀬を呼び、傷の治った少女はうちの店のソファーに寝かせていた。俺は作業を止め、試験管にかけていた火を消した。
少女は辺りを見渡し、不意に視線を下げ、自分の服装を見た瞬間悲鳴を上げた。
「うわっなにこれ!服がヤバいんですけど……!?」
「着替えさせるのはさすがに躊躇われたのでそのままでごめん」
「一体何が……?」
「俺はテシロ。向こうに座っているのは相瀬。君は?」
「……佐代蜜季」
「記憶はある?」
「全くない。何か起きたことは分かる」
「だよね」
「もしかして、あなたが助けてくれたの?」
「そうだけど……」
「何か?」
「もう少し疑われると思ってた。記憶が無いなら尚更」
「起きたときにあんなに安心した顔をする人が悪い人とは思えないから」
「なるほど。君がいいこで良かった」
昨晩、工場で起きたことを説明していく。
「私、死んだの?」
「死にかけた、ね」
「どうりで……全身、嫌な感じがする」
「無理はさせてるから」
「《時間結晶》って何?」
「俺の目に見える結晶。ここは《時間結晶》を精製するところ」
「どうりで理科室みたいな器具があるわけだ」
《時間結晶》は、文字通り時間を結晶化したものだ。人が寿命より先に死ぬ行為や、他人から危害を加えられたときに稀に原石の時間結晶が落ちることがある。その原石を精製すれば、時間を進めたり戻したりすることの出来る結晶が出来上がるのだ。
その原石は万人に見えるわけではない。俺は《時間結晶》を見ることが出来て、扱う術を知っている人間だった。ここは俺の工房を兼ねた店であり、テーブルには精製に使う器具を広げていた。
「自殺でも無いわけ?」
窓際の相瀬が言葉を投げる。
「自殺はしない。死ぬほど悩んでることも無いよ……今の記憶の限りでは」
「大丈夫、自殺じゃないのは俺も分かってる」
「他人に殺されかけたんだよね?じゃあ、警察に行かないといけないんじゃ」
「それなんだけど」
相瀬は歯切れ悪く言う。
「《逆行結晶》の使用は基本的に犯罪なんだ。特殊犯罪だから警察の桂架隊管轄。とはいえ犯罪には違いない。その場合、居合わせたテシロ自身が犯罪者でもあるから、証言に合理性が無くなるわけよ」
《逆行結晶》は人の時間を戻す結晶だ。使えば戻した分の記憶も無くなる。逆行結晶に成りうる原石は稀にしか落ちず、純度が高くないと効果を発揮しない。かつて逆行結晶のせいで争いが幾度となく起こったため、許可のない使用は制限されていた。
「助けてくれたのに?」
「《逆行結晶》の使用理由は色々条件があるから」
「……つまり?」
「殺人未遂だけど、この件は警察には届けられません」
「ごめんね、命を助けた代償はそれなんだ。殺されてるのに被害者が無傷だから、警察としては動きようが無くて。本人の記憶も無いし」
「けど殺したと思った人が生きてたら、また殺されない?」
「殺されるかもね。だから俺が責任を持つ。君を守りつつ、犯人を捕まえる。だからひとまず日常生活を送ってもらおうかと。積極的に捕まえたいから、犯人には動いてほしいんだよね。それに親御さんも心配してるんじゃない?」
「それは、してると思う……」
「電話してきな」
蜜季が家へと電話をかける。内容までは聞き取れないが、何度も謝っているのが聞こえた。
「やっぱりお母さんに怒られた」
「仕方ないね」
「制服もどうしよう。洗ったら血は取れるけど、ボロボロだし」
「服くらいならここで預かるよ」
制服を預り、俺の貸した服を着てもらった。
「君が生きていることに驚いている人がいたら怪しいと思うから、連絡もらえる?」
そうして連絡先を交換したあと、蜜季を家へ送った。


「土曜日は午前中は部活で、午後は用事があるからすぐに帰ったって顧問の先生が言ってた。部活の記憶は途中まであるよ。ちなみに今日は部活は休み」
月曜日の午後、蜜季はうちへやってきて土曜日のことを話してくれた。どうやら、半日ほどの記憶が消えているらしい。
「彼氏は?」
「いる」
「痴話喧嘩とかは?」
「それは無いんじゃないかな。人間の出来てる人だから!」
「年上?」
「まぁそんなとこ」
「一旦、現場行ってみようか」
「ちょっと嫌だけど、行く」
工場は外階段で上がれるようになっていて、誰でも入れるらしい。今日は平日で工場が稼働しているので、上がれなかった。
「相瀬さんっていつもテシロさんのところにいるのね」
「俺は保護者みたいなものだから。蜜季はこの場所にはよく来るの?」
「近くなら通ったことあるよ」
男性と女性の二人組が前方からやってきていた。どちらも三十代半ばくらいだ。
「佐代?」
「秋山先生」
蜜季が、驚いたように二人を見ていた。
「なんでここに?」
「家が近いからね」
「そうでしたね……」
「では、僕たちは行くから」
「さようなら、蜜季さん」
女性は蜜季の名前を呼んで去っていく。
「……え?」
蜜季が、首を傾げている。
「ねぇ、ごめん、ちょっと今日は帰ってもいい?」
「いいけど……」
そして蜜季は帰ってしまった。


次の日。
「……もう大丈夫。ほら、私殺されてないし」
蜜季は突然そんなことを言い始める。相瀬と俺は目を見開いて、訳を聞く。
「いきなりどうした?」
「それだけ。私、帰るから」
「待って、何かあったよね?」
引き留めれば、苦々しい顔をしていた。
「話すだけ話してもらってもいい?そうじゃないと、俺が納得できない」
「……そうだよね。助けてくれたんだもんね」
そして仕方無さそうに、蜜季は話をしてくれた。
「私、部活顧問の秋山先生と付き合ってたの。けどそれは二股で、土曜日は先生が別れを切り出して、怒った私が掴みかかったところで誤って落ちたんだって。前に女の人を見たときになんとなく察したんだ。この関係は終わったんだって」
「有り得ない」
すぐに俺は否定した。
「え?」
「前に言ったでしょう?自殺ではないって。その説明でもおかしい。つまり、突き落とされただけなら落ちた瞬間にしか時間結晶は散らばらない。けど落ちる前から結晶は上から降ってきていたから、おそらく君は落ちる前に誰かに危害を加えられていたんだ。先生の言うことと矛盾するよね?」
「じゃあ、先生が嘘を吐いてるの?」
「そうだろうね」
「ここまで分かったなら、行こうか。先生の家分かるよね?」
「え?行くの?」
「会わないと話にならない」
秋山先生の家を訪ねると、先ほどの女性もいた。何かを察しているのか、すぐに中へと通してくれた。ワンルームの簡素な部屋で、単刀直入に俺は聞く。
「蜜季を殺したのって、あなたですよね?」
相手は女性の方だ。
「……死んでないじゃない」
「生きてるんだからいいでしょう?」
「小娘にあの人は渡さない。だって、私は幸せになりたい!」
「邪魔だから殺そうとした、と?」
「この人が、どちらも選ばないから!」
「私だって、先生のこと好きなのに!」
「……すいません、僕の撒いた種ですよね。二股していたのは本当です。土曜日に彼女が僕に全部話してくれました。本当は蜜季と話をして諦めてもらおうとしたけど、興奮して殴って挙げ句突き落としてしまったって。けど戻ってみたら死体なんか無くて、きっと夢でも見たんだろうと言い聞かせました。そしたら本当に生きていたから」
「きっと勘違いだと?」
「ええ、そうです」
「けど逮捕なんて出来ないんでしょう?逆行結晶の使用は犯罪って私知ってる。それに助かったんだから被害者はいない。何の罪状で訴える気?」
ニタリと、その人は美しい唇を不敵に歪ませた。
「誰も、私を捕まえることは出来ない」
相瀬が動いて、女性の腕を取る。銀色の手錠が女性の手首に輝いていた。
「自白したら話は別よ?」
そもそも今日は自白させるためにここまで来たのだから。
「俺は桂架隊所属の相瀬透です。もしも自殺を助けただけならエゴでしかないのでテシロを捕まえるけど、他殺ならこの子は本来死ぬはずではない人間。それなら逆行結晶使用の正当理由が成立するので逮捕はあなたのみです。それに何を勘違いしてるのか知らないが、逆行結晶の使用に関わらず、被害者も加害者もいるんだよ。馬鹿言うな」
「だからいつも相瀬さんが一緒にいたんだ」
「俺は見届け人でね。始めの時点で本部に行くのも考えたんだけど、あの時点では蜜季は自殺にされる可能性が高かった。自殺で片付けられたらテシロの意見が通らなくなる上、捕まるし身動き取れなくなるからね。だから俺が全てを把握しつつ、犯人を探すしか無かった」
「悪い、相瀬」
「電話してきてくれたからね、これは想定の範囲内。お前も責任を持って、使用の正当理由を証明した。俺は、然るべき仕事をした」
「かなり時間を取らせたから」
「いいよ、頼られるのは嫌いじゃない。じゃあ俺は本部に連れていくから」
そうして相瀬たちは警察本部へと行ってしまった。
「私、本当に一回死んだんだ」
「……もうちょっとましな恋愛すれば?」
「とやかく言われたくない」
「またこんなことがあったら、堪らないからさ」
「なんかもう私だけの命じゃ無くなったみたいじゃん」
「元々そうでしょう?お母さんも心配して怒ってくれるんだから」
「人は一人で生きてるわけじゃないって?説教くさい……けどもう少し、丁寧に生きます」
「それがいい」
そうして、時間は過ぎていく。
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